【6】天災
次にイヴが訪れたのは、すでに足が動かなくなった男性のもとだった。男性の顔色は暗い。足が使えなくては畑仕事ができず、次第に体は弱っていき、そうして生気の失われた表情をしているのだ。
イヴが病気の患者を治癒して回っていることは、すでに民のあいだで話題になっていた。民は畑仕事を放り出して、七人のあとに付いて来る。その中には、軽症の患者も何人かいるようだった。
イヴの治癒の魔法は安定し、温かく患者を癒す。その光は、滞っていた血流を再起するように体を伝う。心地の良い魔力が男性を包み、体の斑点が消える。そうして、男性の足は自分の意思を取り戻していた。
「ありがとう、イヴ……本当にありがとう……!」
男性はイヴの手を取り、歓喜の涙を流す。イヴの表情から不安の色は消え、誇りが湛えられていた。
「他の人たちも助けてやってくれ。これで私たちは、また生きていくことができる」
「はい。必ず」
畑が蘇っても、体が自由を失っていては意味がない。農村であるルーメンの民は、畑仕事をしてこそ生きる意義を見出せる。病気が進行し、この生を終える日を待つだけだった民にとって、イヴの治癒はまさに希望であった。
重症患者の家を回り、自由を失った民を治癒し終えると、ホープの家の前に軽症患者が集められた。この先、手足が動かなくなる日を恐怖とともにただ待つだけだった民は列を成し、斑点の消えた腕を見て生気を取り戻していく。ルーメンの民にとっての黎明は、まだ始まったばかりであった。
イヴが民を治癒し感謝の言葉を受け取っているあいだ、その光景を眺めるホープが言った。
「ここにいる民の病気は治っても、また病気になる民がいるんじゃないか?」
「呆れた。人の話を聞いていなかったのか」
目を細めるアルクスに、ホープは少し眉根を寄せて首を傾げる。
「病原体は泉の水に含まれていた。その泉を蘇らせたのは、他でもないお前だろう」
「ああ、そうだったな」
「この先、この村の民は誰よりも健康になるだろうな」
ルーメンの病は、すべてイヴの治癒の魔法が癒す。魔力回路を開放したイヴに制限はない。いくら病に罹ろうとも、この村の民が苦しむことはなくなるだろう。
「でも」ウォーカーが言う。「この力を知れば、きっと王国が放っておかないわ」
「だからなんだね」アルクスは不敵に微笑んで見せる。「この村は私の国だ。王国はいずれ、この村の存在を無視できなくなる。そうであったとしても問題はない」
いまはまだ、この小さな村で確変が起きていることにソル・フォルマ王国が気付くはずはない。王国に影響を及ぼすには、ルーメンはあまりに小さすぎる。しかし、それもいまのうち。ルーメンはこの先、どの村よりも発展し、いずれ王国に発見される。そのとき、アルクスはルーメンの王として刮目すべき存在となっていることだろう。
「私の目的は、この哀れな傀儡の望みを叶えること。この国は無事では済まないだろうな」
「……スクリプトールは、王室を恨んでいるんですね」
マークが呟くように言う。アルクスの従属となった彼らは、世界王が企てたダフニス王の計画も、スクリプトールが王室に利用されたことも、アルクスがなんのためにスクリプトールの体に宿ったかも、すべて知っている。もちろん、アルクスの目的も。
「その恨みが私を呼んだのだよ。ソル・フォルマ王国には、私の腹癒せに付き合ってもらうよ」
「僕たちはそのための兵ですか」
静かに言うハンターに、アルクスは軽く肩をすくめる。
「それは好きにしてくれ。すべての力を取り戻せば、私ひとりだけで国を滅ぼすことはそう難しいことではなくなる」
「……いまさら引き返せないだろ」
歓喜の涙を流す民を眺めながら、ホープが確かめるように言った。
「俺たちはあんたの手となり足となる。自由に使え」
「良い覚悟だ。賢い者は好きだ」
アルクスが彼らを従属としたことは、きっと間違ったことではない。それを証明できる日は遠くない。アルクスにはそれだけの確信があった。
「あのっ、マークちゃんの能力はなんなんですか?」
「僕は⁉」
マークとハンターが身を乗り出す。アルクスはすでにふたりの能力を把握しているが、いまはまだ開放の時ではない。
「それは来る日の楽しみに取っておくといい」
「ええ~っ! 気になる~!」
彼らの能力もいずれルーメンの民を救う。その確信だけでアルクスにとっては充分だった。
* * *
イヴの治癒が次々と民の病を消していく中、アルクスは遠巻きにそれを眺めていた。希望に満ちた民の顔。眩いほどに輝く表情は、ルーメンに光をもたらしていた。
ふ、と小さく笑いが漏れる。ラプトールが不思議そうに振り向くので、アルクスは目を細めて微笑んだ。
「ラプトールよ。この光景を壊してやりたくないかね」
そんな衝動が湧き上がる。希望のあとの絶望は、アルクスにとって養分となる。いまこの場を破壊すれば、アルクスには満たされることがある。
ラプトールは目を伏せ、恭しく辞儀をする。
「それが王の御心であれば」
アルクスの気が向けば、ルーメンほど小さい村であれば一瞬で焦土と化すだろう。民の笑みも失われることになる。ルーメンの希望は、瞬きのあいだに消える。アルクスにとってそれは簡単なことだった。
「いまはやめておこう。私には民が必要だ。水を差すのもつまらん」
肩をすくめるアルクスに、ラプトールは小さく頷いた。
「しばらくは面倒を見てやるおつもりなのでしょう?」
「彼らが私を王と仰ぐのであればな」
そうでない者の面倒を見てやるほど、アルクスは親切ではない。ルーメンの民がアルクスを王と仰ぐこと。それが必要不可欠だった。
「何より、スクリプトールが悲しむことをわざわざする必要もない」
「スクリプトールはこの光景を見えているんですか?」
「私の目を介して見ているだろう。スクリプトールは生きている。この体から追い出されても敵わん」
アルクスとスクリプトールは、まったく正反対の性質にある。生を守るための存在であったスクリプトールに対し、アルクスは天災なのだ。
「追い出されることはないのでは? スクリプトールは復讐の望んでいるのですから。もうスクリプトールに敵う者はいないんですよ」
真剣な表情で言うラプトールに、アルクスは小さく笑う。
「買い被りかもしれんぞ」
「心にもないことを」
アルクスは肩をすくめる。ラプトールはアルクスのことをよく理解している。アルクスが心にもないことを言っているのは確かだった。この衝動は、まだしばらくはお預けを食うことになるだろう。
* * *
イヴがすべての患者を治癒し終える頃には、すでに日が暮れていた。アルクスとラプトールはひと足先に家へ引き上げ、一日の余暇を過ごす。ふたりの家は日中のうちに民によって掃除が施され、昨日よりも清潔になっていた。荒れた家のままでもアルクスとラプトールにはまったく問題なかったが、ルーメンの民は王に汚い家で過ごさせることを良しとしなかった。アルクスとしては、それを拒む理由はない。この家はいずれ、ルーメンの中で最も綺麗な家になるだろう。
ラプトールの淹れたお茶を共に本を読んでいると、玄関扉が静かにノックされた。失礼します、と穏やかな声が聞こえる。ドアを開けたのはイヴだった。
「夜分遅くに失礼いたします」
「やあ、イヴ。今日は大活躍だったな」
「恐れ入ります」
イヴの表情は晴れやかで、民を救ったことに喜びを感じているようだった。
「私は、ただの風邪しか治せない自分の能力を呪ったこともあります。アルクス王陛下には、感謝してもしきれません」
「お前はこの先、すべての民の命を救うことになるだろうな」
「はい。この村の民は、お金を貯めて私に教育を受ける機会を与えてくれたのです」
作物を外に売り出すことができなくなったルーメンでは、民が貧しさで困窮していたことだろう。満足な教育を受けることはできない。その中で、イヴひとりだけでも教育を受けさせることは楽なことではなかったはずだ。イヴはきっと、勤勉さでそれに応えたことだろう。
「私は、ずっと恩返しをしたいと思っていました。アルクス王陛下は、その機会を私にお与えくださったのです」
「そうだな。せいぜい民のために、私の役に立ってくれ」
「はい」
頷いたイヴは、アルクスの前に跪き、深く頭を下げる。王に対する最大の礼だ。
「どうか、私の忠誠をお受け取りください」
「いいだろう。それに見合うだけの働きを期待している」
「はい。きっとご期待に応えてご覧に入れます」
イヴは丁寧に辞儀をし、また礼を言って去って行く。民を救うという誇りのもと、彼女は胸を張っていた。
「しかし、こんな小さな村に秘めた力を持つ者がいるとは」
ラプトールがしみじみと呟く。ジーグが言っていた通り、五人の魔法力は首都の子どもより低かった。魔力回路は閉ざされたままで、その能力を充分に発揮できていなかったのだ。
「どこにだってそういった存在はいる。発見されていないだけさ」
アルクスが行き着いたのがルーメンでなくとも、隠された能力を持つ者はいただろう。アルクスはたまたまルーメンに降り立っただけで、あの五人と出会ったのもたまたまだ。
「この村の民は運が良い。この私を、最強の剣を手に入れたのだからな」
「最強の剣は私でありたいですね。王をお守りするためにも」
「そうだな。期待しているよ」
アルクスの期待は軽くない。それでも、アルクスを王と仰ぐ者たちは終生、それに応え続けることだろう。そうして、ルーメンは民の想像以上の発展を遂げる。アルクスには、すでにその未来が見えていた。