右耳② 奥行きますね
入口の耳垢がなくなるころには、
右耳はもうすっかり“構えたあとに力が抜けた”状態になっている。
さっきまでは、耳かきの先端を軽く当てるたびに、
肩がちょっとだけ上がっていたのに、
今は動きがほとんどない。
良い反応の仕込みはできた。
そろそろ、“本命”に触りに行ってもいいかな。
私はライトの角度を少し変え、
耳の中をもう一度覗き込む。
入口周りに薄くついていた乾燥気味の耳垢は、
さっきの“カリカリなぞり”でだいぶ崩れている。
その奥、耳道の壁に、
少し濃い色の“影”がくっついていた。
琥珀色というより、
紅茶の茶葉が乾いたみたいな色。
あ、いた。
今日はこの子がメインディッシュだ。
「じゃあ……奥、行きますね」
耳元に静かに告げる。
彼のまぶたが一度だけぴくっと動いた。
ステンレスの耳かきの先端を、
さっきよりも少しだけ深く、耳の中へ滑り込ませる。
急には入れない。
耳道のカーブに沿って、
壁を撫でるようにしながら、
少しずつ奥へ。
す……
……す……
乾燥タイプの耳道は、
触り方を間違えると一瞬で“ガリッ”と来る。
だから、力は一定のまま、
角度だけを微妙に変えていく。
入口からすぐのところは、
もう慣れた道だ。
そこを抜けて少し進んだところで、
耳かきの動きが、ほんのわずかに重くなる。
コ……
空気中を動かしていた金属が、
“何か”に触れた感触。
壁そのものじゃない。
もう少し、柔らかくて、もろい。
いた。これだ。
先端をそこで止める。
押し込まない。
いったん、ほんの少しだけ手前に戻してから、
角度を変える。
「……今、なにか引っかかったの、わかりました?」
「……ちょっと、変な感じがしました」
「変な感じがしたところ。
そこが、今日の大物です」
宣言してから、私は再び先端を同じ場所へ近づける。
今度は、真上からじゃなく、
少し斜め下から“すくう”角度で。
耳かきの縁を、
耳道の壁と耳垢の“境目”にそっと差し込む。
カリ……
さっきより、硬い音。
薄い板を、釘の先で持ち上げるみたいな抵抗。
彼の喉が、膝の上でひゅっと浮いた。
「痛くないですか?」
「……まだ、大丈夫です」
「“まだ”って言いましたね。
じゃあ、ここからは慎重にいきます」
境目に差し込んだ耳かきの縁を、
ほんの少しだけ上へ持ち上げる。
耳道の壁から、
乾いた耳垢が“はがれ始める”感覚が、
金属越しに指先へ伝わる。
…ベリ……
声に出すほど大きくない、
けれど確かにそこにある「はがれる音」。
私は一気に持ち上げない。
少し持ち上げては止め、
また少し持ち上げては、止める。
そのたびに、
耳道の中で微妙な圧の変化が起きて、
彼の体がぴく、ぴく、と小さく反応する。
「……っ」
「痛いですか?」
「いえ……なんか、ゾワってします」
「良かった。
じゃあ、そのまま“ゾワ”を最後までいただきますね」
耳かきの縁に乗った耳垢の端が、
ゆっくりと浮き上がっていく。
それに合わせて、壁側の面が剥がれていく。
ある程度浮いたところで、
私はごくわずかに、耳かきを手前へ引く。
バリ……ッ
さっきより、はっきりした音。
乾燥耳垢が、耳道の形に沿ったまま、
ひと塊で剥がれたサインだ。
彼の肩が大きく一度跳ねて、
そのあと、ふっと沈む。
呼吸が細くなりかけたから、
私は左手で頭を支えたまま、
少しだけ声を落とす。
「大丈夫、大丈夫。
今の音、ちゃんと“取れてるほうの音”ですから」
「……ほんとに、取れたんですか?」
「取れてなかったら、こんないい音しないですよ」
耳かきの先端に、
いつもより少しだけ重さがかかった感触がある。
私は、急に引き抜かず、
残りの部分を壁に擦らせないように、
耳道のカーブに沿ってゆっくり戻す。
…す……す……
耳の中で、大物が金属の上に乗ったまま、
徐々に外へ運ばれていく。
耳の入口を抜けたところで、
私はそっと息を吐く。
先端を見る。
銀色のスプーンの上に、
薄くカーブした耳垢の塊が乗っていた。
乾いているけれど、
中途半端に粉になっていない。
耳道の形を、そのまま型取りしたみたいな、
綺麗な“半月型”。
……これは、見せがいがある。
「はい、戦利品です」
私はトレーの上に耳かきを一度置き、
大物だけをガーゼの上にそっと移す。
ライトの角度を変えて、
彼の視線の届く位置に持っていく。
もちろん、全部は見えてない。
けれど、顔を少し上げれば、
何がどれくらい取れたのかはわかるように。
「見ます?」
「えっ、あ……はい……」
少し戸惑ったあとで、
彼はゆっくりと視線だけこちらに寄越す。
目が大物をとらえた瞬間、
表情が一瞬、素直に崩れた。
驚きと、
ちょっと恥ずかしそうな顔と、
そしてなぜか、ほっとしたような。
「……こんなに、入ってたんですね」
「そうですね。
入口のほうを先に崩していたので、
奥の“本体”がきれいに剥がれてくれました」
私はガーゼの上の耳垢を、
横から軽く爪で触ってみる。
カサ……
乾いた薄い板をつついたような音。
「乾燥タイプの人は、こういう“形のいい大物”が取れるとわかりやすいんですよ。
耳の中、急に軽くなった感じしません?」
彼は視線を少し戻し、
天井のほうを見つめ直しながら、小さく息を吐いた。
「……さっきまでより、なんか音が通る感じします。
ちょっと、スースーするというか」
「それが、“ちゃんと取れました”って合図ですね。
ほら、さっきまでの音と、今の自分の声、違いません?」
自分の返事を聞きながら、
彼は小さく「……ほんとだ」と呟いた。
「で――」
私は、わざとらしく少し間を置いて、
ガーゼの上の“戦利品”を軽く持ち上げて見せる。
「これ、しばらく見ます?
それとも、早めに処分したほうがいいですか?」
「え、あ、その……
あんまりじっと見てるのも、なんかアレですね……」
「ふふ、ですよね。
でも、がんばって出てきてくれた子なので、
私のほうでちゃんと責任持って処理しておきます」
からかっているようでいて、
声のトーンは静かに落としておく。
“汚いものを笑う”んじゃなく、
“ここまでよく溜めてきましたね”くらいのニュアンスで。
ガーゼごと大物を畳んで、
トレーの端にそっと置く。
右耳の奥は、
もうさっきまでの“詰まりの影”が消えている。
ライトで照らすと、
さっきまで隠れていた奥の皮膚がよく見えるようになった。
うん、通り道は確保できた。
ここからは、ささくれみたいな残りを撫でて、
仕上げに気持ちいい系で整えてあげよう。
「じゃあ、大物は一回終わり。
このあとは、残っている細かいのを優しめに掃除して、
最後に“ご褒美パート”やっていきますね」
「ご褒美……」
小さく復唱した彼の声が、
さっきより少しだけ通りのいい響きに変わっていた。
その変化を聞きながら、
私はもう一度耳かきを持ち直し、
右耳の中へ、今度は“仕上げ用の手”でそっと指先を運んでいった。
――大物回収、完了。
ここから先は、気持ちいいだけにしてあげる時間だ。




