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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
81/140

フェイズ53「WW2(47)シチリア島の戦い」

 1944年秋の連合軍の地中海での攻勢は、ギリシア侵攻で一段落した。

 連続して三ヶ月も激しく動き回った艦艇群は、一度整備と休養が必要だった。

 各地に進出した部隊も、次への体制を整える時間が必要だった。

 

 そうした中での最前線は、ついにヨーロッパに移った。

 


 1944年内に、北アフリカ西部のフランス軍約100万の兵士は全て降伏した。

 現地フランス軍の指揮官アンリ・ジロー大将も、ついにチュニジアで捕虜となった。

 彼は飛行機で欧州に退却することも出来たが、最後まで部下と共に戦う事を望んで連合軍の捕虜となった。

 その後、彼は救国フランス側に着くように連合軍から誘いを受けたが、結局は断った。

 彼はナチスドイツに恨みに近い感情はあったが、今更祖国フランスのためという理由で寝返れないと答えたとされる。

 

 なお、ごく一部のフランス軍兵士達が内陸の不毛な砂漠地帯に逃れたが、近代戦ではほとんど意味が無かったし、連合軍もそこまで暇ではないのであえて追撃はしなかった。

 

 チュニジアでは、孤立したイタリア、イギリスの欧州枢軸軍40万人が、圧倒的な戦力を有する連合軍に東西から押しつぶされる形で降伏した。

 既に制空権、制海権も失っているため、チュニジアの枢軸軍は、シチリア島などに後退したくてもできず、敵の進軍を一日でも遅らせるために戦って降伏するより道はなかった。

 

 チュニジアでの戦いが正式に終わったのは1945年1月6日だったが、それは完全に包囲された欧州枢軸軍が降伏するための時間を、連合軍が与えたからに等しかった。

 連合軍としては、1週間程度の時間を割くだけなら、余計な損害と浪費をするよりも利益が大きいと考えていたからだ。

 こうした考えを持てるところに、連合軍の余裕があった。

 その間連合軍は、クリスマスと正月を盛大に祝って敵に見せて士気を落としたと言われるが、流石にそこまでは行っていない。

 ただし、クリスマスと1月1日のそれぞれ半日ほどは自然休戦が両軍の間で暗黙のうちに成立し、戦争を忘れて祝ったのは確かだ。

 偵察機以外の航空機が飛ぶことも無かったと言われている。

 

 そして連合軍の次の目標は、イタリア南部にあるシチリア島。

 つまりヨーロッパだった。

 


 チュニジアでの戦い、と言うよりリビア西部とチュニジアを結ぶ絶対防衛線での戦いは、この時期の欧州枢軸にとっては限界を超えた戦いだった。

 枢軸側も投入できる限りの戦力を投じて連合軍を少し押しとどめようとしたのだが、まさに万力で押しつぶすように押し切られてしまった。

 

 最初に制空権を奪われ、制海権を得た連合軍が最前線の背後に上陸し、最後に正面から機械化部隊が怒濤のように突破してきた。

 しかも西からは、信じられない速度で新たな連合軍が押しよせて、100万の兵を無力化していった。

 最後のチュニジアでの戦いは、降伏以外の道が無かった。

 それ以外の道があるとするなら、それは全滅するために戦い続ける事だけだった。

 ヒトラー総統は全滅による死守を望んだと言われるが、幸いと言うべきかチュニジアに最後に残されたのはイギリス軍とイタリア軍だった。

 チュニジアには、ドイツ軍どころかドイツ人の姿はほとんど無かった。

 僅かに居たドイツ軍の連絡将校や観戦武官は、チュニジアとシチリア島の間の制空権が完全に奪われる前にほぼ全員が後退した。

 ドイツ人以外で後退できたのは、自力で移動できる航空機とそれに乗り込めた僅かな整備兵や負傷兵、連合軍に捕虜になっては都合の悪い一部要人だけだった。

 

 チュニジアには、イギリス本国軍の第一機甲師団や、イタリアのリットリオ師団など有力部隊も多数居たのだが、ほぼ全てが一定程度戦った後に連合軍に降伏した。

 

 そしてチュニジア戦の結果、イタリア軍はシチリア島を守る事がほぼ不可能となった。

 現地イギリス本国軍も、本国からの増援がなければ殆ど何もできない状態だった。

 それでもシチリア島を奪われると、地中海の制海権が完全に連合軍に奪われてしまうため、連合軍の戦略的優位を阻止するためにもシチリア島防衛に全力を注がねばならなかった。

 

 そして何より、イタリアにとっては本国での戦いなので、簡単に引くわけにはいかない戦いだった。

 


 一方の連合軍だが、欧州枢軸に時間を与える気は全く無かった。

 1945年1月中にシチリア作戦を発動予定で、上陸作戦の予定は1月25日とした。

 だが、問題が皆無でも無かった。

 気象条件で言えば、冬の地中海は波が荒い季節なので、上陸作戦には不向きだった。

 しかし北大西洋ではないので、波浪は上陸作戦が出来ない程ではなかった。

 北太平洋を良く知る日米としては、特に問題なしと考えていた。

 連合軍での問題は、上陸作戦を誰が行うかだった。

 

 連合軍全体として、フランスへ進むのは「中部大西洋戦域軍」と定められていた。

 イタリアは「地中海戦域軍」の担当戦域だった。

 イギリス本土を奪回するのは「北大西洋戦域軍」の担当だが、早くても45年春の進撃が予定されていたので、まずは北アフリカに進んだ軍団を用いて地中海の安定化を狙っていた。

 加えて米本土やカナダでは、英本土に進軍する大部隊が編成され準備を進めていた。

 進軍を続けて各地に警備兵力を割いてきた「地中海戦域軍」とでは、戦力総量が既に大きく逆転している状態だった。

 

 なお、アメリカ陸軍の総指揮官で言えば、フランスに進むのがマッカーサー将軍、イタリア、バルカンを北上するのがアイゼンハワー将軍だ。

 しかしシチリア島上陸を行う地中海戦域軍だが、自由イギリス軍の主力はイギリス本土上陸作戦に備えてカナダなどに移動してしまった。

 加えてギリシアにも上陸したので、2個軍団が動かせなくなっていた。

 このため、シチリア作戦の主力はアメリカ軍と日本軍が担う予定で、特にシチリア情勢に詳しいアメリカ軍が主な役割を果たすことになっていた。

 

 そして間を置かずに、一気にイタリア半島に上陸する予定だった。

 

 さらに3月には、サルディニア島上陸作戦が予定されていたが、これは戦域として大西洋戦域軍に含まれており、マッカーサーの「縄張り」だった。

 しかも大西洋戦域軍は、海兵隊など上陸に適した部隊を地中海戦域軍に移動させる気は無かった。

 この時期の海兵隊は、3個師団と独自の航空隊を有する一つの軍隊としての規模に拡大していたが、それらはほぼ全て「マッカーサーの兵隊」だった。

 

 日本陸軍は、地中海まで進軍した時点で指揮系統を実質的に一本化していたが、連合軍としての総指揮権はアメリカが持つようになっていたため、あまりうまく機能していないのが実状だった。

 

 また連合軍の空軍の動向だが、日本海軍の第十一航空艦隊とアメリカ海兵隊航空隊以外は、基本的に陸軍所属だった。

 当然だが、指揮系統の混乱と必要戦域への移動が行われた。

 

 まず自由イギリス空軍は、陸軍ともどもカナダに移動して英本土奪回作戦に備えた。

 また一部は、アイスランド島に移動した。

 

 日本陸軍は、第三航空軍、第五航空軍の2個航空艦隊が実質的な実戦部隊の全てだが、これはそのまま地中海戦域にとどまった。

 ただし、ギリシア戦線を抱えているため、1944年秋以後はギリシア方面が第五航空軍担当で、リビア、チュニジアそしてイタリア方面が第三航空軍担当となった。

 日本海軍の第十一航空艦隊もイタリア方面だが、爆撃機、攻撃機は主に海上で敵を追い回していた。

 

 アメリカ陸軍航空隊は、史上空前の規模に膨れあがっていた。

 

 モロッコからマッカーサーと共に米本土やって来た第3航空軍を加えると、戦術航空軍(航空艦隊)が第3航空軍、第5航空軍、第6航空軍、第8航空軍、第20航空軍の5つ(※他国と同様の航空艦隊規模。)。

 これに加えて、重爆撃機専門部隊の第8航空軍が地中海に展開していた。

 それぞれの航空軍は、各国の航空軍(航空艦隊)よりも規模が非常に大きく、実働機数は米陸軍航空隊だけで1万機を数えていた(※英本土作戦用に、米本土ではさらに別の航空軍も編成中だった。)。

 このうち、地中海戦域には第5航空軍、第20航空軍が残され、さらにエジプトを根城としていた第8航空軍の主力も地中海戦域に残された。

 

 結果として、日本軍のほぼ全力とアメリカ陸軍航空隊の約半数が地中海戦域軍に属していた事になる。

 


 連合軍海軍の方は、日米共にもう少し有機性があった。

 

 チュニジアを落としたことで、地球全体をつなぐ「アーシアンリング」が完成して兵力の移動がし易くなったので、対イギリス作戦が始まるまで大西洋方面の膨大な戦力の一部がシチリア作戦に参加することが決まっていた。

 ただし、北海に枢軸海軍主力がいるので、北大西洋方面をがら空きにするわけにはいかないので、アメリカまたは日本の空母機動部隊のうち片方は、常に欧州枢軸の主力艦隊の動きを警戒する事になっていた。

 

 特に冬の北大西洋は波が荒いので、主に日本の空母機動部隊と日米の主力艦隊が交代で警戒配置に就く予定だった。

 天候と波のために艦載機の発着が不可能になる可能性が高まるからだ。

 

 この主力艦隊の配置のため、アメリカ海軍、日本海軍共に主力艦隊の再編成が実施され、非常に強力な戦艦部隊が2つ用意された。

 二つの艦隊は、それぞれ欧州枢軸海軍の主力艦隊と単独で戦えるだけの高速戦艦が集められており、「来るべき時が来つつある」と戦艦信奉者達の士気はあがった。

 

 とはいえ、連合軍の作戦地域は地中海であり、当座の目標は地中海の島々だった。

 


 シチリア島(シシリー島)上陸作戦は「ハスキー作戦」として、1944年の春ぐらいに作戦の草案が作り始められた。

 だが、枢軸側が北アフリカで予想以上に抵抗したため、作戦は三ヶ月延期されて1945年にずれ込んだ。

 当初の予定だと、1944年の秋には作戦予定だった。

 だが、遅れた分だけ後方支援体制を整えることができた。

 一方では、ギリシア作戦を行ったため、結果として相殺されているとも言われる事が多い。

 

 上陸するのは、パットン将軍のアメリカ第3軍と山下将軍配下の第7軍と第32軍。

 このうち第一波は合計で約18万人で、後続としてさらに二倍の戦力が投入予定だった。

 しかもこの兵力に後方支援部隊は半分程度しか含まれず、前線部隊の比率を非常に高めていた。

 

 総指揮はブラッドレー将軍が率いることになり、第15軍集団が改めて編成された。

 この中には日本軍も編成に含まれているが、日本陸軍自体は独自の司令部を開設して連合軍各国と連携しつつ戦う体制を作っていたが、これは日本陸軍内での便宜上の命令系統を作るためだった。

 

 少し話しが逸れたが、イタリア方面での作戦は自由イタリアなどの同盟国部隊もあったが、数と戦力では日本とアメリカが主力だった。

 そして3個軍編成の軍集団という大軍を投じて一気にイタリア半島を横断してイタリアを降伏させ、山岳地帯を越えてアルプス方面(オーストリア方面)からドイツ本国を圧迫する予定だった。

 

 なお、シチリア島作戦で忘れてはいけないのが、いわゆる「マフィア」の存在だ。

 シチリア島でのマフィアは、島内限定の互助組織であり、外からの支配に抵抗するためのものだった。

 

 そしてアメリカに移民したシチリア島のイタリア人達は、強い地縁血縁によって暴力組織をアメリカでも作り上げた。

 これに対してシチリア島に残ったマフィアは、ファシストのムッソリーニ政権に徹底的に弾圧されて、壊滅的打撃を受けた。

 

 この状況をアメリカ政府が目を付けて、アメリカ国内のマフィアからアメと鞭で協力を取り付けて、シチリア島作戦の水先案内やサボタージュに利用した。

 

 圧倒的な物量差以外にも、枢軸側は戦う前から敗北していたと言えるだろう。

 


 上陸作戦は、日本軍は支援の役割で島の北部からも遠い南部海岸に2個軍団で上陸し、アメリカ第3軍が主力として島の南東部に上陸する手はずになっていた。

 

 上陸作戦には4000機以上の航空機が支援し、大西洋を押し渡った艦隊の多くも作戦に参加していた。

 

 以下が、この頃の地中海方面の連合軍海軍の編成になる。

 


・連合軍・地中海艦隊(司令官:近藤大将)(旗艦:CL《樫原》)

 (司令部はアレキサンドリア)


 日本海軍・第七艦隊・第一部隊(司令官:阿部中将)

BB:《伊勢》《日向》《山城》

CL:《最上》《三隈》《鈴谷》《熊野》

CL:《阿武隈》 DD:11隻 他多数


 ・日本・第八艦隊(鈴木中将)

CG《青葉》《衣笠》《加古》《古鷹》

CL《酒匂》 DD:16隻 他多数


 日本海軍・第九艦隊(司令官:岡田少将)

・第一部隊

CVE:《大鷹》《雲鷹》《冲鷹》《海鷹》

CL:《木曾》 DD:5隻

・第二部隊

CVE:《飛鷹》《隼鷹》《神鷹》《天鷹》

CL:《多摩》 DD:6隻


 アメリカ地中海艦隊

CG: 《ヒューストン》

CL: 《ボイス》《ホノルル》《へレナ》

CL: 《スプリングフィールド》《トピカ》

DD:18隻 他多数


 自由イタリア艦隊

BB: 《イタリア》 《コンテ・デュ・カブール》 他


 自由オランダ艦隊

CL: 《デ・ロイテル》 他


 ※一時派遣

 ・アメリカ第28機動部隊(TF48)のうち3群

 ・アメリカ第6艦隊

  ・TF61-1 (デイヨー少将) ※旧式戦艦部隊

  ・TF62-1 (スプレイグ少将)のうち2群 ※護衛空母群


 見て分かりにくいかもしれないが、支援に当たる海軍部隊の主力は地中海に一時派遣されているアメリカ海軍の空母機動部隊だった。

 他にも旧式戦艦を束ねた艦隊も展開していた。

 空母機動部隊は、ギリシア方面の空軍部隊と共にシチリア島とイタリア半島の狭い海峡の制空権を得て、退路を断つ事も期待されていた。

 

 そして直接上陸船団を護衛して艦砲射撃をするのは、あくまで地中海艦隊の予定だった。

 アメリカ第6艦隊の旧式戦艦群も艦砲射撃に参加するが、万が一イタリア海軍の残存艦隊が出撃した時に備えることにもなっていた。

 

 そして以下が、シチリア島上陸作戦部隊になる。

 


・アメリカ第3軍(パットン大将)

 ・米第2軍団    :第7師団、第25師団、第45師団

 ・米第3軍団    :第1機甲師団、第2師団、米第32師団

 ・米第7軍団    :第2機甲師団、第4師団、第34師団、


・日本陸軍・遣伊方面軍(山下大将)(一部)

 ・日本第7軍(軍団):第2機甲師団、第5師団、第18師団

 ・日本第32軍(軍団):第1師団、第9師団、第24師団


・総予備

 米第11空挺師団

 海軍陸戦隊第2特別陸戦旅団


(※重砲など支援部隊割愛)


 このうちアメリカ軍11万5000人、日本軍6万6000が第一波として上陸し、同時に空挺部隊が後方攪乱のために降下する。

 日本軍の場合は、上陸戦に慣れた第5師団と海軍陸戦隊第2特別陸戦旅団以外に、戦車第2師団が少し遅れて上陸する手はずだった。

 この配置は、少しでも速く機甲戦に移って短期間でシチリア島を占領することを目的としていたためだ。

 アメリカ陸軍も各軍団に機甲師団が属しているのも、同様の理由からだった。

 

 なお、ギリシア侵攻の一番槍だったアメリカ第2軍団の主力は、交代の部隊がギリシアに来るとすぐにもギリシアから引き揚げて、慌てるようにイタリア戦線へ移動していた。

 これはギリシア作戦がイレギュラーに近いことを物語っている。

 ただし流石に作戦初動には間に合わず、第2軍団はイタリア上陸から作戦参加予定で、シチリア作戦には第3軍団、第7軍団が作戦参加予定だった。

 

 また各師団、軍団は支援部隊を可能な限り減らして作戦にあたり、物資を減らしてでも多数の戦力で一気に押しつぶす方針が取られていた。

 上陸部隊は50万を予定していたが、本来ならこの150%ほどの兵員数になる。

 

 上陸部隊から支援部隊に至るまで、電撃的で圧倒的戦力を用いるのがシチリア島侵攻、ハスキー作戦の基本だった。

 


 これに対してシチリア島の枢軸軍は、イタリア第6軍を中心に30万の兵力があった。

 一部はイギリス軍だがチュニジアから後退してきた3万ほどなので、ほとんどがイタリア軍だった。

 

 しかしその30万の実状は、お寒い限りだった。

 というのも、北アフリカで精鋭部隊が壊滅または降伏したのが原因だった。

 しかもシチリア島は連合軍の足止めが目的なので、残る精鋭部隊もほとんど配備されていなかった。

 機動力のある部隊は全体の3分の1程度で、実質的に戦力外の黒シャツ部隊もかなり含まれていた。

 

 防衛のための準備期間も短かったので、沿岸防御陣地は一部の港湾と軍事施設以外は無きに等しかった。

 このため防御の基本は、水際で連合軍を押しとどめている間に機動力のある部隊で海に追い落とすという、ある種スタンダードな戦法が取られることになっていた。

 だが防ぎきれるとは考えられていないので、少しずつ後退して出来る限り敵を足止めして時間を稼ぐことが目指された。

 

 しかし枢軸側の問題は山積みだった。

 

 制空権はすでにイタリア南部ですら無くしつつあった。

 これは1944年11月にギリシアに連合軍が上陸したためで、イタリア南部はアドリア海から襲いかかるギリシア方面からの空襲に悩まされていた。

 イタリアを守るのはイタリア空軍とイギリス本国の地中海部隊だが、圧倒的な連合軍空軍の前に日々すり減らされていた。

 シチリア島の制空権獲得は望むべくもなく、シチリア島部隊がイタリア本土に後退する際の局所制空権の獲得が重要視されていた。

 つまり上陸部隊への空襲すら考えられていなかった事になる。

 

 機甲戦力は意外に豊富だったが、これはチュニジアに送り込むことが出来なかった兵器と物資がシチリア島にあったためだ。

 


 1945年1月25日、連合軍は予定通りシチリア島上陸作戦を開始した。

 圧倒的物量で制空権、制海権を握り、万全の体制で臨んだ上陸作戦だった。

 しかもこの上陸作戦での連合軍は運が良かった。

 と言うのも、連合軍将兵が船に揺られている前夜、シチリア島近辺の天候は荒れていたので、現地枢軸軍将兵は敵の上陸作戦が少なくともこの日には行われないと考えていたからだ。

 しかも上陸日当日は、天候もすっかり回復していた。

 おかげで場所によっては無血に近い上陸が行われ、25日の連合軍は上陸作戦の予定を全て消化することが出来た。

 日本軍が危惧した夜襲も無かった。

 

 そして翌日、欧州枢軸軍の反撃が行われる。

 最も有名なのは、日本軍が上陸したジュラ海岸での戦闘だろう。

 

 上陸当日に日本軍が警戒した夜襲が無かったので、日本軍は突破部隊を編成して内陸部への進撃を開始する。

 そこにイギリス軍第7機甲師団の戦車隊が、斜面を降りて殺到した。

 しかも彼らは複雑な地形、急斜面を選んで進撃してきたため、予想外の場所から反撃を受けた日本軍は大いに混乱する。

 

 だが、この時のイギリス軍は、機動性の点で連携を欠いていた。

 というのも、地形障害を越えたのが悪路に異常なほど強い「チャレンジャー」歩兵戦車で、別ルートの街道などの平坦な場所を進軍したのが「クロムウェル」巡航戦車とその改良発展型を中心とした部隊だったからだ。

 また、歩兵戦車は障害物や傾斜はものともしないが、とにかく速度が遅かった。

 それに対して巡航戦車は、クリスティー式の足回りと航空エンジンを流用した600馬力のエンジンを搭載しているので非常に快速だった。

 それでも歩兵戦車は100ミリ以上の重装甲で鎧われているので、多少の反撃をものともせずに進軍した。

 ただし「チャレンジャー」は、あくまで歩兵戦車なので対戦車火力が不足していた。

 自慢の重装甲のおかげで簡単には撃破されないが、敵が重戦車や重対戦車砲を持ち出すと、足の遅さもあって比較的容易く撃破されてしまった。

 しかも速度を求められる反撃に対応するのが難しく、数も十分では無かったので、結局は、相対した日本軍を少し驚かしただけで終わってしまう。

 

 一方巡航戦車部隊は、予想以上に順調に進撃できた。

 何より足が速かったのと、17ポンド砲(長い砲身3インチ砲)を搭載した新型の「チーフテン」巡航戦車があったからだ。

 「チーフテン」は、見た目は非常に「不細工」と言われることが多い。

 大きな17ポンド砲を搭載するために無理矢理大きな砲塔を載せるのは仕方ないが、その砲塔が急造だった事もあって角張った無骨な形状だったからだ。

 しかも車体からはみ出さんばかりの大きさだった。

 しかも重量が28トンから33トンと大きく膨れあがって、長所の機動性も大きく低下していた。

 とはいえ低下しても当時としては十分な機動性だったので、特に不具合は無かったと言われる。

 

 とにかく巡航戦車の群れは、日の丸を付けた「M4 シャーマン」の群れをあしらいつつ敵陣深くに切り込んでいった。

 別方面でも「チャレンジャー」が挺団を組んでジリジリと進んでいた。

 

 そこに海岸付近で何とか隊列を組み上げた、日本陸軍第二機甲師団の機甲旅団が反撃に転じる。

 

 日本の機甲師団は、東南アジア、インド、中東と続く戦いの間に改変に次ぐ改変を重ねて、1944年半ばにはアメリカ陸軍の機甲師団に匹敵する重武装師団に大きく変化していた。

 戦車隊は騎兵の名残である「中隊=連隊=旅団」の編成から「中隊=大隊=連隊」と大きく変更され、複合的に兵科を合わせた機甲旅団を編成して運用される事が多い。

 この時も、先に上陸した重見少将の機甲旅団が何とか隊列を整えていたので、反撃に投じることが出来た。

 そして歴戦の第二機甲師団は、この戦場に最新の機材を装備して乗り込んでいた。

 

 通称「重見支隊」は、重戦車中隊と中戦車大隊を中核にして機械化歩兵大隊、機械化重砲兵大隊、機械化工兵などから編成された諸兵科統合部隊だった。

 この時は部隊の全てが揃っていなかったが、戦車隊は揃っていた。

 そして彼らは、全て日本製で装備を固めていた。

 

 「四式中戦車 チト」、「三式重戦車改 ジカ」だ。

 

 「四式中戦車 チト」は、ようやく前線に届き始めたばかりの日本陸軍期待の国産中戦車だった。

 当初は30トン程度で開発が始まったが、敵戦車と戦況を見つつ改良と設計変更が重ねられ、本来は三式として完成する筈が1年以上もずれ込んでしまう。

 そのお陰で高い性能を得ることが出来たが、それは日本の中戦車としての高性能だった。

 

 重量は38トン。

 これを450馬力の国産液冷ディーゼルエンジンで、最大47km/hで走らせる事が出来た。

 外地での運用を考えて履帯の幅も広かったが、想定以上の重量となったためエンジンのパワー不足から、傾斜には少し弱く瞬発力も今ひとつだった。

 最大装甲は、砲塔前面で90mm。

 砲塔は一部鋳造とした大型のバスケット型で、その中に最早お馴染みとなってる九八式速射砲(ボフォース75mm砲のライセンス生産型)を搭載している。

 

 カタログデータ上は、中戦車としては十分だった。

 イギリスの新型の「チーフテン」と比べても、総合性能は勝っている。

 ただし、アメリカ製部品を使っても機械的信頼性はアメリカ製に劣った。

 しかもドイツ軍の主力中戦車である「V号中戦車 パンター」と比べると全ての面で見劣りした。

 「V号中戦車」は規格外といえる能力と重戦車並の重量を持つので仕方ない面もあるので、砲力だけはタングステンを豊富に使った砲弾を用いることで、ある程度対抗できるようになっていた。

 

 「チト」に対して「三式重戦車改 ジカ(JIKA or G-KA)」は、日本陸軍が自信を以て送り出した車両だった。

 

 元となった「三式重戦車 ジヲ」は1943年半ばに戦線投入以来、各戦線で大活躍している連合軍を代表する重戦車だった。

 連合軍の豊富な支援を得て進んでくる「ジヲ」は、枢軸軍将兵にとっては恐怖の象徴とすら言われた。

 その改良発展型が「ジカ」だった。

 

 外見は「ジヲ」とあまり違わないが、エンジン、足回り、装甲、全てが「ジヲ」を上回っていた。

 砲はアメリカ製の90mm砲のままだが、アメリカで改良されて装薬を増やして実質的な火力強化したタイプのT8(日本名「四式速射砲」)だった。

 さらに徹甲弾に豊富にタングステンを使った四式徹甲弾を用いることで、貫通力は大幅に向上していた。

 

 装甲は車体前面で100mmの一枚板、砲塔前面は最大で150mmに強化された。

 その分下面や上面、背面などの装甲が若干削られていたが、それは戦訓によって過剰と判断されたためでもあった。

 砲塔の鋳造部分も増やされた。

 加えて、ドイツ軍のように対戦車ロケット弾よけの薄い外板(=前掛け装甲=シュルツェン)付けたりもしている。

 

 当然だが、戦訓を受けて細々とした改造も加えられていた。

 

 総重量は50トンから54トンに増加していたが、エンジンも新型に強化されてチャージャー(機械式過給器)付きで700馬力あったので、重戦車としては十分な馬力だった。

 

 生産体制もさらに強化され、中戦車を追い抜く月産300両に達していた。

 もはや日本の主力戦車とすら言えた。

 国や資料によっては、重戦車ではなく主力戦車と表記されることもあるほどだった。

 ただしあくまでジカは重戦車であり、第一世代主力戦車とは言えなかった。

 


 日英の新鋭戦車同士の激突となったが、軍配は日本に上がった。

 

 「ジヲ」の改良発展型の「ジカ」は、チャレンジャーを寄せ付けず、砲塔正面装甲すら易々と貫いた。

 しかも17ポンド砲との撃ち合いでも、火力、装甲共に勝っており、遠距離から「チーフテン」の「デカ頭」を吹き飛ばしていった。

 

 「四式中戦車 チト」も色々言われることがあるが、少なくとも「クロムウェル」相手に後れをとることは無かった。

 いかに高機動でも6ポンド砲(57mm砲)と九八式速射砲では、格が違いすぎた。

 

 沖合の司令船から観戦していた山下将軍も、「これは勝負にならない」と呟いたと言われる。

 少なくとも海洋国家同士が作り上げた戦車開発競争は、この時点では日本の勝利だった。

 

 連合軍の初期の危機と言えるのはこれぐらいで、後の戦闘は連合軍の圧倒的優位に進んだ。

 後続部隊も続いて、上陸から11日目にはシチリア島全体での兵力量で勝った。

 

 しかし枢軸側も内陸のエトナ山を中心に防御陣を構築して、連合軍の進撃を阻んだ。

 そのねばり強い戦闘はイタリア軍とは思えないぐらいと言われたほどで、イタリア半島での戦いを予感させたとすら言われる。

 

 だが3週間後に、連合軍が島の北側に大挙上陸すると、それで勝負がついた。

 しかもアメリカ軍の空母機動部隊がイタリア半島南部を荒らし回り、ギリシア方面から連続する制空権への圧迫があるため、シチリア島は制空権の面で完全に連合軍のものとなってしまう。

 これは、シチリア島の枢軸軍が、狭い海峡を越えて撤退することの難しさを現していた。

 そして連合軍の航空機は、南イタリアとシチリア島にある船という船を目に付く限り吹き飛ばし、港湾を攻撃した。

 

 イタリア空軍と現地イギリス本国空軍も懸命に戦ったが、戦力が違いすぎて活動不能にまで追い込まれてしまう。

 この段階で、バルカン半島南部にいるドイツ第三航空艦隊が、ドイツ本国からの命令で大規模な支援を開始したが、うまくはいかなかった。

 そもそもギリシアには連合軍の2個航空軍(航空艦隊)がいて、これと対峙しているので余裕がないのに、いらぬ損害を受けた上に支援もほとんど出来なかった。

 ドイツ第三航空艦隊を預かるケッセルリンク将軍もそれは分かっていたが、命令通り戦うより他無かった。

 それにイタリア南部が連合軍の手に落ちれば、バルカン半島の制空権もさらに悪くなるので、その点からも黙って見ているわけにはいかなかった。

 


 そしてシチリア島攻略が続く中で、一つの大きな政治的変化が起きる。

 イタリアで20年以上も独裁政権を続けてきたベニート・ムッソリーニが失脚したのだ。

 

 ムッソリーニは1945年2月10日に解任され、パドリオ政権が成立した。

 その流れはクーデターであり、全世界に大きな衝撃をもたらした。

 しかしパドリオ政権は、引き続き枢軸陣営として連合軍と戦う姿勢を見せており、警戒したドイツ、イギリス本国を取りあえずは安心させた。

 しかしドイツ、イギリス本国共にパドリオ政権を信用せず、ドイツはただちにイタリア進駐できるように、ドイツ国内で準備を進めた。

 イギリス本国は、1個軍団の「増援」を急いだ。

 しかもイギリスの動きは、以前から動いていた増援計画なので、イタリア側も断れなかった。

 それ以前に、イタリア南部にはイギリスの陸軍、空軍部隊が多数展開していたので、簡単に連合軍と停戦できない状態だった。

 

 そしてドイツ、イギリス本国が警戒したように、パドリオ政権やイタリア王室は、水面下での連合軍との講和の動きを一層活発にさせるようになる。

 


 結局、シチリア島での戦いは一ヶ月弱続いて終わる。

 マフィアが連合軍側についたので、現地での持久戦やゲリラ戦を枢軸側は選択できず、また制空権を奪われたので島からの後退もままならないため、多くの兵が降伏を選ばざるを得なかった。

 それでも夜陰に乗じるなどして、全体の3分の1程度(約9万)がシチリア島からの撤退に成功している。

 

 なお、この戦いでもアメリカのパットン将軍と日本の山下将軍のコンビはうまく機能した。

 長い付き合いなので、お互いがお互いの長所を知っていて活かし合ったので、連合軍内での連携は非常にうまくいった。

 また、ヨーロッパに対する初の上陸作戦の成功だったので、今後の作戦のテストケースとされた。

 

 そして連合軍が上陸して進むべき場所は、まだまだ存在した。


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