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逆さに降る雨

作者: 蛯原テトラ

 逆さに降る雨を見たのは、大学卒業を目前に控えた秋のことだった。


「学生の内に一度は海外旅行に行ってみたい」


 そう口を滑らせた私を、恋人の(あきら)は半ば強引なスケジュールで、中国のある深い山奥に誘った。市街地からバスに揺られること数時間。人気のないバス停で降車し、そこからまた数時間歩いた。当然、足元は舗装などされていなかった。慣れない山歩きで足首を痛め、私は不満と泣き言を漏らした。こんなところに連れてきた本人はちっとも疲れていない様子で、あっけらかんとこちらを振り返った。


「美沙、あと少しやで。ホンマに絶景なんや。めっちゃ気に入ると思う。あとほんの数十分や。騙されたと思って最後まで一緒に来て欲しい。一生のお願いや。なんとか頼む!」


 そう言って深々と頭を下げ、晃は私に向かって拝むような格好で手を合わせた。私はその様子が可笑しくて、さっきまで機嫌悪くふるまっていたはずなのに、ついつい吹き出してしまった。するともう、完全に晃のペースに乗せられてしまっていて、不機嫌でいる方が損をしているように感じてしまうのだった。


 ロマンチックな恋人同士の海外旅行。そう表現するにはあまりにハードすぎる道程を、私は晃に励まされながら歩いた。その先で何が待っているのかは、具体的に知らされていなかった。


 私より二つ歳上の晃は、この時すでに二度の留年を経験した“不良学生”だった。単位を落としまくっていた原因は、彼の、病的な海外旅行好きにあった。バックパック一つを背負い、世界中どこへでも出かけてしまう。私は彼のそんな奔放な生き方に憧れ、確かに魅力を感じていた。

 けれども、身一つで国際線の搭乗口に向かっていく彼の背中を見送るたびに、二度と会えなくなってしまうような不安を感じていたのも事実だった。

 

 二時間ほど歩いた山間に、見渡す程の大きな湖があった。真綿のような白い靄が、うっすらと覆い被さっている。湖面は波の一つも無い凪だった。

 湖畔の船着場にある小舟には、竹笠を被った船頭が一人で待っていた。

 どうやら晃は、船頭と顔見知りだったらしい。大きく手を振りながら、小舟の方に笑顔で駆け寄っていく。憮然とした様子の船頭は、表情を変えないまま小さく頷いてみせた。

  

「揺れるから、足元によく気をつけてな。あんまり身を乗り出したらあかんで。濡れるだけならええけど、落ちたら洒落にならんからな」


 差し出しされた晃の手を強く掴み、私は小舟の上におそるおそる足を伸ばした。

 船床はぐらぐらと動き続けており、一気に足を踏み出すことはためらわれた。


「ちゃんと握っているから大丈夫や。こっちおいで」


 にっこりと笑う晃に声を掛けられ、私は意を決する。踏み込んだ先は確かにぐらりと揺れたが、私の身体は次の瞬間に、晃の両腕にしっかりと抱きとめられていた。

 岸を離れた小舟は靄の中をゆっくりと滑り、船頭は舳先を湖の中央へと進めていった。櫂が水を掻く音が、ちゃぽん、と響く。周囲の森のざわめきが、徐々に遠くなっていくのを感じた。やがて岸も見えなくなり、視界が白い靄に覆われた辺りで船頭は櫂をこぐ手を止めた。静寂の中、晃は悪戯っぽい笑みを浮かべ、その掌をゆっくりと湖面に翳した。


「来るで。逆雨(さかあめ)や」


 晃の仕草をまね、船縁から手を伸ばす。しばらくして、小さな水滴が私の皮膚を打った。雨粒らしきそれは次々と私の掌を打ち、その表面を濡らしていく。不思議なのは、濡れているのが空に向けた手の甲ではなく、湖面に向けた掌の方であることだった。

 その雨は空から地面に降るのではなく、湖面から天に向けて立ち昇っていた。

 

「なぁ、不思議やろ? 雨音もせんのやで」


 空から落ちる水滴が地上の何かにぶつかった衝撃で雨の音は鳴る。だから、障害物のない空に吸い込まれていく逆雨には、音がなかった。

 それは厳かなほどの静謐さで、湖と天とを結んでいた。透明な絹糸のようだった。空から射す陽の光に反射し、水滴の一粒一粒が煌めきを放っている。やがて湖上は、天へと昇る多量の雨に覆われた。船頭の操る小舟の船底には、逆雨を遮る特殊な加工が施してあるらしい。そのおかげで、私たちはこの雨に濡れることなく風景を眺めることができた。切り取られたような晴天の空間から三百六十度の周囲に見渡す逆雨は、確かに晃の言う通り、あの山道を歩いてくる価値がある光景だった。


 いったいどうしてこんな現象が起きるのだろう。その景色に目を奪われ、知らず知らずのうちに船縁から身を乗り出していた私は、不意な小舟の揺れに足を取られ、身体のバランスを崩してしまった。


「あっぶな!」


 瞬間、晃がとっさに私の身体を抱きかかえていた。小舟が大きく揺れ、船頭が緊張感のある声を放つ。私は湖に落ちこそしなかったが、その時に首から下げていたペンダントの紐がぷつんと切れてしまった。私と晃のイニシャルを刻んだ、三日月形の銀のペンダントだった。お揃いで買った、大切なもの。

 あっという間の出来事ですくい上げる暇もなく、ペンダントは湖底へと沈んでいった。様子を伺っていた船頭が、晃に向かって何かを呟く。現地の言葉だった。私にはその意味は分からなかったが、落とした物は諦めた方がいい、というニュアンスである事はなんとなく理解できた。


「まぁ、しゃあない。命あっての物種やからな。ペンダントはまた買えばええやん」


 晃は明るく言い放ったが、当の私は意気消沈しかけていた。

 慰めようとしてくれたのか、彼は言葉を続ける。


「……そういえば、美沙は『怪雨(かいう)』って言葉、聞いたことあるか?」


 私は首を横に振る。晃は話を続けた。


「世界各地で報告されている現象なんやけどな、そこにあるはずのないものが、空から雨みたいに降ってくるんやって。蛙とか、魚とか、トウモロコシの粒とかな。“ファフロツキーズ現象”とかなんとか言うらしいで」


 船縁から伸びた晃の手が湖面を撫でる。細かい水滴がそこから次々と立ち昇っていた。


「怪雨の原因は不明でな、誰かの手の込んだイタズラだとか、別の場所で竜巻に巻き上げられた物が時間を経て落ちてきたんだとか、色々仮説はあるんやけど、その一つに上げられているのが、この逆雨なんやって」


 私は空を見上げた。逆さに降る雨が、雲一つない青空に吸い込まれていく。もしその中に魚や蛙が含まれていたとしたら、それはいつ、どの場所に落ちてくるのだろうか。


「だからな、美沙の落としたペンダントも、いつか逆雨と一緒になって、どこかの街に降ってくるのかもしれんで。空から降る月の形のペンダントなんて、めちゃめちゃロマンチックやん。そう言う話、好っ

きやわぁ」


 にっこりと笑みを浮かべ嬉しそうに話している晃の顔を見ていると、くよくよしている自分がなんだか馬鹿らしくなっていた。


 逆雨が空へと昇っていく。音もなく去っていく。湖面から立ち昇る雨が止むまで、私たちはずっとその景色を眺めていた。(かい)を携えた船頭が湖の方を向いて俯いてくれている隙に、私たちはそっと口付けを交わした。山道を歩いているときは最悪な旅行だと思っていたけど、ここまで一緒に来てよかったな、と改めて強く感じていた。

 

 それが晃と行く最後の旅行になってしまうなんて、その時は考えもしなかった。

 

 

 数か月後、コロラド州にあるパーキングエリアで姿を目撃されたのを最後に、晃はその消息を絶った。大使館の職員から私がその連絡を受けたのは、形ばかりの同棲を始めたばかりのアパートで、夕飯の支度を始めた時だった。


 米国でのヒッチハイクの旅。危険な事と分かっていたはずなのに、晃はいつもの調子で旅立ってしまった。以前にもヒッチハイクの経験があるのだ、と。アメリカの友人に会いに行くのだ、と言って。

 電話を切った私は、その場所で崩れ落ちた。バックパック一つを抱えて立ち去っていく晃の後ろ姿が何度も瞼の裏に浮かび、そして遠くなっていった。見慣れた光景だった。私は何度も、その背中を見送った。楽天的すぎる彼の考え方に私が麻痺してしまったのは、いつ頃からだったのだろうか。


 彼からは「こっちはひどい雨や。落ち着いたらまた連絡する」というメールだけが最後に送信されていた。こちらから何度連絡を試みても、返信は無かった。八方に手を尽くして調べてもらったけれど、晃の行方を示す情報はどれだけ探しても出てこなかった。


 無事に帰ってくる保証なんて初めからどこにも無かったのに、どうして私は、無理にでも晃を引き止めなかったのだろう。行かせてしまったのだろう。


 晃は、あまり物を買わない人だった。帰りを待つ友人に渡すためにお土産を買ってくることはあっても、自分の充足の為に何かを収集する趣味は持たなかった。何かを買うお金があるのなら少しでも旅の費用に充てたい、と言っていた。だから、晃の部屋にはほとんど何もなかった。僅かな着替えが残されていただけだ。空っぽの部屋で一人、私は嗚咽をもらしながら彼のTシャツに縋りついた。


 ペンダントを早く作り直しておけばよかった。あの日、逆雨が降る湖に落としてしまったお揃いのペンダント。その片方を首に下げたまま、晃はいなくなってしまった。もうどこにあるのかも分からない。一緒に作った対のアクセサリーなのに、一つは湖の底に沈み、もう一つも二度と揃うことはないであろう場所に引き離されてしまった。


 私と晃が一緒に過ごした証とはいったい何だろう。あるのは記憶だけだ。瞼を閉じれば浮かんでくる、数々の思い出たちだけだ。けれど。晃を失ってしまった私がこれから先を生きるのに、思い出だけではあまりにも頼りなさすぎるように思えた。彼はいない。この手の中には、何もない。泣いても、悔やんでも、どうすることもできなかった。真新しい家具が並んだ部屋で、私は深い後悔と喪失感に苛まれた。

 

 それから十数年が経った。


 依然として、晃の行方は分からないままだった。

 彼と二人で借りたアパートの一室に、私は今も住み続けていた。

 もう十分に待ったのではないか。居なくなってしまった人を、ただ待ち続けるだけの人生なんて辛すぎる。まだ若いのだから、他の誰かと一緒に生きていくことだって出来るだろう。あなたが幸せな人生を選ぶことを、咎める人間はどこにもいない。このままここに囚われ続けることなんて、きっと、失踪した恋人だって望んではいないはずだ。

 沢山の人が、私にそう声をかけてくれた。気持ちはありがたかったし、そう諭される理由にも納得はできた。

 けれど、私は彼らの言う通りにできなかった。

 執着なのだろうか。それともまだ、何かを期待しているのか。何の前触れもなくひょっこりと帰ってきた恋人が、おどけた顔をしてドアの影から現れる、なんていう夢みたいな幻影も、最近ではめっきりと見る回数は減った。けれど、それでも日常の狭間に訪れる空白の瞬間に、ふと思い出されてしまうのだ。初めて会った日のこと、思いを伝えあった瞬間、二人で見た風景、触れた指、伸びた髭、唇の先に少しだけ残っていたコーヒーの僅かな香りも。

 会いたい。

 あなたに、会いたい。

 痛みすら錯覚するようなその願いを、私はいまだに手放せずにいた。


 そんなある日、何年も入退院を繰り返していた母が亡くなった。病を患った母に残されていた時間は医者の口から随分と前に知らされていたので、それなりの覚悟はできていたつもりだったが、棺の中にひっそりと納まった母の姿を目にした時には、やはり溢れ出る悲しみの感情を堪えることができなかった。目の前に横たわる「死」は、その生命が活動を終えたという事実を否応なしに突き付けてくる。残されたものは、それを受け止めるしかない。そうして徐々に喪失を受け入れていくのだ。

 では、居なくなってしまった晃の「死」はどこにあるのだろう。

 私はどうやって喪失を受け入れればいいのだろう。

 

 葬儀と諸々の後処理の為に、私は久しぶりに生まれた家へと戻った。長らく誰も使っていなかった家屋からは人の気配が抜け落ち、ひっそりとした雰囲気が漂っていた。母の遺品の整理を始める前に、私は以前使っていた二階の自室に向かってみた。私が家を出てからも、母は二階の部屋には一切手を付けず、そのままにしていたようだった。


 ベッドに腰掛け、部屋の中をぐるりと見渡した。幼少のころから高校を卒業するまで、私はここで生活していたのだ。視界に入るのは懐かしいものばかりだった。当時ハマっていた漫画や小説に、小中高の卒業アルバム。それらを手に取り、パラパラとページを捲っていると、不意に、押し入れの方からカラン、という音が聴こえてきた。硬い金属で出来た何かが転がったような音だった。

 押し入れの戸を開き、音のした方に目を向ける。すると、奥に突っ込まれた四角いクッキーの缶が目についた。側面のいたるところにシールが貼られてある。見覚えがあった。昔、気に入った品々を集めて仕舞い込んでいた箱だ。子供の頃の私にとって、それは大切な宝箱だった。

 懐かしい気持ちで胸がいっぱいになる。上蓋のところに目をやると、そこには幼い私の文字で「みさのたからばこ。かってにあけてはならない」と書かれたシールが、まるで封をするように貼られてあった。子供なりのセキュリティということだろう。よくやるなぁ、と自分のことながら感心しつつ、私はそのシールをゆっくりと剥がし、蓋を開けてみた。


 箱には、おもちゃのビーズや、キャラクターのシールが詰め込まれていた。他愛のないものばかりだが、子供の私にとっては大切な宝物だったのだ。おぼろげながら、なんとなくその気持ちを覚えている。過去に思いを馳せながら、大切に仕舞われていたそれらを一つずつ眺めていると、大量のシールの束で隠れた奥底の方に、ひときわ異彩を放っている存在に気が付いた。

 それは黒く変色した金属のペンダントだった。素材は銀だろうか。子供のおもちゃにしては少し大人びているように思えた。三日月の形をしたトップの造形には、確かに見覚えがあった。指で触れて表面を拭い、ペンダントを裏返してみる。そこに刻み込まれていたのは、二文字のアルファベットと、八桁の数列だった。


 イタリック体の文字で彫ったAとM。

 晃と、美沙。

 その頭文字。

 瞬間、私は息を呑んだ。

 まさか。これが、こんな場所にあるはずがない。

 何度も目を擦り、手で触りながら確かめた。

 けれど、間違いなかった。そこにあったのは、あの日、逆さに雨が降る湖に落としてしまったはずの、私のペンダントだった。随分と劣化しているようだが、見間違えるはずがない。イニシャルの下に刻まれた数列は、二人が交際を始めた記念日を示していた。


 どうしてこのペンダントが、私が子供の頃に使っていたおもちゃ箱に入っているのだろう。誰かがここに隠したのだろうか。だとしたら何の目的があるというのか。そもそも、宝箱には拙いながらも確かに封がなされていたのだ。このペンダントは幼い頃の私がここに収めたものに違いない。しかし、子供の私が箱にシールで封を施した二十年以上前には、このペンダント自体が、まだ作られていなかったはずなのだ。

 考えれば考えるほどに混乱していく。

 けれど、困惑する理性とは別の部分で、私の心は激しく揺さぶられていた。

 無くしてしまった晃との思い出の品が、どういった形であれ、私の手元に帰ってきたのだ。見失っていた拠り所を、もう一度、手にいれたような感覚だった。

 掌でそっとペンダントを包み込み、胸の前でぎゅっと握りしめてみる。するとどことなく、ペンダントの発した温度がじんわりと伝わってくるような感じがした。不思議なことに、そうしていると、先程までは頭の中に存在していなかった、このペンダントを拾った時の記憶が、どこからか湧き上がってくるのだった。

 

 それは、ある夏の夕刻の事だった。

 小学生の私は、習字教室から帰る途中で激しい夕立に降られ、商店街の途中で雨宿りを余儀なくされていた。空き店舗の庇の影に隠れて濡れた服の裾を絞っていると、カツン、と何かが落ちたような音が聞こえてきた。私は上空を見上げたが、そこにはただ分厚い雲だけが浮かんでいるだけだった。視線を落とし、音のした方に目を凝らすと、そこには月の形をした銀色のペンダントが転がっていた。私はその天からの落とし物をいたく気に入り、親にも内緒で自室へと持ち帰ったのだ。


 記憶は鮮明だった。ペンダントを箱にしまった瞬間の記憶すら、現時点の私にはしっかりと思い出すことができる。しかし先程までは確かに、これらの記憶の全てを忘れていた。

 いや、私は本当に忘れていたのだろうか。

 過去の人生に存在しなかった別の記憶が、今この瞬間に、無理やり付け足されているような気がしていた。ここにペンダントがある、という事実と一致するように、大きな力を持つ何者かが、私の頭の中の辻褄を合わせているのではないかと疑えてしまうぐらいに。

 

「だからな、美沙の落としたペンダントも、いつか逆雨と一緒になって、どこかの街に降ってくるのかもしれんで」


 晃が言っていたことが、頭の中でふと繰り返される。

 逆さに降る雨に巻き込まれて空へと昇って行った物質が、いつか別の場所で降るのだという、怪雨という現象。

 もしその怪雨が降る「いつか」が、場所だけでなく、時間すらも飛び越えるのだとしたら。

 逆さに降る雨が、時の流れすらも逆さに昇っていくのだとしたら。


 (晃がいる所に、その時間に、遡っていけるのかもしれない)


 そんな考えが頭をよぎった。ごくり、と唾を飲み込む。私は皮肉めいた笑みを浮かべた。

 馬鹿馬鹿しい。そんな事、起きるはずがない。宝箱の缶を元へと戻し、私は立ち上がった。


 月明かりが路地を照らしている。

 辺りは妙に静かだった。

 母の家から駅へと向かう帰り道の途中、私は異変に気が付いた。


 霧だ。どこからか白い靄が漂っている。この辺りでは珍しいことだった。日中はずっと晴れていた筈だが、陽が落ちて、辺りの空気が変わったのだろうか。そんなことを考えている間に、周囲はあっという間に白く覆われていった。急にうすら寒くなった大気に鳥肌が立つ。帰りを急いだほうがいいかもしれない。そう思って私は歩くスピードを速めたが、いっこうに駅へとたどり着かなかった。気づけば、見覚えのない場所にいる。道を間違えてしまっただろうか。案じて立ち止まった、その時だった。


 眼前に、見覚えのある光景が広がっていた。

 波の一つも無い、凪いだ水面。

 這うように漂う白い靄。

 あの湖と、同じだった。

 こんな場所が、実家の近くにあっただろうか。

 いや、そんな筈はない。

 こんなに大きい湖があることを、これまで知らずに過ごしてきたわけがない。

 その時、ぽつん、と水滴が肌を伝った。

 雨が降ってきたのかと思い、私は顔を上げた。けれど夜空に雲は出ていなかった。濃紺の澄んだ闇の中に、丸い月だけがくっきりと浮かんでいる。

 その白い光に反射し、何かが空中で煌めいた。

 私は目を凝らす。それは絹糸のような水滴だった。

 逆さに降る雨。

 晃と見た程の大きな規模ではない。だが確かにあの日の光景にとてもよく似ている。

 私は、上着のポケットにしまっていた月の形のペンダントを強く握りしめた。

 偶然だろうか。

 それにしては、出来すぎている。

 むしろ、これまでの全てがこの為にあったのではないだろうかと思えてしまうほどに。

 

 重力に反し、水滴は空へと昇っていく。

 音も無く、時すらも遡っていく。

 手の中に握った銀のペンダントが、じんわりと熱を発し始めていた。

 そうだ。私は行きたい。

 たとえそれが、私の知るあなたではなくても。

 異なる時の流れの中にあったとしても。

 晃。

 私は、あなたに会いたい。

 ゆっくりとした足取りで私はその岸辺に立ち、そして強く願った。

 遡って。

 連れて行って。

 私を、彼のいる時間へと。

 水面に向け、歩を進める。

 ぴちゃん、と水が跳ね、足元を濡らす。

 私は深く息を吸い、そして短く吐いた。

 やがて、冷たい水と果てしない静寂が、私の身体を包み込んだ。

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― 新着の感想 ―
最愛の人を失った喪失感と彼との思い出の品が時を超えて戻ってくるという奇妙な現象が、とても丁寧に描かれていて引き込まれました。逆さに降る雨の描写が幻想的で美しく、それが過去への扉となる可能性を示唆する展…
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