【7】怖いよ
『怖い……怖いよ……』
重苦しい闇の中、小さく蹲る背中が見えた。自分を守るように肩を抱き、小刻みに震えている。
「何が怖いと言うのだね。この私がいるではないか」
押し潰してしまわぬよう、指先で優しく肩に触れる。それでも、小さな背中は震えていた。
『ねえ、王様……。僕は、なんの価値もない存在なんだ』
「私はそうは思わない。この私を呼んだのだからな」
自信を湛えた言葉に対し、弱々しい声が続ける。
『僕は、王様がいなかったら何もできない』
「それは間違いではない。だが、お前はただの傀儡ではない」
同じように小さな体であったなら、肩を抱いてやることもできただろう。この大きさでは、簡単に壊してしまう。
「傀儡の王スクリプトールよ。怯える必要はない。私に不可能なことなどないのだから」
こちらを振り返ると、見つめる瞳には不安が湛えられている。それでも、その必要はないとわかっているはずだ。
「お前の望みは叶う。このエヴム・イモータリスに任せておれ」
背伸びをして抱き締めた小さな体が、風に呑まれるようにほろほろと崩れて消えていく。
『ありがとう、王様……』
穏やかな声が暗闇に溶ける。そうして暗闇は消える。もうここに居る必要はない。
いまは、黎明の中に生きているのだから。
* * *
小鳥の囀りで目覚める朝は気持ちが良い。この傀儡の体が睡眠を取る仕組みになっているのは、寝ているあいだにぜんまいを巻く必要があるからだろう。それに加え、睡眠を取ることができなければ、人間と同じ扱いにはできない。食事を取ることもできるらしい。王室はスクリプトールを完璧に人間として育て、捨て駒にする時を待っていたのだ。
手早く着替えを済ませて寝室を出ると、何かの匂いを感じ取った。仮面によって手に入れた顔は、嗅覚もあるようだった。
なんの匂いかと考えながらリビングへ出る。申し訳程度に用意されたキッチンで、ラプトールが料理をしていた。
「おはようございます、陛下」
「おはよう。食事を作っているのか」
「はい。民がお礼にと持って来てくれた食材を余らせておくのももったいないと思いまして」
畑はまだ完全には復活していないが、枯れた泉が畑を湿らせていたときの作物を収穫していた。その中でも出来の良い物を分けてくれたのだ。人間は感謝の意を贈り物で示すことがある。ルーメンの民も例に漏れないようだ。
「お前は食事が必要なのか?」
「必要はありません。ただ、味覚はあるようです」
「なるほどな」
「陛下もそのお顔を手に入れたのですから、味覚があるのでは?」
「ふむ……」
曖昧に頷きつつ、アルクスは椅子に腰を下ろす。スクリプトールは人間として扱われていた。傀儡の体に味覚はないが、同じように人間の顔を持っていた頃は食事を取っていただろう。スクリプトールがそれに不自然さを感じていなかったのであれば、人間の顔があれば味覚を感じることもあるのかもしれない。
ラプトールがテーブルに並べた料理は、人間だった頃に食べていた物とよく似ている。魔王だった頃の食事とは違うのだが。
躊躇わずに料理を口にすると、舌は確かに味覚を感じ取った。
「なるほど。味覚がある」
「これで食を楽しめますね」
食は娯楽のひとつとも言える。この豊かな味覚が、人間を楽しませるのだ。魔王だった頃はただ腹を満たすことができればそれでよかったため、食を楽しもうという気はなかった。
「それにしても、お前は料理が上手いのだな。知らなかったよ」
「騎士団長になる前は自分で料理をしていました。趣味のようなものです」
「なるほどな」
魔族は人間ほど食事を欲することはない。それでも、生命を維持するためには必要だった。だが、魔王は食事を必要としない。魔力があれば死ぬことはないからだ。人間と同じ料理を口にしたのは久々だった。
食事を始めてしばらく、玄関扉を叩く軽快なノックが聞こえてきた。
「おはようございまーす! マークちゃんです!」
家中に通りそうなほど明るい声とともにマークがドアを開く。朝から元気のようだった。
「おはよう、マーク」
「あれっ、王様は食事ができたんですか?」
「胃のような器官はあるようだ」
飲み込んだ料理は胃のような器官に収納されるらしい。消化できるのかは知らないが、人間と同じような仕組みはあるのかもしれない。
「それならよかったです。街に行っていた兄がお土産を買って来てくれたので、お裾分けに来たんです」
マークは白い箱をテーブルに置く。その中身は、フルーツで色とりどりに飾られたタルトだった。
「街の大人気店のスイーツです!」
「ほう。甘未は好きだ」
魔王は食事を必要としていなかったが、人間だった頃の感覚の名残で、甘味を口にすることは度々あった。甘味好きだと知った部下が用意してくれたものだ。
「街に行ったのであれば、王国の情報が欲しいところだ」
この小さな村では、村の外の情報を得ることができない。街から帰って来た者は重要な情報源だった。しかし、マークは腕を組み首を捻る。
「うーん……兄は村の現状を知りません。王様に協力してくれるかどうか……」
「その辺りはお前に任せる。説明してもいいし、しなくてもいい」
「はい。なんとか話して――……」
不意に、マークの体がぐらりと揺れた。マークはテーブルに手をつき、倒れるのを免れる。
「あ、あれ……眩暈かな……」
「大丈夫か? 大事になる前にイヴに治癒してもらえ」
「はい、そうします。では、また後ほど!」
また元気な笑みに戻り、マークは去って行く。その後ろ姿を見送り、ふむ、とアルクスは顎に手を当てた。
「何か気になることがおありになるのですか?」
首を傾げるラプトールに、アルクスは薄く笑って見せる。
「数日中に、小さな事件が起きるかもしれないな」
「事件が起きているのは昨日も一昨日もそうですよ」
ラプトールは爽やかに微笑む。確かにその通りだと、アルクスは小さく頷いた。
「ところで、お前は亡霊王なのに人間と同じような身体があるのはズルいぞ」
「これは陛下との契約がもたらした進化です」
ラプトールは鎧を脱ぎ質素な服装になったが、その体は人間と同じように見える。亡霊の騎士であるラプトールがその身体を有しているのは、進化に違いなかった。
「あの五人も何かしらに進化するのだろうか」
「可能性としてはあり得ますが……人間は進化しづらい種族です」
「そうなのか」
「はい。人間は進化の結果ですから。せいぜい能力値が上がる程度のものだと思います」
「ふむ。まあ、人間の中でも爆発的になるだろうな」
魔王の配下には、魔王と従属契約した者もあった。ただそれだけのことで能力値は制限なく伸び、他種族に負けるようなことはなくなる。人間であっても、同じような効力を得ることもできるだろう。
食事を終えて村に出ると、アルクスとラプトールは畑の様子を見に行った。民が丁寧に手入れをする畑は充分に潤い、着実に復活への道を辿っていた。
「王様!」
明るい声がかけられる。ふたりのもとに子どもたちが駆け寄って来た。
「見て! 新しい芽が出たんだ!」
子どもに手を引かれ、村の中央の畑を覗き込む。あまり状態のよくない苗のそばに、色の濃い新鮮な芽が顔を出していた。
「良い調子だ。しかし、この貧しい土地にしては農作物がよくできていたな」
「貧しい土地でも育つ農作物の苗をウォーカーが作ってくれたからね」
畑のそばで休憩する農夫が言う。この数日で、民の血色もだいぶ良くなった。
「ほう。研究というものは素晴らしい」
「お褒めに預かり光栄だわ」
穏やかに言いつつ、ウォーカーが歩み寄って来る。ウォーカーは王都の研究所に所属していたことがあり、その頃に生み出した苗だったのだろう。
「ウォーカーは昔から研究バカだったからな」
続いて顔を出したホープが、悪戯っぽく言った。
「ただの馬鹿のあんたに言われたくないわ」
「腹立つな」
ホープの後ろでイヴとハンターがくすりと笑う。こういったやり取りはいつものことのようだ。
「王様」イヴが言う。「この村の病気の者はすべて治癒が完了しました」
「そうか。それは何よりだ。ルーメンは健康長寿の村になるだろうな」
イヴはほとんどの病気を治癒することができる。この村では疫病すら意味を成さなくなり、どこの村よりも健康な民で溢れるようになるはずだ。
「マークが来ただろう? 眩暈がすると言っていた」
「はい。来ましたが、特に病気ということではありませんでした。疲れているのかもしれません」
「そうか」
イヴの治癒の魔法は、疲労には効果を発揮しない。あくまで病にのみ効力を持つ魔法なのだ。疲労を溜めた結果の病であるなら、疲労ごと回復することができるだろう。
そこへ、明るい声がかけられる。眩暈のことなどすっかり忘れたような笑顔で歩み寄って来るのはマークだった。その隣に、見慣れない茶髪の青年の姿がある。
「兄のトマスです」
マークに紹介された青年――トマスは、小さく辞儀をして見せた。
「どうも。村が一変していたので驚きましたよ」
トマスはアルクスに微笑みかける。ルーメンの新しい王となったアルクスのことはマークから聞いているようだ。
「街はどんな状況だ?」
「ダフニス王の暗殺未遂があったらしい。隣国の軍が攻め込んだそうです」
ソル・フォルマ王国は、聖騎士星団と呼ばれる騎士隊と、宮廷魔法使いで構成される魔法隊が壊滅している。小国への進軍の隙を狙われたのだ。その点において、ダフニス王は愚かであったと言わざるを得ない。
「その際に、国境付近の村や町が破壊されました。王宮も壊滅状態という噂です」
「その後のダフニス王は?」
「王宮の騎士隊と魔法隊を再結成するため、徴兵を始めています。腕に覚えのある者からない者まで、王都とその周辺の町や村から兵が集められています」
「なぜあんたは徴兵されなかったんだ?」
怪訝な表情のホープに、トマスは軽く肩をすくめる。
「徴兵の通達が来る前に逃げて来たんだ。ここなら指令も届かない」
農村であるルーメンに徴兵の通達が来ても、まともな兵力にはならない。その指令は意味を成さなかったことだろう。
「となると、この国は隣国との戦争になるようだな」
「そうなるでしょう。戦火はこの村にも届くかもしれません」
「それはない。この私がいるのだからな」
自信とともに言うアルクスに、従属たちは同意するように頷く。この村に降りかかる火の粉は、アルクスの前では村に届く前に塵と化すことだろう。
「この村を知れば」と、ウォーカー。「巻き込まれた民が逃げて来るかもしれないわ」
「ふむ。では、そのためにこの村の領地を広げるとしよう」
ルーメンはさほど大きな村ではない。その代わり、暗い森に囲まれている。森を切り拓けば、村の領地を拡大することができるはずだ。
「動ける民を集めてくれ。森を切り拓いて家を建てる」
「森には魔獣がいる」ホープが言う。「力のない民には危険だ」
「そうか。だが、狩ってしまえば問題ないな」
魔獣のほとんどは大した力を持たない。それも、魔王から見れば、なのだが。
「森を切り拓く者の他に、戦える民を同行させる。民の中から選抜するように」
健康を取り戻した民の中には、戦力となり得る者もいるだろう。民にさらなる活力を与えることができる。アルクスはそう確信していた。
「ついでに、お前たちも戦闘の訓練に行くか。お前たちにも武器を用意してやる」
ウォーカーは、アルクスの仮面を村の技工士と用意したと言っていた。この精度の高い仮面を作れたのなら、武器を作るくらいならさほど難しいことではないだろう。