第15話 鳴海城謀反2
――鳴海城主・山口教継の胸中は穏やかではなかった。
織田の動きは予想以上に早く、背後から迫る今川方の圧力も重くのしかかっていた。
この日、教継は駿河本拠の今川方との結びつきを強めるため、桜中村城での会合に赴いていた。城の守りは、若い嫡子・山口教吉に任されていた。
教吉は血気にはやる二十歳の若武者であった。やがて急報が届く。
――織田信長自ら、わずか八百の兵を率いて鳴海へ迫る。
「ここで信長を討ち取れば、今川への功は大きい」
その思いに駆られた教吉は、城に籠もらず、今川からの兵を合わせた千五百の軍勢を率いて、鳴海城北方の赤塚に布陣し、迎え撃つ構えをとった。
だが今川方の将兵は、若年の教吉の指揮に必ずしも従順ではない。いざとなれば退くことも辞さぬ、と内心では考えていた。
春の陽は白く、赤塚の原を照らしていた。
赤塚は一方が低湿地、一方が雑木の小丘――側面を出せば、風に槍先が流れる地である。
そこへ、物見が土煙を蹴立てて駆け戻り、本陣の陣幕へ転がるように飛び込んだ。
肩で息をしながら声を張る。
「敵、大軍にて赤塚に陣を張っております! 数、お味方の倍にございます!」
その一言に、座していた武将たちの顔色がわずかに揺らいだ。
陣幕越しの陽光までも、薄く沈んだように見えた。
やがて柴田勝家が進み出て、低く、しかし力強く進言した。
「殿。敵は多勢にございます。軽々に打って出れば、わが軍は呑まれましょう。ここは守りを固め、機を待たれるのが肝要かと」
だが、若き織田信長の耳には、その言葉は届かぬ。
まだ戦場の場数は少なく、血気が胸を満たしていた。
眼に炎を宿し、腰の太刀を叩いて言い放つ。
「勝家、心配するな。数に怯んでいては戦などできぬ! 赤塚を押さえ、敵を討つ。――者ども、行くぞ!」
声は鋭矢のごとく軍勢を貫き、兵らの喉から一斉に鬨の声が噴き上がった。
地を揺るがすその響きに、前列の兵が槍を構え、陣を押し出すようにじりと進む。
信長は即座に布陣を定め、八百を三段に割った。
中央に信長、左右に前田利家・佐々成政、後方に森可成が控え、遊撃を担う。
さらにその後方では、太田牛一が筆と槍を手に、戦の様子を記そうと目を凝らしていた。
次の刹那、信長の号令が原野を渡り、太鼓がどっと鳴り響く。
法螺貝がうねり、兵の足音とともに、若獅子の軍勢は赤塚へと押し寄せた。
やがて赤塚の丘に、今川の援兵を含む山口教吉の軍勢、千五百余が姿を現した。
今川勢の列は槍の穂先が揃わず、太鼓は二度、間を外した。
槍衆が前へ進み、火矢が戦いの始まりを告げる。乾いた音が空を裂き、燃える線が走った。
織田勢八百も怯むことなく、陣を固める。
春の陽に鎧の金具が白く輝き、土煙が低く舞う。
信長は馬上に立ち、朱槍を振り上げた。
「押し崩せ!」
その一声に全軍が応じ、中央から奔り出した。
森可成は右手から敵の横腹を突き、利家は正面を割るべく槍を突き出す。
成政は矢を射かけ、勝家は騎兵を率いて味方の中央を支えた。
互いの列がぶつかり合った瞬間、火花が散り、戦場は轟音と怒声に包まれた。
槍が胸板を弾き、刃が兜をかすめる。組みついた兵が地に倒れ、その上をさらに味方が駆け抜ける。
汗と血の匂いが入り交じり、息を吸うだけで胸が焼けた。
信長は朱槍を旋回させ、敵をはじき飛ばすと声を張った。
「退くな、押せ!」
その声に応じ、兵たちは歯を食いしばって槍を突き出す。
対する教吉も声を張り上げた。
「信長を討て!」
若き声が響き、赤塚の原は激しい鬨で満ちた。
丘に控える今川の兵はなお動かず、ただ黙して戦況を見下ろしている。
やがて押し引きを繰り返した両軍は、互いに疲弊し、わずかに間合いを取った。
荒い息が春の霞に混じり、槍の穂先が震える。
その刹那、信長は馬首を高く上げ、声を放った。
「教吉! なぜ織田を裏切った!」
教吉は兜の奥から答えた。
「今川に付かねば生きられぬ――それが我らの選んだ道よ!」
勝家が馬腹を蹴って進み出る。
「教吉殿、尾張の者ならば剣を交えるのはここまでだ。これ以上は血を流すのみ、引かれよ!」
教吉は苦く笑み、やがて槍を下ろした。
敵味方の列も次第に静まり、戦はそこで終息へと向かった。
互いに首を取り合うことなく、馬を返し、武具を渡し合う者もいた。
土に汚れた顔に笑みが浮かび、戦場には奇妙な和らぎが広がった。
森可成はその様子を見回し、低くつぶやいた。
「殿はまだ十代……だが今日の戦を胸に刻めば、必ずや次へつながる」
赤塚の原には、戦の熱を残したまま、春の霞が白く漂っていた。
――牛一の筆に残されたは、かくの如し。
槍と槍とが火花を散らすこと十八度。
退いてはまた寄せかかり、負けじと打ち合い、泥にまみれた乱戦は果てしなく続いた。
討ち取られし敵の名、萩原助十郎・中島又二郎・祖父江久介・横江孫八・水越助十郎。
あまりに近く組み合い、首級を挙ぐる暇もなく、敵味方の屍は戦場に折り重なった。
赤塚の地にて討死せし者、三十余人。
荒川又蔵は我が方に生け捕られ、赤川平七は逆に敵の手に落ちた。
馬を下りての戦いなれば、馬どもは皆、敵陣へ駆け乱れた。
されど戦い果てて後は、ひとつの誤りもなく返し合い、また生け捕りにした兵をも互いに引き替えた。
この日の追撃は浅く留め、兵を集め直し、鳴海口の道筋と川筋の押さえを固めた。次の手は、焦らずとも必ず打てる。
――風は乾き、砂は血を吸い、戦の音はなおも大地にとどろく。
――尾張の兵、強く、また義を重んず。