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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
74/140

フェイズ48「WW2(42)リビアの戦い」

 1944年夏、モロッコを巡る戦いが始まった頃、リビア戦線でも連合軍の動きが活発化していた。

 

 同方面の連合軍は、5月末にギリシアのクレタ島へ侵攻した後、しばらくはリビア内での航空撃滅戦に力を入れていた。

 一見連合軍の動きが不活発なように見えるが、これは補給路の安定化と部隊の再編成を行っていたことが原因していた。

 

 連合軍は一気に中東を突破してスエズを越え、すぐにも艦隊を地中海へ入れてリビア東部まで電撃的に進撃した。

 そしてすぐにも、リビア周辺とクレタ周辺での航空撃滅戦を開始する。

 この急速な進撃と、展開したばかりの最前線での航空撃滅戦のため、流石の連合軍の兵站もギリギリとなった。

 アメリカでは無尽蔵の兵器と物資が生産されていたが、それを運ぶ人には限りがあったからだ。

 

 このため予定していた陸路でのリビア西部への進撃は延期され、航空撃滅戦も後方で待機している航空部隊を考えるとささやかなレベルに抑えざるを得なかった。

 


 1944年初夏から夏にかけて、東地中海方面に展開していた連合軍の空軍部隊は、日本陸軍の第三航空軍、日本海軍の第十一航空艦隊、アメリカ陸軍の第5航空軍、自由英連邦空軍の第1航空軍になる。

 アメリカ陸軍の第20航空軍も戦力は充足していたが、前線での基地と補給の不足から、まだ後方に待機していた。

 さらに日本陸軍の第五航空軍が、日本本土で再編成の後に進出の機会を伺っていた。

 

 また、アメリカ陸軍航空隊の戦略爆撃兵団である第8航空軍が、ポートサイドに展開しつつあった。

 

 アメリカ陸軍の第5航空軍がクレタ島に展開して、日英の航空艦隊がリビア東部に展開していた。

 

 対する欧州枢軸軍は、ドイツ第三航空艦隊がギリシアなどバルカン半島南部に展開して、補給も改善したので対抗していた。

 西リビアにはイタリア空軍とイギリス本国空軍が展開し、シチリア島などイタリア南部はイタリア空軍が守っていた。

 

 ギリシアの戦いではドイツ側が攻撃する事もあったが、リビアでの戦いは連合軍が一方的に攻撃していた。

 というのも、リビアの東西の拠点の直線距離は海を挟んで約700キロメートルあるので、枢軸側は護衛の戦闘機を随伴させることが難しいからだ。

 またリビア東部とシチリア島、イタリア半島南端の距離も約800キロあるので、枢軸側の攻撃は事実上不可能だった。

 

 そして夜は、連合軍の重爆撃機が、奥地の拠点に爆撃と機雷投下を実施した。

 6月には革新的な重爆撃機「B-29」も実戦投入され、イタリア南部より南の夜空では連合軍の重爆撃機と枢軸側の夜間戦闘機の空戦も見られるようになった。

 なお、このイタリア南部も襲った一連の爆撃により、イタリア南部を中心にイタリアでは急速に厭戦機運が高まることにもなった。

 

 以上のように、戦力差と距離の関係で、空から攻撃するのは連合軍で守るのが枢軸軍だった。

 


 海では多少事情が違っていた。

 

 1944年春は、連合軍が精鋭の水雷戦隊を使った攻撃的な通商破壊戦を仕掛けたが、これはどちらかと言えば例外だった。

 実際、欧州枢軸軍が西リビアへの補給路を直接ルートからチュニジアへの迂回ルートを使うようになると、水上艦による攻撃は大きく減少した。

 流石の連合軍も、危険度が大きい場所に艦隊を安易に送り込めなかったからだ。

 逆に皆無ではなかったのは、連合軍海軍の戦意の高さを見せる一例と言えるだろう。

 その後は航空機と潜水艦を用いた海上輸送路への攻撃が続けられたが、枢軸側が大量の航空機と護衛艦艇で守るので、戦果は芳しくなかった。

 

 連合軍の方は、リビア東部とクレタ島への補給は共に海上輸送を選んだので、欧州枢軸軍としてはこの補給路を攻撃するのが、最も効率が良かった。

 ドイツ軍がクレタ島から早々に撤退したのも、自らの補給負担を減らすと同時に、敵の補給に負担をかけるという意図もあった。

 

 このため、地中海に展開する欧州枢軸の潜水艦のほぼ全てが、東地中海へと放たれた。

 

 1944年春から夏にかけて東地中海の海上補給路を攻撃したのは、イタリア海軍の潜水艦の全力と、地中海にいたフランス海軍の潜水艦、そして春から増援で送り込まれた多数のドイツ海軍の潜水艦だった。

 

 しかし欧州枢軸の潜水艦の戦いは、苦難の連続で自らの出血なくして成り立たなかった。

 

 本来潜水艦を用いた通商破壊戦は、敵に与える損害と労力に対してコストパフォーマンスに優れているから選択される、「貧乏人の作戦」であり戦略だった。

 広い海域で自由に行動する事で、全てを守らねばならない敵の防衛負担を増大させる目的もあった。

 しかし東地中海での戦闘は、非効率的であり攻撃側に自由は無かった。

 

 連合軍は、輸送船の護衛のために多数の対潜水艦艦艇と、対潜水艦哨戒機を投入していた。

 連合軍も敵が補給路の破壊を狙うと強く考えていたので、それまでインド洋などにいた日本海軍の精鋭護衛部隊を惜しみなく投入した。

 戦力密度も非常に高く、輸送船より小さな護衛艦艇の方が多いと言われるほどだった。

 護衛空母の姿は限られていたが、陸地が近いので航続距離と滞空時間の長い哨戒機で十分だったからだ。

 レーダー搭載の哨戒機は、24時間体制で地中海を飛んでいた。

 

 行動する輸送船はせいぜい中規模の船団しか組まなかったが、護衛には1個護衛戦隊(十数隻の護衛艦艇が所属)が厳重に守った。

 それ以外にも、潜水艦を専門に狩るハンター・キラー部隊も多数放たれた。

 そうした中で特に欧州枢軸軍を苦しめたのが、日本海軍の対潜哨戒機だった。

 


 日本海軍は1940年冬の日本近海での戦いの頃に、海上護衛戦で最初の手痛い攻撃を受けていた。

 この時、多数の対策と計画が立てられた。

 その多くが、多数の護衛艦艇と哨戒機で敵を封殺するというものだった。

 だが技術の進歩に伴い、装備の開発にも力が入れられた。

 小さな潜望鏡すら捉えるマイクロ波レーダーなどがその代表だ。

 

 この時期、主に哨戒機に使われたのは、「一式大型攻撃機 深山」、「二式大艇」、「B-24リベレーター」の改造型だった。

 大戦序盤だと「九六式中型攻撃機」が使われたが、航続距離は申し分ないが搭載量が少ない上に旧式化が進みすぎたため、新装備を搭載できず既に後方での連絡機や輸送機代わりに使われていた。

 

 これらの大型機は、機体の大きさと搭載量の大きさを活かして、機載マイクロ波レーダー、サーチライト、航空機用爆雷を搭載し、夜中ですら平然と飛ぶようになった。

 そして44年春頃から、日本海軍が投入した機体には、潜水艦にとって致命的といえるほどの新兵器が搭載された。

 

 「磁気探知器(MAD)」だ。

 MADは、地表の地場の乱れを探知する装置で、鉄の塊の潜水艦が水中に潜んでいても探知することができた。

 日本海軍ではKMX(磁気探知装置=磁探)と呼ばれ、真下で行動する潜水艦を探知できた。

 初期の頃は、同装置を搭載した哨戒機を3機以上平行で飛行させてローラー式に敵の探知を行ったが、すぐにも八の字の飛行をしながら飛ぶ形に変わり、真夜中でも潜ったままの潜水艦を何度も探知した。

 この技術は、すぐにアメリカなど連合軍各国に供与され、日本から供与した数少ない革新的な新技術ともなった。

 

 しかも欧州枢軸は、戦争が終わるまで磁気探知装置が実用化されている事に気づかなかった。

 当時は、開発が不可能と考えられていたからだ。

 

 枢軸側の潜水艦は、昼間の浮上は航空機の監視の目とマイクロ波レーダーで捉えられるので自殺行為なので、目視が無くなる日が没してから浮上するしかなかった。

 連合軍のレーダーは、潜望鏡のように吸気管と排気管だけを海上に出すシュノーケリング航行でも探知することがあるので、昼間はよほどの攻撃の好機でないかぎり潜望鏡を出すことすら難しかった。

 浮上航行や吸気管を出しての移動は日没後に限られたが、レーダーの網に加えて磁気による探知まで加わったので、訳の分からないまま攻撃を受けて沈められる事例が後を絶たなかった。

 中には浮上降伏を選ばざるを得なくなった潜水艦もあり、欧州枢軸側の潜水艦の損害は予想を大きく上回った。

 輸送船1隻沈めるよりも潜水艦1隻沈む方が多いと言われる有様で、東地中海に作戦投入された潜水艦の未帰還率は、100%を越えるとすら言われたほどだった。

 100%を越えるのは大げさでも、熟練の潜水艦でも数度の出撃で未帰還となった。

 そして東地中海での戦いは、三ヶ月を待たずして欧州枢軸軍のじり貧となった。

 

 3月後半に本格的な作戦を開始したが、5月の損失は1日1隻を越えた。

 この時点で作戦を中止するべきだが、その後も敵に対して有効に負担を強いる攻撃手段が殆ど無いので、無理を承知で続けられた。

 活動する潜水艦自体が減ったので損害も減少したが、それでも2日に1隻は行方不明となり、そして生還することは無かった。

 

 それでも作戦を続けるしかなかったが、5月半ばには北大西洋で連合軍が活発に動きだしたのでドイツ、イギリスのさらなる増援は延期され、戦力が減ったまま作戦は続けられた。

 

 東地中海は欧州枢軸軍の潜水艦の墓場となり、たまらず7月に作戦は中止される。

 それまでに投入した60%以上の潜水艦を喪失し、特にイタリア海軍の潜水艦隊は一時活動不能になるまでの打撃を受けた。

 

 だが、東地中海での通商破壊作戦は全くの無駄ではなかった。

 

 連合軍は、予測以上の枢軸側の攻撃への対応に追われ、輸送船舶や護衛艦艇の損害もそれなりに受けた。

 攻撃が激しいので、6月に予定していたリビア東部への陸軍主力の進出が延期されたほどだ。

 そして代わりに、陸路を用いての輸送までが行われ、海上交通路妨害の代替とされたほどだった。

 

 しかし連合軍の物量は巨大で、枢軸側の激減していく一方の戦力を前に、連合軍は徐々に体制を整えていった。

 この通商破壊作戦で枢軸側が稼いだ時間は、約2ヶ月だと言われている。

 その反面、地中海での潜水艦活動がほとんど出来なくなる程の打撃を受け、その後の連合軍の侵攻に対応できなくなっているので、戦力を温存しておくべきだったという意見も少なくない。

 


 地中海の乾いた夏の終わりになると、連合軍の攻勢が強まった。

 

 西リビアの東端に位置するミスラタの手前まで、連合軍の機甲部隊が迫ってきた。

 リビア西部の中心都市トリポリまでわずか200キロの距離で、連合軍は既にこの地域の制空権もほぼ手に入れていたことの証だった。

 東部のベンガジから直線距離で約500キロ離れていたが、連合軍の戦闘機にとって500キロは日常の距離でしかなかった。

 現地の連合軍は、この三ヶ月というのも毎日のようにトリポリまで飛んでいたからだ。

 

 同部隊は、リビア中部のシドラ湾を陸路で越えてきたもので、最初から機甲軍団規模の戦力を有していた。

 後方の東部リビアのベンガジ周辺には、既に1個機甲軍以上の戦力が集結しているので、連合軍としては微々たる戦力でしかなかった。

 しかし流石の連合軍も、800キロ以上の砂漠の道で補給を維持しなければならないので、この時点では一度に大量の戦力を投入できなかった。

 山下将軍やアイゼンハワー将軍は、前線のパットン将軍らを止めるのに苦労していた。

 

 だが、港湾を補給線として使えるミスラタを奪って空軍を進出させれば、一気に西リビアの制空権も奪うことが出来るので、そうなれば春からの停滞を一気に突き崩せた。

 

 しかし欧州枢軸軍にとってのミスラタは最前線なので、多数の部隊が駐留していた。

 飛行場には戦闘機を中心に多数の戦闘機も駐留しており、この数ヶ月現地を守り続けていた。

 地上部隊は戦車、装甲車だけで1000両以上あり、兵士の数も陸軍だけで25万に届いた。

 それ以上の戦力がチュニジアにあったが、前線への補給能力の関係でそれ以上置けなかったからだ。

 だが、連合軍が迫れば増援が送る予定で、実際すぐにもチュニジアを出発した。

 

 ミスラタを守るのは、イギリス軍、イタリア軍の精鋭部隊で、半数以上が機甲師団を含む機械化部隊だった。

 なお、両軍のこれらの部隊の中には、1940年頃にエチオピアで睨み合っていた部隊も含まれていた。

 

 イタリア軍の1個機甲軍と歩兵軍団、イギリスの機甲軍団が主な戦力で、若干数だが戦力価値のないイタリアの黒シャツ部隊や植民地警備隊もいた。

 そして事前に陣地や地雷原も作られていたので、防戦になれば兵数以上の実力が発揮できた。

 特にイギリス本国軍は、この地に新開発された17ポンド(長砲身3インチ)対戦車砲搭載車両をドイツへの供与を断ってまでして集中していた。

 

 機甲軍団一つ程度で突破できる戦力ではなかった。

 

 その事は連合軍も分かっていた。

 最初に送り込んだ機甲部隊は、あくまで先遣部隊だった。

 先遣部隊に1個軍団も送り込めるところが、この頃の連合軍の余裕だった。

 そして後方からは、補給線を構築しつつ続々と後続部隊が続いていた。

 多くが機甲部隊で、最低でも自動車化されていた。

 当然だが大量のガソリンを消費するので、連合軍としても一日も早く付近に兵站拠点としての港湾が欲しいところだった。

 


 そして8月23日、アメリカ海軍の空母機動部隊がモロッコを空襲した。

 全枢軸軍に衝撃が走ったが、リビア方面の枢軸軍は既にそれどころではなかった。

 本来なら、東部からの攻勢をしのぎつつ、イタリア海軍主力がジブラルタル方面に出撃する予定だった。

 だが、イタリア海軍は身動きが出来なかった。

 

 ほぼ同時に、アレキサンドリアに展開する連合軍艦隊が、大船団を伴って動きだしたからだ。

 

 連合軍の目標はどこか? リビア西部が本命だが、半年前の電撃的な強襲上陸の経験もあるので、最前線の後方に上陸する可能性も議論された。

 最も大胆なものは、一気にシチリア島に上陸して、北アフリカとヨーロッパを分断するという推論まであった。

 そしてほぼ唯一の洋上戦力であるイタリア海軍は、安易にタラント湾から動けなかった。

 

 流石の連合軍も、この時点ではシチリア島上陸という大胆な作戦をとる予定は無かったが、艦隊が動きだすと同時に航空攻勢は一段と激しさを増した。

 

 ベンガジにはアメリカ陸軍の第20航空軍も展開し、日米英の4個航空艦隊で激しい空襲を仕掛けた。

 さらに日本陸軍の第五航空軍も到着しつつあり、徐々に後方での動きを活発化させた。

 第五航空軍の場合は前線への進出準備であり、連合軍の大規模攻勢を予測させた。

 

 最前線のミスラタにも、連合軍はさらに1個機甲軍団を送り込み、機甲師団3個、機械化師団3個、その他多数の支援部隊を用意した。

 補給部隊が進むのと平行して後続部隊も続いていた。

 

 このため現地の欧州枢軸軍を率いる英本国軍のオーキンレック大将は、ミスラタ西方またはトリポリ周辺に連合軍が上陸する可能性が最も高いと判断した。

 この判断を各国の上層部も肯定し、チュニジアから急ぎ送り込まれた増援部隊をミスラタ西部に配置した。

 

 また連合軍艦隊を洋上で阻止するべく、イタリア海軍を中心とした欧州枢軸海軍が総力を挙げて阻止する事とされた。

 この攻撃に空軍は実質的に外されたが、各地での制空権維持に全力を傾けるためだった。

 


 8月24日深夜、約3日前にアレキサンドリア沖を出発した大船団が、リビア西部沖合に到着した。

 

 アメリカ海兵隊とドック型揚陸艦の姿こそないが、カサブランカ沖合に出現した艦隊とよく似ていた。

 各艦船に掲げられている旗は、日本を最大として英連邦自由政府、アメリカ、英連邦各国など様々だった。

 中にはイタリア救国委員会の旗もあった。

 

 そして彼らが出現した場所は、リビア西部のミスラタ西方海上。

 枢軸軍の予測通りだった。

 だが、もう一つの予測された場所にも艦隊が出現していた。

 日本の遣欧艦隊から抽出された艦隊と、自由イタリア艦隊、アメリカ艦隊などの合同艦隊だった。

 地中海には他にも連合軍海軍の艦隊がいたが、全てを矢面に立たせるわけにはいかないので、大義名分となる自由イタリア海軍以外は日米が前線に出る事が多かった。

 

 戦艦《伊勢》《日向》《山城》《イタリア》《コンテ・デュ・カブール》を主力としており、これら戦艦5隻を水雷戦隊が護衛していた。

 ミスラタへ侵攻する大船団を護衛したのはこれ以外の艦艇群だったが、上陸地点に戦艦が砲撃するほどの地上目標がないので、戦艦には別任務が与えられた。

 

 与えられた任務は、トリポリ各所に建設された飛行場への艦砲射撃だった。

 

 これまで連合軍を相応に苦しめてきた欧州枢軸空軍部隊の主力部隊が展開しており、臨時飛行場を含めて5箇所に滑走路があった。

 攻撃対象とされたのは、最も沿岸に位置するミティガ飛行場と、沿岸から約20キロ離れた場所にあり最大規模を誇るトリポリ飛行場だった。

 ミティガ飛行場は戦争前から使われていた飛行場で、それを急ぎ拡張したものだったが、海岸からわずか1キロほどしか離れていなかった。

 砂漠では内陸部に施設を作るのは大変な事だからだ。

 このため駆逐艦の主砲でも十分に届く距離にあった。

 もう一つのトリポリ飛行場は、万が一の艦砲射撃を警戒して利便性と危険度の双方のバランスを取って内陸に作られたもので、最も内陸部にあり数カ所の飛行場に分散して300機以上の航空機が駐留していた。

 そしてそこに戦艦《伊勢》《日向》《山城》《イタリア》の巨弾が降り注いだ。

 

 戦艦の主砲の射程距離は30キロ程度の場合が多いが、日本海軍の旧式戦艦は主砲の仰角をギリギリまで大きくすることで射程距離を伸ばしていた。

 戦艦 《イタリア》はイタリアのOTO社が開発した長砲身の15インチ砲なので、日本の46センチ砲すら上回る非常に長い射程距離を誇っていた。

 《コンテ・デュ・カブール》だけは沿岸の飛行場を狙い、他艦より少し沖合から砲撃を実施した。

 

 そして主力の連合軍艦隊は、最高で沿岸から距離1万1000メートルにまで近寄り、盛んに艦砲射撃を実施した。

 そこまで接近するとトリポリの沿岸各所にある沿岸重砲のほとんどの射程圏内となるが、戦艦は重砲の数発を受けても問題はないので、かまわず砲撃を実施した。

 また主砲以外の副砲、両用砲、護衛の駆逐艦は沿岸陣地に猛烈な射撃を浴びせかけているので、沿岸重砲の砲撃もほとんどうまくいかなかった。

 それでも《伊勢》《日向》《山城》《イタリア》はそれぞれかなりの重砲の砲弾を受け、判定小破の判定を受けた艦も出た。

 それでも戦艦の強固な装甲を最大で8インチしかなかった沿岸重砲が貫くには至らず、逆に自らの砲火で場所を晒した沿岸陣地に大きな損害が出た。

 やはり急造の陣地が多いため、鉄筋コンクリート製のトーチカ陣地が少なかったためだ。

 

 また反撃がうまくいかなった理由のもう一つの理由が、連合軍が同時に行った夜間爆撃だった。

 

 この夜間爆撃はアメリカ第8航空軍が特別に実施したもので、「B-29」を含む約300機がトリポリを夜間爆撃した。

 この爆撃は、沿岸陣地と各飛行場に対して行われ、今まで攻撃対象にほとんどしなかった急造の野戦飛行場も攻撃対象とした。

 

 この夜間爆撃は、艦砲射撃から1時間以上前に枢軸側のレーダーに捉えられ、すぐにも夜戦型「モスキート」が飛び立てるだけ離陸した。

 だが爆撃が大規模なので、次の攻撃のため待機する部隊も滑走路に準備され、他の機体は邪魔にならないように格納庫やバンカー、野戦用シェルターなどに待避させた。

 しかし不意の艦砲射撃によって各飛行場は大混乱に陥り、後続部隊の発進どころでなくなる。

 司令部施設も攻撃を受けて通信も混乱したため、迎撃管制も難しくなり、夜間爆撃の迎撃は初期以外は完全に失敗してしまう。

 そして爆撃も邪魔が少ないまま実施されたため、さらに混乱と破壊が広がった。

 


 夜が明けると、連合軍の昼間の空襲が開始される。

 

 そしてそれを阻止する力を、トリポリは短期間の間、完全に失ってしまう。

 各飛行場は完全に機能を停止したわけではないが、滑走路の70%以上が使えなくなり、駐留していた航空機も30%以上が修理不可能な損害を受けた。

 発進できたのはいつもの20%程度で、それでは連合軍の空襲を迎撃できなかった。

 しかも連合軍空軍部隊は、上陸作戦のためいつもより強化されていた。

 

 それでも枢軸空軍は、果敢に連合軍機に挑みかかった。

 

 枢軸軍の主な戦闘機は、イタリア空軍が「マッキ MC.202M ファルゴーレ」、「MC.205V ヴェルトロ」、「フィアット G.55 チャンタウロ」、「フォッケウルフ Fw190A」で、イギリス本国空軍が「スピットファイアMk.V」、「スピットファイアMk.IX」だった。

 多くが新型機に更新されていたが、それでも数が足りないので旧式化しつつあった従来機も飛び続けていた。

 

 連合軍は主な戦闘機も、大戦後半に活躍した機体が多くなっていた。

 「P-47 サンダーボルト」の「D-25型」以後、「P-51 ムスタング」の「D型」、「F4U コルセア」戦闘機、「川崎 一式重戦闘機 飛燕」の「III型」、「中島 三式戦闘機 疾風」、「三菱 三式艦上戦闘機 烈風」になる。

 いまだに「隼III型」を操るパイロットも、日本陸軍を中心に少なくなかった。

 この頃には、英米のパイロットの中にも、非常に高い格闘戦能力を誇る「隼」に乗りたがる者がいた。

 流石に零戦の姿を見ることは少なくなったが、最終型が護衛空母には搭載し続けられていた。

 

 疾風と烈風は翌年には改良型が主力となるが、この時期では連合軍の中でも一般的な機体の一つだった。

 自由英連邦軍の一部航空隊も、大量生産された烈風を使っていた。

 

 改良型だと見た目で分かりやすいのが、P-47D-25型(以後のタイプ)、P-51D型、飛燕III型になる。

 それぞれバブルキャノピーや涙滴型と呼ばれる紡錘状のキャノピーにコックピットを変更していたからだ。

 それ以外にも多くの点で改良されており、この頃の連合軍最速を競い合う機体ばかりだった。

 最高速度ではP-51D型、降下速度ではP-47D型、上昇力では飛燕III型がそれぞれ最高値を誇った。

 また性能自体も非常に優秀で、それぞれ特性を持っているので、パイロット達にも愛された。

 そして共通する特徴が、長い航続距離だった。

 長時間飛行できる事は侵攻作戦に有利であり、敵地上空でも長く飛べること自体がパイロットの心理に余裕を産むなど利点が多かった。

 日本海軍などは、P-47の航続距離が大幅に伸びると手のひらを返したように同機に高い評価を与え、地上配備用の局地戦闘機(重戦闘機または迎撃戦闘機)として愛用し、現場でもサンダーボルトの日本語訳の「雷電」の名で親しまれた。

 赤松中尉(当時)のように、P-47で撃墜王となるようなパイロットまでいた。

 


 そして艦砲射撃で機先を制された枢軸軍は、圧倒的な敵制空権の前に上陸作戦を阻止できなかった。

 

 上陸してきたのは安達二十三将軍率いる日本陸軍が主力だが、最初に上陸したのは上陸戦に長けた海軍特別第一陸戦旅団、海軍特別第二陸戦旅団、自由英海軍コマンド旅団などだった。

 その後続に、日本陸軍の機械化軍団が続いていた。

 合わせて4個師団規模の軍団編成で、合計12万の大軍だった。

 

 ミスラタ前面にはパットン将軍率いる2つの機甲軍団がいるので、十分現地の枢軸軍に対抗できる戦力となった。

 しかも東方からは上陸作戦に合わせて続々と後続部隊が進軍しつつあり、1週間以内に戦力差も逆転する予定だった。

 

 対する枢軸軍は、もとからいる8個師団25万に加えて、4個師団10万の兵力が増援として到着していたので、上陸された時点で兵力は勝っていた。

 しかし連合軍が上陸した地点は、沿岸防衛用の部隊が薄く配置されているだけで、十分な沿岸陣地も無かった。

 陣地の構築を怠ったわけではなく、前線まで資材と人員が送り込めなかったためだ。

 沿岸部の兵力が少ないのも同様で、本来なら増援として到着した一部を沿岸に配備する予定だったが、その前に連合軍が侵攻してきていた。

 チュニジアからの増援部隊は到着したばかりで、少し内陸部で予備兵力として留め置かれていた。

 兵営どころか配置に就く陣地も十分ではないので、その準備をしている段階だったのだ。

 

 現地枢軸軍は、不十分な状態での迎撃を強いられたと言えるだろう。

 

 対して連合軍には、圧倒的といえる制空権があった。

 

 この作戦で動員された航空機の総数は約5000機にも及び、周辺に展開する枢軸軍の4倍以上の数字だった。

 その上枢軸側は、要のトリポリ基地が艦砲射撃で機能不全に陥って壊滅状態となり、リビア西部の制空権は完全に連合軍に奪われていた。

 そしてミスラタ前面の陣地を中心に展開する枢軸軍は、退路を断たれた形で強力な機甲部隊と対峙する状況に追い込まれた。

 

 ここで枢軸軍は、敵が上陸した沿岸部を走る幹線道路を何としても守るべきだったが、敵が制空権を握って地上の動くもの全てを空襲するため、移動するにも出来なかった。

 そこで連合軍の上陸箇所を見極めるためタラントで待機していたイタリア海軍主力に命令が下る。

 「一刻も早く敵橋頭堡と上陸船団を撃滅せよ」という命令であり、それが出来そうなのがイタリア半島南部のタラントを根城とするイタリア海軍主力部隊しか無かったからだ。

 


 地中海の絶対防衛線が維持できるかは、イタリア海軍の肩にかかっていた。


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