フェイズ51「WW2(45)1944年頃の戦争経済」-1
1944年11月7日、アメリカ大統領選挙の結果が出た。
選挙結果は、共和党候補のトマス・デューイが破れ、民主党候補コーデル・ハルの勝利で終わった。
世界中は、戦争中は政治的混乱を避けるため共和党政権が続くと安易に考えていたので、大きな衝撃をもたらした。
もっとも、当のアメリカは平静だった。
と言うのも、アメリカではフーバー政権以来4期16年も共和党政権が続いていたので、市民達はそろそろ民主党政権が成立するべきだと考えていた。
また、共和党に楽観論が強かったことも、政権交代の原因だと言われることもある。
民主党勝利の原因は色々言われたが、結局のところ4期16年も共和党政権が続いた事が原因だった。
これは恐らくアメリカでしか通じない政治的感覚だった。
また、ランドン政権は国際協調や融和外交を優先しすぎて、「アメリカ国内」の政治的感情を軽んじたからだとも言われた。
というのも、アメリカの外交は常にアメリカ国内、特に選挙を考えて行うのが常だからだ。
これは建国以来変わることはなく、極端な言い方をすれば選挙の前には必ず戦争か、それに近い外交が実施されている。
これを怠った政権(=政党)は、殆どの場合次の選挙で敗北している。
外交担当の省庁が国務省とは、言い得て妙なのかもしれない。
なお、ランドン政権2期目の場合は、既に世界大戦に参戦していた。
42年秋の中間選挙までには、カリブ海で優勢を確保する勝利を得ていた。
ここまでは、及第点と言えた。
実際、42年秋の中間選挙では、共和党が無難に勝利している。
しかしランドン政権は、戦争全般に渡って日本、ソ連、自由英との融和外交と連携を強めた。
連合軍が勝利するためには当然の策なのだが、アメリカが譲歩しすぎているとアメリカ市民達には映った。
この典型が、1943年8月の「アンカレッジ(首脳)会談」だ。
会談の主導権が日本の山梨首相にある事は、粉飾されたアメリカ国内の新聞報道を見ても明らかだった。
他にも、主にアメリカ国内で行われる日本、自由英との交渉でも、アメリカが譲歩しすぎている、もしくは存在感に欠けていると見られる向きが強かった。
この心理的背景には、アメリカは世界最大の工業力と国力を持つという奢りがあったと言われる。
これに対して、日本はまだまだ新興国であり「真の一等国」を目指すという国民の意気と熱意があり、自由イギリスは祖国をナチスと国内のファシストから解放するという使命と危機感があった。
これらがアメリカ外交の存在感を薄めさせていたと言われる。
もっとも、客観的に見ればアメリカは十分以上に戦争に貢献して、外交でも存在感を示していた。
多分に感情論が強かったが、その間隙を民主党が突いた。
その象徴こそが、コーデル・ハルが大統領選挙の出馬だった。
コーデル・ハルは、フーバー政権の頃から民主党の上院議員を務めていた。
また、1932年の選挙運動中に倒れたフランクリン・ルーズベルトの友人だった。
30年代から戦争中にかけても民主党で重要な役割を果たし続けていた。
特に民主党が行う「外交」の中心的人物で、30年代半ばにはフーバー政権に請われて上院議員を返上してイギリス大使も務めている。
そして十分な準備期間を挟んだ後に選挙に出馬した。
この出馬は、友人のルーズベルトの事実上の遺言があったからだと晩年のハルへのインタビューで明かされたが、その事を知らなくても強い意志を感じさせる姿だった。
だが、出馬も簡単では無かった。
土壇場までウェンデル・ウィルキーと候補者争いをした末での出馬だった。
ただしウィルキーは指名選挙で敗北したこの年の10月末の選挙本選の直前に急死しているので、民主党としては「ツキ」が回ってきたと感じさせたと言われている。
一方の共和党は、フーバー元大統領のかつての言葉通り大統領が3選出馬を辞退することから始まった。
ランドンが3期をする事に対して、戦時中だから問題ないという言葉も少なくなかったが、今は良くてもその後禍根になると考えられたので、ランドンが続けて出馬することは無かった。
もっとも、次の候補となるべき人選は決まらなかった。
「コレ」という人物がいなかったからだ。
候補を決める時も盛り上がりに欠けていた。
結局、トマス・デューイに決まったが、かつてのランドン同様にパッとしない人物だった。
検事として非常に優秀な人物だったが、政治家としての経験は直近のニューヨーク州知事ぐらいだった。
だから共和党は全面的に支援し、デューイも巧みに選挙戦を行った。
選挙戦は接戦だったが、基本的に共和党優位で進んだ。
やはり戦時ということで混乱を嫌った市民も多かったからだ。
だが最終的な選挙の結果、僅差でコーデル・ハルが勝利した。
選挙結果に対して、連合国各国は混乱を最低限とするように要請を出した。
コーデル・ハルと民主党も、選挙運動の時から自分たちが勝利しても戦争運営の大筋に変更はないし、政府のスタッフのうちに軍関係者はそのまま据え置く事を明言していた。
だが、軍以外の長官(=大臣)は入れ替えざるを得なかった。
大統領は当然コーデル・ハルで、副大統領には戦争中に民主党が作った軍事費の使用状況を調査・報告する機関の長を務めていたハリー・S・トルーマンが就任した。
トルーマンは副大統領の前の仕事で知名度を急速に高めていたし、戦争にも大きく貢献していたので異を唱える声は共和党からも少なかった。
国務長官には、数ヶ月前まで駐日大使を務めていたジョセフ・ケネディが就任した。
ケネディは民主党だったが、彼は政界への進出を目指していたので、支持していた民主党を様々な手段で説得し、さらに共和党政権へも接近し、そして幾つかの役職を経た末に1938年に、アングロ系から敬遠されがちながら外交的な要職の一つとされていた駐日大使の座を掴むことに成功した。
そしてケネディは駐日大使として辣腕を振るい、特に原敬系の政治家からは強い信頼を受けた。
日本の外交政策にも少なからず影響を与えており、特に日米関係を強固にする事に貢献した。
また彼は、赴任前から日本への自分の宣伝を十分に行っていたので、大物が大使に派遣されたと日本人達は思い大いに歓迎されている。
大戦中も山梨政権と深い信頼関係を築き、アメリカと日本が連合軍の中核として戦うことに貢献した。
しかし彼が駐日大使になったのは、モルガン財閥への対抗心と満州への足がかりを得るためだったと言われることもある。
1930年代後半は、モルガン財閥に属するプレスコット・ブッシュが日本と満州の経済面で活発に活動していたが、対抗心を燃やしたと言われることもある。
なお、彼が国務長官に選ばれたのは、彼がアイリッシュ系移民だからという説が強い。
つまりヨーロッパ、中でも英本国との戦争を見据えての事だった。
その代わりと言うべきか、副長官には同じジョセフの名を持つ親日家のグルーが選ばれた。
こちらは、日本を疎かにしないという姿勢を見せるためだ。
財務長官には、ヘンリー・モーゲンソーが就任した。
彼もハル同様にルーズベルトの友人で、民主党の経済、財務関係の重鎮としての役割を果たしていた人物だった。
彼はケインズ派に否定的な正統派の経済学者のため、戦時の財政家としては相応しくなかったという意見もある。
総力戦を行う時の戦時経済は、典型的なケインズ型経済の姿をとりやすいからだ。
それは当人も分かっていたのか、共和党時代の政策を踏襲することが多かった。
しかし旧中華民国の実質的な産業解体をより強固に進めた事で、彼は一部で悪い評価を受けることもある。
そして明言したとおり、政府内の軍関係者は変更されなかった。
しかし軍人にも共和党と民主党の支持者がそれぞれいるし、政治家と繋がりのある高級軍人も少なくなかった。
このため幾つかの人事異動は、やはり行われることとなる。
それ以上に、翌年1月の政府の再編成までに内閣を中心とした政府中枢は共和党から民主党に衣替えしていく事になり、アメリカの政治と外交は停滞を余儀なくされた。
もっとも、アメリカ市民が大統領を変えた事に象徴されるように、戦争自体の大局はすでに決したに等しかった。
もはや欧州枢軸に戦争をひっくり返す力はなく、後はいつ降伏するか、いつベルリンに連合軍が進撃するかの前段階だった。
何しろ戦場は、欧州で行われていた。
新しい政府は、戦後の外交も見据えて選ばれたといえるだろう。
だからこそのコーデル・ハルだった。
そして第33代大統領となったコーデル・ハルは、この後外交面での活躍が大きく評価されるが、彼がこの時期のアメリカ大統領でなければ連合国(U.N.)の成立は遅れるか、少し違った形なったと言われることが多い。
だが、アメリカの政治と外交が新たに動きだすには少し時間が必要で、その間を日本を中心とした連合国各国が支えなければならなかった。
そして一時的に役割の増した日本だが、日本の戦争中に少なからず変化しつつあった。
1940年夏の参戦以後、日本帝国は国家の総力を挙げて戦争に邁進した。
しかし、米英など本当の列強、いや先進国に比べて、様々な面で足りない面があった。
このため国家体制の強化が急速に図られ、所謂「戦時体制」に移行していった。
その際たるものが「国家総動員法」だった。
これを以て、日本も軍国主義だったというリベラル派(左派)の意見もあるが、このような法制度を整備しなければ、当時の日本は国家の総力を挙げた戦争を遂行することは不可能だった。
真の先進国だったアメリカに比べて、近代国家として大きく劣っていたからだ。
だが総力戦体制は、戦争経済を維持するために国民の最低限の生活も守らなければならなかった。
民衆が疲弊しすぎたら、戦争を継続できないからだ。
このための法律の多くは、今までしたくても出来なかった「民主的」な法律が多かった。
最低賃金法につながる「賃金統制令」、「小作料統制令」がその最たるもので、これらの平和になっても有効な法律は、戦争が終わっても一部を改めただけでそのままとされている。
他にも、労働者を守る法律がいくつも作られている。
また、随分前から懸案だった大規模な省庁改革も進んだ。
巨大だった内務省の実質的な分割が行われて、厚生省、労働省、建設省が誕生した。
内務省の肥大化は1920年代から言われて、すでに庁という形での分裂が始まっていたが、戦時の挙国一致内閣でなければできない荒技と言われた。
また、地方自治にも大きなメスが入れられ、市町村の合併が押し進められた。
この中で首都と非常時に臨時の首都機能が担える大都市の合併と特別市が法律として制定される。
この結果、周辺の市町村を飲み込んだ東京特別市と大阪特別市が誕生する。
名称は東京都、大阪都となり、市長を置かずに知事が直接治める大都市とされた。
また都市整備、行政府整備のため、戦後に都市改造を行うことも決められた。
また大阪には、商工省、鉄道省、建設省など主に経済部門の省庁の正式移転も決定した。
戦時に移転しないのは、施設建設のための鉄鋼やコンクリートなどの資材不足、労働力不足のためで、したくても出来ないからだった。
そして大阪市中心部にあった大阪造兵工廠は、戦争初期に僅かだが爆撃を受けたことで危険性も分かったため、他の軍事施設のほとんどと共に全て郊外に移転することが決まる。
そして跡地は、緑地帯(公園)と行政地区としての再開発が決められる事となった。
首都東京でも、軍の施設の郊外移転の多くが決められた。
これらの改革、特に中央での数々の法制度整備によって、戦争中に日本の民主化は一気に進んだと言われることも多い。
一方では、「国民徴用令」や「価格統制令」など、国民に無理を強いる法も少なくなかった。
貴重物資の配給は欧州諸国でも行われたが、日本でもかなり強く行われた。
もっとも、戦時中の方が食糧は溢れていた。
これには同盟国の事情が強く関係していた。
戦前のイギリスは本国の食糧自給率が低く、食糧の多くは英連邦諸国で生産し、さらに足りなければ南米のアルゼンチンやアメリカから輸入していた。
他の欧州諸国の一部も、アルゼンチンなどから食糧を輸入していた。
だが戦争で英本土(と欧州全体)が敵となると、カナダなどの食糧が一気に余ってしまった。
これをアメリカ政府などが買い上げて、一部を無償で解放し、それ以外の多くもレンドリースとして食糧の不足する連合国にばらまいた。
俗に言う「小麦攻勢」の始まりだ。
中立国のアルゼンチンなども、欧州からの船が滞り始めると牛を育てすぎて採算割れしたり腐らせるよりマシなので、安価で各国に営業をかけた。
中立国の物資なら欧州枢軸も何とか買えたが、43年半ば以後になると欧州と他の地域を結ぶ航路が連合軍によって断絶させられたため、これも連合国が買い上げねばならなくなってしまう。
一方で、食糧流通のアメリカへの一極集中が一気に進み、所謂「穀物メジャー」が躍進する最大の切っ掛けともなった。
そして食糧の多くは、レンドリースで穀倉地帯を奪われて困窮するソ連に流れたが、それでも多くが余剰していた。
その余剰のかなりが日本に流れてくる。
戦争中の日本では、農業の担い手の多くが徴兵または招集されていたし、窒素肥料の工場の多くは火薬の原料を作っていたので、食糧生産力が衰えていた。
徴兵と燃料問題で、漁獲高も大きく落ちていた。
このため日本政府としても、アメリカや自由英からの供与は有り難かった。
とはいえ、流れてきた食糧は、膨大な量の小麦と牛の冷凍肉だった。
日本でも小麦は麺類などで食べられていたが、とてもではないが消費と活用が追いつかなかった。
このためアメリカなどから多数の職人が招かれて、日本の「臨時主食」としてのブレッド(パン)の普及が大規模に開始される。
42年からは、小学校の給食を全てパン食としたが、それも焼け石に水だった。
日本中の婦人会は、小麦料理について頭をひねらせる事になる。
連動して、インドを解放した事で紅茶が、紅海を越えた段階でコーヒーが大量に流れてきたので、これを切っ掛けとして日本で広く飲まれる事にもなる。
牛肉料理も、一気に庶民化した。
日本の食糧事情を根底から変えたと言われる変化の始まりであり、前線でもアメリカが補給を担当した場合も、日本人将兵などにはパンなどアメリカの食料が供給された。
日本人は米(ジャポニカ米)を好んだが、無いものはしかたないので、目の前に溢れるパンに手を付けた。
そして好むと好まざるとパンの味、小麦の味、さらに肉の味を覚えていく事になる。
しかし英本土が奪還されれば食糧の流れが再び変化する事が確定的なので、日本政府は過度の食糧流入を警戒してもいた。
結局、日本政府の警戒は杞憂に終わったが、日本人の食生活が戦争中に大きく変化し始めたのは間違いなかった。
そして変化は食糧面だけではなかった。
とにかく総力戦を遂行するため、重工業を中心に増産に次ぐ増産が実施された。
可能なら工場の建設も行われ、その最たるものが製鉄所と造船、航空産業、自動車、火薬用の化学工場などの軍需産業と軍需と直結する産業だった。
その影響で、被服などの軽工業生産が大きな犠牲になるほどの弊害が出たほどだった。
重工業の指標とされる粗鋼生産力は、1940年時点で最大生産力が1000万トン(※生産実績は800万トン台)と推定されていた。
アメリカ(6000万トン)、ソ連(2000万トン)、ドイツ(1800万トン)、イギリス(1300万トン)、フランス(1200万トン)に次ぐ数字で、この点では十分列強と言える。
しかし1930年代に入るまで中間資材となる銑鉄が十分に生産できなかったため、代替手段としてアメリカなどから屑鉄を輸入していた。
これは1932年の八幡製鉄所の拡張、1934年の広畑製鉄所の全面操業で解消されたが、日本が急速に発展している証拠であると同時に、工業新興国の現れでもあった。
そして戦争に入りつつある頃でも、拡張は続いていた。
1930年代になると、大阪の堺、千葉の君津の大規模な埋め立て造成が実施され、そこに巨大な鉄鋼コンビナートの建設が実施された。
これは共産主義国や全体主義国の五カ年計画を真似た「重要産業五カ年計画」によって計画されたもので、一気に英仏を越える粗鋼生産力を達成する為の施設だった。
また三重の四日市、岡山の水島には、同じく埋め立て地を作り製鉄所と少し遅れて石油化学コンビナートの建設が開始された。
二つの石油化学コンビナートは、満州帝国での巨大油田の発見に伴った需要に応えるために建設が開始されたもので、満州、日本でのモータリゼーションに対応するためでもあった。
埋め立ては工場建設から10年近く前から開始され、多数の労働者、各種重機、運搬用トラック(ダンプカー)の需要を産んだ。
そして埋め立て土を取った後の場所は整地されて、未来の郊外住宅地としての整備が行われた。
他にも、重工業地帯に水と電力を供給する大規模なダム開発、水力発電所の安価な電力を利用したアルミニウム・プラントなどの建設も行われた。
関連して道路網も整備され、アスファルト舗装の道が大幅に増えた。
これらの産業だけで、膨大な労働需要と社会資本の投資が発生した。
そしてこれら四つの巨大工業施設は、戦争が開始されると最優先で建設工事が進められることになり、一部ながら戦争中に次々と操業を開始するようになる。
この結果、日本の粗鋼生産量は、1945年度には1400万トンを記録。
戦前のイギリスの数字を追い越すまでに拡大する。
なお、鉄鋼生産量は、おおむね粗鋼生産量の3分の2程度になり、実際に鉄鋼は850万トン生産されていた。
そしてその鉄を、武器、弾薬の生産が猛烈な勢いで消費した。
それでも粗鋼生産は足りないが、この時期の満州帝国も40年近い発展と拡大のお陰で、600万トンの粗鋼を生産するようになっていた。
この生産量はイタリアを超える量で、工業国として十分に連合軍の一翼を担っていたと言える。
日本と合わせればソ連の生産量を超えており、日本が生産面でも連合軍の重要国だったことが分かる。