第37話:俺が創るべき作品
俺はなぜ、絵を描いているのだろう。
考えれば考えるほど、深みに嵌っていく。
誰かと競いう合う事が苦手だった自分が、唯一の逃げ道として始めた『絵を描く』という行為。誰と比べられる事もなかったが、勝利の高揚も敗北の失望もない世界が、とても心地よかった。
しかし、自分だけの世界は広がり続ける。いつしか俺は、誰かの目に留まることを望んでいた。自分の内面を隠し続けた日々の果て、俺は絵によって、他者とコミュニケーションを図ろうとした。
俺の描いた『黒い太陽』は、多くの人の目に触れた。しかし、彼らの中に何の感動をもたらす事もなく、壁の落書きのように忘れ去られた。
そして俺は――自分の絵が、自分の感動が、価値を持つことを強く望んだ。キカイが台頭する現代において、一人の人間である俺の感動が、それを凌駕することを目指した。
ミューズに感動を喰わせながら、それで得た金で絵を描き続ける。共生関係にあった寄生生物が、宿主の腹をぶち破って産まれるように、俺はミューズを内側から壊したかった。
俺はずっと自分の感動を認めてほしかった。
そして今、俺は認められたのだろうか?
これが俺が夢見たものなのだろうか?
* * *
「君と、あのバディとの物語は、幕を閉じた」サクラコ先生は力強く頷く。「恐怖に震えながら、彼女のために命をかける、君の激しい感情――それは君の脳に深く刻まれているはずだ。あの瞬間、君と彼女の物語はクライマックスを迎えたんだ」
頭がうまく働かない。
目の前の女の言っている単語が、何を意味しているのかわからない。
「残念ながら、あのバディの女はもう終わりだ。『命の道標』――8年前に話題になった技術だが覚えているかい?――彼女はその実験の被験者なんだ」
そう言って、サクラコ先生はアオイの生い立ちを話す。それは自分が想像する以上に凄惨なものだった。まだ子供だった自分は、そんな実験が行われていたことも知らなかったし、同じ頃アオイが、そんなに壮絶な日々を送っていたことなど知らなかった。
「今彼女は治療を受けているはずだ。『魔法』が解けた者は、押し並べて心に大きなダメージを負う。それは、想像に容易いだろう?」
婚約者の事を思うアオイの、寂しそうな笑顔が脳裏をよぎる。俺は、その場にいてやれない自分に激しい苛立ちを覚えた。
しかし、そんな俺の思考を読んだように、感情のない無機質な声でサクラコ先生は言う。
「的外れな慰めを彼女に押し付けるつもりなら、よした方がいい。大切なものを失い心を壊した人間に、かけてあげられる言葉など、君は持ち合わせていないはずだ」
そして、冷ややかに笑う。
「君にとって彼女は愛する人かもしれない。でも彼女にとって君は……単なる無価値者のバディにすぎないのだから」
頭を殴られたような衝撃で、眩暈がする。
記憶抽出機械の稼働音がやかましく響く。照明の白い光が眩しく、目に突き刺さる。俺を抱いたサクラコ先生の白衣から石鹸の匂いがする。
「絶望、しているかい? その感情も、きっと美しいに違いない」
サクラコ先生は俺の両手を握り、無骨で汚い指を細くしなやかな指で弄ぶ。そしてゆっくり手を引いて、俺を機械へと促した。
「ほら、いつも通り記憶を抽出しよう。それによって、この物語は完成する。このデータは小説や、絵画や、音楽になって、世界中に広がるだろう。君という人間が生み出したものが、世界を席巻するんだ。さて、次はどんな物語がいい? 私なら、どんな物語だって君に提供する事ができる。なんなら、私だって構わない。私が、君と――」
キカイの横に立って、俺は天井を仰いだ。
この椅子にいつも通り座れば、俺が生み出した物語は完結し、俺はこの時代で唯一の『芸術家』になれるのかもしれない。キカイを用いて作品を生み出す、新しい世界の芸術家に……。
それが俺の望みじゃなかったのか?
天井を見上げ――
その白い画用紙には、いつかの『黒い太陽』が浮かんでいた。
* * *
ダメだ。
まだ足りてない。
描きかけの『光の都』の絵。四角く切り取られた世界で、こちらを振り返るアオイを見つめながら、俺はウイスキーで喉を潤す。
ここ数日は外にすら出ていないため、小さな部屋は絵の具と酒と埃の臭いで充満している。はたからは荒廃した風景に映るかもしれないけれど、頭の中で渦巻く様々な感情を体現しているようで、今の俺にはうってつけの空間だ。
ボロボロのソファーへ乱暴に身体を投げ出すと、酒で麻痺した脳で絵を見つめる。
これでいいのかもしれない。
遠目で見れば、そこそこ描けているじゃないか。
これで終いにしよう。
疲れた身体が、固いソファーに沈み込んでいく感覚。そういえば、ここ数日は満足に寝ていない。考えては、直し、また考えては、直し、何度も何度も、無駄とも思える試行を続けてきた。
感情なんて、形のないものだ。それを無理やり形で現すのに、正解なんてあるはずがない。
ここで終わりにしたって、きっと間違いじゃない。
でも――
俺は再び立ち上がり、正面から描きかけの絵を見据える。
そこに辿り着くことは出来なくても、近づく事は出来るはずだ。限りなく、触れるギリギリのところまで、もっと、もっと近くに。
俺の理想の絵へ。
* * *
いつものように、この機械仕掛けの椅子へと座ってしまったら、俺はあの絵の続きを二度と描けないような気がした。
何かを生み出すとき、苦しみや葛藤もまた生まれる。この『ミューズ』という機械仕掛けの神は、そんな苦痛を排除し、俺の頭の中の景色を、より正確に、より緻密に、作品としてアウトプットしてくれるに違いない。
でもそれは、果たして俺の芸術なのだろうか。
苦痛を味わいながら、自分の中にあるものを、時に切り捨て、時に膨張させ、電気信号の戯れを超えた、より尊いものへと昇華させていく。
それが俺の、作りたかった作品じゃないのか。
上手く描けない絵。
賞賛されない黒い太陽。
アオイに対する届かない思い。
くそったれな俺の人生。
思い返せば痛みしかない。だけど、その痛みがあってこそ、ありのままの、俺の作品じゃないのか?
『誰でもない、『あなた』の描いた絵を見たい。そう思ってくれる人が1人でもいれば、あなたの絵は価値を持つのよ』
黒い太陽の前で死にたくなっていた俺に、母さんは教えてくれた。
それは真実でないのかもしれない。
でも、それは願いだ。
「さあ、早く最終章を見せてくれ」
サクラコ先生は、甘いお菓子をねだる子供のような声で、俺を椅子へと促す。
白い天井から目の前の女性に視線を移し、熱に浮かれた彼女の目を見て――
俺は首を横に振った。
サクラコ先生の表情が、蝋のように固まる。
「ん?」
子供の間違いを正すように、サクラコ先生は俺の顔を覗き込んだ。
針のような視線と目が合う。
疑念と苛立ちを露わにしたその顔に向けて、俺は「この記憶は、渡したくありません」と応えた。
「なぜだ?」
サクラコ先生は詰問する。
「ここで安易な道に逸れてしまったら、俺が今まで感じてきた『痛み』が、全て無駄になってしまうから……」
俺は答えた。
サクラコ先生は、首を傾げる。
「……ああ、そうか。もちろん、君の感情を使って私が産み出した作品は、君の名義で公開する予定だぞ?」
合点がいったのか、先生はゆっくりと説明を続ける。診察の時に見せる、聞き慣れた話し方だ。
「そう、君の神々しいまでの心は、様々な作品となり、世界中の人々の目に止まるはずだ。君は富も、芸術家としての名声も、手に入れることが出来る……」
正すように、諭すように。
「このまま絵を自分の手で書き続けたところで、君はしがない無価値者のままじゃないか」
「無価値者……」
俺は呟く。
今まで当然のように使ってきたその言葉の、容赦のない刃に気付き、俺は初めて、心の底から、その言葉にする嫌悪を覚えた。
人の価値を何が決める?
誰かに認められれば価値があり、認められなければ無価値なのか?
痛みの中で俺が描いてきたあの作品達も、無価値だというのか?
それを否定したいから、俺は絵を描き続けてきたんじゃないか?
「あくまでも記憶の抽出を拒否するのであれば……君を従わせる方法はいくらでもある。穏やかなものも、手荒なものもな」サクラコ先生は再び、俺の後頭部を撫でた。「だから、大人しく座って欲しい。これは君のためでもあるんだ」
サクラコ先生の声が静かな部屋に響く。
俺は、手の熱が残る、後頭部に触れた。
そこには、ワースレスの烙印でもある、記憶抽出用ソケットがある。
ソケットを中心に、頭皮と頭蓋骨の隙間を通って、いくつもの細い線が伸びている。それらは頭蓋骨に開けられた小さな穴から、脳の各部位に触れ、俺の感情を吸い上げている。
まるで寄生虫だ――そう俺は思った。
機械仕掛けの神に寄生しつつ、その神のしもべに寄生される。そのグロテスクな関係性の捩れが、俺の夢をひどく曖昧なものに変えている気がした。
今が、全てを清算する時なのかもしれない。
俺の指先が無骨なソケットの凹凸にかかる。
これはもう、いらない――
指先に力を込めた。
後頭部に貼り付いた、無機質な金属製の板が、鈍い音を鳴らして頭皮から引き離された。
押し止められた蕾を破り、花弁が炸裂するように、真っ赤な血が飛び散る。
そしてそれは、ベージュの床に鮮やかな水玉模様を作った。
サクラコ先生は呆気に取られて「ふひゅ」という奇妙な声を漏らす。硬く窄んだ唇を無理矢理引き伸ばし、何かを叫ぼうとして、失敗する。
「サクラコ先生、言ってましたよね。このソケットは緻密だから、無理に引き剥がしたら再設置は出来ないって……」
「……君は、自分が今、何をしたのか、わかっているのか……?」
俺は確信を込めて頷く。
「り、理解できない……。自暴自棄になったのか? 無価値な君が、唯一日の目を見れる道筋だったんだぞ……!?」
「俺は、そうは思わないです……」俺は後頭部から流れ出る血液を服の袖で押さえながら、サクラコ先生を見る。「何年かかっても、俺は自分の手で、それ以上の作品を生み出します」
サクラコ先生は小さく震えた。
失望、落胆、様々な感情が彼女の中で生まれ、暴れ回り、蠢いているのかもしれない。
その目に涙が浮かぶ。
俺は目を逸らしたい衝動に駆られた。
いつも知的で冷静だった先生の、感情に塗れた泣き顔なんて、見たくはなかった。
でも、俺は見続けた。それが彼女の『本当の作品』へ繋がっていると感じたから。
「私の作品が――」
涙を拭うこともなく、彼女は俯く。
「俺は、あなたの作品じゃありません」
俺はそう断言する。
感情の花を咲かせるサクラコ先生は、乱雑で激しく鮮やかな、一枚の絵のようにも見えた。
『私が作家を目指していたと知ったら、君は笑うかい?』
以前そう問いかけたサクラコ先生に、俺は当たり障りない言葉を返す事しか出来なかった。
でも今なら、他にかける言葉が見つけられる。
「今、自分の中にある絶望を、自分の言葉で書けばいいんですよ……」
「……ふざけるなよ」
殺意に近い、抜身の刃をチラつかせながら、サクラコ先生は吐き捨てる。
俺はそれが悲しくて、嬉しかった。
「あなたの作品は、俺の中じゃない……あなたの中にあるんです」
温かい血が、服の袖から染み出し、背中を濡らす。
その背を先生に向けて、俺は部屋を出た。
血を失って、思考が揺らぐ。
脳内に訪れた静かな混沌の中で、俺はアオイの事を思い出す。
無価値者のバディ――俺たち2人を繋ぐ唯一の関係性は、今ここで絶たれたことを悟った。
でも、きっとアオイなら、大丈夫。
だから――
さようなら。




