第12話 清洲評定
まだ霜の息が廊下に残る刻、那古野城に早馬が駆け込んだ。
使者は膝をつき、巻紙を高く差し出す。
「清洲評定、出頭せよ——守護代・織田大和守公の仰せにて」
書付は礼を尽くした文言ながら、末尾の一行が固かった。
——欠席無用。異存あらば追って沙汰。
読み終えた林秀貞の額に、じわりと汗が滲んだ。
尾張国の中央にそびえる清洲城は、外目には弾正忠家の威が及ぶかに見えながら、実際にはそうではなかった。
斯波氏の家宰として代々守護代を務める「清洲織田家(大和守家)」がこの城を治め、尾張守護の威光を背に格式を握ってきたのである。
長らく実権を手中に収めていたのは織田信秀であった。だがその死を好機と見て、大和守家は弾正忠家を排除に動いたのであった。
畳の青がまだ若い大広間に、年寄り衆と若武者がすぐさま集う。
林秀貞、平手政秀、佐久間信盛、柴田勝家、森可成、丹羽長秀。末座には、前田利家と佐々成政。
林秀貞が口を開いた。
「まことに困った事でございます。あの者どもは、家柄を盾に弾正家の力を削ごうとしております」
続けて、政秀が静かに言葉を添える。
「まずは座を穏やかに保ち、清洲の意をうかがうのが肝要にござろう」
佐久間信盛も頷いた。
「ここは穏便に事を運び、相手の譲歩を誘うのがよろしいかと存じます」
若い膝が一つ、二つと前へ進む。森可成、丹羽長秀、そして前田利家。
「そのような弱腰では、信秀様の功を無にいたします」
「今こそ押せば、清洲の気勢を削げましょう」
「殿の旗を見せる刻合いかと」
柴田勝家は腕を組み、短く言い切った。
「出れば受ける。受ければ挑む。だが、座の理は崩すな」
諸意見は交わりながらも結論は定まらず、ただ空気だけが重くなっていった。
その沈黙の端で、信長が扇を伏せた。眼差しが一度だけ全員をなでる。
「清洲はいらぬ」
重鎮たちの表情が驚きに揺れ、若武者たちの背がぴんと伸びた。
信長の顔からは、いつものうつけの仮面が消えていた。声は芯を帯び、広間に響いた。
「父上は、名家の格式に敗れたのだ」
「格式ごと潰さねば、尾張の平定はならぬ」
「ゆえに、あえて清洲は捨てる」
「所領安堵の確約さえ取れればそれでよい」
信長の目が鋭く光り、低く笑い声が漏れた。
「あの者どもは争いを仕掛けられぬ。所領の安堵を口にしてくるはずだ。——向こうの口が言ってくれるわ」
「あの城には綻びが多い。父の影がなければ、自ずから割れる。——割れぬなら、俺が割らせる!」
林が口を開きかけるのを、信長は手のひら一つで制した。
「座には出る。頭も下げよう。だが“欲しがっているふり”をするだけだ。向こうの綻びを自ら炙り出すのだ」
若手たちの胸は熱を帯び、声がもれる。
「殿……妙策と存ず」
老臣の声はなお慎重だった。半眼で信長を測る。
「清洲を……捨てるのでございますか」
森が膝を進め、信長の言葉を受けるように声を張った。
「坂井大膳、河尻左馬丞、**織田三位尉の系——三つ巴。**清洲は外より内が怖い。殿は、それを見届けようとされるのだ」
広間に重い静寂が落ち、だがその静けさの底で、那古野の空気は確かに鋭さを帯びていた。
——
信長は清洲からの召しを受け、神妙な面持ちで城へと入った。
清洲城の大広間には、守護代・織田信友をはじめ、坂井大膳・坂井甚介・河尻与一ら清洲方の重臣たちがずらりと揃っていた。畳は新しく香を含み、張りつめた空気に扇の骨がかすかに鳴った。
やがて信友が口を開く。
「まずは、父君・信秀殿のご逝去、まことに惜しきこと。この清洲においても、その功は忘れ申さぬ」
しかし、その言葉を奪うように坂井大膳が前に出る。
「清洲城はもとより弾正忠家の持ち物にはあらず。今後も我ら守護代家がこれを預かる」
広間に冷気が走る。信長の背後に控えていた林秀貞が、一歩進み出て声を張った。
「それは余りに……父君の功績を顧みぬお言葉。せめて信長様に、清洲三奉行衆の座を継がせるのが筋ではありませぬか」
その一言に、清洲方の武将たちはどっと笑い声を上げた。
「信秀殿は確かに優れておられた。されど、その御子に同じことが務まるか」
「大うつけの噂を、我ら知らぬと思うてか」
林は悔しげに顔をしかめたが、なお言葉を重ねる。
「信長様は若い。されど我らが支えれば、必ずや御家を導ける。父君への恩を思えば、ここで見限ることなど……」
その声を断ち切るように、坂井甚介が扇を打ち鳴らした。
「ならぬ。すでに沙汰は定まっておる。清洲は守護代家の預かり、ゆめ違えさすな」
扇の要がひときわ光り、骨の白が畳に滲んだ。
信友は、あたかも自らの裁断であるかのようにゆっくりと口を開く。
「信長殿には、これまで通り那古野の城主を認める。所領は相違なく継がせる。」
河尻与一が、ひとりでも味方を増やそうと、林へ向き直った。
「林殿も、もとは我らの縁。いまこそ胸中を定められよ」
言葉づかいは穏やかであったが、その口の端には卑しき笑みが忍んでいた。
林は深く頭を垂れた。
「……されど、信秀様へのご恩義を忘れることはできませぬ。わたくしは、なお三郎殿にお従い申します」
信長は、その姿を見ながらも、一言も発せず、ただ神妙にうつむいていた。
胸の内では、炎のような言葉が燃え立つ。
「老どもの芝居はいつものこと……だが、俺がこれを壊す。俺がこの世を変えてみせる」
こうして十八歳の信長は、幼き日を過ごした清洲の座を追われ、ただ那古野の主に押し込められることとなった。
その胸の奥から、ただひとつ、苦い言葉がせり上がった。
――親父、死ぬのが早すぎだ。俺には、このやり方しかできない。