[1]
雪が降っていた。
いつ果てるともなく。
いつ降り出したかも定かでない。
昨日も、一昨日も、一週間前も。
一ヵ月前も、一年前も、十年前も。
否、もっと前から。
雪が降っていた。
水面の果ての底深く鉛のように沈み込んだこの世界の頭上から舞い降り続ける純白の妖精たち。
男は、サインの手を止め窓の外を見つめた。
雪の舞い散るテラス。
ここは、この国を統べる最高機関が入った巨大建造物。
通称『人民宮殿』。
男の執務室だった。
男は、重々しいブーツの足音を響かせてテラスへ歩み寄ると、純白の世界へと足を踏み入れる。
白い世界に耽溺するかの如く黒々と佇む遠い街並み。
男は、白大理石で造られた手すりに両の手を突き、目を細める。
地上二十二階から望む純白の世界のただ中に。
人民宮殿からまっすぐ北へと伸びる十月革命通りの先にそれはあった。
鈍色の空に、純白の地上に向けて開け放たれた大きな穴。
直径五百メートルの巨大竪坑。
シャフト
と、人々はそれを呼ぶ。
深さは、およそ千メートル。
この国の首都にただ一か所だけ設けられた異世界への入り口。
百近い階層に分かれた地下世界。
それは、世界のどの国家ですらも成し得なかった偉業。
国家が、党が、その威信を掛けて行った人類史上初の快挙。
党と人民を守る究極の地下構造物。
永久地下要塞。
これはこの国が資本主義ファシストたちから勝ち取った成果であり、血と汗と涙の結晶。
党とその指導部の偉大さを指し示す巨大なオベリスク。
それが、『シャフト』だった。
そして、そのシャフトの底にそれはある。
鉄で出来たかのような男の顔が微かに綻び、決して軽々と開かれることの無いその唇が一言だけ、聞き取れないほどの小さな声で呟いた。
「オルタナティブ・エリア32……」
その響きの余韻を楽しむかのように、その響きに込められた意味を味わうかのように男のひび割れた唇が、そっと口角を下げて再び閉じられた。
男は重い瞼をそっと閉じ、想いを馳せる。
それは、遠い、遠い夏のあの日――
小さな小川を飛び越えて駆け込んだ木漏れ日のトンネル。
ひんやりと体を包み込んだ心地よい木々の息吹と弾む胸の鼓動。
前を行く少女の背中で揺れる長い黒髪と、
時折、振り返った肩越しに見つめて来るその魅力的な大きな瞳。
そして――
緑のトンネルを抜けた先に広がった一面に咲き誇るヒマワリ。
入道雲の向こう、どこまでも続く青い空。
真っ白なワンピースの裾が躍って少女はにっこりと微笑みかけてくる。
鳶色の瞳が、きらきらと輝いて――
――――
…………。
ごうっ、と耳元で風が鳴った。
風に煽られた雪が男の頬を叩く。
男は、ゆっくりと瞼を開くと掌についた雪を叩いて、テラスを後にする。
再び閉じられた窓の外でなおも音もなく深々と降り積もる雪。
鈍色の空は、ゆっくりと暮れて漆黒の帳が世界に下りていく。
柱時計が「ボーン、ボーン」と鳴った。
雪が降っていた。