フェイズ44「WW2(38)クルスクの戦い2」-1
クルスクを巡る攻防戦は、満州帝国空軍の参戦で局地的な空軍力の均衡が崩れたことに端を発している。
もっとも、同数のドイツ軍に対して、満州帝国軍が上回っているのは空軍の戦闘力だけと言っても間違いなかった。
そして数と密度で勝る満州帝国陸軍の上空では、満州帝国空軍が相対的に制空権を握っている場面が多かった。
他方でソ連軍の攻勢が開始されてドイツ空軍の戦力が分散されると、クルスク方面の制空権はほぼ満州帝国空軍が握ってしまった。
これがドイツ軍のさらなる苦境を呼び込んでいた。
現時点では、満州帝国の地上部隊に効果的な反撃を行っても、空軍に進軍を阻止されて反撃が不完全になるばかりか、最悪撃退される恐れが出てきた。
当初、モーデル元帥や現地司令部が満州軍への反撃を躊躇した理由の一つもこれだった。
加えて、ソ連軍の進撃をこのまま放置した場合、クルスク方面の50万以上の将兵が逆に包囲殲滅される恐れが強まっていた。
双方に対応した場合、三方向から押しつぶされる可能性も高かった。
このため満州帝国軍の迎撃を見限り、クルスクの一時的な陥落も許容して、ソ連野戦軍の撃破に集中することとした。
この点でドイツ軍の総司令部でヒトラーと将軍達の激しいやり取りが交わされたが、奪回を前提とした一時的な後退の許可が出た。
彼らにとっての本当の敵が、タタール(満州帝国軍)ではなくスラブ(ソ連軍)だからだ。
そして総司令部での決定を踏まえて、満州帝国軍に向けてクルスクの南北側面に展開したばかりのドイツ軍機甲部隊は、それぞれ向きを南北逆にしてソ連軍の撃退に向かうことになった。
移動の労力と時間の無駄となったが、負けないためには仕方なかった。
また、オリョール、ハリコフ方面にいた予備機甲部隊(※共に軍団規模)もソ連軍撃退に全力を挙げることになった。
この時動いた部隊の中には、ハリコフ方面後方に待機していた武装SS軍団がいるなど精鋭中の精鋭部隊だった。
またクルスク正面は、とにかく他の部隊を集めて時間を稼ぐことになった。
一時的な放棄を前提とした、市街戦も想定した部隊の布陣も急ぎ取られた。
クルスクの北のオリョール北部にはフランス第3軍が布陣していたが、クルスクに比較的近いこともあったので、出動準備を終えていた1個軍団が側面援護の形でドイツ軍と共にロシア人に立ち向かう事になった。
指揮系統が複雑化するが、とにかく1兵でも欲しい状況だったからだ。
以上のように、クルスク方面のドイツ軍はかなり泥縄式ではあったが、ゆっくり下がりつつ機動防御戦を企図したと言えるだろう。
そしてこの段階で、クルスクを巡って、三カ所で大規模な突破戦闘とその防戦が行われることになる。
本来ならクルスクを正面から目指す満州帝国陸軍は、包囲殲滅戦の支援のための戦闘に転じるべきだった。
クルスクを正面から押しすぎたら、ドイツ軍がそのまま西に後退して包囲殲滅が出来ないかもしれないからだ。
一方では、クルスク正面の敵を拘束して、他に行かせないという利点もあった。
ドイツ軍の起点となるクルスクにいち早く突入した場合は、敵の兵站を断ち切って一気に勝負を決する事ができる可能性もあった。
逆に、突出しすぎて半包囲なり逆襲を受ける可能性も十分にあった。
だがソ連軍から見た場合、満州帝国軍は功名争いに名乗りを上げているようにも見えた。
一番最初に攻勢に転じた部隊がそのままクルスクに一番乗りすれば、武功が誰にあるのかは子供にでも分かることだった。
これではソ連軍は完全な脇役になってしまう。
実際ソ連軍からは、満州帝国陸軍・遣蘇総軍に進撃速度を緩めて次の作戦のための補給と再編成に入るように要請が出た。
満州帝国陸軍・遣蘇総軍の実状はどうだったのだろうか。
このとき総司令官の馬元帥と副司令官の石原上将は、全部隊に命令の変更は発していない。
強引な突進を続ける第一機甲軍とその各軍団指揮官は、強引に前進を続けながら次々に増援兵力と予備兵力を投入して突破戦闘にのめり込んでいた。
この裏には、劣勢になったり戦力密度を下げると、漢族を中心とする兵士達の士気が崩れるかもしれないという恐怖もあったとされるが、勝っている事もあって戦意は旺盛だった。
重砲弾幕も、攻勢開始当初と変わらないほどの密度で撃ち続けていた。
第一次世界大戦のような連続する砲兵弾幕は、ドイツ軍をますます圧迫していた。
つまり、このまま自分たちでクルスクを奪うという動きを見せている事になる。
事態が動いたのは5月26日。
遣蘇総軍が、クルスク前面の第三線防御陣地帯を一部突破したときだった。
第三線は事実上の予備防衛陣地のため、陣地の幅と密度が少ない上に兵力も十分では無かったので、今までよりも早く突破されてしまった。
そしてその先には、クルスク市の最終防衛線があるだけだった。
町中で市街戦をする準備は、ドイツ軍は殆どしていなかった。
またこの前日夕方に、オリョールとハリコフ双方のソ連軍精鋭部隊が、共にドイツ軍の第一線防御陣地帯を完全に突破して第二線に突進しつつあった。
ドイツ軍の予備兵力の投入が結果的に右往左往した為、本来なら機能するはずの防御戦が行われなかったからだ。
しかもこの段階で、ドイツ軍は予備の機甲部隊をどこに投入するべきか、ギリギリの判断をしなければならない状態だった。
ゆっくり下がりながら防御戦に徹するにしても、ソ連軍の攻勢規模が大きいため機動防御戦には限界があったし、タイミングを間違えば包囲殲滅される危険があったからだ。
しかもソ連軍、満州軍共に、安易な機動防御戦を拒絶するような重厚な布陣で陣形を組んでいた。
だがここで、満州帝国陸軍・遣蘇総軍がクルスクに向かわず、クルスク正面の最後の陣地を前にして突然二手に分かれる。
そして一気に、ソ連軍の迎撃に向かうべく移動していたドイツ軍の予備部隊に向かい始めた。
しかも予備の機甲部隊を始め、残り全ての予備兵力が投入され、遣蘇総軍そのものがクルスク直前で二手に分かれて、その南北に展開するドイツ野戦軍主力部隊に襲いかかった形だ。
しかも僅かな抵抗を排除すれば、ドイツ軍機甲部隊の側面または後方を捉えたに等しかった。
さらにクルスク方面に対しては、後方から急いで追いついてきた歩兵軍団が続々と戦闘参加して、クルスク市から機甲部隊が側面を攻撃されない布陣を敷いた。
多くの機動が事前の作戦書に組み込まれていたため、相対していたドイツ軍が付け入るスキが殆ど無い動きだった。
つまり遣蘇総軍を実質的に指揮する石原完爾将軍(+参謀将校達)が狙っていたのは、最初からドイツ軍の機甲部隊主力を戦場に引っ張り出して撃滅する事だったのだ。
都市など野戦軍を潰してしまえば簡単に奪い返せるし、戦線も大きく押し戻せる。
そして遣蘇総軍にとっての何よりの戦果は、ロシアの領土を奪い返すことではなく、ドイツ軍など欧州枢軸軍を一人でも多く撃破する事だった。
1944年5月27日朝、ついにウクライナ東部中原に両軍のロシア戦線中の機甲部隊が集結する事となった。
数百万同士の大軍が向き合う長大で広大な戦線には、なお、多くの兵力が各地で対陣して日々の消耗に耐えながら戦っていたので、クルスクと呼ばれる都市周辺部に集まった兵力は、双方の陣営の総力と呼んで間違いなかった。
そして攻勢を開始した側の最初の部隊が敵主力へと向きを変えた事で、全ての者が「決戦」を決意するに至る。
なぜそうなったのか、少し時間を戻しつつ見てみよう。
満州帝国軍が、クルスク進撃を止めて側面後方から急速にドイツ軍主力機甲部隊に迫りつつあり。
この報告は瞬く間に両軍の間を駆けめぐった。
ソ連軍は直ちに進撃速度を上げて、戦術的な包囲殲滅の好機を捉えようとした。
実戦慣れしたソ連野戦軍指揮官達も、今が何の好機かを正確に知っていた。
ドイツ軍は、本来ならクルスク一帯から遅滞防御戦を展開しつつ後退し、戦線を立て直すのが最も合理的判断だった。
そして時間を稼いでいる間に、ドニエプル川での河川防御を固めなければいけなかった。
それ以前の問題として、クルスクから後退するならハリコフ方面、オリョール方面の側面を固めなければいけなかった。
とはいえ、単純に後退した場合、敵に付け入るスキを与える可能性が高く、最悪の場合は防衛線を構築する前に戦線崩壊の可能性もあった。
それに敵の圧力が強すぎて、後退するにしてもある程度戦って敵戦力を一定程度撃破するより他無かった。
それでも遅滞防御戦は有効だと判断されたが、幅広い戦線で行うには敵の数が多すぎ、また自らの戦力が不足していた。
もっともドイツ人達の多くが、まだ後退の時とは考えていなかった。
「狼の巣」にある総司令部からは、事前の約束を破ってクルスクの死守と反撃が総統命令で命じられていた。
狼の巣では、またもグデーリアン将軍とヒトラー総統の大喧嘩が見られたと言うが、現地のドイツ軍各野戦軍指揮官たちも目の前の敵機甲軍団を叩いておかないとまともに後退も出来ないし、さらには今後大きく劣勢にさらされると考えた。
故に、死守はともかく攻勢防御の延長としての反撃には賛成の向きが強かった。
これは作戦の天才ともいわれるマンシュタイン将軍も同様だった。
敵野戦軍を撃破しなければ、ロシアの大地で勝機は掴めないのだ。
こうしてドイツ軍は、全ての予備兵力の投入を決定する。
グデーリアンのヒトラーへの殴り込みによって、若干の戦術的幅もヒトラーから得られていた。
文字通りの総力戦だった。
そしてここに、世に言う「クルスク大戦車戦」が起きる。
戦場は、クルスクとオリョールの間のオルキヴァトカと、クルスクとハリコフの間にあるプロホロフカの二カ所。
ここにドイツ軍の予備機甲部隊が集中しつつあり、ソ連軍、満州軍も殺到しつつあったためだ。
ドイツ側にとっての問題は、ドイツ軍が築いた野戦陣地群が東部にしか向いてなく、しかもすでに多くが突破、破壊された後である事だ。
だがドイツ人達は、戦車対戦車の純粋な戦いで、自分たちが後れをとるとは考えていなかった。
しかも今までの努力で多くの戦車、装甲車両、予備兵力が確保され、機甲軍団だけでそれぞれ3つも集結していた。
装甲軍規模の機甲部隊が集結するのは、バクー突破戦以来だった。
ドイツ人達は、運動戦での敵機甲部隊撃破の絶好のチャンスだとも捉えていたほどだった。
一方連合軍は、満州帝国の第一機甲軍を除くと全てソ連軍だが、その全てが精鋭部隊だった。
ソ連赤軍の主な軍(軍団の上位組織)だけで第5親衛機甲軍、第6親衛軍、第7親衛軍、第1突撃軍、第3突撃軍、第1機甲軍(戦車軍)、第2機甲軍(戦車軍)になり、師団ではなくそれより上位の軍団でないと数えたくないほどの部隊が作戦参加していた。
双方の戦場には、連合軍3000両以上、欧州枢軸軍1000両の戦車がそれぞれ集まり、その他の装甲車両を合わせると全ての戦場で1万両以上の機甲兵力が大きく南北二カ所の戦場で激突する事になる。
もちろんほとんどの戦車はそれぞれの広い戦場で戦うだけだが、間違いなく世界最大規模の「大戦車戦」だった。
そして両軍の無数の戦車、装甲車両は、自らの勝利を信じて前進し、各戦場で出会った敵との激しい戦闘へとなだれ込んでいった。
そしてこの戦場で鮮烈な印象を両軍に与えた戦車こそが、「VII号重戦車」通称「ティーゲルII」だ。
総重量68.5トンという常識を疑う巨体を最大180mmの重装甲で鎧い、異常に砲身の長い71口径88mm対戦車砲を装備していた。
重量に対してエンジンが力不足で足回りが弱いのが弱点だが、まさに無敵の戦車だった。
敵は巨体を支えられない自らの能力と燃費の異常な悪さだけとすら言われ、この戦場でも猛威を振るうことになる。
IS-2重戦車の乗組員が、ティーゲルIIの巨体を見ると乗車を棄てて逃げ出した、という逸話すらあるほどの存在感を持っていた。
当時は、砲塔前面が丸みを帯びたポルシェ砲塔と真っ直ぐなヘンシェル砲塔の二種類が戦場にあったが、装備していたのは武装親衛隊の武装SS第501重戦車大隊と、国防軍の505重戦車大隊の二つだけだった。
まだ量産配備が始まったばかりで、生産に非常に手間がかかるため十分な数が生産されていなかったのだ。
装備している2個大隊についても、ギリギリで戦いに間に合った上に定数の3分の2程度しかないので、足りない分は他の車両で代替していた。
またこの戦場には、ドイツ陸軍に当時12個あった独立重戦車大隊のうち8つが集結していた。
連合軍側もソ連軍、満州帝国軍双方が持ち込めるだけの重戦車を戦場に投入していたので、重戦車の決戦場とも言われた程だった。
両軍合わせて500両以上の重戦車が、戦場のどこかにいたことになる。
そして反撃しないまま防戦に追いやられたドイツ軍は、押しよせる連合軍に果敢に挑み、優れた兵器と兵士達が持ち前の強さを見せつけた。
しかしこの戦場は、密度と数が違いすぎた。
乱戦の中で多くの戦車が撃破された。
しかも満州軍の上は制空権が奪われている場合が多いので、流石のドイツ軍の重戦車も爆撃を受けて呆気なく撃破されていった。
そしてこの戦場で満州帝国軍側でデビューしたのが、ある対戦車自走砲だった。
対戦車自走砲は防衛戦で真価を発揮するが、砲が旋回できないので攻撃、移動しながらの戦闘には向いていない。
例え重装甲を施した突撃砲でも大きな違いはない。
この戦場で活躍したのは、日本海軍の127mm両用砲を改造した48口径127mm対戦車砲を搭載した「四式砲戦車」だった。
名称で分かるように、日本陸軍が開発した。
開発当初は20トン級の九七式のシャーシを使おうとしたが、砲が重すぎるため無装甲でも搭載すら無理だった。
このため当時日本で増加試作段階だった「四式中戦車」の車体を利用した。
44年中頃から量産の始まる「四式中戦車」は、満州帝国内でもアメリカのラインを入れた大きなトラクター工場を改造して生産予定だった。
そしてシャーシの量産は早くに進んでいたが、肝心の砲と砲塔の開発、生産が遅れていた。
このため満州では、既に完成していたシャーシを使った各種車両が先行して作られた。
そのうち一つが、開発に苦労していた大口径砲を搭載した自走砲だ。
「四式中戦車」自体は35トン級の中戦車で、比較的大きな車体でエンジン馬力も高いので機動性は十分にあった。
127mm対戦車砲の搭載も可能で、完全密閉できた砲室にも一定の装甲を施す事も出来た。
ただし、ドイツ軍のように異常に分厚い装甲を施すことは無かったので、近接戦闘までは無理だった。
それでも前面装甲は最大で80mmあり閉鎖型戦闘室なので、ドイツ軍なら突撃砲に分類する能力はあった。
また同車両には、海軍の技術を応用した照準装置が搭載されており、砲座にはアメリカ製の新開発のジャイロ・スタビライザーを使った。
つまり「狩り」をするための自走砲だった。
有効射程距離は5000メートルに達し、3000メートルならほぼ全ての戦車を撃破可能だった。
ティーゲルIIの車体正面だと2000メートルまで近寄らねばならないが、それでも破格の性能だった。
加えて最低小隊での集団戦を前提としており、観測車両(軽戦車改造の通信車)も編成には組み込まれていた。
なお、車長は陸軍製ではなく海軍製の倍率の高い望遠鏡が支給された。
それほどの距離で戦うことを前提としていた為だ。
「四式砲戦車」は、この時期の満州帝国陸軍にとっても切り札の一つで、ドイツ軍の最精鋭重戦車部隊にぶつけるつもりで戦場に持ち込んでいた。
とはいえ、戦いに間に合ったのが1個中隊だけだったので、結局ティーゲルIIに会敵することは出来なかった。
それでも防戦に出てきたティーゲルI重戦車を、彼らのお株を奪うアウトレンジで撃破する戦果を記録している。
遠距離砲撃戦でも、パンター戦車を上回った。
フェルディナントも、側面からだが撃破していた。
距離1500mでチャレンジャーの分厚い正面装甲もうち砕いていた。
もっとも、多くの戦場ではドイツ軍の鋼の猛獣たちが猛威を振う場合が多く、連合軍が1両仕留めるのに数倍の犠牲を強いる場面も見られた。
しかし局所的に作られた物量と空襲により、満州帝国軍の前に現れたドイツ軍はすり減らされていった。
容赦のない空襲の前には、ドイツの誇る重甲冑で身を包んだチュートンの騎士達も抵抗すら許されなかった。
対空戦闘なら、伝説の剣の名を与えられたM2重機関銃を搭載するアメリカ製戦車の方が得意だった。
ソ連製、アメリカ製戦車も無力ではなく、戦車同士の戦闘でもかなりの数のドイツ製戦車が撃破され、そして戦場に遺棄された。
ソ連軍の前のドイツ軍は、それぞれの地域に作られていた第二線防御陣地帯が圧倒的物量によって強引に突破されると、反撃に出たドイツ軍機甲部隊との間に壮絶な戦車戦へとなだれ込んでいっだ。
ドイツ軍の戦車、突撃砲は、自分たちに数倍するソ連軍戦車を撃破したが、激しい戦闘の中で自らも深く傷ついていった。
そしてソ連軍の場合は、撃破されてもすぐに違う者が前線に立つが、ドイツ軍の次に立つ者は以前の熟練者と違って未熟な場合が多かった。
それ以前に、次に立つ者がいない場合も少なくなかった。
いくらドイツ軍が強くとも、敵との数が違いすぎた。
そして最精鋭の兵士達を失うと言うことは、戦線の破綻、崩壊を意味した。
それでもソ連軍と対峙したドイツ軍最精鋭部隊は、自分たちの任務を十分に果たしていた。
また、精鋭部隊が多く集まっていた南部では、優れた機動戦の冴えを見せつけて、戦術的にソ連軍の部隊を包囲する場面すら見られた。
ソ連軍は勝てる筈の戦いなのに、ドイツ兵の優れた技量を前に攻めあぐね、損害も多いので一旦停止せざるを得ない戦場も一つや二つでは無かった。
戦場での寿命は1週間と言われるほど損害に無頓着なソ連赤軍でも、一度に受けて良い損害を上回る場合が多々見られた。
それでもソ連軍にとっては、消耗戦前提の戦いで、相手も消耗させれば戦略的な勝利と考えているため、引くことなく攻勢を続けた。
攻勢面の最も北では、枢軸側のフランス第三軍第六機甲軍団が何とか手薄な場所を突破してソ連軍主力を迂回突破しようとした。
だが、より北の中央軍集団のいるオリョール方面の戦線も小競り合いが活性化しているため、フランス第三軍全軍を用いるわけにもいかず手詰まりに陥っていた。
現地フランス軍指揮官は、もう1個機甲軍団があればと嘆いたと言われるが、それだけの兵力はどこにも無かった。
そして両軍共にがっぷり四つに組んだ状態となり、時間が過ぎると共に膠着状態に陥りつつあった。
そしていつもなら、ドイツ軍が手早く予備兵力をまとめて機動防御戦を始めるのだが、両軍力を絞り出しているため、予備部隊もなくそのまま戦線の停滞が続くかに見えた。