例のコース入りました。
「アイさん、例の“からかいコース”、指名入ってますよー」
バックヤードのカウンターでタオルを畳んでいた手が、ぴたりと止まる。
例のコース。あの、普通の耳かきよりちょっとだけ手間も時間もかかるけど、そのぶん反応が面白いコース。
「新規さん? それともリピート?」
受付の子がモニターを覗きながら、くるっと椅子を回す。
「新規です。男性のお客様。コース指定で“からかい付き耳かき”って。」
へぇ。自分からからかわれに来るタイプか。
心の中で小さく笑う。
覚悟があるのか、ただの好奇心か。どっちだろ。
どっちにしても、手は抜けない。からかい付きって、優しくするのと同じくらい、ちゃんと見てあげないと危ないんだから。
タイムテーブルをちらっと確認する。
この枠は、私が一人で最後まで見られる時間。途中で急いで切り上げる必要もない。
「はーい、そのお客様、私が行きます。
タオル一枚追加しておいてもらっていい?」
「了解です〜。多分、緊張してガチガチですよ」
「そういう子ほど、ほぐすの楽しいんだってば」
そう言いながら、私はロッカーから鏡を取り出して前髪を整える。
仕事中の自分の顔は、ちゃんと“店の顔”でありつつ、少しだけ遊びを残しておきたい。
目元のメイクは柔らかめ、でも口元だけはきっちり引き締めて。
今日の私は“優しい店員さん”と“意地悪なお姉さん”の両方をやらなきゃいけないから。
スリッパの音を小さく抑えながら廊下を進むと、待合のソファに、その人は座っていた。
椅子の端っこに、少しだけ浅く腰かけている。
背もたれに預ければ楽なのに、緊張してるのか背筋が変に真っ直ぐだ。
手元には、案内用のパンフレット。
だけど、目線はそこじゃなくて、さっきから時計と床のあいだをうろうろしている。
……あー、これはあれだ。からかわれに来たくせに、いざとなるとビビってるタイプ。
嫌いじゃない。むしろ一番やりやすい。
「お待たせしました。アイと申します。本日、“からかい付き耳かきコース”でご予約いただいたお客様でよろしいですか?」
声はいつもの接客用、柔らかめのトーン。
でも、語尾だけをちょっとだけ上げて、探るように。
彼はビクッとしてこちらを見上げ、慌てて立ち上がろうとして、ソファの縁に足をひっかけかけていた。
「は、はい。えっと、その……お願いします」
うん、目が泳いでる。
でも、声だけはちゃんと出てるあたり、逃げる気はないっぽい。
「ありがとうございます。じゃあ、お部屋のほうご案内しますね」
軽く会釈して先に立ち、廊下を歩きながら後ろの足音を聞く。
歩幅が合ってない。私についてこようとして、半歩ずつ早くなったり遅くなったりしている。
よし、慣れるまであんまり喋らないでおこう。
この“どうすればいいかわからない”空気のまま、部屋まで連れて行く。
個室のドアを開けると、柔らかいオレンジの照明と、アロマディフューザーの薄い香りが迎えてくれる。
ここはいつも通り。今日初めてここに入るのはお客さんだけ。
ベッドの横には、ライト。
その隣にはステンレスのトレー。
並んだ道具たちが、小さく光を返している。
「こちらにどうぞ。靴は脱いで、そのままスリッパに履き替えてくださいね」
振り返ると、彼はきちんと指示通りに動いている。
動きはぎこちないけど、ちゃんと従うタイプ。
やっぱり素直だ。
「今日は“からかい付き”のコース、ということなので……」
私はベッドの端を手で軽く叩く。
「少しだけ、意地悪されるのが前提になってます。嫌なことや痛いことがあったら、ちゃんと言ってくださいね。そこは、からかわないので」
彼の視線が一瞬だけ上がって、私の顔をまっすぐ見る。
不安と興味と、少しの期待。
「……言ったら、ちゃんと止めてくれます?」
「当たり前ですよ。そこ守れないならプロじゃないですから」
そう言って、にっと笑って見せる。
これはお店のマニュアルには載ってない、私の笑い方。
“からかいコース”のときだけ出す顔。
彼の肩から少しだけ力が抜けるのが分かる。
うん、この人は大丈夫。
ちゃんと限界線まで連れてっても、折れさせたりはしないタイプ。
「じゃあ、こちらに仰向けに寝てください。そのあとで、私の膝のところに頭を移動させますね」
「ひ、膝枕……なんですね」
「そうですね。耳かきしやすいし、リラックスもしやすいですから。
……恥ずかしいですか?」
ちょっとだけ首を傾げて聞いてみる。
彼は、わかりやすく目をそらした。
「すこしだけ。でも、コース予約したの自分ですし……頑張ります」
「ふふ、頑張らなくていいですよ。
がんばるのはこっちの仕事なので」
言葉は優しく、内心は少しだけニヤニヤしている。
こういう真面目な返事、嫌いじゃない。
彼がベッドに横たわる。
シーツの音が、空気の静けさの中でやさしく擦れる。
そこから、そっと頭を私の膝の上へ滑らせてもらう。
太ももに伝わる重さ。
最初は少し浮いているけれど、数秒すると、沈む角度が変わる。
お、ちゃんと預けてきた。えらい。
「まくら、硬くないですか?」
「だいじょうぶ……です。あったかい」
その言葉が、太もも越しに伝わる体温とリンクして、私の中で「よし、今日のスイッチが入ったな」という感覚になる。
私は上体を前に倒して、顔を少し近づける。
彼の視界には、きっと私の髪と天井の照明が半分ずつ映っているはずだ。
「それじゃあ、右耳からお邪魔しますね」
そう告げて、彼の右耳の形を目で追う。
耳輪のカーブ、耳たぶの厚み、皮膚の色。
その人だけの“耳の個性”を、最初にちゃんと見ておく。
うん、柔らかそう。
入口も、あんまり鋭く曲がってなさそうだし、攻め方は……そうだね。
右手でライトの角度を少し変える。
耳のラインが、光の縁でくっきり浮かび上がる。
トレーに視線を落とすと、ステンレスの耳かきが待っている。
いつも通り、始まる直前に先端を消毒液で軽く拭き、ガーゼで水気をととのえ準備万端。
左手はそっと、彼の頭の側面に添える。
逃げないように、でも、いつでも逃がせるように。
さて、新規さん。
どこまでからかわれに来たのか、ちゃんと教えてもらおうか。
私は心の中でそうつぶやき、
右耳の外側に、最初の指先をそっと落とした。
――ここからが、本番だ。




