フェイズ62「WW2(56)ノースアイルランド上陸作戦6」-2
連続する雷のような轟音、そそり立つ巨大な水柱さえ無視すれば、遠くから見る限りならば戦闘は意外に淡々と進んだ。
日本艦隊優位ながら、24ノットの速度でノースアイルランドの上陸地点の方向に向かっていた。
そもそも戦艦という兵器は、簡単に破壊できる兵器ではない。
戦力差が同等かそれ以上でも、幸運もしくは不幸の一撃のような事が起きないと轟沈などあり得ない。
第一次世界大戦では、20数発の砲弾を受けたドイツの巡洋戦艦やイギリスの戦艦が生還した事例もあった。
また日本は、アメリカからの導入で損害復旧能力が非常に高くなり、ドイツはもともと防御に気を遣っているので、互いに簡単に戦闘力を失うことも無かった。
しかし《大和》の19斉射目、ついに決定的変化が訪れる。
砲撃戦開始から約30分が経過した午後1時半頃、《大和》と《フリードリヒ・デア・グロッセ》の一騎打ちは、《フリードリヒ・デア・グロッセ》がやや優位に展開していた。
排水量差、最大装甲厚だと《大和》が大きく上回るが、主砲の貫通力だと大差なく、《大和》はバイタル・パートこそ守り抜いていたが、非防御区画に複数被弾して、数カ所で火災すら発生していた。
それでも艦の主要部は無事で戦闘航行には支障は出ていないため、《大和》は9門の主砲を用いた斉射を続けた。
その戦艦《大和》が放った19斉射目が、まだ主要部が健在でせいぜい小破程度だった《フリードリヒ・デア・グロッセ》に着弾する。
この時《大和》の測距員や観測員、見張り員は、《フリードリヒ・デア・グロッセ》艦上に2つの閃光を確認した。
そして外れた7発の砲弾が吹き上げる大きな水柱が上がり始めると同時に、巨大な爆発を確認する。
この爆発は他の艦からも確認された。
というより、その場にいて外の状況を知ることが出来た誰もが確認できるほどの爆発だった。
46センチ砲から撃ち出された約1トン半のタングステンを豊富に使った一式徹甲弾は、《フリードリヒ・デア・グロッセ》の中央部と2番砲塔の天蓋(天井)装甲部分に着弾した。
中央部に着弾した砲弾は、舷側に広く張られた装甲部ではなく甲板の右上に着弾。
まずは50mmの最上甲板の装甲を薄紙のように貫き、その下の80mm主甲板も難なく貫き、さらに前進を継続。
遅動信管のため爆発することなく砲弾は進み続け、ディーゼル室の三重に施された艦底部の床の一番上に達した時点で、ようやく信管を作動させた、と考えられている。
そして2基のディーゼルエンジンが納められた部屋に破壊を振りまいた。
この結果、12基あるうちの2基のディーゼルエンジンが破壊されたと考えられるが、ドイツの新鋭戦艦にとっては致命傷ではなかった。
この被弾状況は、命中箇所からの推定に過ぎないが、恐らく正しいと思われる。
そしてこの着弾が推定以上に判明しなかったのは、もう1発の命中弾のためだった。
2番砲塔の天蓋装甲に着弾した砲弾は、130mmというこのクラスの戦艦としては非常に薄い砲塔上部装甲を難なく貫き、砲塔内でも炸裂せずに、砲塔基部のバーベット内へとさらに突進していった。
そしてそのまま、圧倒的な運動エネルギーと貫通力によって、砲塔内部の機械や隔壁を貫き続けて艦底を目指した。
遅動信管により炸裂した箇所は不明だが、破壊の様子から砲塔のバーベット内だと考えられている。
もしかしたら砲弾庫か弾薬庫まで到達していたかもしれない。
そして爆風が分厚い装甲内で吹き荒れたが、爆発と爆風、そして灼熱した破片は各所を破壊し、そして危険極まりない場所の誘爆を誘った。
最初に誘爆したのは、揚弾中の主砲弾か弾薬(装薬)だと考えられている。
そして最初の誘爆により、砲塔の最深部へと爆風が押しよせる。
そして一気に破局へと至った。
砲弾庫は、二番目に深い場所にあり、その下、最下層には最も危険な主砲弾を打ち出す弾薬(装薬)が格納されている。
それぞれ分厚い扉と装甲で覆われていたが、船体内部の直近、しかも砲塔内部で大規模な誘爆が始まっては、何もかもが意味が無かった。
一般的にドイツの戦艦は、砲塔への被弾と損害に強いと言われる。
これは事実で、第一次世界大戦のユトランド沖海戦でも、イギリスとドイツの巡洋戦艦の明暗を分けたほどだった。
これは、ドイツの戦艦が甲板上の砲塔内で炸裂しても、被害が砲塔上部で抑えられるような構造をしているためだ。
また、砲弾を撃ち出す弾薬を金属の筒に入れて保管しているなど、徹底した不燃対策が取られているためでもある。
非常に優れた構造と方式のため、第一次世界大戦後に建造された世界中の戦艦の多くが、同じ構造と方式を採用したほどだった。
だが、戦後建造されたドイツの戦艦には欠点があった。
日米の戦艦に比べて、いや世界中の戦艦と比べて、直接的な防御を担う各部装甲の厚さが薄いのだ。
これは装甲で覆う範囲を広げたり、船全体の防御力を高める重防御構造のためであるが、世界の趨勢は「集中防御式」というバイタルパート(心臓部)に致命傷を受けない為の構造を取っている。
この時対決した《大和》などは、その頂点に君臨するほどの集中防御を突き詰めた、戦艦と戦うための戦艦の完成型の一つだった。
またドイツの戦艦は、元とした設計が第一次世界大戦時の戦艦のため、上からの被弾をあまり考慮していない防御方式にもなっている。
もっともこれは、遠距離より中距離、近距離での戦闘をより重視した結果の選択だったとも言われる。
ともかく戦艦 《フリードリヒ・デア・グロッセ》は戦艦としての中距離戦闘を主眼にした重防御式で、主砲塔の上部装甲の厚さも他国と比べると非常に薄い。
着弾した砲塔天蓋装甲の厚さは、僅かに130mm。
《大和》が250mmにも達するのと、大きすぎる違いだ。
もちろん使用している装甲板自体の材質や強度が日本とドイツでは違うが、強度の差は最大でもドイツに好意的に見て20%程度だ。
通常考えれば、長砲身16インチ砲を搭載する《フリードリヒ・デア・グロッセ》は、180mm以上の天蓋装甲を持っているのが世界の趨勢だ(※天蓋装甲の一部は180mmだが、これは斜めに装着された一部に止まっている。)。
この時命中した砲弾も、命中した砲塔天蓋がもっと分厚ければ、砲塔の奥深くに突入することなく上部で炸裂して、致命的な誘爆が防げていた可能性が高い。
《大和》が放った砲弾は、天蓋を貫いても勢いが落ちずに巨大な運動エネルギーを余らせたままだったため、かなりの幸運も手伝って奥深くまで突進してしまったのだ。
そして装甲を薄くしていたツケは、非常に大きかった。
大きな赤みがかった水柱が収まり始めると、《フリードリヒ・デア・グロッセ》の被害状況が明らかになった。
というより、誰の目にも分かる被害が眼前に広がっていた。
今までの砲撃なら、水柱の中から《フリードリヒ・デア・グロッセ》は雄大な姿を現していた。
しかし彼女は姿を見せることなく、全周に轟く爆音と天にも届く爆炎を吹きあげ、その場で艦首と艦尾を空中高くかかげていた。
艦の中央は既に海中に没しつつあり、艦尾のスクリューの一部は空中で高速回転を続けていた。
この回転の差から、別の一弾の被害状況が推定できるほどよく見えた。
主砲の弾薬が誘爆した《フリードリヒ・デア・グロッセ》は、2番砲塔付近で二つに折れて轟沈しつつあったのだ。
弾薬庫の誘爆なので、付近の艦橋にいたドイツ艦隊司令部も、この時点で既に全滅していたと考えられている。
非常に鮮烈な情景のため、後世にも広く伝えられた瞬間だ。
この時の様子は、《大和》と《鳥海》に乗艦していた従軍カメラマンによって撮影されていた。
そしてアメリカから供与された映写機とフルカラーフィルムにより、第二次世界大戦を伝える第一級の映像資料として後世に伝えられる事になったのだ。
そして沈没の様子を、両軍口をポカンと開けて見ていたと言われる。
実際、この瞬間は各艦で命令を出すのが遅れた場面が多々見られた。
比較的冷静だったのが《大和》など日本軍艦艇に設置されていた戦闘指揮所に詰めていた将兵達で、淡々と事実を伝え命令を仰ぎ、《大和》ではその言葉で宇垣提督以下の司令部も正気を取り戻したと言われる。
そしてそれからは、日本艦隊の草刈り場と化した。
ドイツ艦隊は、それまでの統制と勇猛さが嘘のようだった。
今まで決定的な損害が無かったからこそだったのかも知れないが、《フリードリヒ・デア・グロッセ》の轟沈が戦場の雰囲気を完全に変えてしまった。
ドイツ艦隊は最強の戦艦を艦隊司令部ごと一瞬で失い、日本艦隊は一瞬固まった以外で変わることなく砲撃戦を継続した。
しかも今度は、《大和》と《武蔵》が残る《グロス・ドイッチュランド》を狙い始めた。
この時既に《グロス・ドイッチュランド》は、《武蔵》との砲撃戦で46センチ砲弾を6発被弾していた。
幸い致命傷はないが、第二砲塔は被弾の衝撃による故障で使用不能で、振動や破片、爆風のためレーダーの半数も使えなくなっていた。
砲撃を受けた左側の損害もかなり酷かった。
ディーゼル機関も12基のうち2基も破壊されていた。
だが、まだ戦闘力を十分に残していた。
しかも自らの砲撃によって、《武蔵》には5発の命中弾を得ていた。
ただし《武蔵》の強固な装甲は、うち2発を舷側と砲塔で弾き返し、残りの被弾も致命的ではない箇所の非装甲部分を破壊したに止まっていた。
全ての戦艦に打ち勝つ事を目指した日本の戦艦は、防御システムが完全に機能していた。
とはいえこれは結果論で、距離と幸運、角度などのおかげで《武蔵》の装甲は食い破られなかっただけと言うのが現代での評価だ。
47口径16インチ砲は、それだけ強力な主砲だった。
だが、練度の不足もあり、結果として十分な成果は残せなかった。
そして《フリードリヒ・デア・グロッセ》の轟沈から1分と少し後からは、《武蔵》からの砲撃情報を受けた《大和》が《グロス・ドイッチュランド》への砲撃に加わる。
《武蔵》の砲撃情報から砲撃を行うため、《大和》の砲撃は最初からかなり正確だった。
被弾している《武蔵》も戦闘力は衰えていないため、依然として全力で砲撃を行った。
戦艦は簡単には沈まないが、《グロス・ドイッチュランド》はその後戦艦の見本のように簡単には沈まなかった。
しかし次々に命中する46センチ砲弾によって艦の機能が停止し、各所が破壊され、200発程度が撃ち込まれた10数分後には浮かぶ廃城と化してしまう(※この間の46センチ砲弾の命中弾は11発)。
砲撃は、《大和》の射撃開始から5分程で統一射撃が出来なくなった。
艦橋も途中で折れてしまった。
そして徐々に、全艦が自らの黒煙に包まれていった。
そして自らの帰還が叶わないと悟った《グロス・ドイッチュランド》は、その後日本艦隊に立ちふさがるような進路を取り、最初に各艦に撤退を命令した(※次席指揮官の戦隊司令が座乗していたが、既にマストが折れていた為、遠距離通信は発信できていない。)。
断末魔の黒煙の中、ディーゼル機関の一部が生き残っているため前進は続けたが、もはや死者の国に赴くために進んでいるようにしか見えなかった。
そしてその後も戦闘は続くが、さらに被弾して全ての火砲が沈黙する頃には何とか総員退艦が命じられ、日本艦艇も参加しての乗員救助後に雷撃により引導が渡された。
それでもドイツ最大の戦艦という事と、その名の矜持がそうさせるのか、この場の海戦で最後に沈んだ大型艦となった。
そして「大ドイツ」と命名された戦艦が戦闘力を失う頃には、他の戦艦同士の対決も終わりつつあった。
《テルピッツ》は、参加した戦艦の中でも運のない方だった。
当初から《長門》《陸奥》に集中射撃を浴びたからだ。
《長門》《陸奥》は、この海戦に参加した戦艦の中で唯一の旧式戦艦で、本来なら速力的に艦隊について行くのがやっとだった。
だがこの時は、機関部のリミッター解除を限界まで行い、多少荒い海でも最高速力27ノットまで可能となっていた。
そして艦が古いだけに、乗組員が砲撃に長けていた。
しかも実戦経験も豊富なので、非常に高い命中率を発揮した。
《長門》の砲弾は距離3万メートル以上で何と初弾命中の快挙を成し遂げ、その後次々に《テルピッツ》に吸い込まれるように命中した(※この命中距離が、戦艦の命中弾のギネス記録となっている。)。
《テルピッツ》のドイツ戦艦らしい重防御構造は威力を発揮したが、やはり被弾が相次ぐと次々に戦艦としての機能が停止していった。
特に砲撃開始13分で主砲の半分が故障で使えなくなると、あとは一方的展開となった。
沈まなくても各所が打ち抜かれて機能を停止しては、戦闘艦として意味が無かった。
最終的に41センチ砲弾を30発以上被弾して、完全な沈黙を余儀なくされている。
対して、《テルピッツ》が目標とした《長門》に命中させた砲弾は2発だけで、しかも徹底的に近代改装された《長門》が受けた損害は小破にも至らないほど軽微で、ほとんどワンサイドゲームだった。
命中弾のうち1発は見た目は《長門》の船体中央部を貫いていたが、近代改装で何重にも施された装甲板を突き破るには至らなかった。
(※《陸奥》には《シャルンホルスト》の砲弾が3発命中し、小破している。)
その後、《テルピッツ》は、戦闘力を失っても沈没を拒むように浮き続けたため、突撃した駆逐艦が8発の酸素魚雷を命中させることで横転。
最後に大きな船腹をさらした後、滑るように海中へと沈んでいった。
その後も爆発など無かった為、比較的綺麗な姿で沈んでいるのが、後世の海底探査で確認されている。
日独の巡洋戦艦対決となった《シャルンホルスト級》対《高雄型》だが、最初からドイツ側が不利だった。
《シャルンホルスト》と《グナイゼナウ》は、戦争中の大改装で《ビスマルク級》と同じ15インチ砲に換装した。
そのために船体延長までして、各所も時間の許す限り強化された。
主砲の門数は6門に減少したが、実質的な戦闘力は《ビスマルク級》に匹敵するとすら考えられた。
だが《シャルンホルスト級》は、設計段階から色々と無理がある上に、改装ばかりしていた巡洋戦艦だった。
竣工時から流麗さを賞賛され、改装後のカタログスペックは非常に高性能を示しているが、何にせよ無理をしすぎだった。
そもそも《シャルンホルスト級》は、当初は外洋での航行性能が低かった。
そのため艦首付近の構造を早々に大改造しなければならなかった。
そして15インチ砲塔換装の大改造では、大きく重い砲塔を載せるなどで重量が大きく増加した。
その分船体延長とバルジの強化もしたが、やはり追いつかなかった。
このため喫水、船が浮かんでいる部分が沈み込んでしまい、舷側部の装甲の一部が海面下となってしまう。
加えて、艦の予備浮力も低下していた。
《高雄型》も建造中に主砲を14インチ3連装砲塔から16インチ連装砲塔に変更したが、こちらは建造中に一部設計も変更しているので、戦争中の運用に支障が出たという話しが聞かれることは無かった。
機銃の積みすぎという話はあったが、それも排水量の大きな巡洋戦艦なので、他の小さな艦艇よりも問題は少なかった。
それどころか、第二次世界大戦に適合した最良の戦艦の一つに数えられている。
そしてこの戦闘では、基本性能で《高雄型》が上回っている上に、数で二倍の差を付けていた。
しかも本クラスに砲撃してくるのは、《高雄》が《グナイゼナウ》から砲撃をうけただけで、《愛宕》《鳥海》は11.5インチ砲しか搭載しない装甲艦が砲撃しただけで、《摩耶》に至っては大口径砲からはノーマークだった。
このため日本側が存分に射撃に集中することができ、ほぼ一方的展開となった。
《高雄》は流石に数発を被弾して最終的に中破の判定を受ける損害を出したが、他は小破以下の損害しか受けず、30分ほどの砲撃戦の結果として《シャルンホルスト》《グナイゼナウ》の戦闘力を奪うことができた。
しかし《グナイゼナウ》は、途中でドイツ艦隊自体が後退を開始し、しかも戦艦隊列の最後尾にいて速力も維持していたので、水雷戦隊の追撃も間に合わず撤退を許してしまう。
《シャルンホルスト》は、途中で至近弾の影響で舵の効きが悪くなり、さらに右舷のスクリューが破壊されたため、少しずつ右へと進路が逸れていった。
そして右側とは日本艦隊が隊列を組んでいる方向であり、半ば敵に突撃する形になってしまう。
このため戦闘終盤に《高雄型》4隻の集中射撃を浴びてしまい、最後は駆逐艦の魚雷でトドメを刺され、大爆発を起こして沈んでいった。
数々の悪しき伝説を残した《シャルンホルスト》は、最後は乗員全てを道連れにしたのだ。
残るドイツ艦は装甲艦と水雷戦隊だが、装甲艦は最初無視されていた。
日本側の重巡洋艦は水雷戦隊の先頭に立っていたので、まずは敵水雷戦隊に攻撃を集中したからだ。
水雷戦隊同士の戦いは、ドイツ側が軽巡洋艦2隻、駆逐艦7隻に対して、日本側が重巡洋艦《妙高》《羽黒》に軽巡洋艦《矢矧》、駆逐艦16隻なので、日本側が圧倒的に有利だった。
しかも日本側の水雷戦隊は、日露戦争の頃から主力艦隊の直衛を務めてきた伝統の第一水雷戦隊だった。
日本艦隊は、戦闘開始当初から30ノット以上の速力で突撃を開始して、敵の水雷戦隊を砲力で圧倒しつつ敵の戦艦隊列を目指した。
重巡洋艦を水雷戦隊に置いたのも、戦艦隊列に接近したときに牽制の砲撃をする為だった。
しかし敵戦艦の隊列までは遠いし、ドイツの水雷戦隊も突撃を仕掛けてきたので、まずは水雷戦隊同士の戦いとなった。
ドイツ側は、戦前に建造した標準的性能の中型軽巡洋艦2隻と、雑多な駆逐艦7隻から編成されていた。
駆逐艦はドイツ製の6インチ砲搭載の大型艦とイギリスから賠償で貰った駆逐艦で編成されていた。
このため火力はあるが統一した行動が難しく、半ば少し離れて行動ししていた。
日本側は、砲力は重巡洋艦がいるので十分以上にある上に、駆逐艦は全て高い発射速度を有する5インチ(12.7cm)両用砲を6門ずつ搭載していた。
しかも魚雷は酸素魚雷なので、まずは1万4000メートルで、魚雷を8基搭載する駆逐艦8隻が4本ずつ扇状に発射。
水雷戦隊の掃討を実施する。
さらにそこに、近づいたことで命中率のあがった巡洋艦の砲弾が集中して、ドイツ側水雷戦隊は混乱した。
2隻で1隻を相手にしている状態で、ドイツ側は攻めるよりも守りに徹する方が有利に戦えた可能性が高い。
しかし初手で攻撃を選んだ以上、戦力差で押しつぶされるのは自明だった。
そして水雷戦隊の半数以上が撃破されて戦列が崩壊すると、日本艦隊は次々にドイツの戦艦隊列へと突撃していった。
その後は、煙を噴いて傾いている敵戦艦への肉迫雷撃を実施し、戦闘は終幕へと向かう。
司令部を次々に失ったドイツ艦隊は、散り散りに逃げるより他無かった。
優勢な敵に正面から突撃した結果とはいえ、近代海戦史上希に見る全面潰走だった。
戦闘終盤になると、ドイツ側の戦艦を沈黙させた日本の戦艦が残る大型艦に矛先を向けたが、ドイツ艦隊はすでに潰走状態で戦意も喪失していた。
正式な撤退命令も出せないまま次席司令部が次々に壊滅するため、最後は装甲艦2隻を率いる戦隊司令が撤退命令を出す事になったほどだった(※遠方の友軍への電文も、ここで行われた。)。
最終的にドイツ艦隊は、《グナイゼナウ》と装甲艦2隻は辛くも生き残れたが、大型艦は全て大きく損傷していた。
《グナイゼナウ》は行き足が落ちなかったのが不思議なほどだと言われたほどで、最後までドイツ艦艇は頑健さだけは示した。
そして敵を壊滅させた日本海軍は、40年の時を経て砲撃戦での完全勝利を達成する事になる。
だが、日本艦隊というより連合軍は、二つの主力艦隊との戦いにのめり込みすぎていた。
ノースアイルランド北方海上には、もう一つの伏兵が刻々と迫りつつあった。