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第16話 鳴海城謀反3

――那古野城、夕つ方。


赤塚の戦から帰還した信長一行は、疲労をまといながら城へ戻った。


信長が兵らに声を投げる。

「下を向くな。前を見よ。俺、信長は、負けてはいない」

声は張っていたが、胸の奥では敗戦の責を自らに刻んでいた。


城門が軋んで開く。勝ち鬨はなく、槍の穂先は泥に曇り、鎧の鉤金がこすれる音だけが通り庭を染めた。兵は黙し、馬は白い息を吐いた。


信長は鞍橋に片肘をかけ、無言で中門をくぐる。小姓が朱鞘を拭おうと袖を差し出すと、軽く払った。

「要らぬ」


土間では森可成が肩で息をしながら指示を飛ばす。

「負傷は西の長屋へ。馬は裏厩へ。水は一桶ずつ、焦るな」

柴田勝家は槍を立て掛け、額を柄頭に預けて言葉を探したが、ただ短く報せる。

「殿……無理な突撃で兵を失いました」

「わかっておる」

信長は鞍裂を外し、石突を床に一度突いた。その響きに、廊下の影がふっと揺れた。


利家と成政は小傷をからかい合ったが、すぐに黙して目を伏せた。若さの上に、今日の重みが確かに載っていた。


「捕り替えは」

誰にともなく問うと、森可成が前へ出る。

「荒川又蔵は生け捕り、赤川平七はこちらを奪わる。その後、互いに引き替え、落ち度なし。放れ馬も一頭違わず返されました」

「よい」


信長は頷かず、水桶に指を触れた。冷たい水に映る顔は若く、眼だけが昼よりも冷えていた。


牛一は筆を走らせる。

――尾張兵、義を重んず。放れ馬まで誤りなく返す――


信長は水を浴び、袖で乱暴に拭った。

「なぜ引いたと思う」

投げられた問いに、森が答える。

「兵は持ちませぬ。列も乱れ、丘に敵の援けがあり……」

「違う」

「今押せば、明日が空く。城も家も。」

「血で勝っても、家が負ける。それが“負け”だ。」

声は低く刃を撫でるようだった。

「首を多く挙げても明日が続かぬ。泥が深い。丘に“らしい”が溜まる。散った心は風で倒れる。――押す時ではない」


石突がもう一度、床を鳴らす。いらだちはあるが外には漏れない。


「鳴海口と川筋は」

「固めました。夜明けまで巡邏を倍に」

「よし。物見を増やせ。丘の裏に目を置け」


台所方が湯と餅を盆に載せてくる。信長は手を伸ばしかけ、盆を押しやった。

「兵に回せ。俺は要らぬ。」


土間の空気が少し軽くなる。器が回り、小さな礼が生まれては消えた。


勝家がなお進み出る。

「次は地を選びとうございます。丘を背に、湿地を敵の背に」

信長は扇を一度あおぎ、言った。

「赤塚は忘れろ。いや、忘れたふりをして骨に刻め。――“退いた”と町に囁かせろ。噂は槍より早い。数を作る。丘を取る。その前に——噂を走らせろ。次に押す時の重みが違う」

森がうなずき、問いを一つだけ置く。

「次に足すは。」

「数、地、そして時だ。」


牛一は筆を滑らせた。

――殿、怒りを内に置く。言は短く、刃のごとし。次は数を作り、丘を取る、と――


廊下で拍子木が鳴り、夜番の交代を告げた。那古野の呼吸が戻りつつあるなか、若殿だけは戦場の匂いをなおまとっていた。


「十八度、槍を打った」

信長が独り言のように洩らす。

「それで足りる日もある。足らぬ日もある。――今日は、足らぬ日だ。足さねばならん」


森が頷き、勝家は槍を握り直す。利家と成政は無言で持ち場へ散った。


外で馬が短く嘶き、すぐに静まった。城の石は冷え、庭の砂は昼の血を乾いた色に変えている。


やがて場は移り、那古野城の奥・御座之間。夜の冷気がまだ残る中、家老衆が畳に並んだ。


鳴海での戦――赤塚での信長の振る舞いは、年寄り衆の胸に重い影を落としていた。


林秀貞が口を開く。

「殿。赤塚で和睦となり、まずは兵を無事に戻せたこと、家中として安堵いたします」

そう一礼し、声を低めた。

「されど……兵力差ある戦に策もなく挑まれたこと、今川方との駆け引きや事前の根回しが薄かったこと――これは家の行く末に関わることにございます」


 座に微かなざわめきが走る。

 柴田勝家も口を添えた。

 「突撃だけで兵は崩せませぬ。陽動も策も要りましょう。状況を見極める目こそ、大将にふさわしきものかと」


 信長は膝を正したまま、目を落とした。返す言葉はない。あの日の朝に放った大言が、胸の奥で鈍く疼いた。


 林がまた口を開きかけたとき、信長は軽く手を挙げた。

 「……この度のこと、肝に銘じよう」


 その一言に、座は沈黙し、炭火のはぜる音だけが響いた。


 森可成が一歩膝を進める。

 「確かに勝ちは致せませなんだ。しかし――」

 場を見回し、言葉を続けた。

 「信長様に従った兵は、三十余の討死を出しながらも崩れず、退きもせなんだ。その粘りは天晴。今川の援兵も、恐れて戦に加わらなんだ」


 林通具が細めた目で問いかける。

「それを……詭弁とは思わぬか」


 森は静かにうなずいた。

「和睦は決して恥ではござらぬ。大将も兵もまだ若い。学びはここからにござる」


 その時、通具が口を滑らせた。

 「やはり……信行様の方がふさわしいやもしれぬ」


 信長の面に、ふいにあの「大うつけ」の仮面が張りついた。眼はぎらつき、声が荒れた。

 「――何だと」

 「名を二度と出すな。次は扇で済まぬ。」

 膝をどんと打ち、身を乗り出す。

 「信行がふさわしいだと? あやつに清洲を取り戻せるか!」


 言葉は鋭かったが、激情が座を荒らす。

 「俺を信じぬ年寄り衆の力など要らぬ。

 ――尾張は、この俺が立て直す!」


 広間に響いた声は、理よりも熱を前に出した。障子の桟が、ひときわ強く鳴る。


 誰も遮れぬまま、宿老衆は唇を結び、若武者らは息をのんでうつむいた。


 やがて、信長は扇をばさりと閉じ、吐き捨てるように言った。

 「……もうよい。このような評議は無用じゃ!」

 勝家「……はっ。」

 林秀貞「……承知。」


 重苦しい空気の中で、若き当主の胸には、ただ熱い思いだけが渦を巻き続けていた。


 信長が奥へ引き上げ、襖が音もなく閉じられると、広間には淀んだ気が残る。誰からともなく視線が一人に集まった。


 林秀貞が扇を畳に置き、まっすぐ平手政秀を射た。

 「政秀殿……幾年も殿をお育てになった。その果てが、この有様か」


 すかさず弟の林通具が冷ややかに継いだ。

 「人の声に耳を貸さず、ことわりなき大言を吐く。幼き折より改まらぬその性根を正すが守役の務めであろう」


柴田勝家は腕を組み、唸るように吐き出した。

「兵を率いる胆力はある。だがそればかりを良しとしたゆえ、言葉も政も疎かになったのではないか」


佐久間信盛は苦笑を浮かべ、首を振る。

「政秀殿……殿の振る舞いは、もはや家中の禍根。もしそれが御身の教えから生じたものなら、責は重い」



四方から寄せられる言葉を受けても、平手政秀はしばらく黙していた。やがて扇を静かに閉じ、深く頭を垂れる。

「……殿。」

「……至らず。」


広間に重い間が落ちた。年寄り衆も若武者も口をつぐみ、ただ政秀の老いた背を見つめる。


拍子木が一打、遠く乾いた。

牛一はその光景を筆に写した。

――赤塚の戦いにて、若きは熱を喜び、古きは熱を恐れた。織田家の行く末に、一つのひび割れ生じたり。

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