フェイズ51「WW2(45)1944年頃の戦争経済」-2
満州帝国は、陸軍装備と弾薬ばかり生産しており、平和なときは満州の国土を開発するトラクターや各種自動車を生産していた工場で、戦車や軍用トラックを生産した。
航空機の多くも戦車を作るより楽なので、ライセンス生産が殆どだがかなりの航空機も作った。
ただし、戦車も航空機も一貫生産するだけの工業力はないので、エンジンなど重要パーツの多くを日本かアメリカから輸入していた。
それでも、東鉄系列の財閥と1920年代に日本から進出した日産財閥が、増産に次ぐ増産を重ねていた。
ロシアの大地では、いくらあっても足りないからだ。
日本国内での車両生産は、日本陸軍の陸軍工廠と三菱重工、豊田、小松などが生産していた。
日本での重機、トラックの大幅な増産は1930年代に入ってからだったが、戦争になると規模をさらに拡大して生産された。
このため戦車、装甲車の年間生産台数は、1940年度は1000両にも届かなかったが、1945年度には5000両を記録した。
戦争中の生産台数は1万5000両ほどで敵だったイギリス本国に劣る数字だが、満州での生産がさらに5000両ほど加わるので、イギリスを越える数字となる。
もっとも、ドイツは4万両以上、米ソは共に9万両以上を生産しているので、戦場で見られた日本の戦車は比較的少ない。
連合軍の代表的重戦車となった三式重戦車系列は例外だが、この重戦車生産を重視したことも日本の戦車生産数が少ない原因だった。
もっとも、弾薬以外で一番鉄を消費するのは造船だった。
おおよそ鉄鋼生産量全体の4分の1が造船に回されるので、粗鋼生産量が1000万トンだと鉄鋼生産量は660万トンになり、165万トン分の鉄が造船に回される。
この数字をさらに2割り増しほどした値が商船建造量になるので、約200万トンの商船が建造されていたことになる。
1945年の最大値だと粗鋼生産量はさらに40%増えるので、最大数値は280万トンとなる。
ただし粗鋼も造船も総力戦状態になったのは1942年度からなので、それまでの生産量は最大数値の精々80%程度になる。
これらを踏まえて計算すると、日本帝国は戦争中に約1400万トンの商船を建造した事になる。
1940年9月時点での商船保有量が約1000万トンなので、それ以上の量の商船を建造していた。
実際の数字もそれを示している。
そして欧州枢軸は、北大西洋以外での通商破壊戦は比較的低調だったので、日本が失った船舶量は意外に少なく(※最終的な日本の損失は全体の10%程度)、戦後の日本はアメリカに次いで世界第二位の商船保有国になっていた。
日本が地中海まで難なく進撃できたのも、この豊富な商船量のおかげだった。
なお、日本の本来の建造能力だと、さらに五割り増し程度の商船が建造可能という数字があるが、造機の製造能力と工員の数の問題もあって現実は不可能だった。
そしてさらに、民間造船所のかなりが戦闘艦艇(軍艦)を多数建造していたので、作りたくても作れなかった。
戦闘艦艇(軍艦)の建造についてもう少し詳しく見ていくと、日本海軍はあまり誉められる状態では無かった。
日本は1941年3月からアメリカのレンドリース(貸与)法の対象国となって、連合軍として十分な活動を行うために、多くの武器、弾薬、その他様々な物資のレンドリースを受けた。
レンドリースは文字通り借り物なので戦後に返さなくてはいけないが、日本政府は戦争中の日米双方特に日本でのインフレを勘案すれば、アメリカから借りた方が安上がりだと開き直った。
加えて、日本では生産できないもの、生産しても非効率なものの多くをアメリカに頼った。
反面、アメリカからは多数の高性能の工作機械を購入したりもしている。
これは非常に正しい決断であり、豊富なレンドリースは日本の軍事力を大きく高めた。
ただし日本の陸海軍は、アメリカから大量生産の兵器を貸与されることで、自国で生産する兵器については「作らなければならない兵器」ではなく彼らが「作りたい兵器」を優先して生産した。
「作りたい兵器」は、確かに戦場で必要だった兵器も数多いが、だからといって一概に誉められなかった。
日本陸軍は、多少の強迫観念はあっても必要に迫られて重戦車の生産に狂奔したが、日本海軍の場合は年々必要性が低下していった大型艦艇を好んで建造した。
日本では、最大で大型艦が9隻同時建造可能だった。
中型艦を含めると、最大で16隻の同時建造が可能となる。
そして準戦時計画と言える1939年度計画では、このうち8箇所で戦艦か大型空母を作り始めた。
残る1箇所と中型艦が建造できる造船所7箇所と共に、直衛艦と呼ばれる巡洋艦級の中型艦艇を建造していた(※戦争までは、一部ではタンカーなどの大型船が建造されている。)。
そして戦争が始まると1940年度、1942年度にさらなる建造計画が実施される。
1940年度の緊急と銘打たれた計画では、戦争が勃発したので不足が分かった軽巡洋艦4隻と艦隊型駆逐艦を40隻、《大鷹型》特設空母と多数の対潜水艦用小型艦艇、戦時型潜水艦を多数計画する。
そしてさらに、本命としての《改大鳳型》航空母艦が4隻も計画された。
また、民間造船所を圧迫する高速給油艦も多数計画された。
ただし高速給油艦だけは、遠隔地で戦争を遂行するためには是非とも必要なので仕方ない面もあった。
さらに1939年度計画の1年前倒しの予算が盛り込まれた。
海軍はもっと大型艦を建造したがったが、予算と建造施設の問題からやむを得ず見送った。
この計画は、《改大鳳型》以外は妥当な計画だった。
そして贅沢で必要性に疑問が付く事が多い《改大鳳型》航空母艦だが、それでも戦時建造型とも呼ばれるほど量産性と早期建造が重視されていた。
排水量は2000トンほど増えて基準排水量3万8000トンとなったが、大きさは船体幅が50センチほど増えただけだった。
幅が増えたのは、船体各所の幅を出来る限り均一にして建造を簡易化して建造速度を早めるためだ。
これはアメリカの《エセックス級》と少し似ているが、日本の場合はブロック工法を行いやすくするために行われた設計変更点だった。
他にも《大鳳型》からの小さな改良点はあったが、建造の簡易化が最大の特徴だった。
このため図面を見ると、かなりの違いを見つけることができる。
こうした努力から、《改大鳳型》も設計面では戦時に適応した空母と言えた。
だが、1940年秋の計画成立時点では日本の大型艦建造施設の多くが埋まったままのため、建造がすぐにできたわけではない。
また、早期建造できるように設計を改めたと言っても、排水量4万トンに迫る正規空母の建造は非常に手間と時間がかかった。
このため《改大鳳型》の就役開始は、1945年下半期が予定されていた。
計画された時点で、戦争が既に終わるか海軍の役割が低下している可能性を指摘されながらの建造だった。
そしてレンドリース対象となった後に計画されたのが、1942年度の「改第五次補充計画」になる。
すでに大型艦のほとんどは、この計画が動きだすまでに船台やドックから出て擬装岸壁に移動するので、全ての大型艦用建造施設が使えた。
これを全て再び大型艦の建造で埋めていく。
そして計画では、大型戦艦2隻、大型装甲空母3隻、防空能力を高めた1万トン級の汎用巡洋艦を8隻計画した。
何隻あっても足りない大型駆逐艦もさらなる増産が決まり、日本の建造施設は引き続き多数の戦闘艦艇を建造していくことになる。
だが今までと違って、対潜水艦用の艦艇、中、小型の揚陸艦艇はほぼ計画されなかった。
これら全ては、アメリカからのレンドリースが決まったからだ。
大型戦艦は《大和型》の改良型で、大型装甲空母は当初計画は3万9000トン程度の《改大鳳型》の改良型だったが、戦訓を反映して一回り大きくなり4万5000トン級に拡大された。
この規模は、アメリカの《ノース・アトランティカ級》大型空母とほぼ同じだが、能力を合わせるためにこの数字になったのではない。
その代わりに、建造計画数は3隻から2隻に削減されている。
なお建造計画数が3隻なのは、純粋に建造施設の問題だった。
予算検討の頃は、まだ連合軍が優勢とは言い切れなかったし、欧州枢軸が大規模な艦隊拡張していたので、本来ならもっと多くを建造したかったが、一度に建造できなければ戦争には間に合わないので、仕方なく中小の量産が容易い艦艇などにシフトしたという経緯がある。
汎用巡洋艦は、戦前の最後に計画した《利根型》の船体を基礎設計として排水量が1万トンを越え、今までで最も大きな軽巡洋艦だった。
ただし《利根型》のような特殊な兵装配置ではなく、常識的な装備を施す予定だった。
なお、改第五次補充計画は、大型艦の建造は平時だったら達成は1947年までずれ込んでしまうので、内閣特に大蔵省から強い反発が出た。
どうせ作るならば、戦争に間に合う艦艇を作るように求めた。
これに対して海軍では、造船施設のさらなる近代化と強化、3交代24時間体制を行うことで、時間的に戦争に間に合うとした。
さらに海軍は、大型艦の全ては《大和型》の建造でより有効性が立証されたブロック工法をさらに大規模に進めることで、さらなる工期圧縮と予算削減が出来ると論陣を張った。
しかも海軍は、1940年度計画で一部工事の準備を進めているので、さらなる工期の圧縮可能とした。
結局、戦後までを考慮すると中型艦の数を揃えても仕方ないという意見まで出て、海軍の計画は若干の修正を加えるだけで予算通過した。
なお《改大和型》戦艦は、ドイツが同時期に計画していた「H級」戦艦の改良発展型の計画と、イギリス本国の1942年度計画が漏れ伝わったために無理を押して計画承認されている。
ドイツが計画した「H42級」は排水量10万トン、20インチ砲8門という巨大戦艦を2隻で、イギリス本国は18インチ砲搭載の6万トン級戦艦2隻(仮称《ヴァンガード級》)を計画していたので、日本海軍の懸念もある程度は理解できると思う。
もっともドイツの計画は、設計担当者の熟練度を維持するための基礎設計のみの研究に過ぎず、イギリス本国は他の艦艇や兵器の生産を優先して計画を中止した。
1944年夏頃にそれらが判明してからは、《改大和型》戦艦の建造は一気にペースダウンしてしまう。
その時点で《改大和型》戦艦2隻の船体は完成していたので、そのまま長らく造船区画の片隅で放置に近い状態に置かれてしまう事になる。
拡大《大鳳型》装甲空母については、一応は代替艦でもあった。
就役する頃には《赤城》《加賀》が艦齢のため第一線の維持が難しくなるからだ。
また就役する頃にはジェット戦闘機の搭載が始まる事が計画されていたので、機体の大型化、ジェット化に対応した新世代の空母が必要となるため計画された。
拡大《大鳳型》装甲空母は、基準排水量4万6500トン、全長298メートルの巨体で、飛行甲板の主要部を装甲で覆い、さらにジェット機の噴射に耐えられる耐熱甲板とされる予定だった。
船体構造、格納庫など多くの面でさらに完成度が高められており、設計面でアメリカを越えたと言われることもある。
完成については、1番艦、2番艦は1946年中が目指されていたが、既存艦艇の修理などもあって1944年の時点でも工期通り行くかは微妙だった。
一方で、こうした新規艦艇の人員確保のため、国内にいた旧式艦の整理が進められた。
加えて、いきなり新規装備を搭載するわけにもいかないので、試験装備する艦艇もあった。
軽巡洋艦《夕張》は、もともと実験的に建造された小型巡洋艦だった。
建造当初は世界を驚かせたが、武装に対して余裕のない船体規模と構造のため大規模な改装を受けられなかった。
第二次世界大戦では初期の頃に少し前線に出ただけで、その後は呉近辺にあって小型艦用の装備実験艦に指定されて、様々な装備を載せ換えて実験する任務に就いていた。
しかし大型装備を搭載することができないので、そこが悩みの種だった。
そこに、戦場で大破した《扶桑》が日本本土に戻ってくる。
当初日本海軍は、機関の半分が破壊されたのを理由に機関換装を含む大改造を予定した。
しかし旧式すぎる戦艦を時間をかけて改装しても戦力価値は知れているし、何より欧州枢軸の大型艦は減少するか《扶桑》では対抗が難しい新型艦に置き換わりつつあるため、改装の理由も薄れていた。
そこで、大きなプラットフォームを利用して、様々な装備実験艦の任務に就くことになる。
破壊された機関の半分はディーゼルに置き換えて人員を大幅に削減し、主砲、副砲もほとんど降ろして、様々な新規装備を搭載した。
このため《夕張》《扶桑》は、二度と前線に出ることは無かった。
また練習空母となった《凰祥》なども同様で、実験艦隊と練習艦隊に分かれて、主に瀬戸内海の呉、柱島近辺で行動した。
また旧式艦の整理だが、対潜作戦や船団護衛に酷使されていよいよ旧式化して機関の寿命などがきた旧式駆逐艦が主な対象とされ、乗組員達は新造されたり貸与された艦艇に乗り換えていった。
巡洋艦以上だと、軽巡洋艦《天龍》《龍田》が1944年に入って予備役に入れざるを得なくなった。
船体や機関の寿命もあるが、小型すぎるため機関を換装して延命しても使える場所が限られてしまうからだ。
このため両艦は練習艦とされて、増え続けた水兵の教育に当たった。
このため魚雷発射管の一つを降ろして急造の居住区を作るなど、練習艦としての簡易改装も行われている。
それ以外の旧式化だと、《金剛型》戦艦も平時なら1944年から順次予備役の予定だったが、戦前の機関換装を含む近代改装のおかげで、1949年までは運用可能と判定されていた。
ただし、使い勝手のいい旧式の高速戦艦なので酷使されたため、1946年内の運用が限界となっていた。
運用を続けるには機関の換装を行わなければならないが、予算ばかりでなく時間がかかるため、余程の事が無い限りさらなる改装予定は無かった。
そして計画の中で最も巨大で最も長期だったのが、特殊な潜水艦建造計画だった。
この計画のために、多くの大型艦の建造が見送られたほどだ。
ただし同計画は、潜水艦建造に止まらず多くの応用研究が含まれていた。
計画の中核が、世界に先駆けた「原子炉」の開発だったからだ。
日本海軍は、遠隔地での作戦が一般的となった第二次世界大戦で、少しでも長く活動できる潜水艦を求めた。
その中で行き当たった一つの回答が、当時最新の核分裂反応の応用研究だった。
計画は海軍だけでなく、陸軍、商工省から果ては内閣全体まで巻き込んだ大きな計画として立案されていった。
それでいて秘密性は高いため、「秘密の計画」とされた。
計画名称は「ゲ号計画」、通称「G計画」と呼ばれ、原子力の総合的な研究と開発を行うもので、理化学研究所と日本中から集めた最先端の物理学者、数学者が参加していた。
同時に新兵器の運搬手段についても、研究と開発が行われるようになっている。
しかし、海軍が一番に求めたのは動力機関で、商工省は戦後を見据えた発電装置であり、初期の計画中には不思議と「爆弾」の項目が無かった。
意図的に隠されていたと言われることが多いが、後年関係者からの話を集めると、海軍は当初は爆弾のことはほとんど念頭になく、無限の航行能力を求めてて研究、開発が始まったのは確からしい。
もちろんその後の研究で爆弾の研究も始めているが、それは大型攻撃機とセットの開発計画で、アメリカで同時期に始まった計画の後追いに近かった。
研究、開発が始まったのは1941年末頃で、本格化したのが1942年度の予算からだった。
海軍では潜水艦動力としての研究、開発が第一項目とされ、新たな動力装置を搭載する潜水艦も計画された。
当初から動力装置が大型化するのは避けられないと考えられたので、潜水艦自体も多少の余裕を見越して空前の規模に拡大された。
これが「特型」と呼ばれる潜水艦の始まりであり、1951年に世界初の原子力潜水艦《伊401》潜水艦が就役するまで、約十年もの歳月を掛けて建造される事になる。
《伊400》潜水艦の船としての形状が古くさいままだったのは、試作型3隻がこの時計画されたためだった。
また、就役当時でも特殊だった主搭載兵器の巡航ミサイルも、計画当初は航空機を搭載予定だったので、潜水空母という呼び方を行う場合もある。
実際、通常動力艦としての実験用に1隻が戦中に建造されているが、同潜水艦は艦橋とセットになった大きな格納筒を船体上部に装備して、2機の水上偵察機を搭載できる姿で完成している。
そしてこの通常型は、第二次世界大戦で建造された世界最大級の潜水艦というタイトルホルダーを得ている。
なお、日本で極秘に開始された原子力潜水艦開発は、途中から一部がアメリカとの共同開発となった。
そしてアメリカ側からの架け橋となった人物が、「原潜の父」とも言われるハイマン・リッコーヴァーだ。
彼はアメリカ海軍の機関科の将校出身で、フィリピンやハワイで勤務していたため、日本海軍の同種の関係者とも親しい人脈を作っていた。
そしてアメリカ海軍が電気推進先進国であり彼が電気に詳しい人物のため、日本側からも技術指導として呼ばれたこともあった。
その経緯で、双方の極秘開発となった原子力潜水艦開発に携わり、彼自身の強い希望もあって最も開発が進んでいた日本での開発に携わっている。
国としての初の原潜保有は日本海軍だが、彼の活躍無くして早期の原子力潜水艦建造は無かったとも言われる。
そしてその後の彼は、晩年までアメリカの原子力潜水艦開発と建造に携わることになる。
日本海軍でも、第一人者であり唯一の人材といえる彼に師事する者が多かった。
なお、「ゲ号計画」の研究成果は、その後アメリカにレンドリース数億ドル分(詳細不明)を対価として1943年秋頃に有償提供され、アメリカでの急速な原子爆弾開発に応用されている。
また日本でも研究開発は続けられたが、開発に成功したのはアメリカからの有償技術供与があった戦後しばらく経ってからの事となる。