左耳① ちょっと意地悪なの、わかりました?
右耳の仕上げを終えたあと、
膝の上の彼は、半分くらい落ちかけていた。
呼吸はゆっくり。
まぶたはほとんど閉じている。
でも、完全に寝てはいない。
声をかければ、まだこちらの言葉はちゃんと届く位置。
右側は、もう十分。
じゃあ、左は“からかいコース”の本領発揮してもいいかな。
私は、彼の頭の向きを少しだけ変える。
右側が天井のほうへ向くように、
そっと耳の後ろを支えながら回す。
太ももに乗った頭の重心が、
じわっと左へ傾く。
首筋の筋肉が一度だけ緊張して、
すぐにまたゆるむ。
「じゃあ、今度は左耳いきますね。
右ばっかり気持ちよくしておくわけにもいかないので」
「……もう半分、落ちてたので……」
かすれ気味の声。
寝落ち前のトーンだ。
「ですよね。
その“落ちかけ”のとこ、左で一回引き戻します」
「え……」
「大丈夫。最終的にはちゃんと両方落としてあげますから。
その前に、ちょっとだけ遊ばせてくださいね」
左耳の外側を、まずは指先で軽くなぞる。
さっき右をやっていたときと比べると、
耳たぶの柔らかさも、耳輪の張りも、ほとんど同じ。
ただ、こっちはまだ何もされていないから、
皮膚の緊張が少しだけ強い。
耳たぶをつまんで、上下に軽く揺らす。
むに……むに……
「こっちは、まだちょっと元気ですね」
「右が、気持ちよすぎました……」
「じゃあ、不公平解消しないとですね。
左は、最初からちょっとだけ踏み込んでいきます」
右耳のときは、
まず指→柄→先端と、段階を踏んで距離を詰めた。
左はそこを、少しショートカットすることにする。
トレーの上から、
ステンレスの耳かきを手に取る。
さっきと同じ道具。
でも、使い方は少し変える。
ライトの位置を調整して、
左耳の入り口を覗き込む。
やっぱり乾燥タイプ。
入口付近に、薄く粉状の耳垢がついている。
奥のほうにも、うっすら影になっている部分がある。
うん、ちゃんと“相方”がいる。
右で大物出たなら、左も期待できるかな。
右のときと違って――
私は、あえて“柄での前振り”を省いた。
いきなり先端を耳の入口近くまで持っていき、
肌に触れる直前で止める。
右手に持った耳かきが、
彼の呼吸に合わせて微かに揺れる。
その距離、紙一枚ぶんもしない。
「……さっきと、ちょっと違うのわかります?」
「え……あ……
なんか、もうすぐ来そうな感じが……」
「正解です。
さっきはわざと遠回りしましたけど、
左は最初から“本気の距離”でいきます」
そう言って、
私は先端を、そっと耳の縁に落とす。
とん……
右で経験済みの感触に、
でも、反応はさっきより大きい。
彼の肩が一度持ち上がって、
すぐにストンと落ちる。
「ごめんなさい、驚かせました?」
「……右の続きみたいな感覚でいたので……
いきなり来るとは思わなくて」
「そういう顔、見たかったので」
冗談めかして言いつつ、
左手で頭をしっかり支えておく。
逃げ道は確保しつつ、逃さないように。
入口の縁を、
耳かきの先でなぞり始める。
カリ……カリ……
右よりも少しだけ、
テンポを速める。
右耳のときは、
“音を聞かせて慣れさせる”リズム。
左は、“もう音は知ってるから少し攻める”リズム。
「……右のときより、ちょっと早いですね」
「バレました?
もう耳も、脳も、この音覚えてるはずなので」
耳かきの先端が、
乾いた耳垢の端をこすって、
小さく転がす。
シャリ……シャリ……
さっき右で聞いたのと同じ音。
でも、耳の側はもう“気持ちいい音”として認識してる。
それをわかってて、
あえてテンポを崩す。
早く、
カリカリカリ……
急にゆっくり、
……カリ……
「……ずるくないですか、これ」
「何がです?」
「さっきの音、気持ちいいって教えておいて、
急にリズム変えるの……」
「ずるいですよ、“からかい付き”なので」
入口の上側――
耳輪の内側のカーブを、
少し強めに撫でる。
先端の角度をわざと浅くして、
耳垢の表面だけを引っかく。
コリ……コリ……
正確に言えば“掃除”というより、
完全に“刺激”だ。
耳道に、
「そこ、いるよね?」
と訊ねるようなタッチを繰り返す。
彼の喉が、
さっきよりはっきりと鳴った。
「今のところ、痛みは?」
「……ないです。
でも、さっきより、反応が……強いです」
「右耳で準備運動終わってますからね。
左はもう、最初から本番みたいなものです」
わざと“本番”なんて言葉を使っておいて、
動きはあくまで淡々と丁寧に。
耳かきの先端を、
入口から少し中に滑り込ませる。
もう右で通ったルートだから、
耳道側も“どんな異物が来るか”覚えている。
その分、
緊張ではなく「来た来た」という期待のほうが前に出る。
す……
……す……
右でやったのと同じ場所――
入口から少し入ったところの壁を、
今度は一回だけ、わざと深めに撫でる。
カリッ
さっきよりも、
一音だけ、明確に強い音。
と同時に、
彼の体がびくっと跳ねた。
「……っ!」
「今の、痛かったですか?」
「……びっくり、しました……」
「びっくりするってことは、
ちゃんとそこ“生きてる”ってことですね」
そう言いながら、
同じ場所を続けて攻めたりはしない。
一度だけ強めに触れたら、
すぐに耳の外側へ退く。
指の腹で耳珠を押さえて、
軽くくるくる回す。
くる……くる……
さっき耳かきが当たっていた場所まで、
外から圧を伝える。
「はい、深呼吸して。
吸って……吐いて……そうそう」
彼の胸が、
ゆっくり上下するのを確認してから、
私は小さく笑って囁く。
「……ね。左は、ちょっと意地悪なの、わかりました?」
「最初から……ですね……」
「でも、ちゃんと様子見ながらやってますから。
無茶はしてないですよ?」
心の中では、
ぎりぎり無茶に見えないラインは攻めてるけどね
と付け足しつつ。
右と同じことを繰り返さないために、
左では少し“おしゃべり多め”にする。
同じ入口のラインをなぞりながら、
わざと質問を挟む。
「ここ、さっき右で触った場所と、
似た感じします?」
「……似てますけど……
さっきより、近いです」
「距離、詰めてますからね。
慣れたあとで、ちょっと前に進むと、
同じことされてても、別物に感じたりしません?」
「……します」
「じゃあ、その“別物”のほう、
もうちょっとだけ味わってもらいましょうか」
入口付近の耳垢を、
わざと“半分だけ崩す”ような動きをする。
全部は取らない。
崩して、残して、
さっきよりも当たりやすい形にしておく。
シャリ……
…シャリ……
音を出す場所と、
静かに撫でる場所を交互に切り替えながら、
耳道全体を「そこに何かいる」状態で保っておく。
ある程度刺激を重ねたところで、
私は耳かきを一度引き抜く。
「……今、左耳だけ、“気になって仕方ない”状態にしてあります」
「たしかに……
右は落ちてる感じなのに、左だけ起きてる感じがします」
「それ、狙い通りです」
耳の外側を指で撫でながら、
入口の縁を軽く押す。
そこに残った微妙な違和感が、
体のどこにも行き場を見つけられずに、
耳の中でくすぶっている。
「このまましばらく放置すると、
たぶん気になって眠れないタイプですね」
「……それは、それで困りますね」
「だからこれから、ちゃんと中まで整えます。
ただし――」
一拍置いて、
声を少しだけ低くする。
「右より、ちょっとだけ踏み込んでから、です」
彼の喉が、またひとつ鳴る。
右で“信頼”を作っておいて、
左で“からかい”を強くする。
それをちゃんと意識していることを、
アイ自身が一番よくわかっていた。
さぁ、ここからが左の本番。
攻め方変えた分、ちゃんとケアも倍返しにしてあげないとね。
私はもう一度耳かきを手に取り、
今度は“本気で奥を取りに行く”準備を始めた。
――左耳、遊ぶ準備完了。




