第13話 織田家の結束・父信秀の葬儀
那古野城に冬の日ざしが斜めに射し、障子ごしの淡き光が畳の目を細く照らしていた。
御座之間の上段、中央に坐すは、漆黒の直垂に身を固めた織田三郎信長。
十八の齢ながら背筋は真っ直ぐ、膝前の両手が呼吸に合わせて小さく動き、衣のしわがわずかに揺れた。父の死を経て、信長の顔からはうつけの仮面がすでに消えていた。
その右手後ろには、生母・土田御前。
深紅の打掛が柔らかな光を吸い、眉ひとつ動かさず、下段をじっと見据えている。
下段に列するは、織田家を永く支えてきた宿老衆――林新六郎秀貞、平手中務丞政秀、佐久間大学信盛、柴田権六勝家。
鬢や髭には白を交え、眉間の皺は深く刻まれていた。
その隙間から、森可成、前田又左衛門利家、佐々成政ら、若き面々の顔が覗く。
柱際には帳面と筆を抱えた太田牛一。
この日の一言一句を漏らすまいと、眼を細めていた。
土田御前が、やわらかくも張りのある声を放つ。
「このたびの信秀殿の御逝去、織田家にとってはこの上なき試練にございます」
「清洲を追われた悔しさも、皆の胸に残っておりましょう。されど今こそ、その痛みを力に変えるときにございます」
澄んだ声が広間の隅々にまで行き渡り、畳に落つる光さえぴたりと止まったようであった。
「これよりは三郎信長が家督を継ぎまする。当主として、そなたらも先君に尽くされたごとく、この子に従ってくだされ」
一瞬の間。やがて全員が一斉に深く頭を垂れた。
「ははっ」――その声色には揺るぎなき決意がこもっていた。
信長が立ち上がる。
「皆の者よく聞け。父上が亡くなられ、周りは敵だらけだ。清洲も手放した。敵は必ず動く」
「しかし、織田弾正の力はあまりに弱い。皆の力なくしては織田は潰れる」
「己の任をしかと全うせよ!」
その言葉に、若き前田利家が即座に笑みを見せ、
「はっ! 殿と共に、どこまでも!」と声を張った。
佐々成政もうなずき、森可成は力強く声を添えた。
「殿の新しき道こそ、織田の武威を高めましょう」
宿老衆もまた、互いに視線を交わし、深くうなずいた。
林秀貞が静かに口を開く。
「殿、わしらも力を尽くしましょう。共に織田を導くために」
平手政秀は深く頭を垂れ、老いた声に力を込める。
「殿に従い、我ら一丸となって家を守り抜きまする」
柴田勝家も拳を固く握りしめ、低く響かせた。
「殿の前に立ち、敵を討つはこの権六の役目。必ずや果たしてみせまする」
広間には、重々しくも確かな熱が満ちていった。
年寄り衆と若武者が一つに心を合わせ、若き信長を支える――その決意は誰の目にも揺るぎなかった。
牛一の筆は、その光景を記しながら心中で呟いた。
――「若き獅子を支えし群れ、ここに結束す」。
信長は目を見開き、きっぱりと言い放った。
「じい、若きゆえにこそ、新しき戦ができる。父上の道を受け継ぎ、さらに広げるのだ」
その言葉に若手衆は胸を張り、宿老衆の眉もやわらいだ。
林秀貞がゆっくりと頷き、応じる。
「殿のお志、しかと承りました。我らが共に力を合わせれば、必ずや織田を盛り立てましょう」
土田御前はそのやり取りを見届け、やわらかな声を添えた。
「殿、皆が心を一つにしてこそ家は続きます。力は人を従わせますが、信は心を結びまする」
信長は深くうなずき、短く「心得た」と返した。
その刹那、広間に温かな気が満ち、式は和やかに閉じられた。
やがて林秀貞が膝を進め、言葉を重ねる。
「殿――織田はまだ息づいております。その息を大きな形へと育てるのは殿の役目。形は力となり、力は人を呼び寄せましょう」
その声には叱責ではなく、共に歩む覚悟がこもっていた。
信長はしばし林を見据え、やがて小さく微笑む。
「……形を与えるか。ならば皆とともに築こう」
太田牛一はその様子を筆に写し取りながら、胸に刻んだ。
――「若き獅子と群れ、一つとなりて立つ」。
障子の向こう、夕日が西雲に沈もうとしていた。
血を溶かしたように濃い光が畳の縁を赤く染め、結束した面々の顔をいっそう力強く照らしていた。
――
織田弾正忠信秀(おだ だんじょうのちゅう のぶひで)の葬儀は、万松寺の本堂にて執り行われていた。
冬の薄日が障子を透かし、堂内の畳の目を白く浮かび上がらせる。香煙は細く立ちのぼり、読経の声が寄せては返す波のように続いていた。
正面の喪主席はいまだ空のまま。脇座には林秀貞、柴田勝家、平手政秀ら宿老衆が並び、その傍らに年若い信行が控える。重く沈んだ空気の中、式の始まりを待つ息づかいだけが響いていた。
林が僧へうなずき、進行を促そうとしたその時――。
堂外から、蹄か足音か判じがたい響きが近づいてきた。
森可成が襖を静かに開き、一礼して道を譲る。
そこから現れたのは、黒紋付に白袴、裃をきりりと着こなした若武者――織田三郎信長であった。髪は整えられ、飾り気ひとつない。鋭い眼差しはまっすぐ前を射抜き、若きながらも参列のすべてを圧する気迫を帯びていた。
信長は迷うことなく祭壇の前へ進む。
「亡き父の長子として、この香を捧ぐ」
朗々と響いた声は、張りつめた空気を切り裂き、堂を満たした。
抹香をひと掬い取り、高々と掲げて香炉へ投じる。白い粉は光を受けて散り、舞い上がるさまは、まるで新しき時代の兆しのようであった。
掲げた掌から掬った粉を一息に散らす所作は、古き作法の綻びをあえて見せるかのごとくであった。
やがて信長は振り返り、宿老衆と弟を見渡す。
「父の遺志を継ぐはこの信長。されど、我一人の力では成らぬ。皆々が心を合わせてこそ、織田は続く」
その声に林秀貞が膝を進め、深くうなずく。
「殿、その御心まことに尊し。我ら命を惜しまず、お支えいたしまする」
柴田勝家も拳を握りしめ、声を張った。
「殿の盾となり矛となるは、この権六の務め。必ずや果たしてみせまする!」
平手政秀は目を潤ませながら言葉を添える。
「殿……父君の遺志を共に継ぎましょう。家は一つ、心もまた一つに」
信行も兄を見据え、小さくも確かな声で告げた。
「兄上、私も力を尽くします。織田の家を共に守りましょう」
その声に森可成が胸を張り、力強く言葉を重ねる。
「ここにお集まりのすべてが殿の家族。我ら一丸となり、父上の築かれた礎を守り抜きましょう!」
再び読経が堂に満ち、宿老も若武者も互いにうなずき合った。
香煙は天へと立ちのぼり、冬の淡き光を受けながら、織田家の結束を示す旗のごとく揺れていた。
香の白が細く立ち、裃の肩に淡く積もった。
牛一の筆は、晩年に至って変わった。
若き日の出来事をそのまま写すのではなく、後世にどう伝えるかを考えるようになったのである。
――信長様の才を正しく伝えるには。
彼は迷い、そして決断した。父・信秀の葬儀でさえ、ただ厳粛な式次第として残すのでは足りぬと。むしろ、古き習いを壊してこそ信長様の始まりであり、そこに改革の源があったと描かねばならぬ。
「葬儀をも打ち破った。あれこそが、天下を変える兆しであった」
そう記すことでしか、信長様の真の姿を後世に残すことはできぬ――牛一の筆は、そう定めていた。