フェイズ62「WW2(56)ノースアイルランド上陸作戦6」-1
1945年6月7日は、とにかく海戦が連続して発生した。
二つの陣営の海軍が総力を挙げて激突した証拠ではあるが、戦場はかつてのように一カ所で行われる事はなかった。
「フェロー諸島沖海戦」、「ノースアイルランド沖海戦(航空戦)」、「ノース海峡海戦」、「ヘブリディース諸島沖海戦」、「アイラ島沖海戦」、「オークニー諸島沖海戦」と、英本土近海の各所で多数の戦艦や空母がぶつかり合った大規模な海戦が複数発生した。
そしてその中で、最も劇的と言われたのが「ヘブリディース諸島沖海戦」だった。
「ヘブリディース諸島沖海戦」は、日本海軍第二艦隊とドイツ海軍大艦隊の主力艦隊が正面からぶつかり合った海戦だった。
まずはお互いの参加戦力を見ておこう。
・日本海軍 第二艦隊(宇垣中将)
BB 《大和》 BB 《武蔵》 BB 《長門》 BB 《陸奥》
BC 《高雄》 BC 《愛宕》 BC 《鳥海》 BC 《摩耶》
CG 《妙高》 CG 《羽黒》
CL 《矢矧》 DD:16隻
・ドイツ海軍 主力艦隊(クメッツ上級大将)
BB 《フリードリヒ・デア・グロッセ》 BB 《グロス・ドイッチュランド》
BB 《テルピッツ》
BC 《シャルンホルスト》 BC 《グナイゼナウ》
AC 《リユッツォウ》 AC 《アドミラル・シェーア》
CL:2隻 DD:7隻
見て分かると思うが、日独双方の主力艦艇が結集していた。
特に連合軍、枢軸軍のそれぞれ最大最強の戦艦が戦闘に参加しているのが特徴で、両者の沽券を賭けた戦いとも言えた。
戦艦の頂上決戦と言われることもあるほどだ。
しかしこの時の戦いでは、両者共に相手の最強戦力がどの程度かは正確には把握していなかった。
特にドイツの新鋭戦艦は就役したばかりなので、連合軍内ではかなり危険視されていた。
しかし、どちらも自らの戦力に自信を持っており、戦う前から退く気は全く無かった。
攻めるのはドイツ艦隊、守るのが日本艦隊。
洋上での戦闘は基本的に地形障害がないので、戦法と陣形以外では戦力差が如実に戦果に関わることが多い。
そして今回は、攻める側が守る側を突破し、その向こうにいる敵の大船団を撃滅しなければ作戦目的を達成できなかった。
対して守る側は、敵を撃滅しなくても撃退すれば戦略的な勝利が得られる。
これはノース海峡での戦いと同じだった。
しかも日本艦隊は、敵の情報を各種偵察機から十分に得ていたので、最初から有利な場所で有利な陣形を選ぶことができた。
戦場はヘブリディース諸島の南西側の沖合。
日本艦隊は最初から同航戦が出来るように、進路を選びつつ敵の到着を待ちかまえた。
日本艦隊は得意な筈の丁字もトウゴウ・ターンもする気は無かった。
本来枢軸側の目論見では、日本艦隊はこれ見よがしに行動しているイギリスの主力艦隊の方に、アメリカ艦隊ともども引き寄せられている筈だった。
本命のドイツ艦隊は、当初は空母部隊と共に行動することで、連合軍に空母部隊の前衛と思わせる。
そして夜間に人知れず分離して、一気に敵輸送船団を目指す予定になっていた。
それでも連合軍が上陸船団を丸裸にしない可能性は高いと予測されたが、ドイツ艦隊の前に立ちふさがる可能性が最も高いと予測されていたのは、艦砲射撃を主任務にしているアメリカの旧式戦艦部隊だった。
場合によっては、自由イギリスの旧式戦艦が数隻しかいないとも楽観されていた。
敵の情報が少ないドイツ艦隊は、敵からの砲弾が飛んでくるまで、自分たちの前に立ちふさがった艦隊が何なのかを正確に知ることはなかった。
それでも、敵艦隊をレーダーで探知してからは、速力から推測が可能だった。
そして敵との接触直前に、英本国主力艦隊が発した「米主力艦隊ト遭遇セリ」という電文を受信していたので、目の前に敵の主力がいない可能性が高いとも予測していた。
だが、連合軍の判断は違い、日本の主力艦隊をドイツ艦隊に用意していた。
つまり作戦全体が失敗したことになる。
しかし一方では、ドイツ、イギリスのどちらか、または双方が目の前の敵の突破に成功してしまえば、自らの全滅と引き替えに作戦は完遂できるのではないかという考えを、主に前線の艦隊司令部に考えさせた。
自分たちは囮と本命で戦力を分散したが、連合軍も戦力を分散させたと考えることも出来るからだ。
しかも欧州枢軸は、アメリカがさらに強力な戦艦(=《モンタナ級》)を投入しているとは考えていなかったので、ドイツ艦隊は英本国艦隊も敵陣を突破できる可能性が十分あると考えた。
そして最も作戦がうまくいった場合、敵の侵攻船団を挟撃できるとすら考えていた。
少なくともクメッツ上級大将以下のドイツ主力艦隊司令部はそう考え、全艦隊に突撃と敵艦隊の突破を命令した。
この事は、他の者の証言からも明らかだった。
連合軍は最後の詰めを誤ったのだ、と。
全てを知っている後世の視点からだと、戦力差を考えたら欧州枢軸艦隊による敵中突破は難しいという考えが大勢を占めているが、欧州枢軸は連合軍の戦艦戦力を少なく見積もっていた。
さらにドイツ海軍は、自分たちが新たに建造した戦艦を「世界最強」と非常に強く信頼していた。
また、日本海軍の未知の巨大戦艦が如何に巨大で強大でも、「劣った劣等人種」の作ったものだという感覚が強かったと言われる。
ドイツ宣伝省の宣伝の成功の証と言えなくもないが、前線に立つ軍人が冷静に戦力差を判断できないのは批判されてしかるべきだろう。
もちろんドイツ海軍の軍人達も、空母同士の戦いでは一歩譲る事は認めていたので、戦艦同士の戦いなら負けるはずがないと思い込んでいただけなのかもしれない。
ただし、大戦中は《大和型》戦艦の能力に不明点が多かったので、ドイツ海軍だけを責める事は酷であろう。
実際問題として、枢軸側では《大和型》戦艦の主砲は長砲身の41センチ砲と考えられていた。
さらに欧州枢軸は、旧式の《長門型》戦艦は戦線後方で予備兵力として待機していると考えていた。
だが《長門》《陸奥》は、アメリカでの徹底したオーバーホールとボイラー、機関部の部品を可能な限り高い強度、精度のものに交換することで、より高度なリミッター解除ができる状態でこの戦闘に臨んでいた。
そして日本海軍とアメリカ海軍は、かつての先達達がそう考えたように、全てを一戦で決着付けるため、全ての戦力を集中して前面に配置してきた。
とにかく6月7日の午後1時半頃、ドイツ艦隊は勇壮と言える陣形と速度で、日本艦隊に向けた突撃を開始する。
(※この時点で、ドイツ艦隊は相手が「高速戦艦多数を含む非常に大規模な艦隊」という搭載レーダーの情報しかなかった。)
受けてたつ事になった日本艦隊では、約40年前とは大きく違う状態だった。
第二次世界大戦が始まってから、日本海軍は何度か大規模な艦隊決戦を経験していた。
しかし、敵が途中で逃げ出したため不完全に終わるか、夜間の混乱した戦いだけだった。
これほど真っ正面から敵が突撃してくるのは、それこそ1905年5月27日の日本海海戦以来だった。
日時も近いことから、日本海海戦に思いを馳せた将兵も多かったと言われる。
しかし宇垣中将以下の司令部は、かつてのような吹きさらしの艦橋にはいなかった。
旗艦《大和》の第一艦橋にもその姿はなく、彼らの多くは最も強固な司令塔にいた。
また、通信やレーダー関係を中心とした多くの将校や参謀は、艦の奥深くの防御甲板の下に設置された戦闘指揮所に陣取っていた。
日本の主力艦隊がこの配置を取ってから一年以上経過しているが、従来の旧時代的な方針からの転換は単にこの方が指揮しやすいからだった。
大艦巨砲主義の信奉者や第一人者と目されていた宇垣提督も、この流れに逆らうことは無かった。
彼も聯合艦隊参謀長の時代に、横須賀の巨大な地上司令部の有効性を強く実感させられていた。
第一戦隊を率いた経験でも、新しい方式の有効性を体感していた。
彼の日記にも、一抹の寂寥感という言葉を見ることが出来るが、悔いたり愚痴るような言葉を見ることはない。
このため、かつての先達のように吹きさらしの艦橋に屹立し、腕を大きく振り下ろすようなこともなく、淡々と命令を下していった。
特に宇垣提督は「黄金仮面」と影で渾名されるほど無表情で、さらに無口な人物だったので、司令塔内は艦隊決戦前とは思えないほど静かだったと言われる(※宇垣提督はアメリカ海軍から「沈黙提督」と呼ばれていた。)。
対するドイツ艦隊の方が、旧時代の影響を引きずった司令スタイルを取っていたことと対照的だった。
日本艦隊の発砲は、想定外の距離4万メートルで実施された。
史上最大最長の砲撃開始であり、当然と言うべきかドイツ海軍の度肝を抜いた。
レーダーで何とか敵影は捉えていたが、敵の姿は水平線の先のためまだ目視できない状態での砲撃が行われた事に、早くも撤退を進言する参謀がいたとすら言われる。
ドイツ艦隊は、この時初めて自分たちの敵が何なのかを正確に知る事ができたのだ。
だが、この時点で日本艦隊は、既に多くの情報を入手していた。
と言うのも、ドイツ艦隊は分離した時点から連合軍機にマークされていた。
追跡していたのは日本海軍所属の「二式大艇」の重偵察型。
機体に各種レーダー、無線機、計算機などを多数搭載した特別製で、機材の操作の為にパイロット以下16人も乗り込んでいた。
同じ機体は複数あり、途中からは交代の機体と入れ替わったが、追跡と情報収集が途絶えることは無かった。
そして気象状況などを含めた、入手できる全ての情報を第二艦隊に送り続けた。
「まるで釈迦の手のひらの上のようだ」と揶揄した人物もいたほどだった。
そして砲撃前から複数の正確な情報を手にしていた日本艦隊は、さらに情報を確かにするべく、別動隊の駆逐艦を斥候任務に出して情報を収集した。
ドイツ艦隊が最初に見つけたのも、この斥候のために突出してきた駆逐艦だった。
最初に発砲したのは、射程距離4万2000メートルを誇る45口径46センチ砲を搭載する戦艦《大和》と戦艦《武蔵》の2隻だった。
他は最大射程距離にも入っていないので、情報に従って主砲をゆっくりとうごめかせるだけだった。
ドイツ側の主砲も、16インチ砲で3万6800メートル、15インチ砲で3万6500メートルなので射撃は出来なかった。
それ以前の問題として、この時点でのドイツ艦隊は水上捜索レーダーによるやや不完全な情報しか、敵の情報を持ち合わせていなかった。
もちろんだが、ドイツ艦隊は事前に潜水艦を配置して情報収集、できれば奇襲的な攻撃を目論んでいた。
敵が待ちかまえている可能性を考慮しての事だったし、敵が動かないなら攻撃も十分に可能と考えていた。
だが、事前に送り出した潜水艦は、濃密に展開する連合軍の無数の対潜部隊の前に、沈められるか、動きを封じられるか、近寄ることも出来なかったかのいずれかの状態だった。
イギリス空軍に偵察も要請したが、偵察機の殆どが落とされていたので、敵の正確な情報はほとんど無かった。
ノルウェーのドイツ空軍機に至っては、偵察機が飛行場から飛び立つことすらなかった(※これは海軍と空軍の確執のためだった。)。
砲撃を受ける少し前にレーダーで探知していなければ、敵の有力な艦隊は存在しないと言う前提で進撃を続けるところだったほどだ。
だが、既に突撃陣形に変形し終わっていたので、レーダー探知のすぐ後に突撃を開始していたのだ。
そしてドイツ艦隊と突撃と《大和》《武蔵》の砲撃により、戦闘の幕は切って落とされる。
改良に改良を重ねた32号電探(改八型)は、正確に敵を捉えていた。
4万メートルの距離を砲弾が飛翔するには約2分が必要となる。
この間、1分間に約1キロの距離が縮まるので、《大和》《武蔵》が2斉射目を行うときには、《大和》《武蔵》にとっての正式な最大砲戦距離となる3万8000メートルになっていた。
他の日本艦隊は距離3万5000メートル、ドイツ艦隊は3万メートルで射撃を開始するので、3斉射目まではまるで《大和》《武蔵》の砲撃ショーとなった。
とはいえ淡々と物事が進むので、まるで演習のようだったという感想もある。
そして演習みたいだと言われたように、偶然の一弾、幸運または不幸の一弾も無かった。
しかし想定外の超超遠距離射撃を受けたドイツ艦隊は、非常に強い心理的圧迫を受けていた。
何しろ、1斉射目からかなり近くに巨大な水柱がそそり立ち、3斉射目には早くも挟叉、艦を囲むように砲弾が着弾したからだ。
そして着弾する水柱は、地獄の底から噴き上がったように赤く染められていた。
そしてその着弾からすぐにも、他の日本の戦艦も順次砲撃を開始する。
この時点ではドイツにとって最大射程であり、高い角度で落下してくる砲弾は何よりも高い脅威だった。
まともに喰らったら、どんな艦でも一撃で轟沈する可能性があったからだ。
この時点でドイツ艦隊は、回避運動をしつつ接近し自らにとっての砲戦距離までまともに組み合うべきではなかった、という後世の考察もある。
だが、艦数が多い場合は隊列が乱れてしまう可能性が高いなど、砲撃戦とはそんな簡単なものではないので、この時点でのドイツ艦隊は自らが砲撃を開始するまで接近を続けるより他なかった。
そして距離3万3500メートル付近で、日本艦隊の戦艦の主砲弾の水柱が次々に林立した。
赤、無色、青、黄色の4色で、この時は2隻ずつが砲弾に染粉を入れていた。
これは演習でも見られたのだが、同盟国の米英が「日本の砲撃はテクニカラー(総天然色)だ」と驚いた記録がある。
この染粉は、本来は同型艦同士が砲撃するときに見分けるためのもので、当初は《金剛型》と《高雄型》だけがそれぞれ使っていた。
しかしこの戦闘に際しては、全ての戦艦に採用して挑んでた。
こうした細かいところが日本らしいと言う意見もあるし、レーダー射撃の時代に古くさいと言われることもある。
そして皮肉なことに、最初に様々な色の水柱が林立した時点では、撃った側は殆ど目視できる距離ではなかった。
距離3万メートルになって、ドイツ艦隊がようやく砲撃を開始したが、その間に日本艦隊はさらに3斉射を加えていた。
この間の命中弾は、《長門》《陸奥》の初弾命中を例外とすると、《武蔵》が《グロス・ドイッチュランド》に与えた一弾だけだった。
この砲弾は、副砲の一つをボールのように跳ね上げて破壊した。
列強の中でも最も強固な副砲への命中だったので、おかげで防御甲板を貫くには至らなかった。
損害を受けても平然としている《グロス・ドイッチュランド》を見て、日本艦隊側もドイツの新鋭戦艦侮り難しの思いを強くしたと言われる。
連合軍では《フリードリヒ・デア・グロッセ級》戦艦の排水量を、実際より10%以上重く見積もっていたし、主砲も16インチ以上の可能性を考えていた。
故に《大和型》に匹敵するか、一部性能は凌駕するとすらみていた。
脅威に感じていたのは当然だろう。
実際の数字だと、《大和型》が全長268メートル、全幅38.9メートル、基準排水量6万8000トンで、《フリードリヒ・デア・グロッセ級》戦艦が全長277.5m、全幅37.0m、基準排水量5万2600トンなので、外見上の大きさはほぼ同じで、排水量では25%近い差があった。
それだけ《大和型》が巨砲と重装甲を持つという事になる。
だがドイツ側は、持ち前の技術力で差を埋めているので、数字ほどの差はない。
よく言われる電子装備や照準性能については、アメリカ、自由英の支援を受けた日本側の追い上げの方が大きく、ほぼ互角、もしくは日本側が若干勝るほどだった。
特に遠距離戦では《大和型》が有利だった。
そうして距離2万8600メートル付近で着弾したドイツ艦隊の最初の砲弾は、あまり誉められたものではなかった。
日本が距離4万メートルで射撃したときよりも離れており、ドイツ海軍が遠距離射撃を重視していないことを如実に示していた。
いかに優れた測距装置やレーダーを持っていても、訓練と運用が追いついていなければ意味が無かった。
しかもドイツの新鋭戦艦2隻は就役して間がないため、なおさら将兵の熟練度に問題があった。
もちろん精度の甘さを補うためにレーダー射撃を重視していたが、戦艦は精密機械の集合体であり、一つのことだけで欠点を補えるものではなかった。
両者の砲弾が命中するようになるのは、やはり距離2万5000メートルを切った辺りからだった。
この距離になると、日本艦隊はほぼ完全に同航戦の形を取り、この2万から2万5000メートルあたりで距離を固定しようと艦隊を動かしていた。
多少命中率が落ちても、高い角度から砲弾を命中させようという意図からだった。
それにこの距離こそが、日本の戦艦が想定していた砲戦距離であり、必勝の距離でもあったからだ。
そして日本艦隊は、《大和》《武蔵》がドイツの未知の新鋭戦艦を引き受け、他は2隻一組で残りの戦艦を早期に撃破し、中盤以後は総力を挙げて敵新鋭戦艦の撃破に務めることと、艦隊司令部から指示が送られていた。
それだけ《大和》《武蔵》の攻防力に自信があったとも言えるし、ドイツの未知の新鋭戦艦(《GD級》)の巨体と未知数の戦闘力を恐れていたと言える。
そして《大和》《武蔵》以外が正面からの太刀打ちが難しいという点で、日本艦隊の判断は間違ってはいなかった。
これに対してドイツ艦隊は、日本艦隊と戦うのではなく突破し、その向こうの船団を攻撃するのが目的なので、あえて動きやすい遠距離戦を崩そうとはしなかった。
本来ならドイツ艦隊は、距離2万メートル以下での中距離戦もしくは1万5000メートル以下の接近戦をしかけるのが性能上とドクトリン上での筋だが、作戦上仕方なかった。
組み合ってしまっては、突破がより難しくなってしまう。
しかし後世の意見として、日本艦隊が完全に食いついてきた時点で、ドイツ艦隊は進路を逸らせて、自らを全軍の囮とするべきだったというものがある。
もしくは逆に、もっと接近しなければならなかったという意見も強い。
《FDG級》の47口径16インチ砲といえども、距離2万を切らねば《大和型》の強固なバイタル・パートはまともには撃ち抜けないからだ。
そして実際の両者の砲撃だが、基本的には日本艦隊優位のまま進んでいった。
日本艦隊の方が数が多いし、砲雷撃戦の前から得られる情報も多かったし、何より遠距離砲撃戦の訓練も積んでいたからだ。
さらに言えば、乗り組んでいる将兵の練度も実戦経験も日本側の方がずっと上だった。
日本側はハードの面だけでなく、ソフトの面でも大きく有利だったのだ。
日本側が不利な点は《高雄型》が実質的には巡洋戦艦で防御に若干の不安を抱えている事だが、それはドイツの《シャルンホルスト級》も同じだし、《高雄型》の50口径14インチ砲に対応した集中防御方式の防御力は、ドイツの47口径15インチ砲に対してもかなりの防御力が期待できた。
なお両者の砲撃目標だが、日本側は《大和》《武蔵》がそれぞれ単艦で《フリードリヒ・デア・グロッセ》と《グロス・ドイッチュランド》を狙った以外は、2隻一組の統制砲撃戦で残るドイツ側の戦艦3隻を狙い、装甲艦は無視した。
これに対してドイツ側は、日本側の前5隻をそれぞれ単艦で狙い、装甲艦も後方で隊列を組む《愛宕》《鳥海》を砲撃した。
つまり《摩耶》は誰からも砲撃を受けない状態だが、砲撃戦自体は《鳥海》が狙う統制砲撃戦なので、あまり意味がなかった。