第3話:裏切りと覚醒
柊蒼介との出会いから、私の快進撃は続いていた。
妃教育で培った社交術は、社内での人間関係を円滑にするのに役立った。私は決して媚びることはしないが、相手の欲求や心理を鋭く読み取り、的確な言葉をかけることで、周囲の人間を味方につけていった。
「橘さん、この間教えてもらった交渉術、取引先との打ち合わせで使ってみたら、本当にうまくいきました!」
「この資料、いつもなら一人で終わらないのに、橘さんが指示してくれたら、こんなに早く……!」
同僚たちは、私を「変人」だと認識しながらも、確実に私に信頼を寄せていった。私は、彼らにとっての「姫」であり、時には「軍師」のような存在になっていた。そして、私は、この体の記憶が教えてくれる、彼らが「コンビニ」と呼ぶ場所で、高級紅茶の代わりに、紙コップに入った安いコーヒーを飲むのが、少しだけ楽しくなってきていた。
しかし、私の成功を快く思わない人間もいた。
その筆頭が、企画部の中でも、私と同期で入社し、常にライバル視してきた吉野という女だった。彼女は、私を陥れるべく、虎視眈々と機会を窺っていた。
ある日、私が担当していた大規模プロジェクトの、最終プレゼンテーションの日が訪れた。
私は、完璧に準備を終え、自信を持ってプレゼン会場へと向かった。
だが、私が会場に入ると、周囲の様子がどこかおかしいことに気づいた。皆、私から視線を逸らし、何かを隠している。
嫌な予感がした。
プロジェクターのスイッチを入れる。しかし、画面に映し出されたのは、私が準備したプレゼン資料ではなかった。
代わりに映し出されたのは、私の企画書を盗用し、内容を改竄した、粗悪なコピー資料だった。しかも、その資料には、いくつかの致命的なデータミスが仕込まれていた。
「な……っ」
私は、思わず息をのんだ。
この資料のままプレゼンをすれば、私のこれまでの努力は全て水の泡となる。そして、このミスの責任は、全て私に押し付けられるだろう。
「橘さん……これは、どういうことだ?」
会議室にいた幹部社員の一人が、不審そうに眉をひそめる。
その時、吉野が意地の悪い笑みを浮かべて、立ち上がった。
「部長、実は……橘さんがこの企画を、ライバル社に横流ししようとしているという話を聞きまして。それで、私が念のため、バックアップを取っておいたんです」
彼女は、まるで救世主であるかのように振る舞い、自分のUSBメモリをプロジェクターに差し込んだ。
「こちらが、本物の企画書です。橘さんの手によって改ざんされた、危険なデータではありません」
吉野の言葉は、完璧な筋書きだった。
私は、彼女の仕組んだ罠にはまったのだ。
「待ってください!これは吉野さんの罠です!私が準備したデータは……!」
私は必死に反論しようとするが、誰も耳を傾けてくれない。
「そんな、橘さんが裏切るなんて……」
「やっぱり、ちょっと変わってると思ってたんだよな」
私を信頼してくれていた同僚たちの、失望したような視線が突き刺さる。
貴族の世界では、こんな時こそ高潔に振る舞うべきだ。だが、この状況は、あまりにも理不尽で、あまりにも卑劣だった。
レティシア・ローズウッドとして、私はいつも孤高だった。ライバルを論破し、敵を打ち破ってきた。だが、この世界で、私は橘麗華という名の、たった一人の人間だ。
心の奥底に、絶望の淵が広がっていく。
その時、会議室のドアが、静かに開いた。
そこに立っていたのは、柊蒼介だった。
彼は、何も言わずに会議室に入ってくると、私の隣に立った。
「柊弁護士、どうされたんですか?今日の会議は、社の人間だけのはずでは……」
吉野が動揺した声で問う。
「これは、貴社と橘さん個人の間に起きた、法的紛争の可能性をはらんだ事案だ。顧問弁護士として、見過ごすわけにはいかない」
柊は、冷ややかに答えた。
そして、私の肩にそっと手を置き、私にだけ聞こえる小さな声で囁いた。
「橘さん。貴方の無実を証明する証拠は、すでに私の手元にある」
彼はそう言うと、持っていたタブレットを操作し、プロジェクターに接続した。
画面に映し出されたのは、吉野が私のデスクで、USBメモリを差し込んでいる防犯カメラの映像だった。さらに、彼女が取引先に、私の企画書を改竄したデータを送ろうとしていた、メールのログも表示された。
「これは……!何かの間違いです!」
吉野は顔を真っ青にして叫ぶが、もう遅かった。
その時、私が初めて、心の底から信頼を置いた同僚たちが、一斉に立ち上がった。
「吉野さん、ずるいよ!橘さんは、このプロジェクトのために、私たちと一緒に、ずっと頑張ってたんだ!」
「そうだよ!橘さんが、ライバル社に情報を流すなんて、絶対ありえない!」
彼らは、私を疑うどころか、私のために声を上げてくれた。
レティシア・ローズウッドとして生きていた頃には、決して経験することのなかった感情が、私の胸に込み上げてきた。
ああ、私は、この世界で、こんなにも多くの人々に支えられていたのだ。
そして、彼らは、レティシア・ローズウッドという公爵令嬢ではなく、ただの橘麗華という人間を、信じてくれたのだ。
その瞬間、私の心の中で、何かが音を立てて弾けた。
私の体は、もう、レティシア・ローズウッドという魂の器ではない。
この体は、橘麗華として、この世界で生きるために与えられた、かけがえのないものなのだ。
私は、しっかりと足を踏みしめ、皆に向かって頭を下げた。
「皆様……私のために、ありがとうございます。そして、疑念を抱かせてしまったこと、心よりお詫び申し上げます」
私は、もう「貴族の矜持」という傲慢な鎧を身につける必要はない。
橘麗華として、この世界で、自分の居場所を築いていけばいいのだ。
そして、私を信じてくれた人たちを、今度は私が守る番だ。
吉野は、その場で震えながら、部長に連れられていった。
そして、会議室には、私と、私を信じてくれた同僚たち、そして柊蒼介が残された。
「橘さん。やはり貴方は、この会社にはもったいない」
柊は、静かに言った。
「貴方は、人々の心を動かす力を持っている。それは、単なるビジネススキルではありません。……貴方の、高潔さです」
私は、初めて、心の底から微笑んだ。
そして、柊に、心の底からの感謝を伝えた。
「柊弁護士……本当に、ありがとうございました」
「いえ。……貴方には、この世界で、もっと大きな舞台が似合う。貴族としての矜持を、この世界で、存分に活かせる場所が」
柊の言葉は、私の中に、新たな決意を芽生えさせた。
このブラック企業を「ざまぁ」するだけでは、満足できない。
私は、この世界で、橘麗華として、私の力で、人々を輝かせ、新しい世界を創る。
その日の夜、私は柊と、静かなバーで語り合った。
高級なカクテルグラスを傾けながら、私は言った。
「私、この会社を辞めます。そして、貴族としての矜持と、現代の優しさを融合させた、新しいビジネスを立ち上げたいのです」
柊は、グラスを静かに置き、私をじっと見つめた。
そして、私の決意を、静かに受け止めてくれた。
「……良いでしょう。その時は、私が、貴方の力になりましょう。貴方なら、この世界を、より良くできる」
彼の言葉は、まるで祝福のように、私の心に響いた。
キャラクター紹介(第3話時点)
橘 麗華
年齢:25歳
立場:株式会社ネオシステムに勤務するOL。中身は悪役令嬢レティシア・ローズウッドだったが、この一件を機に、橘麗華として生きる決意を固める。
特徴:妃教育で培った知識と、元来の真面目さで社内の人々の信頼を勝ち取る。ライバル社員の罠に遭うも、柊と、心を開いた同僚たちに助けられ、精神的に大きく成長する。
柊 蒼介
立場:ネオシステム社の顧問弁護士。柊法律事務所の代表。
特徴:冷静沈着で、麗華の才能と人間性に深く興味を抱いている。麗華が危機に陥った際には、的確な助言と支援を行う、頼れる協力者となる。
吉野
立場:麗華の同期社員でライバル。
特徴:麗華の成功を妬み、陥れようと画策する。しかし、柊の用意周到な証拠によって、その悪事が暴かれる。
同僚たち
立場:麗華と同じ部署の社員。
特徴:麗華の突飛な言動に戸惑っていたが、彼女の仕事に対する真摯な姿勢や、困っている時に助けてくれる優しさに触れ、心からの信頼を寄せるようになる。