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からかいコース適性◎

ローション綿棒で左耳の中をなだめて、

乾いた綿で余分な水分を拭き取ったころには、

さっきまでの「痛っ」の影はだいぶ薄れているはず。


膝の上の彼は、さっきよりもさらに静かだ。

呼吸は深く、一定。

まぶたもほとんど閉じていて、

たまに力が抜けたときだけ、

目の端がふわっと緩む。


うん、これならもう一押しで完全に落ちる。

 最後は、気持ちいいだけで締めてあげないとね。


トレーから、梵天を手に取る。

さっき右で使ったものを、

もう一度指でしごいて毛先をふわっと整える。


白い毛がライトの下で柔らかく広がる。

触れてはいないのに、見ているだけで“軽くなる感じ”がするのは、

私がこの工程を好きだからかもしれない。


まずは、さっきやりすぎた左から。


梵天を左耳の上にそっと近づける。

まだ触れない。

耳輪の上数センチのところで、

毛先だけが空気をかく。


耳の産毛が、風の気配だけで小さく立ち上がる。


「さっき、ちょっと怖い思いさせちゃったので……

 ここからは左優先で、ちゃんと上書きしますね」


「……はい……」


返事は、もう半分寝ている声だ。

それでも、左耳だけは、

“これから何か来る”のをちゃんと待っている。


毛先を、耳輪の上端にそっと置く。


ふわっ……


そのまま、耳輪のカーブに沿って下へ。


さら……さら……


さっきまで金属や綿棒が通っていたラインを、

今度は一番柔らかい刺激だけがなぞっていく。


耳の外側の皮膚が、

ひと撫でごとに緩んでいくのが指先からでもわかる。


耳珠のあたりをぐるりと回って、

耳の後ろ側へと抜ける。


「どうです? さっきの“怖さ”、

 まだどこかに残ってます?」


「……いえ……

 ふわふわしてきました……」


「よかった。

 じゃあ、右も合わせてふわふわにしちゃいましょうか」


梵天を持った手を、

右耳のほうへ滑らせる。


今度は、毛先を半分だけ右、半分だけ左にかかるようにして、

両耳の真ん中あたりで構える。


そのまま、同じリズムで左右をなぞる。


右は耳輪の上をなで降りる。

左は耳たぶの裏から持ち上げる。


ふわ……

  ……ふさ……


同時にやらない。

少しずつタイミングをずらして、

「右がふわ → 左がふさ → 右がふわ」の順で揺らす。


右は、すでに何も怖いことがなかった耳。

左は、さっき“痛い”の記憶が残っていた耳。


その両方に同じ毛先を通すことで、

感覚の差を少しずつ埋めていく。


膝の上の頭が、

ゆっくりと重たくなっていく。

自分で支える気がもう、ほとんど残っていない重さ。


うん、そろそろ手だけじゃなくて、呼吸も合わせに行こう。


梵天を一度トレーに戻し、

今度は両手を耳の後ろに添える。


親指は耳たぶのすぐ裏、

残りの指は首筋に軽く曲げて添えておく。


「じゃあ、最後に少しだけ、

 耳の後ろと首筋、まとめてほぐしますね。

 そのまま、ついでに寝てもらって大丈夫です」


「……寝ても、いいんですか……」


「むしろ、そのほうがうれしいです」


そう言って、

耳の後ろの骨のあたりを、

親指でぐーっと押す。


ぐ……

 ……じわ……


耳の根元にある小さなコリが、

ゆっくり押し伸ばされていく。


押すタイミングに合わせて、

彼の呼吸が少しだけ止まり、

離すと同時に、ふーっと抜ける。


「吸って……

 吐いて……

 そう、そのまま」


呼吸のペースに合わせて、

圧をかける時間を調整する。


吸うときは、少しだけ長めに押さえて、

吐くときに一気に抜く。


ぐ……

  ……すぅ……


その繰り返しのなかで、

首や肩の力がじわじわと抜けていく。


耳の後ろを何度か押したあと、

今度は指先を軽くスライドさせて、

耳から首筋へ、下へ下へと流していく。


す……

 ……す……


右側をなで下ろして、

つづいて左側も同じように。


ときどき、左右同時。

ときどき、右だけ。

今度は左だけ。


リズムと順番をあえて揃えないことで、

“次の動き”を予測できない状態にする。


人を落とすときは、

この「読めなさ」がいちばん効く。


膝の上の彼の口元が、

だんだん幼い表情になっていくのが見える。


眉間のシワも消えて、

まぶたの力も完全に抜けている。


うん、もうほぼ落ちてる。

 あとはトドメだけ。


指をそっと離し、

手を耳から少しだけ引く。


一瞬だけ、何も触れていない“間”を作る。


耳の周りに、

さっきまでの温度の残りだけがふわっと漂う。


その静けさの中で、

私は上体を少し倒して、

彼の右耳のすぐそばに口を寄せる。


声はもういらない。

ここから先、言葉は逆に邪魔になる。


息だけを、

ごく細く、長く、落とす。


……ふぅ……


耳の上から、

耳輪、耳珠、入口のあたりまで、

温かい空気がなで下ろしていく。


その一呼吸に合わせるように、

彼の胸がゆっくり沈む。


もう一度、

今度は左耳にも同じように。


……ふぅ……


右と左に交互で、

計三回ぶんくらい。


呼吸のリズムが、

完全に“寝る前のそれ”になったのを確認してから――


最後に一度だけ、

耳たぶの後ろを指で軽く押さえる。


とん……


「……はい、おやすみ」


誰に聞かせるでもない声でそう言って、

私はその手を膝の上に戻した。


彼の意識は、

もうこっち側にはいない。


ただ静かに、

耳も、体も、全部“オフ”になっている。


アフター:起こすタイミングと、アイの振り返り


しばらくのあいだ、

彼の寝息を聞きながら、

私はライトを落として道具を片付ける。


ステンレスの耳かきは、消毒液を含ませたガーゼで拭き取り、

トレーの上に整然と並べ直す。


ガーゼの端には、

さっきの“戦利品”たちがまだ折り畳まれたまま置かれている。


右はきれいな半月。

 左はちょっと崩れてるけどどこか愛嬌のある形。

 ……持ち主、そのまんまって感じしない?


そんなことを思いながら、

ごみ箱にガーゼごと落とす。


部屋の中には、

ゆっくりとした寝息と、

ディフューザーの静かな音だけ。


時間を見て、

そろそろ戻ってもらわなきゃいけないタイミングを計る。


「……そろそろ、起きてもらいますね」


私はさっきと同じように耳の後ろに手を添えて、

今度はごく弱い力で、

首の根元をこしょ、と撫でる。


「……ん……」


喉の奥から小さな声が漏れ、

まぶたがゆっくり持ち上がる。


焦点が合うまでに数秒かかる。

その“戻ってくる途中”の顔が、私はけっこう好きだ。


「おかえりなさい。

 ちゃんと、落ちてましたよ」


「……寝てました、よね、完全に……」


「はい。

 両方とも、ちゃんとスイッチ切れてました」


彼は少しだけ照れくさそうに笑ってから、

頭をゆっくり起こす。


膝の上から重さが離れた瞬間、

私の太ももにはぽっかりとした空白と、

彼の体温の残りだけが残った。


「耳の中、違和感とか、まだ痛いところはありませんか?」


「……大丈夫です。

 左も、さっきの痛かったとこ、もうわからないです」


「よかった。

 あそこだけは、ちょっと私がやらかしましたからね。

 次もし来てくれるなら、あのラインはもう少し優しくします」


「“次”前提なんですね……」


「せっかく“からかい付き”指名してくれたんですから。

 反応覚えましたし、もったいないじゃないですか」


そう言って笑うと、

彼は少しだけ目をそらした。


この感じなら、多分また来る。

 次はもう少し、冒頭からからかっても折れない。

 でも、やりすぎないラインは今回でわかった。


受付に返しに行くカルテには、

こう書いておくつもりだ。


「からかいコース適性◎

 乾燥耳・反応素直。

 左耳の奥は攻めすぎ注意だけど、

 ケアすれば問題なし。再指名歓迎。」


「では、お部屋出たところでお会計になります。

 立ちくらみしないように、ゆっくり起き上がってくださいね」


彼がベッドから降りるのを見届けてから、

私はそっとドアを開ける。


外の光が少しだけ差し込むその一瞬――

さっきまでここで“からかわれながら落ちていた人”の気配が、

まだ微かに残っているのを感じる。


……やっぱり、からかい付きコース、やめられないな。


そう思いながら、私は次のタオルを取りに、

バックヤードへと戻っていった。

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