第1話 太田牛一
天文十八年(1549)春。 夜気はいまだ肌を刺すほど冷たく、城下の屋根には夜露が白く光っていた。
私は筆を握る手に、そっと力を込めた。
『筆一本が、私にとっての刀なのだ』
清洲城の大手門が、ぎい……と長い息を吐くようにきしみを上げて開く。薄明の空の下、門前にはもう商人や農夫が列をなしていた。肩に米俵を担ぐ者、牛車に塩の樽を積んだ者、干し魚の籠を抱える者。土と海の匂いが混じり合い、まだ眠い鼻をつんと刺す。
私は、その列の脇をおずおずと通った。胸の奥が、朝の空気とは別の冷たさで縮む。今日からこの城で働く。しかも、よりによって「帳場」だ。剣も槍も取ったことのない私には、ここも戦場。――今日は筆で斬る日だ。
城の回廊は、踏むごとにひやりとした板の感触が背まで上る。石垣の隙間から吹き込む風が衣の裾を揺らし、やがて、ふわりと墨の匂いが漂った。ここが、私の新しい戦場――帳場である。
障子の向こうから紙を繰る音、低く押さえた声。
戸口に立つと、朝の光が硯の水面をきらりと照らしていた。机には算木や筆が整然と並び、壁際には米や銭の出納を記した分厚い帳簿が幾重にも積まれている。
その中央に、ひときわ背筋のまっすぐな男が腰掛けていた。帳場の長、川瀬与右衛門殿――津島湊の廻船問屋の子だという。痩せた頬に刀のような眼光。私の姿を頭のてっぺんから足元まで一息に見据えた。
「ここでは、殿の御用も、家中の争いも、まず紙の上に載る。
筆を疎かにする者は、槍を落とす者と同じだ」
短く低い声。墨より濃く胸にしみ、思わず背筋が伸びる。
川瀬殿はさらに、無表情のまま刃を一枚足した。
「数字は読めるか。……腹は――?」
「据わっております」と返すと、喉が固く鳴った。
――筆先を鈍らせるな、牛一。
地図に目を落とすと、尾張の国が細かく描き込まれている。川筋、山道、湊、敵味方の城――色分けがされていた。傍らの古参が耳打ちする。
「戦ごとに色が変わるのだ。殿は槍も算盤も握れるお方だ」
姿はまだ見ずとも、名を口にする声に商と戦の重みが宿っていた。
窓の外で朝日が城壁を赤く染める。墨と紙の戦場で息をしていく――そう思った途端、また胸の奥が冷たい緊張で固まった。
昼下がりの帳場は、硯の音と筆の走る音で満ちていた。静けさの中にも、数字の一つが国を揺らすかもしれぬ張り詰めがある。
その時――
「津島湊より、使い到着!」
駆け足の音。飛び込んだ男は肩に風袋、潮と日焼けに黒い顔。衣には塩の白粉が浮いている。袋を下ろすと、塩と干魚の匂いが墨香と混じり合い、帳場に満ちた。
「伊勢より四艘、積荷は米百石、塩三十樽、干物四十籠――」
川瀬殿の声に合わせ、筆がいっせいに走る。私も慌てて筆をとるが、墨をつけすぎて一文字がにじむ。冷や汗が背をつたい、手元を見られていないかと視線が泳いだ。
――控えと違う。
私は思わず口が開いた。
「塩は、昨夕の控えでは二十七にございます」
机端の古参・安左衛門が舌打ちをひとつ。「新参が口を挟むな」と低く吐く。
指が止まりかけたが、川瀬殿の声がそれを断った。「安左衛門、控えを回せ。牛一、続けよ」
門口に影が差した。津島屋六兵衛が敷居を踏み、笑みだけを先に入れた。
「慣れで済む話だろう」
川瀬殿は帳面から目を上げぬ。「慣れは帳場の外の言葉だ。内は数で決める」
数字は兵糧となり勝敗を左右する——帳場は戦場だ。
「京よりの使者、到着!」
今度は城の奥から声。道中の埃をまとった使者が細長い巻物を抱えて現れた。川瀬殿が恭しく受け取り、私に目で合図する――「控えへ」
私は両手で巻物を抱え、慎重に廊下を進んだ。掌に冷や汗が薄く滲み、紙肌が指に張り付く。襖を開けると、そこには既に信秀様が座していた。
初めて見る殿は、思ったより痩せていた。頬の陰影は深く、その眼だけが鋭く光る。視線が私をひと撫でし、次の瞬間には巻物へ移った。
封が切られ、一読。殿は目をわずかに細め、すぐに言う。
「七百貫、今すぐ。遅らすな」
川瀬殿が短く追い打ちをかける。
「三日遅れれば、市は荒れ、米は跳ね、評判は地に落ちる」
殿は淡々と継いだ。
「遅れれば官位は紙に戻る。名は立たぬ」
七百貫――城下が一度どよめく額だ。空気が止まった。
「これで備後守の官位を賜れば、尾張の名は京に届く。米も塩も金も、国の名を立てる道具にすぎぬ」
殿の言は平らだが、底に熱があった。
ただ、その口元の皺がわずかにほどけた。勝ち目を読んでいる者の笑みだった。
「承る。」
川瀬殿は即答し、刻限・護送・蔵の割り振りをその場で畳に描いた。人名が飛び、算木が跳ね、手配が立つ。私は走る筆で追いすがるが、殿の盤上の絵はまだ見えない。
「牛一」
川瀬殿が私を呼ぶ。
「夜明けまでに七百貫の段取りを一枚にまとめよ。過れば、お前の名が落ちる」
廊の柱に掛かる名控板には、欠け目が幾つも並ぶ。刻の鏨の痕は消えない——名が落ちるとは、ここに欠けが増えることだ。
喉が鳴り、返事は短い。
「はっ」
使者が去ると、殿は私の記録を一瞥し、低く言った。
「数を残せ。意図を落とすな。」
安左衛門が控えを黙って差し替え、筆を置いた。「……さっきの二十七、確かだ」
その一言で、胸の冷えがひとつ解けた。
――
夕刻、湯の香りが漂い、古参たちが肩をほぐす。
一人が笑いながら言う。「那古野の若殿を見たことはあるか」
袴もはかず、茶筅髷に紅の紐、餅を片手に人の肩を借りて歩く――茶屋の娘や米商人が見たという姿を、面白おかしく語る。
「大うつけだな、あれが殿の嫡男とは」
笑い声の中、別の声が低く落ちた。
「……だが、あの目は只者ではない」
私は笑えず、ただ耳を澄ませ、その夜、日誌にこう記す。
――若殿、十六歳、奇行多しと評判。ただし、あの眼に計り知れぬもの、あり。
“奇”は疎みを呼ぶが、“異”は秩序を変える。両者を見分けるは難し。
塩三樽は、破損一・別送二と注記。湊より異議ありの書付、別紙に綴じる。
封蝋の赤が畳に落ち、帳面の罫に血の筋が引かれたように見えた。
塩と墨の匂いだけが、朝より濃く残る。遠くで算木が一つ、乾いて跳ねた。
城門の太鼓が二度、続けて早打ち――**『明け六つ、市で取り扱い』**の札が立つ。木札が私の手に渡った。持参はお前だ、と。
指先の朱がその木口に、じわりと滲んだ。