第38話:バディ①
あれからしばらく、ぶっ倒れてたらしい。
颯爽と研究所をあとにし、帰りのバスに乗ったはいいものの、最寄りのバス停に着く前に意識を失ってしまった。
あとで聞いた話によると、バスの運転手さんが血だらけの俺を見つけて度肝を抜かし、緊急搬送されたらしい。本当に申し訳ない。
自分でも、バカな事をしたと思う。
気持ちが昂っていたから、ってのはあるけれど、冷静になって考えてみると、脳に障害を負ってもおかしくないほどの無謀な行為だ。
意識を取り戻した俺は、医者からけっこうガチ目に叱られた。大人になってから、大人に理詰めで叱られるのは、なんだか心にくるものがある……。
言わずもがなだけど、無価値者はクビになった。
調査に赴いたところで、記憶の抽出が不可能なのだから当然といえば当然だ。目を覚ましたら、会社支給のデバイスや社員証などの諸々は取り上げられていて、ベッドの上でよくわからない書類を書かされるハメになった。
あれから、サクラコ先生からの接触はない。
作品を取り出せなくなった俺に、もう興味はないのかもしれない。もしかしたら、俺のような人材を他にも複数人確保していたのかもしれないし、新たな人材を探し始めたのかもしれない。
今となってはどうでもいい。
ただ願わくば……今度は自分の言葉で、自分の感情を、自分の作品として創造してくれれば、と思う。
会社支給のデバイスを失った事で、アオイとの連絡手段は完全に断たれてしまった。
心残りがないかといえば嘘になる。
でも、このモヤモヤと漂う迷いの糸を断ち切るには、むしろ好都合だったかもしれない。
もし手元にアオイと繋がれる手段があれば、俺はきっと、彼女に連絡をとってしまうだろう。そして、大切な人を失い傷ついた彼女に、的外れな慰めの言葉をかけているかもしれない。
喪失を癒せるのは時間だけだ。
俺はそれを母さんの死で実感した。
あの頃の俺に、会社の同僚――それ以上でもそれ以下でもない存在が、必死に慰めの言葉をかけたとて、きっと心には響かなかっただろう。
むしろ苛立ちすら覚えたに違いない。
俺から発せられる言葉など、きっとその程度のものだ。
それに、アオイは強い。
それは秘めた――今となっては崩れてしまった――夢があっての事だったのかもしれないが、苦境に立たされながらも前を向いて生きてきた彼女の日々は、彼女の両足の下に太く強い根を育んだに違いない。
虚構の支えがなくとも、伸び続けられる程に。
この数年間、彼女を近くで見てきた俺にはわかる。
そしていつか、誰かと出会い、その人の肩にもたれる日がくる。
でもそれは俺じゃない。
その事実は、これから長い時間をかけて、キチンと納得していかなきゃならないんだろうな。
退院の準備を済ませる。
そもそも、着の身着のまま運ばれてきたのだから、持ち帰るものなど何もない。
頭部のソケットと携帯デバイスを失い、頭に巻かれた包帯を手に入れた、それくらいの差し引きだ。
担当の医師と、世話になった看護師に挨拶をして「もう二度とバカな真似はしないでくださいね」と釘を刺されながら、トボトボと病院を後にする。
二週間ぶりの外の空気が美味い。
* * *
久しぶりに帰ったアパートは、濁って淀んだ空気が漂っていて、自分の部屋じゃないような奇妙な匂いがした。
しかし、部屋の隅に置かれた描きかけの絵を見る限り、ここは俺の部屋で間違いない。
アオイからの電話を受けて家を飛び出してから、この部屋の時間は止まったままだ。
あの瞬間から色んな事が変わってしまった。
俺は無価値者ではなくなったし、全身は傷だらけになったし、この絵の片隅に描いた女性とは、もう二度と会えなくなった。
でも、落ち込んでたって何も始まらない。
部屋の窓を全開にすると、冷たい冬の空気が流れ込む。部屋の隅で固まっていた時間達が、風によって舞い上がり、動き出す。
絵の前に立ち、その全体像を眺めた。
『これでいい』
そう思って妥協していた部分にも、より良い表現が朧げながら浮かんでくる。ここ数日の出来事が、俺の感性を少しだけ塗り替えたのだろうか。
結局のところ、俺はこの絵に対する未練のおかげで、再びこの部屋に戻ってくる事ができた。
光の都の景色の片隅、こちらを向いて微笑むアオイの表情を見つめ、俺はその頬に指先で触れた。
それは、カサカサで、冷たい。
その時、玄関で音がした。
薄っぺらなドアを叩く音。
アオイ――
俺の脳内がその一色に染まる。
来るはずないとわかっている。
でも、それを期待してしまう自分は、やっぱりどこまでいっても弱い人間だ。
動線上に放り投げていた荷物を蹴飛ばし、俺は玄関へ走った。
ドアを開け――
そこにはカメさんと、カメさんの彼女が立っていた。
「なんだ……」
ついつい、俺は呟いてしまう。
「なんだとはなんだよ。長い間留守にしてたっぽいから、心配して来てやったのに」
カメさんの彼女が唇を尖らせる。
「いや、ちょっと色々あって。すみません」
「ていうか、包帯!」
今更、俺の頭に巻いた包帯を見て、彼女さんは片手を口に当てる。
「頭をちょっと怪我しまして。包帯の内側は丸坊主ですよ」
自重気味に笑って見せる。
「うわぁ、見たい」
「今度見せますよ」
そう言って俺は包帯の端を指先で摘む。
「ソラトくん、アオイちゃんと喧嘩でもしたのかい?」
それまで神妙な顔で黙っていたカメさんが、口を開く。
喧嘩をしたわけじゃないが、無価値者を辞めた事で、アオイとの繋がりは消えてしまった。その顛末を説明するには、玄関先の立ち話じゃ間に合わない気がする。
「そういうわけじゃないんですけど……。詳しい説明は、今夜飲みながらでもどうですか?」
「それは、かまわないけど……」
カメさんは頷き、逡巡すると、口を開く。
「ソラトくんが帰ってくる少し前に、アオイちゃんが家に来たんだよ」
「へ?」
俺は変な声を出してしまう。
「今日だけじゃない。昨日も、その前も。ひどく焦った様子で『ソラト知らない?』ってさ。怪我をしてるみたいで、足を引きずってたよ」
「アオイが――」
驚きで言葉が出ない。
なぜ、俺を……?
「2人の間に何があったかわからないから、ソラトくんに言うべきか迷ったけれど……アオイちゃんの名前を出した時の表情で、言うべきだと確信した。ゆっくり歩いてたから、まだ遠くまでは行ってないと思うけど――」
俺は、走り出そうとする心に戸惑う。このまま足を踏み出すべきか、止まるべきか。
アオイが何のために俺を探しているのかわからない。でも、もしかしたら――
「カメさん」
「ん?」
「俺から誘って申し訳ないんですけど、今日の飲み、明日でいいっすか?」
「ん、僕達はかまわないよ。残念ながら、暇なんだ」
満足そうにカメさんは頷く。
「行ってこいよ、ソラト」
カメさんの彼女が、拳を突き出して俺の胸を小突く。しこたま殴られて出来たアザに当たって、めちゃくちゃ痛い。
でも、そんなのどうでもいい。
2人を押し除けて、俺は走り出した。
* * *
二週間近い入院生活で、俺の体力は極限まで衰えていた。
少し走っただけで息切れがする。
ガイコツのダンスみたいにへにゃへにゃしながら、俺はアオイを探して走った。
まだ近くにいると言っていたけど、何処にいるかなんてわかるわけがない。
ただ、もし俺がアオイだったら、きっと行き慣れたあそこに向かうだろう。今日は月曜日。ハンバーグ定食のハンバーグが2割増量される日だ。
これで当たっていたら、笑える。
俺はどんだけ、アオイの行動原理を理解してるんだよ。
いつも調査の打ち合わせをしているファミレス。ガラス窓から、店の中の様子を伺う。
若いカップル、家族連れ、仕事休憩らしき男。まだ夕食前なので人はまばらだが、アオイらしき小柄な女性の姿はない。
「だよなぁ」
つい独り言をこぼしてしまう。
これでアオイを見つけられたら、それこそ奇跡――
「ソラト?」
細く、高い声。
聞き慣れた、でもすごく懐かしい声。
ガラス窓に、ダボダボのパーカーを着た小柄な女性のシルエットが映り込む。
アオイ――
俺は喜びでニヤける顔を隠せぬまま、振り向く。
そして、後悔した。
松葉杖をついて疲れた顔のアオイの目は、冷たく輝いていた。小さな唇は硬く窄められ、鼻がぴくぴく動いている。
これはアレだ。
アオイがガチでキレている時の表情だ。
ニヤけてしまった顔を補正する暇もなく、アオイの悪態が飛ぶ。
「なに、笑ってんだよ」
「あ、あの……」
「店、いくぞ。奢れよ、バカソラト」
「はい……」
お互いがお互いを探している状況とはいえ、その感情がシンクロしているとは限らない。
俺は小さく縮こまりながら、店内へと連行された。




