第19話 築田弥次右衛門の策略
月なき闇を裂き、那古野勢が音もなく忍び寄った。
先頭を行くは那古野弥五郎。旗が滑り、掌の汗が布へ沁みた。
弥五郎が門へ合図を送る。しかし、中からは返事がない。
櫓から声が落ちた。「合図は見た――縄の音が先だ」
「開かぬ。縄、締めた」
「弥五郎」
信長の声は熱く、刃のように冷たかった。
「門は開くと申したな。早う開けさせよ!」
「み、今しばらく……必ず開きまする……」
弥五郎の喉が震えた。だが城内ではすでに裏切り者が捕らえられ、縄で縛られていた。
城門は黒々と沈黙し、炎に照らされてもなお動かぬ。
火矢が闇を裂き、藁葺きの屋根が轟音とともに爆ぜた。黒煙が湿りを帯びて流れ、焦げた木の匂いが鼻を刺す。鎧の打ち合わせが金の粒のように散った。
信長の眼は烈火に燃え、踵が石を一度だけ叩かれた。
「三呼で開け。」
「一——二——」
「三で首だ」
弥五郎は地に額を擦りつけ、声を絞った。
「い、今しばらく……!」
信長は扇を半寸ずらし、息を一つだけ殺した。
――この夜に至るまで。
清洲の城は冬を迎え、瓦の端々に白い霜が光っていた。
その一郭に、若武者・那古野弥五郎の居間がある。齢わずか十六、七。まだ少年の面影を残しながらも、兵三百を預かり、城中では侮れぬ力と見られていた。
そこへ近ごろ頻繁に出入りする者がいた。築田弥次右衛門――猿めいた容貌の下士。人々は彼を「さる」と呼んだ。小柄な体と卑しい顔つき。だが舌は巧みで、人の心をつかむ術に長けていた。
「殿は若きながら兵を率い、この清洲の未来は殿の双肩にかかっておりますぞ」
「……我こそ清洲を変える器よ」
弥五郎の胸に、虚栄と焦燥が芽を吹いた。
やがて“さる”は、不遇に甘んじてきた家老たちの集まる一室へ現れた。灯火ひとつ、狭い部屋は薄闇に沈んでいる。
「このままでは清洲は立ち枯れますぞ」
声に老臣らは息を殺した。
「証は」
「我らの利は」
「今なら——増す」
「尾張は揺れております。今川の圧も強い。那古野に与せよ。」
沈黙。だが“さる”は待った。
「いずれ清洲の主も変わりましょう。どちらの旗に従うか、今こそ定めるべき」
灯心がぱちりと鳴り、ひとりの顔が照らされた。顎がわずかに引かれる。小さなうなずき――それで充分だった。
その夜更け、“さる”に促され、弥五郎は単騎で雪を踏み分け、那古野へ向かった。
広間には十九歳の織田信長が座していた。炎を映す双眸は異様な光を帯び、弥五郎を貫いた。
弥五郎は畳に額を擦りつけた。
「私は那古野弥五郎、清洲にて兵三百を預かっております」
「清洲の様子は」
「松葉口で将を失い、士気は落ちております。民は『田畑が焼かれる』と嘆き、皆が殿を恐れております」
「……そうか。ちこう寄れ。酒を飲め。虚言なら首だ」
弥五郎は額を押しつけたまま、身動きもせぬ。
「望みは何だ」
「忠節の証を。清洲の侵入路、火を放つ要所、すべてこの手にございます」
差し出された紙片には、小路や蔵、防備の薄き場所が細かに記されていた。
信長の息が一度だけ切れ、眼の光が石の色に冷えた。
信長の口元に笑みが走る。
「面白い。炎で揺さぶり、隙を突く。すぐに兵を整えよ!」
号令が広間を切った。
「申し上げます。蔵の鍵持ち、城外にて未明戻りと」
「火点の油壺、松の小路ぶん不足」
重臣が食い下がる。「まず鍵を。油は他所より回せ」
「物見を……」
「要らぬ」
信長は扇の先で床を叩いた。
「鍵持ちを呼べ。油は武具蔵を割け。刻が惜しい」
――そして炎の夜が訪れた。
火矢が一斉に放たれ、藁葺きの屋根が轟音とともに爆ぜた。
焼けた漆と干し藺草の甘い匂いが喉に貼りつき、炎は夜空を真紅に染めて悲鳴を裂いた。
赤々と燃えさかる光に、清洲の天守と二ノ丸が裸のように浮かび上がる。
「押せ!」
信長が朱槍を掲げ、歯の縁をきしませて城門を睨んだ。
だが石垣は高く、水濠は炎を映し、兵を拒んだ。矢は雨のごとく降り注ぎ、前列は次々に倒れていく。
老将の声が走る。
「守護在城。門、動かず」
弥五郎は唇を噛んだ。
「開ければ露見、閉じれば殲滅——。」
「……御命、いかに。」
信長は一拍だけ目を閉じ、朱槍を水平に降ろした。
「……退け。全軍、撤兵!」
「撤兵——撤兵!」と伝令が声を張り上げ、太鼓が一打、城下を割った。
兵らは悔しさを噛み、踵を返す。焦げと煙の匂いが衣に沁み、背後では炎がなお唸っていた。
その戦いを、さる こと築田弥次右衛門が黒装束で闇に紛れ、数人の配下と共に見届けていた。
「……しくじったか。信長に取り入るは次の機とせねばなるまい」
声だけを残し、黒装束たちは闇に消えた。
翌日、那古野城はざわめいた。
「清洲の住民が信長様を声高に非難しております」
「前回の稲の刈り取り、今回の延焼……怨嗟は膨れ上がるばかりにございます」
宿老衆が膝を進めた。
「殿、いかがなされます」
信長は苛立ちを隠さず吐き捨てる。
「些事だ。お前たちで処せ」
扇をぴたりと閉じる音だけが、広間に鋭く残った。
立ち去る背に広間は重苦しい沈黙を落とす。視線は自然と一人に集まる。守役・平手政秀。
政秀はやつれた顔に無念の涙を浮かべ、低く洩らした。
「……三郎殿を、わしの手ではもう止められぬ」
牛一は筆を走らせる。
――「信長様の軽挙、家中をまた二つに裂く。政秀殿の心労、いよいよ極みに至れり」