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第2話:妃教育は現代の武器

 翌日、会社に出社すると、妙な視線を感じた。

 まるで珍しい動物でも見るかのような、好奇と警戒が入り混じった視線。その中心にいるのは、紛れもなく私――橘麗華だ。


「おい、お前、橘のやつ、どうしちゃったんだ?」

「なんか別人みたいだよな。ていうか、昨日の一件、聞いた?ヤバいって」


 聞こえてくるひそひそ話。どうやら、昨日の佐藤課長とのやりとりは、あっという間に社内に広まったようだ。この、情報伝達がやけに早い環境は、貴族の社交界に少し似ている。悪評も、美談も、瞬く間に広がる。


 しかし、私の行動は美談としてではなく、異端なものとして受け止められているらしい。

 私は、ポリエステル製の制服に袖を通しながら、ため息をついた。


「無粋な……」


 貴族の世界では、正論を武器に相手を論破することは、知性の高さを示す行為であり、ある種の美徳とされていた。特に、妃教育で培う法律知識は、家同士の婚姻や財産を巡る複雑な問題解決に不可欠なものだ。それが、この世界では「ヤバい」と言われてしまうとは。


「橘さん、おはよう」


 背後から、昨日の女性の声がした。彼女の名前は確か、斎藤という。


「……おはようございます」


「あの、昨日は本当にすごかったね。私、ずっと佐藤課長に『仕事が遅い』とか『やる気がない』って言われ続けてて……」


 彼女は俯き、辛そうに話す。その姿に、私は少しだけ胸が締め付けられるのを感じた。レティシア・ローズウッドとして生きていた頃、他人の感情にここまで寄り添ったことはない。だが、橘麗華の記憶が、この体の痛みが、彼女の苦しみを訴えかけてくる。


「貴方は、やる気がないわけではないでしょう。業務量が、貴方の能力を遥かに超えているだけのこと。それを、個人の資質のせいにするのは、卑劣な行為です」


 私の言葉に、斎藤さんの目が少し潤んだ。


「ありがとう……橘さん。あ、あのさ、よかったらお昼、一緒にどう?」


「……お昼、ですか」


 庶民が昼食を取るという、安っぽい大衆食堂のような場所だろうか。いや、この会社の周りには、カフェやレストランも多いと、橘麗華の記憶が教えてくれる。


「ええ。喜んで」


 私は、わずかな迷いの後、承諾した。この世界で生きていくには、まずこの社会の仕組みと、そこに生きる人々を理解する必要がある。そして、私に好意を寄せる人々は、貴重な情報源となる。これは、妃教育で学んだ、人心掌握術の初歩だ。


 午後、社内で異例の会議が開かれることになった。

 議題は、「新事業プロジェクトの企画」。

 佐藤課長が、憔悴しきった表情で議題を読み上げる。

 どうやら、昨日の私の「法的措置」という言葉が効いたらしい。私が参加しているプロジェクトの進捗を、上の人間に正確に報告するよう、圧力がかかっているようだ。


「……で、橘。お前、何かアイデアあるのか?また変なこと言うなよ」


 佐藤課長の言葉には、もはや威厳など微塵もなかった。

 私は立ち上がり、プロジェクターの前に立った。


「はい。私は、このプロジェクトを成功に導くための、たった一つのシンプルな解決策をご提案いたします」


 私は、事前に準備しておいたスライドを映し出した。


人心掌握術マーケティング社交術ブランディングを駆使した、新規顧客開拓モデル』


 画面に映し出された文字に、会議室がざわめく。

 そして、私は話し始めた。

 妃教育で培った、人心掌握術。それは、相手の欲求を理解し、彼らが本当に望むものを与えることで、強固な信頼関係を築く技術だ。それは、この世界では「マーケティング」と呼ばれる概念と酷似していた。

 そして、社交術。これは、自分自身のブランドを確立し、人々の心に深く印象づける術だ。それは「ブランディング」という言葉で言い換えられるだろう。


「この新事業プロジェクトは、ただ商品を売りつけるだけでは成功しません。顧客の心の奥底にある、満たされない欲求を理解すること。そして、その欲求を満たせるのは、私たちの商品だけだと、顧客自身に思わせること。それが肝要です。具体的には、顧客のライフスタイルに合わせた限定版商品の開発と、SNSを通じたブランドイメージの構築を提案します」


 私は、淀みなく語った。

 かつて、王族や他国の貴族との交渉で培った、説得力のある口調と、相手の関心を引くためのプレゼンテーション術。それは、現代の「プレゼン」というものと、驚くほど共通点が多かった。


 会議室の空気は、徐々に私のペースに巻き込まれていく。

 最初は懐疑的だった幹部社員たちが、真剣な表情で私の話を聞いている。


「……以上で、私のプレゼンテーションを終わります」


 私が話し終えると、静寂が訪れた。

 その沈黙を破ったのは、低く、しかしよく通る男の声だった。


「実に興味深い」


 声の主は、会議室の隅に座っていた男だった。

 整った顔立ちに、知的な雰囲気を醸し出す銀縁の眼鏡。無駄のない、洗練されたスーツ姿。

 彼は、ネオシステム社の顧問弁護士、柊蒼介だ。


「貴方の提案は、ビジネスの核心を突いている。感情に訴えかけ、ブランドを構築する。それは、単なる商品開発の領域を超え、人々の心を掴むという、根源的な行為だ」


 柊蒼介は、私の方へゆっくりと歩み寄る。


「しかし、貴方の言葉には、奇妙な違和感がある。まるで、この時代の人間ではないかのような……。いや、これは褒め言葉ですよ」


 彼の視線は、私の内側を見透かすかのように鋭い。

 レティシア・ローズウッドとしての魂を、見破られたのだろうか?

 私は動揺を隠し、平静を装う。


「光栄ですわ、弁護士様。ですが、私は、ただ、貴族としての矜持をもって、この仕事に臨んでいるだけのこと。貴族は、常に革新を求め、最善を尽くすものですから」


 私は、微笑みながら答えた。

 貴族としての矜持。それは、私の心を支える、唯一の道標だ。

 この世界でも、私は私の高潔さをもって生きる。それが、私の使命なのだ。


「貴族としての矜持、ですか……」


 柊蒼介は、興味深そうに目を細めた。


「橘麗華さん。貴方のような人間は、この会社にはもったいない。もし、貴方がこのブラック企業から脱出する決意をした時、いつでも私に連絡をください。力になりましょう」


 彼はそう言い残し、私の名刺を一枚、デスクに置いて、会議室を後にした。

 彼の名刺には、「柊法律事務所 代表弁護士 柊蒼介」と記されていた。


 柊蒼介は、私を「この会社の人間ではない」と言った。

 そして、私に「脱出」を促した。

 まるで、私の心の奥底に眠る「本当の望み」を見抜いているかのようだ。


 私は、名刺を指先でつまみ、静かに笑った。

 この男、柊蒼介。彼は、私の「ざまぁ」の道に、光をもたらす存在になるのかもしれない。


 そして、その日の夕方。

 誰もいなくなったオフィスで、私は彼が置いていった名刺を眺めていた。

 それは、まるで、私をこの不愉快な世界から救い出してくれる、一枚の招待状のように見えた。

キャラクター紹介(第2話時点)

たちばな 麗華れいか

年齢:25歳

立場:株式会社ネオシステムに勤務するOL。中身は悪役令嬢レティシア・ローズウッド。妃教育で培った法律知識や社交術を武器に、ブラック企業でのし上がっていく。

特徴:パワハラ上司を論破し、社内で異端の存在となる。現代のビジネススキルを「妃教育」の知識に置き換えて理解し、驚くべき成果を上げる。


ひいらぎ 蒼介そうすけ

立場:ネオシステム社の顧問弁護士。柊法律事務所の代表。

特徴:クールで知的な雰囲気を持つ敏腕弁護士。麗華の突飛な言動と、そこに隠された非凡な才能に興味を抱く。彼女の真の姿を見抜き、協力者となる可能性を秘めている。


斎藤さいとう

立場:麗華の同僚。

特徴:麗華が倒れたことを心配していた優しい女性。麗華の行動に勇気づけられ、彼女に心を開き始める。

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