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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ50「WW2(44)ギリシア奪回」-1

 1944年9月15日、連合軍はモロッコに上陸し、9月末にジブラルタル要塞も降伏した。

 その頃には、リビアでの戦いも終わりつつあった。

 欧州枢軸軍の北アフリカ戦線は、枢軸側の想定を上回る総崩れだった。

 

 しかも建て直しが効かないため、崩壊速度は加速を増していた。

 


 アジアから進んできた連合軍がチュニジア進撃のための補給線を整えている間に、大西洋を押し渡った連合軍は艦隊と船団の一部にジブラルタル海峡を越えさせ、9月中にオラン、アルジェに中規模の強襲上陸作戦を行って電撃的に占領してしまう。

 この時点で上陸されるとは考えていなかった現地枢軸軍は、無血上陸どころか銃弾一発撃たないまま連合軍の上陸を許し、何もできないまま無血開城する形で降伏するより他無かった。

 

 これでモロッコから後退中の欧州枢軸軍の多くが退路を断たれ、絶望的な状況で戦うか降伏の二者択一を迫れた。

 まさに「マッカーサー戦法」の真骨頂だった。

 

 一連の戦闘で、モロッコからアルジェにいた約100万の枢軸軍将兵のうち、実に80%の兵力が失われた。

 同時期、リビア西部でも30万以上の兵力が包囲殲滅され降伏しているので、欧州枢軸軍は100万以上の兵力を短期間のうちに失ったことになる。

 このうち半数以上が退路を断たれた為の戦わずしての降伏で、それ以外も戦闘での負傷後の降伏なので戦死者は非常に少なかったが、枢軸軍が多くの兵力を失ったのは間違いなかった。

 しかも降伏した兵のかなりの数が、その後連合軍側の兵士となっている。

 救国フランス軍の規模が一気に拡大したのも、自由イタリア軍が増えたのも、これ以後の事だった。

 

 この北アフリカでの打撃により、フランス軍は陸軍と空軍が半身不随に陥った。

 リビアのイタリア軍も半壊状態となり、イギリス本国軍が受けた損害も深刻だった。

 そして盟主ドイツの損害が第5航空艦隊の基地部隊だけなので、連合軍への敵意よりも欧州枢軸内でドイツへの批判が一気に高まることとなった。

 それ以前の問題として、地中海の防衛体制が一気に壊滅どころか崩壊状態に追いやられた事を意味しており、戦争を投げ出さないのなら建て直しが急務だった。

 

 連合軍は、連合軍側の準備さえ整えばどこにでも望んだ場所に上陸作戦が行えるほどだった。

 何しろ、地中海沿岸の海岸線の防備は、ほとんど計画書の上にしか無かった。

 

 だがドイツ軍には、地中海方面にこれ以上の兵力を割くことは出来なかった。

 バルカン半島の第3航空艦隊の一部をイタリア方面に移動させ、北太平洋で壊滅した第5航空艦隊の残骸を、ノルウェーの航空隊の多くを移動させて再編成する以上の事は無理だった。

 当時、ロシア戦線の南方方面でソ連軍が全面攻勢に出ていて大敗を喫したため、陸軍は中東から後退してきた部隊以外、一兵も割くことが出来なかったからだ。

 

 それでも、ドイツ本国に戻っていた再編成や休養中の部隊のいくつかを、フランスとの合意の上でフランス南部に移動させた。

 しかしそれだけでは全然足りないので、欧州枢軸内で協議が重ねられた結果、イギリス本国から陸軍の増援がイタリアに派兵されることになる。

 イギリス本国軍も、インド、中東、北アフリカ、リビア、そしてカリブで無為に多くの兵力を失っていたが、この時点で北アフリカ以外の地上戦線を抱えていなかったので若干の余裕があった。

 また、イギリスで多数生産される兵器が、イタリア、フランスにより多く供与されることも決まり、陸軍力の再編成と再展開が急がれた。

 

 そして欧州本土防衛の時間を稼ぐための最後の砦となるチュニジアに、最低三ヶ月、敵を押しとどめるだけの兵力増強が急がれた。

 シチリア島やイタリア南部には、イギリス空軍を中心に航空隊の大幅な増強も実施された。

 イタリアへの支援も一時的に増やした。

 

 連合軍は、チュニジアで東西から進んできて握手した後、圧倒的戦力でシチリア島、イタリア半島と順当に進んでくる可能性が最も高いと判断されたからだ。

 チュニジア国境には、東西から連合軍の大部隊が押しよせつつあった。

 モロッコを攻撃した大艦隊の主力部隊も、アメリカ東海岸に戻らずモロッコなどで補給し、地中海に入る様子を見せていた。

 

 だが、思わぬところに連合軍が進撃する事となる。

 


 連合軍は、1943年夏の首脳会談の際に、ソ連との約束で1944年内にヨーロッパ大陸のどこかに第二戦線を構築すると約束していた。

 だが、44年2月にモロッコ沖での戦闘でつまづいた事を遠因として、フランス南部への上陸は年内にはどう考えても不可能だった。

 出来そうなのはイタリア半島上陸だが、これもチュニジア、シチリア島と進んだ上でのイタリア半島上陸なので、年を越すことが確定的だった。

 

 そうした中で白羽の矢がたったのが、意外と言うべきかギリシアだった。

 

 ギリシアを先端部とするバルカン半島方面には、ドイツ空軍の第三航空艦隊と、ドイツ陸軍の中東派遣軍を再編成した部隊が展開していた。

 他は現地のギリシア軍(※ドイツ、イギリスからの供与武器で若干強化されたギリシア王国軍)とブルガリア軍がいたが、取るに足らない戦力だった。

 

 だが、現地ドイツ軍の実状も寂しい限りだった。

 もともとが、中東から破れて後退してきた部隊だからだ。

 

 第三航空艦隊こそルーマニアの油田を防衛するための増強と再編成が急ぎ行われたが、任務の関係上、油田防空のための戦闘機隊が多くを占めていた。

 しかも部隊の3分の1近くは、次の戦場と考えられたイタリアに派遣されつつあった。

 空軍の地上部隊は高射砲部隊ばかりで、数千門の高射砲はすべて油田防衛の配置に就いていた。

 

 陸軍の方は、ロシア戦線への補給と補充が優先されていたため、兵士の補充すら十分では無かった。

 アルバニアのイタリア軍やユーゴスラビア、ブルガリアなど一部東欧諸国の軍で代替していたが、実質的な兵力は全然足りていなかった。

 このため防衛が難しいギリシア南部(ペロポネソス半島と首都アテナ周辺)は、若干のギリシア軍がいるだけで戦略的には切り捨てられていた。

 このため義勇SS部隊を武装親衛隊が編成しようとしたが、バルカン半島南部の各国の反発が強まっていたため、結局形だけにとどまった。

 

 しかもユーゴスラビア王国地域でのゲリラ戦が1944年に入ってから活発化しており、なけなしの兵力がゲリラ討伐に使われている状態だった。

 ユーゴスラビア王国地域で編成された枢軸側の各部隊(主に義勇SS部隊)も、政治的理由もあって同国内以外では使えない状態だった。

 


 少し話を戻すが、バルカン半島南部の情勢を見てから、次に進みたい。

 

 バルカン半島南部は、長らく大戦の蚊帳の外にあった。

 というのも、大戦は一度1940年7月に終わり、ロシア(ソ連)を除く欧州全土がドイツの軍門に降ったからだ。

 その後8月にはアメリカ、日本との戦争が起こったが、それはイギリス本国やドイツの戦争であっても、欧州の戦争では無かった。

 1941年5月にロシア(ソ連)との戦争が始まっても、国境を接していない小国が出来ることは無かった。

 このため、ユーゴスラビア王国、ブルガリア王国、ギリシア王国は、常に戦争の外にいた。

 戦争協力は行ったが、重工業力が無く経済規模が小さいのでほとんど何も出来なかった。

 それでも戦争がインドに迫ると、三国は連合軍に対して宣戦を布告する。

 この段階でもロシア(ソ連)とは中立状態だった。

 軍事力の行使は、中東への支援などでなけなしの船舶を出したが、その程度だった。

 軍隊を派遣したところで、貴重な補給物資を浪費する存在でしかないからだ。

 だが人的資源を活用するべきだとドイツ親衛隊は考えて、各国の志願兵を募って義勇武装SS組織に編成し、ロシア戦線などに派遣した。

 だがこれが、ユーゴスラビア王国で完全に裏目に出てしまう。

 

 もともとユーゴスラビア王国地域は、様々な民族、宗教、言語がモザイク上に重なり合った地域で、争いが絶えなかった。

 第一次世界大戦前には、ヨーロッパの火薬庫と呼ばれた頃の震源地ですらあった。

 このため義勇武装SSが作られると、少しでも問題を避けるために民族ごとに部隊が編成された。

 だが彼らは、ロシア人や連合軍と戦わずに、国内の「異分子」との争いを始めてしまう。

 ドイツにとっては計算外だが、余計な労力を割きたくないし、戦争から外れた場所にあるので、事態は親衛隊に預けられた。

 そして親衛隊は、ユーゴスラビア王国をドイツ政府も動かして実質的にバラバラに分解して、分割統治という方法に出る。

 これにより南部では辛うじてユーゴスラビア王国が残ったが、北部のスロベニアとクロアチアは事実上独立し、中央部のボスニア・ヘルツェゴビナが係争地の中心地となる。

 親衛隊がこのような悪行に手を染めたのは、北部の民族が南スラブ系ながらゲルマン系に近いとされたからだ。

 彼らにとって、それらの民族が他の民族と一つの国家にまとまることは許されないことだった。

 だから分裂させたのだ。

 そして南北対立が激化したのは1943年の頃だったが、既にドイツは余裕を失っていたので、あくまで間接的な干渉しかしなかった。

 そして近隣のブルガリア、ギリシアに南部のスラブ勢力(ユーゴスラビア王国南部)を監視させ、自分たちは北部のゲルマン系勢力を監視した。

 おかげで完全な内戦状態に陥るまでには至らなかったが、無駄な努力を投じざるをえなくなる。

 もっともギリシア、ブルガリアにとっては、ロシア人に戦争を吹っ掛けなくてよい口実ができたので、内心は大いに安心したと言われる事が多い。

 だがギリシア、ブルガリア共に軍の主力はユーゴスラビアを向いており、連合軍にはほとんど何の準備もしていなかった。

 

 そうした混沌とした状況に連合軍は目をつけて、一気にギリシアに進軍しようとした。

 


 一方の欧州枢軸陣営は、連合軍がこの時期にギリシアに攻め込むとは考えてもいなかった。

 戦略的意味が薄いので、この考え方は健全と言えるだろう。

 だが連合軍は、ギリシア侵攻に際して政治を優先させていた。

 

 欧州本土で最初に奪還する場所がギリシアなのは、連合軍内でも都合が良かった。

 と言うのも、イギリス、フランスのどちらを先に解放するかで議論がされており、どちらを最初に選んでも政治、感情面で禍根が残る。

 だがギリシアなら政治的には蚊帳の外の国で、何よりヨーロッパ文明の源泉と言えるギリシアなら英仏両国共に文句も言いにくかった。

 そしてギリシア奪還後なら、イギリス、フランスのどちらに攻め込んでもわだかまりが少なく済むからだ。

 

 もっとも、口さがない者は、時期的に見てアメリカ大統領選挙を見越したものだと言った。

 現政権が選挙に勝利するため、アメリカ市民にアピールし易い場所の解放が選ばれた、というのだ。

 何しろギリシアはヨーロッパ文明の源であり、ロンドン、パリ、ローマそしてベルリンなどの主要都市並のインパクトが期待できた。

 この点イタリア侵攻の場合は、最低でもローマまで進軍しなければならないので、時間的制約から選択出来なかった。

 アメリカ市民が知っているヨーロッパなど、当時はその程度だったからだ。

 

 しかもギリシア侵攻は、作戦の成功確率も非常に高かった。

 


 連合軍が1944年内のギリシア侵攻を正式決定したのは、1944年の初夏の頃だった。

 アメリカ政府が決定したのは、さらに早く同年3月だと言われている。

 そして初夏の頃から作戦に従って部隊、兵力が本格的に準備されていった。

 また作戦を確実にするため、チュニジア作戦は枢軸軍に見えるようにこれ見よがしに実施されることとなった。

 二つの大作戦を実施するだけの兵力と物資が、この時期の連合軍にはあった。

 

 加えて、大西洋を押し渡った海軍の主力部隊も投入されることとなる。

 アメリカの空母機動部隊が、近隣の連合軍空軍と共にチュニジア、シチリア島への短期間の激しい攻撃を実施する。

 もちろんこれは牽制を兼ねており、本命となるアメリカ艦隊の主力機動部隊と高速戦艦部隊が西地中海へと入り、現地の地中海艦隊と合流して、一気にギリシアへと攻め込む算段だった。

 

 連合軍のもう一つの主力艦隊である日本の大西洋艦隊は、この作戦の間モロッコ近辺の海域に展開し続ける予定だった。

 もちろんだが、欧州枢軸の反撃を警戒しての事だった。

 腹案として、より電撃的な作戦展開のために日本艦隊も地中海に投入する案もあったが、流石に欧州枢軸海軍を侮りすぎているという意見が過半を占めたため、アメリカ海軍のみの地中海投入となった。

 もっとも、地中海での戦闘ならば、装甲空母を多数有する日本艦隊の方が任務に向いている。

 敵空軍からの断続的な空襲の可能性があるからだ。

 それがアメリカ艦隊とされたのは、単に戦力が大きいのが理由では無いという意見が、主に政治学者の間では常識となっている。

 だが、欧州文明の源泉となる場所を攻める事に、アメリカという国家、政府が大きな価値を見いだしていたと考えられたからだ。

 また、その文明の源泉に他人種である日本人が攻め込むことに強い抵抗があったとも言われる。

 実際問題、日本軍は地中海艦隊が支援に当たった以外で補助的な役割しか果たしていない事も追記しておく。

 

 この時期の連合軍は、既に直接的な戦争とは違うものを見るようになっていた証拠こそが、このギリシア作戦だった。

 


 ギリシアへの侵攻開始が10月20日で、10月初旬からシチリア島などでの航空撃滅戦が開始される。

 さらに同月中頃からは、半ば牽制を目的としてチュニジアでの本格的な地上作戦が開始される手はずだった。

 

 アレキサンドリアで準備されるギリシア侵攻部隊は、チュニジアへの増援かシチリア島侵攻のための部隊という欺瞞情報が流された。

 実際、一部部隊は増援としてチュニジアに移動した。

 日本とアメリカの最強戦闘機部隊が、あえて揃い踏みで布陣したほどだった。

 

 さらにクレタ島などに増強された連合軍各空軍部隊も、シチリア島攻撃のための増援という情報を流し、重爆撃部隊の一部がシチリア島とイタリア南部の攻撃を行う予定だった。

 大規模な上陸作戦部隊が、エジプトのアレキサンドリアとポートサイドに集結していた。

 クレタ島には、各飛行場から溢れるほどの空軍の大部隊が展開し、敵の目を欺く目的もあって激しい航空撃滅戦をドイツ第三航空艦隊などに仕掛けた。

 ルーマニアのプロエシュチ油田に対しても、半ば嫌がらせを目的に散発的な空爆が実施された。

 本来は本命としての攻撃なのだが、枢軸側の目を敢えてバルカン半島に向けさせようと言う意図を見せる欺瞞情報も流された。

 

 ギリシア作戦の地上部隊の指揮官は、米陸軍のブラッドレー将軍が総指揮権を持ち、実戦部隊はホッジズ大将が指揮する事になる。

 さらに総司令部は、カイロに総司令部を置いたアメリカのアイゼンハワー大将が最高司令官として陣取っていた。

 インドからずっと肩を並べて進軍してきたパットン将軍と山下将軍は、チュニジア作戦を指揮することとなる。

 自由イギリス軍のモントゴメリー将軍は、この時期はエジプト南部のスーダン方面での残敵掃討に当たっていた。

 モントゴメリー将軍指揮下の自由英軍主力が支援的任務を行っているのは、この後地中海戦線に深入りすると、英本土奪還の準備が出来なくなるからだ。

 中華戦線の終了と共に日本陸軍の大部隊を引き連れて中東に来た岡村寧次将軍は、この時期は部隊の編成と今後の作戦の準備に追われていた。

 

 また一方で、モロッコから急速に進軍しているマッカーサー大将麾下のアメリカ軍は、まだ北アフリカ西部を進軍する途上の部隊が殆どのため、チュニジア作戦では補助的な役割を果たすだけだった。

 主力部隊はまだ作戦中だし、同時に次の作戦の準備に忙しかった。

 


 これに対する欧州枢軸軍は、連合軍のシチリア島への上陸もしくはチュニジア沿岸部への上陸を強く警戒していた。

 チュニジアの前線で現地陸軍主力を拘束しているうちに、大規模な上陸部隊がシチリア島または退路となるチュニジア沿岸に押しよせて、チュニジアの枢軸軍の退路を一気に断ってしまうのではないかと考えていたからだ。

 そしてチュニジアの枢軸軍は、敵の大軍が押しよせつつあるため、回れ右をして逃げるわけにもいかなかった。

 そんな事をすれば、退路を断たれるより先に追撃を受けて殲滅されてしまうからだ。

 

 多くの情報が、枢軸側の懸念を肯定していた。

 中にはギリシア攻撃の可能性を論じる声もあったが、戦略的重要性の低さから懸念は小さいと考えられた。

 

 そして枢軸側が戦々恐々としている中、連合軍の大艦隊が地中海入りしたという情報が駆けめぐる。

 地中海に入ってきたのは、アメリカ海軍の空母機動部隊。

 5つの空母群からなる圧倒的戦闘力を有する艦隊だった。

 これで枢軸側は、連合軍の目的がはっきりしたと考えた。

 空母機動部隊を用いる以上、シチリア島に強襲上陸作戦を行うに違いないと考えたのだ。

 

 この考えは、マッカーサー将軍が敵の後方への強襲上陸作戦を頻繁にしている事で心理面で肯定された。

 

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