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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
75/140

フェイズ49「WW2(43)チュニジアの戦い」

 1944年夏頃のイタリア海軍は、依然としてイタリア南部のタラントを拠点としていた。

 以前からの最重要拠点なので、空軍と高射砲で厳重に守られているという理由もあったが、敵の空襲を恐れて北部に疎開したらその後海上封鎖されて出撃できなくなる可能性が高くなるとして、欧州枢軸各国から強い要請を受けて留め置かれていたためでもあった。

 

 この時タラントには、以下の艦艇が出動可能で待機していた。

 


戦艦  : 《ヴィットリオ・ヴェネト》《ローマ》《インペロ》

戦艦  : 《ジュリオ・チュザーレ》

航空母艦: 《アクィラ》《スパルヴィエロ》 (艦載機:約80機)

重巡洋艦: 《トレント》《トリエステ》

軽巡洋艦: 6隻 艦隊型駆逐艦: 9隻


 他にも小型駆逐艦や潜水艦をはじめ多くの艦艇があったが、上記した以外の大型艦艇は修理中か他の任務中、またはアドリア海やイタリア北部にあった。

 軽巡洋艦が多いのは《カピターニ・ロマーニ級》の数が揃い始めていたおかげだが、春の海上護衛戦で軽巡洋艦と駆逐艦、小型の護衛艦艇は大損害を受けていた。

 特にこの場合、艦隊随伴できる駆逐艦が激減していることが問題だった。

 タラントは前線ではあっても本国なのに、もうこれだけしか主力艦隊に随伴できなかったのだ。

 

 戦艦 《インペロ》は、満載排水量で4万6000トンを越えてイタリア海軍最大となった。

 その分防御力が強化されており、完成度も高まっていた。

 自慢の15インチ砲は世界最長の射程距離を誇るが、特に遠距離での照準性能が甘く、得意な筈の近距離戦にも不満があった。

 また、対空火器は同型艦の中でも最も増強され、主に供与品だがレーダーも一通り装備していた。

 フランスが主力を大西洋に置いているので、地中海で最も有力な戦艦だったが、もはやそれだけの存在でしか無かった。

 

 地中海には連合軍機が無数に飛んでおり、航空機の十分な援護がなければ枢軸側の戦艦は戦力を発揮しようがなかった。

 そしてその航空支援を直接提供できる空母だが、客船改装の《アクィラ》《スパルヴィエロ》が戦力化されていた。

 どちらも時間をかけて徹底した改装工事が行われたため、客船時代の面影は船体の一部にしか残されていなかった。

 見た目はイギリス海軍の正規空母に似ているが、それは全面的な技術支援と装備の供与を受けた結果だった。

 高角砲や機銃はイタリア製なので若干の違いはあるが、煙突と一体化した艦橋構造物や格納庫上層と飛行甲板のレイアウトがほとんど同じなので、一見イギリス海軍の空母にしか見えなかった。

 だが大型客船からの改装空母なため、艦内のレイアウトが十分ではなく、航空機の搭載能力も低かった。

 また客船改装のため防御力が不足していた。

 大型のバルジを装着したりするなど徹底した改装を施していたが、船の基本となる構造材が商船規格なので、どうしても脆かった。

 また、もとが客船なので弾片防御以上の装甲を装着することもほとんど出来ないので(弾薬庫上下を除く)、被弾に対して特に脆かった。

 だが、機関換装したので最高速力は30ノットを発揮できたので、艦隊随伴できるのが利点ではあった。

 

 空母艦載機は過積載での運用を考えていたので、もともとの艦載機総数は2隻合計で約100機になる。

 ただし、もともと戦闘機のみの搭載を考えていたので、攻撃機の数が少ない上に搭載弾薬の量も限られていた。

 そこでこの時の出撃では、攻撃機を降ろして戦闘機のみとして、さらに搭載機数は定数より少なくして運用効率を引き上げていた。

 攻撃力が十分ではない数十機の攻撃機では、戦局に何ら影響を与えられないと判断されていたからだ。

 この考えが出る辺りに、連合軍と枢軸軍の空母に対する考え方の違いを見ることができると同時に、この時期の両軍の洋上戦力の差を見ることもできる。

 


 そしてこの艦隊の過半が、敵上陸部隊粉砕の為に出撃していった。

 

 タラントからミスラタまで、最短経路を18ノットの速さで真っ直ぐ進んだとして約27時間。

 しかし直進はせず、マルタ島の西側に回り込んでそのままチュニジア寄りを進む。

 さらに潜水艦を警戒したこまめな進路変更も実施するので、その分だけ時間がかかる。

 諸々の要素を加味すると、31時間が必要になる。

 

 作戦スケジュールは、出来る限り敵の空襲を避けるため、ミスラタ沖に夜に到着して夜間砲撃を実施し、夜明けまでに友軍機の援護が受けられるマルタ島方面に一目散に逃げる予定だった。

 本来ならトリポリ方面へ待避したかったが、トリポリの航空基地群が一時的機能不全に陥って壊滅状態なので、次善の策を用いるしかなかった。

 

 枢軸側というよりイタリア海軍の目算では、敵の戦艦は旧式戦艦と裏切り者(自由イタリア海軍)の戦艦で、さらに巡洋艦なども各国寄せ集めなので、無事に戦場に到着できれば勝機はあると見ていた。

 注意するべきは春に手痛い目にあった精鋭の水雷戦隊だが、イギリスから新たに供与された新型の射撃レーダーの性能なら夜戦はむしろ有利で、近寄られる前に撃退できると考えられた。

 当時イギリス本国が開発した射撃レーダーは、世界で最も優秀だった。

 

 作戦中で一番危険なのは、ミスラタに至るまでの最後の行程になる。

 夜を迎えるまでに200キロ辺りまで近づくが、十分に連合軍機の攻撃圏内だからだ。

 空母艦載機による自力での防空に加えて、マルタ島の戦闘機隊の援護は受けられるが、全域で制空権が不安定になっているので航空機での阻止には限界があった。

 


 作戦を開始して、当初は比較的うまくいった。

 

 連合軍の航空戦力は西リビアに集中していたし、イタリア半島南端、シチリア島の沿岸近くを友軍機の援護を受けながら進むので、連合軍の航空機、潜水艦の脅威も少なかった。

 

 問題はマルタ島を過ぎてからだった。

 

 艦隊は輸送船団と違って俊速だが、多少迂回しても敵の空襲を避けることはできない。

 連合軍も、イタリア艦隊出動の情報は、無線情報、哨戒潜水艦、哨戒機、偵察機などで掴んでおり、艦隊の移動がイタリア北部への待避ではないと判断できた時点で迎撃の準備を進めた。

 偵察のB-24や二式大艇などが、遠距離からでもレーダーでの接触を維持しつつ、完全にイタリア艦隊をトレースしていた。

 

 そして突入直前の午後3時頃、ミスラタまであと200キロの地中海上でイタリア軍の前に現れたのが、ベンガジからやたらと速い巡航速度で飛来した連合軍の大編隊だった。

 

 ベンガジからの距離は800キロも離れていたが、長距離進撃用の特殊ペーパー製大型ドロップタンクを抱えた「烈風」戦闘機に守られた、4発重爆撃機の群れで編成された第十一航空艦隊の対艦攻撃部隊がイタリア艦隊に襲いかかった。

 

 イタリア艦隊の上空前面には、少し前に最後の艦載機を放ってから、最小限の護衛と共に反転した空母2隻の戦闘機隊と、マルタ島を飛びたった戦闘機隊が展開していた。

 だが、マルタ島からの数は限られていた。

 と言うのも、ドロップタンクを付けても航続距離が限られているので、常時展開できる機体は限られているからだ。

 加えて、グリフォン・エンジン搭載型の戦闘機は航続距離が特に短いので、洋上戦闘が事実上禁止されていた。

 

 マルタ島からの戦闘機は「MC.202M ファルゴーレ」と「 Fw190A」で、2隻の空母の艦載機は「Re.2005 サジタリオ」の海軍型だった。

 本機が選ばれたのは、性能の高さもあるが戦闘爆撃機としても使用できるからだった。

 これはイタリア海軍が空母に多少でも攻撃力を与えたいという意思の表れだったが、この出撃では戦闘機としての性能しか求められず、結局願いが叶うことは無かった。

 また本機は、着陸脚の展開形状からその幅が狭いため、艦載機にはあまり向いていなかった。

 このためイギリスのスピットファイアのように、事故で失われた機体もある。

 ただしイタリア海軍が空母を実戦に投入したのは、この時が最初で最後なので、損失はほとんど訓練中の事だった。

 

 とにかく、護衛の戦闘機の数は合わせて100機以上あり、滞空時間を考慮した交代を考えても一度きりの防戦なら問題ないと考えていた。

 何しろベンガジから800キロも離れた海上だったので、連合軍の攻撃が頻繁に行われるとは流石に考えられなかった。

 


 だが、イタリア艦隊の出撃を手ぐすね引いて待ちかまえていた日本海軍航空隊は、この時約70機の烈風、40機のF4U コルセア戦闘機の護衛を付けて100機の攻撃機を送り出した。

 夕方も近いので一度きりの攻撃だし、何としてもミスラタ突入を阻止しなければならないので、一度に準備していた全ての機体を送り出したのだ。

 各戦闘機も十分な護衛戦闘が出来るよう、特別製の大型ドロップタンクを装備していた。

 

 そして攻撃機の約半数、1個飛行大隊はこの大戦初見参の新型機だった。

 機体の名は「三菱 四式大型攻撃機 連山」。

 「深山」の後継機として開発された日本海軍の重爆撃機だ。

 

 烈風と同じ三菱の木星エンジンを過給器付きで4基搭載した丈夫な機体で、「深山」同様に雷撃ができた。

 丈夫なのは単に装甲が分厚いだけではなく、主翼の桁材が一般的なH型ではなく箱型を採用するなど、重量増加を受け入れて強引な飛行ができる強固な構造を有していたからだ。

 見た目も深山以上に重厚になっていた。

 しかもエンジンが強力なので搭載量、速力共に向上しており、特に最高速力は時速600キロに迫るほどだった。

 防御火器も強化され、尾部銃座が連装20mmで他はM2(12.7mm)だが合計で12門装備していた。

 

 日本海軍は今の自分たちの力ではB-29は作れないので、爆撃機としてではなく攻撃機としての完成型として「連山」を開発したといえるだろう。

 開発には三菱と空技廠、さらには川西飛行機も参加していた。

 中島飛行機にも海軍から協力要請が出たが、中島は陸軍への同種の機体開発で余力がないため、陸海軍と軍需省の調整で開発には加わらなかった。

 

 アメリカのB-29のような与圧室や遠隔操作銃塔などの先進性はあまり見られないが、重厚で無骨な姿は日本海軍が戦争の中で求めた「空中戦艦」の姿だった。

 とは言え、流石に雷撃能力の優先度は低かったので超低空での雷撃は基本性能上では無理だったが、それでも魚雷複数(最大4本)を放つ能力を持っていた。

 この時も、各機2本の魚雷を格納庫に搭載していた。

 この時の魚雷搭載数が少ないのは、運動性能を引き上げるためだった。

 そしてその気になれば、雷撃だけでなく地上に対する低空爆撃や襲撃すら可能だった。

 このため、双発機並の重爆撃機と言われることが多い。

 

 しかもこの時の部隊は、野中五郎少佐率いる精鋭部隊だった。

 彼の部隊は、大戦が始まってから洋上目標相手に戦い続けていた。

 主に輸送船団相手の雷撃、洋上攻撃に従事する洋上作戦部隊であり、「野中一家」と言われるほどの結束の固さと高い練度を誇る、日本海軍だけでなく連合軍屈指の攻撃隊だった。

 42年夏頃には、アメリカ軍が苦戦の続くカリブ海への派遣を打診したこともあるほどだった。

 


 緊密な編隊を組んだ「連山」各機は、既定よりも低い高度を既定よりも高速で突進し、上空の激しい空戦を無視するようにイタリア艦隊に迫った。

 イタリア空海軍の戦闘機は、日本軍戦闘機との戦いに忙殺された上に、重爆撃機が低空を突破するとは考えていなかったの上に、異常に速い速度で突き抜けていったので、インターセプトが間に合わなかった。

 

 なお、この戦闘での「連山」は、高度10メートルを切る高度で飛んでいたという記録も残っている。

 

 大型の四発機が緊密な編隊を組んで低空を進んでくる様は圧巻であると同時に、異常なほどの脅威を感じさせるものだったと言われる。

 これが連合軍なら濃密な弾幕とVT信管である程度対抗できるが、枢軸海軍では高射装置とレーダーを用いた弾幕射撃が精一杯だった。

 さらにイタリア艦艇は37mm、20mmの二種類の機銃を多数搭載していたが、アメリカ軍機以上と言われた丈夫な「連山」は、大口径の直撃弾以外はものともせずに低空を高速で突進した。

 弱点の一つとなるエンジンが半分が止まっても、攻撃機動が可能なほどだった。

 相手が高射砲でも、イタリア海軍が装備する50口径90mm砲では少し威力不足だった。

 

 機体の大きさと速度に違和感があるため、見当違いの射撃をした者も少なくなかった。

 そして大型機と思えぬほど機敏な機動を見せてイタリア軍艦艇の脇腹へと素早く肉迫し、次々に複数の魚雷を投下していった。

 

 イタリア艦隊側は、重爆撃機が低空雷撃を仕掛ける時点で驚いたが、それら機体が複数の魚雷を次々に投じるのでさらに驚いた。

 贅沢な攻撃という以前に、見たこともない飽和攻撃だったからだ。

 しかも激しい弾幕射撃まで実施してきた。

 それでもイタリア艦隊各艦は、持ち前の俊足を活かして回避に専念した。

 しかし1個大隊全ての攻撃、約100本(1機当たり2本)もの航空魚雷を避けきることはできず、次々に被弾の水柱が沸き立つ。

 

 また別の「深山」1個大隊は、専門弾(250kg弾×16発)を用いたスキップボミングを実施した。

 基地には航空魚雷が足りなかったし、重爆撃機の水平爆撃では高い効果が見込めないからだ。

 だが、スキップボミングも高速で移動する艦艇に対して有効な攻撃方法とは言えないため、こちらの戦果は少なかった。

 しかしイタリア艦隊に混乱をもたらす効果は十分にあり、雷撃と間違えた艦もあった。

 

 この時までに、イタリア艦隊は空母と駆逐艦2隻が攻撃を避けるために引き返していたので、残り全てで日本軍攻撃隊を迎撃し、そして多くが被弾した。

 駆逐艦の損害は少なかったが、近寄りながら2本の魚雷を次々に投下する「連山」の攻撃は巧みで、俊足のイタリア艦艇でも避けきれなかった。

 

 日本軍の大編隊は、ほとんど数を減らすことなく15分程度で去っていったが、イタリア艦隊は僅かな時間に半壊状態に追いやられていた。

 流石に撃沈された戦艦は無かったが、《ヴィットリオ・ヴェネト》以外は被弾した。

 巡洋艦の半数が傷ついて戦闘継続不能となり、巡洋艦の中にはこのまま沈むのを待つしかない状態の艦もあった。

 

 本来なら撤退するべきだが、この時のイタリア艦隊は前進を選択した。

 現在の防衛網を破られたら、遠からずイタリア本土に連合軍が押しよせるし、そうなれば祖国が戦場になるばかりか、海軍が活躍できる機会は二度とやって来ないからだ。

 イタリア海軍内には、連合軍との単独停戦を見越した艦隊保全を考える者も少なくなかったが、戦わない事は北アフリカにいるイギリス軍など同盟軍を見捨てる事にもなるので、この時の艦隊司令部内では否定された。

 


 魚雷3本を受けて中破した《ジュリオ・チュザーレ》などの損傷艦全てを駆逐艦2隻を付けて後退させ、残りで陣形を再編して進みはじめてすぐ、戦艦の高いマストに設置された水上捜索レーダーが敵影、かなりの数の艦隊を捉えた。

 速力は24ノット以上の高速で、急速に接近しつつあった。

 連合軍の迎撃艦隊なのは間違いなく、イタリア艦隊司令部が突入を諦めないのなら、この場での戦闘を決意せざるを得なかった。

 そして大型艦のレーダー反応が少ないので、イタリア艦隊は艦隊戦を決意する。

 

 夕闇が迫る中、最初に確認されたシルエットは、合理的で大柄なスタイルを持ったアメリカ海軍の軽巡洋艦を先頭とした水雷戦隊だった。

 カリブ海で猛威を振い、マルタ航路でも日本海軍の水雷戦隊共々暴れ回っている部隊だ。

 そしてその後ろに、高速で迫る戦艦の隊列があった。

 そして地中海で高速を発揮できる連合軍の戦艦は、自由イタリア艦隊しか無かった。

 

 遠くに見えたシルエットは自分たちと同じ姿で、敵に捕獲された上で修理、再生された戦艦 《イタリア》と戦艦 《コンテ・デュ・カブール》に間違いなかった。

 

 奇しくもイタリア艦艇同士の対決となったが、この時点でイタリア艦隊は自らも増速した。

 戦意も萎えていなかったし、各個撃破の好機と見たからだ。

 

 このイタリア艦隊の突撃には、迎え撃った自由イタリア海軍の方が慌てた。

 彼らは、自分たちが現れればイタリア艦隊は反転、後退すると思い込んでいたからだ。

 彼らとしては、戦後のための艦隊保全をしてほしくて敢えて積極姿勢を見せて突出したのに、これでは全然意味が無かった。

 しかも、自由イタリア海軍の前衛を務めているアメリカ海軍の水雷戦隊は非常に戦意旺盛で、ほとんど全速力(※米海軍の既定上限の30ノット以上)で突進を開始していた。

 アメリカ艦隊はエインワース提督率いる軽巡洋艦 《ボイス》《ホノルル》《へレナ》と《フレッチャー級》駆逐艦12隻で編成された、重編成の水雷戦隊だった。

 そして戦艦同士が撃ち合うより早く、互いに前衛となっていた水雷戦隊同士が撃ち合いを始めてしまう。

 

 イタリア艦隊の前衛は、軽巡洋艦2隻に駆逐艦が6隻。

 5000メートルほど後方に、戦艦 《ヴィットリオ・ヴェネト》《ローマ》《インペロ》と重巡洋艦 《トレント》《トリエステ》の隊列が続いていた。

 


 前衛は明らかにイタリア艦隊が不利だった。

 

 そして水雷戦隊が砲撃戦を始めた時点で、戦艦同士も砲撃戦を始める。

 自由イタリア海軍も友軍が突撃した以上、自分たちが逃げ出すわけにもいかないし、イタリア艦隊の方は既に決意を固めていた。

 

 とはいえ、戦艦同士の距離はまだ3万メートル以上離れていたので、まったく命中しなかった。

 イタリアの戦艦は、砲そのものは優秀なのだが、射撃精度が列強の中でも低かった。

 しかもイタリア海軍側は、訓練が不足しているため砲撃間隔も大きかった。

 精度の方は互いにレーダーである程度補っていたが、あまり誉められたものではなかった。

 

 それでも距離が詰まると互いに数発の砲弾を命中させたが、《コンテ・デュ・カブール》と重巡洋艦に被弾はなく、他は自らの対応防御を持つ4万トン級の新鋭戦艦だから、1発や2発の被弾ではたいした損害は無かった。

 防御が弱いと言われるイタリアの戦艦だが、それでも戦艦は戦艦だったのだ。

 


 片方が望まないままイタリア戦艦同士の対決となったが、命中弾も少ないまま15分ほどの砲撃戦が続き、その間に急接近した水雷戦隊同士の戦いが佳境に入っていた。

 アメリカの水雷戦隊は、数、火力、さらには練度で勝っており、すでに敵に対してトラウマ的な劣等感を植え付けられていたイタリア側は圧倒されっぱなしだった。

 その時の戦意だけでは、どうにもならなかった。

 しかもアメリカ艦隊は、距離1万メートル以上(1万2000ヤード)で、最初の雷撃を行う。

 これほどの距離で雷撃が出来るという事は、作戦参加している駆逐艦は日本生まれの酸素魚雷搭載艦だった。

 アメリカ海軍は、《フレッチャー級》の途中から酸素魚雷の搭載を行っていた。

 

 アメリカの駆逐艦は、それぞれ半数の魚雷(10本中5本)を投射。

 合わせて60発の魚雷が、酸素魚雷でしか不可能な速力45ノットの高速で敵の未来位置めざして扇状に突進し、イタリア水雷戦隊はそれを避けるべく進路を大きく変進する。

 この動きは未来位置を予測しやすく、アメリカ水雷戦隊の砲撃が殺到。

 イタリア側は多くの砲弾を被弾し、混乱して隊列まで乱してしまう。

 しかも目視が難しい魚雷を避けきれず、イタリア側は駆逐艦1隻がアメリカ生まれの酸素魚雷の餌食となった。

 

 そしてアメリカの水雷戦隊は、駆逐艦の半分(1個駆逐隊)を掃討任務に残して、奥にいる戦艦隊列に突撃しようと隊列の変更を行いつつあった。

 

 しかもこの時点で、さらに急速接近する隊列の存在がイタリア艦隊各艦に通報される。

 


 「敵の別働隊。速力30ノット以上で西南西より接近中」。

 

 30ノット以上で突進してきたのは、日本の第二水雷戦隊。

 アメリカの水雷戦隊と共に、この年の春に暴れ回った艦隊だ。

 少し離れた別の海域で日本の旧式戦艦部隊の護衛として配置されていたが、イタリア艦隊の接近の報告を受けて急行してきたのだ。

 そして彼らの少し後ろには、艦隊速力22ノットで懸命に追いかけてくる日本海軍の旧式戦艦群とそのお供の姿があった。

 イタリア艦隊の西北西に位置していたら、夕日の中に吹き上げる煙突の煙が見えたかも知れない。

 

 日本の水雷戦隊は、夕闇迫る海を記録では35ノット以上の文字通り全速力で航行し、一気にイタリア艦隊の戦艦隊列に接近しようと言う動きを見せていた。

 そしてこの動きにアメリカの水雷戦隊も触発され、前衛のイタリアの水雷戦隊を蹴散らして突破する動きを見せた。

 そしてすでに圧倒していたので、部隊としては半ば混乱状態に陥っていたイタリア水雷戦隊は突破され、イタリアの戦艦部隊は護衛なしの丸裸にされてしまう。

 

 なお、この時の日米の水雷戦隊の間では、かなり下品な言葉のやり取りが近距離無線通信で行われたと、非公式の記録は伝えている。

 


 この時点でイタリア艦隊は後退を決断すべきか悩んだ。

 本来なら撤退しか無かった。

 

 戦艦、重巡洋艦だけで海戦はできないし、戦闘のイニシアチブまでが奪われた以上、敵泊地への突撃などもう不可能だからだ。

 一旦待避して夜陰に紛れて進撃を続けるべきだという意見もあったが、互いにレーダーがある以上それも難しいと判断された。

 

 だが、撤退するには問題があった。

 戦艦 《ローマ》が昼間の雷撃で航空魚雷2本を受けて、最高速力が26ノットに低下していた。

 水雷戦隊の中にも速力が落ちている艦艇が何隻か出ていた。

 これらを見捨てて全速力で後退するか、全てを連れて後退するかの決断が即座に出来なかったのだ。

 

 ここで《ローマ》は、自らは単独行での後退を打診する。

 速力が落ちているので、艦隊から外れて独自に逃げることに賭けるというわけだ。

 とはいえ《ローマ》も、囮として海域に止まる気はなかった。

 

 そしてこれでイタリア艦隊司令部も後退を決意。

 全艦隊に全速力(30ノット)での後退を命令した。

 さらに追随もしくは合流できない艦艇は、《ローマ》同様に独自での後退を命じた。

 

 ほとんど勝手に逃げろと言っているに等しいが、この方がイタリアらしいと言われることもある命令だった。

 

 しかし、後退は容易ではなかった。

 

 既に戦闘を開始して、互いに踏み込んでいるからだ。

 また、イタリアの戦艦は30ノットの快速を誇ると言っても、連合軍の駆逐艦はそれ以上に速いし、旋回速度などでも大きく劣っている。

 そして進路を変えている間に距離は詰められてしまうし、イタリア艦隊の水雷戦隊が混乱しているので魚雷で進路妨害する事も難しかった。

 しかも相手は、最精鋭の水雷戦隊だった。

 

 結局は牽制の砲撃をしつつ、敵のいない北西方向に転舵して全速力で後退するより他無かった。

 この段階で《ローマ》は隊列から離れ、本隊とは少し違う進路をとって出せる全力で進み始める。

 

 その後は、逃げるイタリア艦隊を日米の水雷戦隊が敵の主砲弾を気にしつつ追撃するも、流石に30ノットで逃げる敵は追いきれなかった。

 連合軍側の戦艦は戦意に欠けるか間に合わないので、水雷戦隊だけでは遠距離砲撃を避けつつの追撃となるため、まっすぐ追いかけられなかったからでもある。

 

 また、追撃半ばで夜のとばりも降りてしまったので、追撃も徹底しなかった。

 そして夜間の追撃戦をするよりも、上陸した海域の防衛が連合軍艦隊の任務なので、遠くまで追撃することは命令違反だった。

 このため追撃は、周辺に展開する潜水艦に委ねられることとなった。

 

 単独で逃げ始めた《ローマ》についても、最初はなぜ分離したか分からなかった。

 よほど注意しないと、速力が少し落ちていることを戦場で把握することは難しいからだ。

 

 この時の連合軍艦隊では、囮となったという意見が大勢を占めるも、単に進路変更に失敗して艦隊から外れたので単独で逃げただけと判断していた。

 悲壮な決意をしていた《ローマ》にとっては、まともに追撃が無かったのは嬉しい誤断だった。

 


 結局、砲雷撃戦では、イタリア艦隊の水雷戦隊の駆逐艦2隻が沈んだだけで、出撃したイタリア艦隊のほとんどはタラントなど枢軸側の拠点まで後退することができた。

 だが、多くの艦が大なり小なり損傷しており、以後の出撃がままならなくなってしまう。

 

 なお、これが最初で最後のイタリア戦艦同士の砲撃戦でもあった。

 (※前回は砲撃戦をする前に後退している。)

 しかしこの戦闘にはオマケがあった。

 連合軍、枢軸軍双方の潜水艦が、敵戦艦への雷撃を成功させたからだ。

 イタリア海軍は《インペロ》が日本軍の酸素魚雷2本が直撃して中破。

 何とかタラントまで帰投するが、自慢のバルジはやはり機能せず修理に1年近くかかる大損害と判定された。

 連合軍は日本海軍の《山城》がイタリア海軍の潜水艦から魚雷1本を受けて小破。

 浮ドックのいるアレキサンドリアまで後退した。

 《山城》にとっては、開戦以来これが6度目の被弾と前線での修理で、工作艦にとっての常連だった。

 

 そして《インペロ》被弾で、イタリア海軍は稼働戦艦が実質的に《ヴィットリオ・ヴェネト》だけとなってしまう。

 今回の損失艦艇は少なかったが、もはや海軍としての組織的抵抗は不可能と言っても過言ではない大損害だった。

 


 そしてイタリア艦隊の反転と実質的壊滅により、西リビアでの反撃を目論んだ欧州枢軸側は万策が尽きた。

 ミスラタはチュニジア方面の後方を上陸部隊により遮断され、その後は続々と増強される連合軍に包囲され、そして戦いの後に降伏していく事となる。

 

 イギリス軍の装備する17ポンド砲は、進軍してきた連合軍の機甲部隊に大きな打撃を与えたが、それも決定打にはならなかった。

 というのも17ポンド砲は扱いに熟練を要するし、装薬量が多い反面、射撃時に発生する噴煙が多いので、密閉型砲塔を持つ戦車に搭載すると2射目以後の射撃が難しかった。

 このため熟練者でないと扱いきれず、チャレンジャーから改造して17ポンド砲を搭載した「ブラックプリンス」歩兵戦車は、一撃目こそ連合軍戦車隊に打撃を与えるも、それ以後は乱戦に持ち込まれて力を発揮する前に鈍足を突かれて撃破されるという状況が多かった。

 またこの時期は、数も少なすぎた。

 

 「クロムウェル」を改修して誕生した「チーフテン」は、同じ17ポンド砲を搭載した巡航戦車なので有力な戦力だったが、生産現場の混乱もあってこの時はまだ数が十分では無かった。

 また「チャレンジャー」と違って防御力が十分ではなく、主砲の脅威が高いことも重なって、連合軍車両に優先的に撃破されてしまった。

 

 結局、イギリス軍の17ポンド砲の主力は対戦車砲で、少数の搭載戦車よりも対戦車砲の方が大きな戦果を挙げたし、連合軍も強い脅威と認識した。

 このためイギリス軍では、慌てるように自走砲型の搭載車両の開発を行ったほどだ。

 

 イタリア軍も精鋭が多いので善戦したし、評価されることの少ないイタリア軍の不格好な自走砲はかなりの「M4」戦車を撃破もしている。

 「P-40」のシャーシを利用した大型の自走砲は、ドイツ軍と同じ長砲身の75mm砲を搭載していたので、「M4」戦車を容易く撃破できる威力を有していた。

 しかしイタリア軍の活躍も、イギリス本国軍と同様に蟷螂の斧だった。

 

 枢軸側の機甲部隊全般の局所的な善戦では、後方を遮断された状況を覆すことは無理で、戦局に影響を与えるには至らなかった。

 つまりは、連合軍は最初から戦略的に勝利していたと言うことだった。

 

 ミスラタでの戦いはその後半月程度、9月9日まで続いたが、結局枢軸側の抗戦が実ることは無かった。

 もちろん枢軸側も、救出を図るためにチュニジアにいた予備部隊を投入したし、空輸での大規模な補給作戦も実施した。

 だが、連合軍も敵の行動は折り込み済みで、欧州枢軸側は損害を積み上げるだけに終わった。

 特に空輸を担当した輸送機の損害が酷かった。

 ここでの輸送作戦で、枢軸側特にイギリス空軍は多数の輸送機を失ったため、以後の戦いにも暗い影を落としてしまうほどだった。

 


 そして一ヶ月後、リビアからチュニジアに入ってすぐの辺りで再び連合軍と枢軸軍が対峙する事になるのだが、圧倒的戦力を揃えて次の攻勢の準備をする連合軍に対して、北アフリカの主力部隊を失って戦線崩壊の間際にある欧州枢軸軍は、慌てて欧州各所から増援部隊をチュニジアやシチリア島に呼び寄せている状況だった。

 

 しかも連合軍は、西からも迫りつつあった。


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