フェイズ06「戦間期の日本の軍備」-1
近代国家としての日本は「富国強兵」を最優先のスローガンに掲げて、他の列強との遅れを少しでも縮める為がむしゃらに突き進んだ。
その結果、日露戦争での判定勝利を得て、晴れて列強の末席を占めることに成功する。
これは国家としての一つの奇跡だと言われた。
そして列強となった日本の、最も重視すべきは軍備だった。
国力、工業力、さらには植民地に劣る日本が列強の座にいるためには、軍事力ぐらいしか無かったからだ。
日露戦争が終了した頃、日本は国力を大きく越える軍備を有するに至った。
陸軍は19個師団(うち2個は予備師団)、海軍は戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻を中核とする一大戦力だった。
この大きな軍備は、本来なら戦争の終了と共にかなりを削減しなければならなかった。
しかし日本が列強となったからには、ある程度の維持が必要だった。
また日露戦争を勝利に導いた陸海軍は、自らの軍備が維持され続けること強く望み、政府も戦争の英雄の声を無視することは出来なかった。
結果日本は、自らに過ぎた軍備を保持し続けることになる。
この流れは第二次世界大戦が終わるまで続き、日本を列強たらしめる原動力となると同時に、日本の健全な経済成長に対して常に足かせ付ける結果にもなる。
陸軍と海軍それぞれについて見ていきたい。
・日本帝国陸軍
日本帝国陸軍は、日露戦争までに近衛師団を含めて13個師団を編成し、戦争直前にさらに4個師団を増やし、戦争中に後備旅団という後方警備部隊を強化した後備師団を2つ編成して戦線に投入した。
この後備師団は、戦後に正規師団に昇格して、19個師団体制となった。
当然過剰な軍備で、せめてもの救いは当時の金食い虫だった騎兵部隊が貧弱な事ぐらいだった。
これだけの軍備は、日露戦争後の日本には過剰だったが、列強としての地位を維持するため、実際は戦争に勝利した軍人達のポストを確保するため維持された。
そして戦後の1907年に韓王国が日本の保護国となったため、朝鮮半島の防衛を担わなくてはならない日本は、2個師団を新たに増設する。
一部には、既存師団の一部動員強化による持ち回り駐留が検討されたが、同じ事を既に南満州の関東州などで実施しているので(=関東軍)、これ以上正規師団の負担を増やすわけにはいかないとして、新規師団の増設が決まった。
しかし一種の官僚組織である陸軍が、自らの組織拡大を図った結果なのは明らかだった。
そして陸軍にとって、千載一遇の好機がくる。
世界大戦(第一次世界大戦)の勃発と、日本の積極参戦だ。
世界大戦で日本陸軍は、結果として常時6個師団をヨーロッパの西部戦線に派兵し、さらに3個師団を中東などに派兵した。
また交代用として6個師団が派兵されているので、合計15個師団が海外に出征したことになる。
また過酷な西部戦線での消耗を補うため、10万人以上の補充兵が日本各地から送り込まれた。
こうして約40万人の日本兵が海外へと派兵された。
この巨大な兵団が遠隔地で展開、活動するのを支えるため、日本本土では延べ400万人が動員された。
陸軍の中核となる師団も大幅に増設され、最盛時で60個師団を数えた。
しかし短期間での師団増設のため、今までいわゆる「四単位制」だった部隊編成を、重武装化による代替と部隊数増加の為に「三単位制」に移行した。
歩兵の減少を火力で補い、将校の不足を補うための措置だった。
連動して各師団の旅団も解体され、今まで「師団=旅団=連隊」だった組織が、「師団=連隊」へとシンプル化された。
陸軍将校たちが心配した師団当たりの兵員減少も、重火器、重砲などを扱う兵科の増加でほとんど変化無かった。
ただし専門性が高い兵科が増えたため、将校や兵士の教育には多少時間がかかるようになった。
またヨーロッパの西部戦線まで派兵された部隊は、フランス、イギリスから当時の最新兵器の無償供給を受けており、新たに得た武装の総量は平時の日本陸軍の半分の装備数に達した。
加えて西部戦線など世界各地で得た戦訓は、数万の将兵を犠牲にしただけの価値があると言われ、装備、軍制、戦術、そして戦略面に至るまで日本陸軍の大幅な近代化を後押しした。
一方で、軍を支える部隊に関する理解が広がり、輜重部隊を軽視する傾向が弱まり、工兵の地位も大きく向上した。
これは軍内部での意識改革だけでなく、装備面でも機械化が重視されるようになる。
とはいえ、当時の日本の工業力では機械化には限界があり、全ての将校が戦場を経験したわけではないので、意識改革も十分とは言えなかった。
世界大戦が終わると、日本政府は軍の大幅な削減を計画する。
そして、これを危惧した陸軍内の一部がシベリアへの出兵を故意に拡大させた。
お陰でと言うべきか、シベリア出兵が終わるまで、陸軍の規模縮小は戦時動員した師団に留められた。
だがシベリア出兵などの結果、極東共和国が誕生すると情勢が大きく変化する。
朝鮮半島の軍事的安定性が増した事を理由として韓王国の統治が緩められ、結果駐留日本軍も削減される事になった。
さらに極東共和国が日米寄りの国家へと変化するにつれて、日本自体の軍事的安定性も高まったため、過度の陸軍部隊を保持する必要性が低下していった。
これに対して陸軍は、極東共和国の防衛も担わなくてはならないとして、関東軍の規模拡大や極東共和国との軍事同盟による駐留拡大で組織の維持を図ろうとした。
しかし一方では、陸軍内に正面軍備と兵員数縮小による浮いた予算を用いた近代化という方向性も強かった。
そして日本政府自身は、過度の軍備は削減するべきだという考えを強く持っているため、海軍軍縮に合わせる形で1923年に陸軍の大幅な削減を断行。
一気に5個師団が廃止され、21個の常設師団は16個まで削減された。
その代わり航空隊の強化、各部隊の機械化、輜重兵、工兵の強化、重武装化の促進などが実施されたので、世界大戦への派兵と合わせて日本陸軍の近代化が概ね達成される事となり、実質戦力も大幅に強化された。
兵員数は、第一次世界大戦終了後の28万人体制から20万人体制となった。
将校の配属変更に伴い、教育や訓練でもかなり表向きではあったが輜重、工兵が重視されることとなった。
1928年の張作霖を首謀者とする満州帝国建国では、日本陸軍は関東軍の出動と共に、満州帝国からの要請という形で久々に大規模な出兵を経験したが、ほとんど出動しただけに終わった。
日本の邦人が多い山東地域への出兵計画も、中華民国との政治的交渉により実施されなかった。
だが満州帝国は、建国されてすぐは軍事力が不足していた。
また満州が中華中央から離された事で、日本とアメリカによる満州の経済的支配が強まった。
必然的に満州への軍の駐留も増やさなければならなかった。
また満州とソ連が直接国境を接することにもなったため、満州帝国が軍事力を整備するまでは、日本陸軍が国境防衛の多くを担わなくてはならなくなる。
この結果、日本陸軍の動員体制が強化され、1931年以後数年間は5師団が満州帝国との同盟関係により駐留することになる。
しかし満州への駐留は、極東共和国への駐留と合わせるとむしろ増えて、1930年代半ばには常駐で6個師団、総数で15万人に達した。
これは、満州帝国、極東共和国の軍事力整備よりも、ソ連の軍備増強が大きく上回っていたためだ。
まともに軍隊が駐留できないスタノボイ山脈方面はともかく、ロシア人がザバイカル方面というステップ平原地帯には年々ソ連赤軍が増えていた。
日本陸軍が大幅な増強に転じるのは、1937年になってからだった。
ソ連赤軍の脅威が増したため、対北戦備として各師団の機械化促進と一層の武装強化が、こちらも久しぶりに増強へと転じた海軍と平行する形で開始されたからだ。
しかし、重視されたのは航空隊と航空兵の大幅な増強で、地上兵力の戦略単位の基本となる師団の増加は、機械化装備を豊富に装備する戦車第一師団の1つだけだった。
まずは、徐々に旧式化が進んでいた各師団の装備刷新が開始された。
この時、各種自動車両、兵器の導入では、最初自国産業の拡大と維持のため国産兵器の導入が行われる予定だった。
しかし自由競争を導入するべきだというアメリカ企業からのロビー活動を含んだ横やりにより、「重要装備」以外の競争入札と導入が実施されることになる。
アメリカ企業の参入を日本陸軍が許した背景には、日露戦争以来の日本とアメリカの友好関係と、そこから派生した両国の軍隊の交流、そして何より満州、極東に続々と輸出もしくは現地生産される優れたアメリカ製品の存在があった。
この頃には日本企業の多くもアメリカ式の生産方法や生産管理を導入するか、しつつあったが、全てに勝るアメリカ製品にはまだ敵わなかった。
そして軍人を含む多くの日本人が、アメリカ製品の優秀さを日々の生活の中で直に知っていた。
真冬の満州で一発でエンジンのかかるトラックや車は、当時の日本ではまだ望めないものだった。
このため陸軍内からの反発は意外に少なく、優れた装備を有する事への肯定的意見の方が大かった。
反対したのは、日本の軍需企業と財界と太いつながりを持つ一部の官僚、高級将校だった。
とにかく新たな軍備増強では、各種自動車両の半分以上が、フォード社やGM社製造のアメリカ製、もしくは満州や日本でのノックダウン製となった。
このノックダウン生産に関連した部品製造で、まだ弱小だった豊田自動車が深く関わり、その後の躍進の一歩としている。
また満州でアメリカ企業との技術提携を進めた新興財閥の日産が、シェアを大きく伸ばした。
そして車に連動して、エンジンプラグ、不凍液やオイルも優れたアメリカ製(もしくはライセンス品)を多く使用しているが、戦車のエンジン選定にもアメリカの影響が見られた。
当初陸軍が押していたディーゼルエンジンではなく、容積に対してパワーのあるガソリンエンジンを搭載した中戦車が「九七式中戦車」として開発されている。
1937年に正式化された同戦車は、対ソ連決戦戦車として開発され、当時としては大馬力の340馬力のガソリンエンジンを搭載しており、最大装甲60mm、重量20トンの車体を最高時速40キロで走らせることが出来た。
ただし初期型は火砲の開発が間に合わず、従来型よりも長砲身化した37mm砲を臨時に搭載した。
このため初期型の評価は低く、所詮海軍国が作った戦車と諸外国では見られた。
だがこの車両は、1939年に日米の軍事交流の一環としてアメリカに数台が輸出され、アメリカの戦車開発の参考にもされた優秀車両だった。
優れていたのは基礎設計の面で、砲塔や主砲、装甲の改良で多くの派生型も産むこととなるし、次世代型戦車の雛形ともなったほどだ。
また日本での戦車開発は、対ソ連決戦戦車として、より強力な戦車、つまり重戦車の開発がこの当時から進められていた。
大陸のみでの運用前提で、最大50トンという当時としては破格の重戦車の研究が行われており、九二式、九五式という習作を経て「九九式重戦車」が戦争までに完成している。
同車両は、海軍の技術協力によって装甲形状、砲塔の開発が行われており、当時は「陸上戦艦」と呼ばれていた。
一部、当時としては斬新だった傾斜装甲を採用しており、各部装甲の分厚さ(最大100mm)もあって被弾に対して非常に強い構造を持っていた。
総重量は48トン。
火砲も強力でヴォフォース社の75mm高射砲(ライセンス生産型の九八式速射砲(高射砲)を搭載し、当時噂されていたソ連の重戦車(KV-1)への対抗を目指した車両だった。
しかしこれほどの重戦車の量産には困難が多く、ほぼ試作、習作の車両でしかなかった。
それでも、その後の日本の重戦車開発の嚆矢となり、次の戦車の成功へと結びついている為、非常に意義のある戦車だった。
また開発の過程で重戦車の限界に突き当たったため、その後は中戦車と重戦車の特性を備えた大型戦車、いわゆる「主力戦車」に向けた歩みを始めるようになる。
いっぽう火砲についてだが、1930年代になると世界中から様々な火砲を輸入したりして入手し、次の時代に必要な能力を備えた火砲の整備を開始している。
しかし冶金技術が欧米列強に比べて劣る日本では、どうしても開発が遅れがちだった。
このため大型火砲、高初速火砲については、火砲開発の技術的蓄積が豊富な海軍との共同開発が、当事者達の喧々囂々の喧嘩腰なかで実施され、1930年代のうちに優れた火砲が幾つか登場することになる。
早い段階で75mm口径の対戦車砲(高射砲兼用)が登場したのは高く評価出来るし、口径の長い155mm砲を師団以上の重砲の主力に据えようとした事も先見の明があったと言える。
しかし予算に限りもあるため、大量生産やさらなる新型の開発は、実質的に次の大戦が始まるのを待たねばならなかった。
なおこの頃に、車載用のみだがブローニング社のM2重機関銃が、対空機関銃も兼ねてライセンス生産の形で導入されている。
同機関銃は、既に戦闘機用の機銃としても採用されていた事も影響していた。
他にも戦車、重砲、機関銃などほとんどの兵器の開発が地道に続けられ、多くの成果が見られるようになっていた。
そして1938年秋以後、ヨーロッパ情勢が緊迫化すると1939年度より日本でも陸軍の大幅拡張が実施されることとなる。
この拡張を陸軍は「50個師団体制」と呼び、少し早く開始されていた海軍の大幅な拡張に政治的に対抗した。
だがこの拡張は、日本にとって必要なものであり、さらに不足する規模でしか無かった。