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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
66/140

フェイズ43「WW2(37)クルスクの戦い1」-1

 1944年初夏、ついに巨大なロシア戦線が動きだす。

 ソ連赤軍、満州帝国軍共同での夏季攻勢の開始だ。

 

 1944年5月22日、この日は丸3年前にドイツ軍を中心とする欧州連合軍がロシアの大地に突如侵攻してきた日だった。

 スターリン書記長は、この日を敢えて反撃の開始日に指定した。

 

 目標はクルスク。

 

 欧州枢軸から見たクルスク市は、北のオリョール、南のハリコフを結ぶ兵站拠点の一つで、ハリコフからモスクワに伸びる鉄道があり、オリョールを維持するためにも必要な拠点だった。

 

 本来ならソ連は、ウクライナ東部のうち南部の炭田地帯の奪回を狙いたかったが、南部はロストフからハリコフにかけてドネツ川を利用した強固な河川防御陣地帯が形成されており、物量を投じても簡単には突破は出来ないと考えられた。

 特にハリコフは交通の要衝のため前衛陣地から周辺部一帯に至るまで半ば要塞化され、さらに装甲軍団の予備隊を置く事で厳重に防備されていた。

 しかもそこを、マンシュタイン将軍が守備していた。

 ドイツ軍としても、万全の布陣だった。

 

 これに対してクルスク方面は台地状の地形が多いが、障害となる幅の広い河川は無かった。

 しかもクルスク郊外には、有力な鉄鉱石鉱山がある。

 周辺の地形は台地や高地と言える場所で、特に夏場は大規模な機動戦に適していた。

 そしてそこに、ソ連赤軍は精鋭部隊を中心に全軍の約40%戦力を集中させた大規模な攻勢を計画する。

 

 だがその攻勢の第一段階を担うのは、クルスクのほぼ正面に位置していた満州帝国軍・遣蘇総軍だった。

 満州帝国軍が攻勢の初期を担う事については水面下で各国との折衝が行われたが、いくつもの欺瞞情報と交渉を行うことで枢軸側への情報漏洩の阻止が図られた。

 それでも枢軸側は満州帝国軍が動くという情報を複数ルートから掴んだが、先入観もあるため満州帝国軍が動く事こそが欺瞞だと捉えていた。

 

 何より戦争の帰趨を決める決戦と言える戦いに、ロシア人達が外様で有色人種の部隊を先陣とするわけがない、というのが欧州枢軸の考えだった。

 しかしスターリンの考えは、作戦名にあるように最初から決まっていた。

 

 1944年初夏の満州帝国軍・遣蘇総軍は、本国からの増援を受け取って3個軍編成に改変され、師団数も28個を数えた。

 将兵の総数も100万の単位に乗り、死傷率がソ連赤軍より低いので熟練兵の比率も高かった。

 兵士の過半が漢族系、将校の過半が日系か満州系だが、そうした人種の違いを問わずに士気も高かった。

 

 馬元帥以下の将軍も、軍司令官は大将、軍団司令と副司令官、参謀長は上将など多くの者の昇進を事前に行い、士気を鼓舞していた。

 しかも実力主義の抜擢人事が断行されていたため、将校の多くも凄い速度で昇進していた。

 派兵当初准尉(曹長)だった者が、この時点で大佐で連隊長に任じられているような例まであった。

 観戦武官のアメリカ人将校が、まるでシヴィル・ウォー(南北戦争)時代だと言ったほどだった。

 もっとも裏を返せば、そうしなければ巨大な軍団を運営、維持出来なかったと言うことでもあった。

 もっとも、唯一の友軍といえるソ連赤軍も将校団は壊滅後に再建され、さらに戦争で消耗していたので特に目立つような状況でも無かった。

 

 部隊のうちわけは、重機甲師団3個、機甲師団4個、機械化師団6個、歩兵師団15個からなる。

 空挺部隊はないが、司令部直轄でスキー連隊などの熟練兵による特殊戦部隊はいた。

 総合的な特殊戦部隊の「第一機動連隊」も、日本陸軍から移籍の形で派兵されて加わったままだった。

 それ以外にも日本陸軍から「借り受けた」一部部隊も、編入されたままだった。

 満州帝国軍に移籍した状態の日本人、日本出身者(満州国籍除く)の割合は将校と合わせて全体の5%を越えるほどだった。

 

 師団など各部隊数が増えたので3個軍編成となり、各軍、各軍団にはそれぞれ重砲兵旅団が直轄で属し、さらに独立戦車連隊もあった。

 中でも1個軍は「第一機甲軍」として機械化部隊の過半が集結され、直轄部隊にも精鋭部隊が配備されていた。

 加えて軍集団司令部直轄には、独立重戦車連隊まであった。

 

 総合的に見て、正面からの大規模陸上戦闘しか考えていない、広大なロシアの大地に特化した重装備部隊になっており、歩兵師団も準自動車化師団となっていた。

 

 そして小は大隊から大は軍集団編成に至るまで、その殆どの編成変更を敵と対峙したままその後方で行い続けた事が、満州帝国軍の一つの特徴でもあった。

 満州帝国軍・遣蘇総軍は、本国の官僚などの政治的玩具にされる事なく「現場」で作られた珍しい軍団だった。

 アメリカのパットン将軍が後に話しを聞いて、「俺が作って指揮したかった」と言ったほどだった。

 

 なお、戦車師団の名称が1943年秋から機甲(機械化装甲)師団となったのは、諸兵科統合部隊としての側面が強まったことを受けた為で、日本陸軍での改訂に合わせたものだった。

 

 重装備にできた理由の多くはアメリカ、日本からのレンドリースのおかげであり、加えてこの頃には満州帝国内での兵器の生産も拡大していた影響もあった。

 もっとも、このため装備だけ見るとほとんどアメリカ軍だった。

 この時期にはアメリカも冬季用の軍服を持つようになっていたので、日本製なのはヘルメット(鉄兜)とニーモーター(擲弾筒)ぐらいとまで言われた。

 実際は戦車をはじめ各種装備が日本からも供与されているが、比率的にはアメリカ製ばかりという感覚は仕方ないだろう。

 

 重機甲師団は、3つある戦車連隊の1つが重戦車部隊だった。

 編成当初は各連隊の1個中隊を重戦車中隊にしていたが、他の戦車と速度が違うので43年秋以後はひとまとめにされていた。

 また機械化歩兵連隊が2個属して、噴龍弾(ロケット弾)連隊を持つなど重砲兵連隊など支援部隊も豊富で、小さな軍団並の重編成を取っていた。

 全ては大規模地上戦に対応して師団の戦闘継続能力を高めるためだった。

 この重機甲師団は、満州帝国では「禁軍(近衛軍)」とも呼ばれ、実力で選抜された最精鋭の兵士達が属していた。

 満州人は、「八旗」と呼ぶこともあった。

 

 なお戦車連隊は、日本陸軍が基準なので戦車中隊を束ねた騎兵編成の名残を残している。

 加えて供与の関係で、中隊自体はアメリカ陸軍編成とされていた。

 このためアメリカ、ドイツなどの大隊より少し定数が多い場合が殆どだった。

 通常師団は4個中隊に本部小隊編成(73両)で、機甲師団、重機甲師団は5〜6個中隊を持っていた。

 重機甲師団の戦車連隊は、100両を越えていた。

 重戦車連隊は3個中隊、56両が基本定数で、ほぼ大隊編成と同じだった。

 これ以外にも、主に軽戦車中隊を持つ機甲偵察大隊、対戦車自走砲を持つ機甲対戦車大隊などの機甲戦力が加わる。

 機械化工兵大隊も、火炎放射戦車など特殊装甲車両を有していた。

 

 全ての機甲師団、機械化師団は、主にアメリカ製のハーフトラック(※供与型のM5またはM9=前輪が車輪、後輪が装軌式の軽装甲兵員輸送車)で一部の機械化歩兵部隊は、アメリカの「M3中戦車」を満州国内か現地で改造した兵員輸送車を装備していた。

 この車両は後にアメリカ陸軍なども使用して「カンガルー」と呼称したもので、装甲を残して砲塔、火砲などほとんど装備を取っ払った車体に臨時の座席を置いただけのものだ。

 だがもとが戦車なので、戦場では歩兵から非常に頼りにされた。

 対戦車戦では仇となる車高の高さが、兵員輸送車には向いていた。

 そしてその歩兵達は、従来の装備に加えて対戦車ロケット砲(バズーカまたはロタ砲)を持ち始めていた。

 

 戦車の主力は北太平洋航路とシベリア鉄道で無尽蔵に送られてくる「M4 シャーマン中戦車」各種だが、全体の3分の1程度は当初から満州帝国軍がアメリカに強く求めていた3インチ砲搭載型の車両だった。

 アメリカ陸軍(の上層部)が欲しがらなかったので、この時期は満州帝国に優先して供与されていた。

 この時期になると、砲塔前面装甲を強化したタイプも登場していた。

 3インチ砲は初速の速い戦車戦に向いた戦車砲で、機甲師団を中心に配備されていた。

 

 「M4」以外だと、旧式化した「九七式中戦車」も改良型も一定数(10%程度)が所属していた。

 この時期の「九七式中戦車改」(43年型)は、戊式の長砲身75mm砲を搭載した新型砲塔となり装甲も若干強化して23トンあったため、IV号戦車相手なら砲力で優位だった。

 また、ソ連から供与を受けた「T-34/76」も20%程度あった。

 

 しかしドイツ軍など欧州枢軸の戦車も強力になっていたので、より強力な戦車を求めていた。

 だが簡単に新型戦車は生産できないので、応急処置として中華民国の降伏で大量に得られるようになったタングステンを用いた徹甲弾が、切り札として若干数だが供与されていた。

 

 また全ての師団が戦車連隊を有しており、総軍全体での戦車の定数は中戦車、重戦車だけで3500両を越え、各部隊が十分な数の予備車両を持つほど充足されていた。

 そして予備を除く全ての戦車、装甲車、装甲車両を合計すると定数は5000両を越える。

 

 重戦車連隊は、本来はレンドリース外の「九九式重戦車改」と満州帝国にも供与が始まっていた「三式重戦車」になるが、もともと実戦試験場として使われていたので日本陸軍が特別供与した各種「試製二式重戦車」の姿も見られた。

 ごく少数だがソ連軍最新鋭の「IS-2重戦車」や「KVシリーズ」も保有していたと見られている。

 ただし数が十分ではない場合が多く、たいていは3個中隊のうち1個中隊が他の車両で代替していた。

 評価試験のためか、アメリカの試作重戦車の姿もあったと言われる。

 

 機甲師団の対戦車砲部隊は車両牽引の砲から自走砲となり、主に満州帝国内で改造した各種対戦車自走砲を装備していた(※ソ連から「Su-76」、「Su-85」の供与もあった。

 )。

 これらの自走砲は、日本の長砲身75mm砲とアメリカの90mm砲、3インチ砲のいずれかを搭載して十分な火力を有していた。

 同種の車両は、一部歩兵師団も装備するほど普及していた。

 これらの自走砲は、主に「九七式中戦車」系のシャーシを利用していた。

 もっとも「九七式中戦車」は20トン程度の戦車なので、シャーシの大きさと重量に制限があるため90mm砲搭載は無装甲型でも難しかった。

 このため90mm砲搭載型は正規の「M10」や「M36」ではなく「M4」の満州改造型で、他の戦場では見ること出来ない希少種だった。

 また、当時日本が大量に生産していた「二式砲戦車」(「九七式中戦車」に戊式七糎砲搭載の自走砲で、ドイツのIII号突撃砲より強力。

 )も供与されていたので、長砲身75mm砲搭載型自走砲はこれと間違われることも多い。

 

 他にも、「九七式中戦車」のシャーシを利用した105mm榴弾砲を搭載した自走重砲(※こちらは日本陸軍の正式装備の「一式十糎自走砲」)なども重機甲師団を中心に装備していた。

 

 軽戦車の主力はアメリカの「M3」、「M5」だが、日本製、ソ連製も若干見られた。

 

 対するドイツ軍装甲師団だが、この頃は43年型編成と呼ばれる編成をとっていた。

 戦車大隊2個からなる戦車連隊に2個連隊の機械化歩兵と、機械化された各種支援部隊を加えて編成されている。

 しかしドイツ軍の装甲師団は、師団によって突撃砲装備の戦車駆逐大隊が所属していたり、かなりの戦車を有する装甲偵察大隊を持つので、見た目よりも対戦車火力が豊富な部隊も少なくなかった。

 大ドイツ装甲師団や第一〜第六の初期に編成された装甲師団と武装親衛隊の精鋭部隊が特にそうだ。

 逆に戦車連隊とは名ばかりの数の戦車しか持たない部隊もあったりした。

 

 戦車大隊の1個は「V号戦車」装備で、同車両は完成度をより高めていたので機動性と火力の双方で「VI号重戦車」よりも脅威が高い程だった。

 しかし高性能と引き替えにした技術的な問題が皆無ではないため無敵とは言い難く、連合軍の戦車でも何とか対抗できた。

 

 車体の限界まで強化され48口径75mm砲装備となった「IV号戦車」も侮りがたく、火力面ではノーマルのM4での対抗が難しいほどだった。

 同じ砲を持つ「III号突撃砲」も、特に枢軸側が防御戦をするときは大きな脅威だった。

 突撃砲、対戦車自走砲も「III号突撃砲」に見られるように強化され、中でも「エレファント」と呼ばれるポルシェ・ティーゲル重戦車のシャーシを流用した極めて強力な突撃砲は、中東や北アフリカで一部が投入され不甲斐ない面も見せたが、改良して戦場に再び姿を現し、陣地防御戦で大いに期待されていた。

 

 「クロムウェル」や「チャレンジャー」などイギリス本国製の供与車両はドイツ軍には少なかったが、戦車生産力のない同盟国各国は多数を装備していた。

 ドイツ軍が重宝したイギリス本国製の車両は、常に不足しているトラックだった。

 ただしドイツが供与を求めた新型の17ポンド砲とその装備車両は、生産数がまだ十分ではないという理由で全く供与も売却もされていなかった。

 他の同盟国にも、ロシア戦線には供与されていなかった。

 これは英本国が、ロシア(ソ連)よりもアメリカを脅威と認識していたため、欧州本土に留め置いたり、北アフリカに送り込んでいた為だった。

 

 共に1個軍をロシア戦線に派兵し続けているフランスとイタリアも、主な戦車は生産及び供与数の多いイギリス製だった。

 特にイタリアは自国製の最強戦車が実質的に中戦車の「P-40」で、しかも生産数が少ないため、戦車のほとんどはイギリス製になっていた(自走砲だけは自国生だった)。

 イタリア製の装甲車両で見るべき車両は、1943年頃から生産され始めた各種対戦車自走砲ぐらいだった。

 イタリア軍は、非常に機動性が高い巡航戦車の「クルセイダー」か「クロムウェル」を好んで使った。

 

 フランス軍も「チャレンジャー」歩兵戦車中心にしてイギリス製が多かったが、自国製は「S-41」の改良型の「S-41D」が主力を占めていた。

 バランスの取れた中戦車の「S-41D」は、ドイツの48口径75mm砲のライセンス生産型を搭載しており、防御力も可能な限り強化されていた。

 このため見た目は、この時期のドイツのIV号戦車に少し似ていた。

 

 そして数は少ないが、フランス軍には自国製の重戦車の姿もあった。

 イギリス、ドイツから供与された戦車を徹底的にリバースエンジニアリングして開発した「S-44」だ。

 「シャールB3」とも呼ばれる重戦車で、見た目はイギリスの「チャレンジャー」に少し似ていたが車体は傾斜装甲を多く取り入れ、砲塔は鋳造砲塔だった。

 足回りはフランス伝統の形式を強化したもので、チャレンジャーほど車体は長くはなかった。

 重量は43トンで、装甲は砲塔前面で最大110mmに達した。

 ただし火力は十分とは言えず、自力開発に失敗した事もあって48口径75mm砲のライセンス生産型を搭載せざるを得なかった。

 速度も速いとは言えず越壕能力、登坂能力はチャレンジャーほどないので、歩兵戦車としても中途半端だった。

 実質戦闘力は、対戦車戦能力はチャレンジャーより高いがティーゲルI、パンターの下位互換程度と判定されている。

 日本の「九九式改」と戦っても分が悪かった。

 

 なお、ソ連軍とドイツ軍が戦車戦を実施した場合、撃破率は最大で1対5になると言われる。

 ドイツ軍戦車1両を破壊する為に、ソ連軍は戦車を5両犠牲しなければならないと言うことだ。

 そして無線連絡でドイツ軍同様の緊密な連携が出来るM4中戦車でも、状況は芳しく無かった。

 満州帝国軍も、重戦車部隊以外は1対3以上で対応するように訓令を出していた。

 

 それほどドイツ軍機甲部隊は練度が高く脅威だったのだ。

 

 しかし今回、満州帝国軍・遣蘇総軍は、そのドイツ軍が待ちかまえる陣地に対して、真っ先に正面から攻撃を行う事になっていた。

 

 陣地への攻撃は、対象が野戦陣地でも空軍と重砲の緊密な支援のもとで、歩兵、戦闘工兵によって着実に行うのが常道だった。

 だがこの戦争のロシア戦線では、様相が大きく変化した。

 

 防御側は従来の野戦陣地に緊密な対戦車火力を組み込み、従来の陣地突破戦をほぼ不可能としていた。

 だが攻撃側は多数の戦車、装甲車を前線に並べて、正面から強引に突破する事が可能となった。

 このような戦闘は、主に43年のバクーの戦い、ヴォロネジの戦いで実施された。

 そして特に、対戦車砲を弾く重戦車を用いると効果的とされた。

 

 43年夏から44年冬にかけての大幅な戦線の移動の際にも、各所で中小規模の陣地突破戦が行われた。

 そしてその回答として得られたのは、結局のところ防御側が有利だという事だ。

 一般的に攻撃側は防御側の3倍の戦力が必要と言われるが、その原則に変わりは無かった。

 中途半端な戦力で攻めても、損害だけが積み上げられるだけだった。

 

 しかし攻撃側は能動的選択を取ることが出来る。

 攻撃する場所も選択できるし、投入できる戦力も最初に選ぶことができる。

 

 そして満州帝国軍・遣蘇総軍は、あえて正面からの突破戦闘を仕掛ける。

 

 5月22日から遡ること1週間前から、満州帝国空軍・第一航空軍が総力を挙げて自軍正面の枢軸軍陣地を重点的に攻撃し始めた。

 攻撃はクルスク近辺の野戦飛行場に対しても行われた。

 空襲には、周辺のソ連空軍の部隊も参加しており、参加した作戦機の数は1500機に達した。

 またソ連空軍では、自分たちが作戦の一番槍だと主張もできるように精鋭の親衛大隊が参加していた。

 

 対するドイツ空軍は、各航空艦隊が約1000機を擁しており、その他の欧州枢軸各国を合わせて500機程度がいた。

 ロシア戦線にいる枢軸軍機の総数は2500機となり、そのうち約800機がクルスクを指向出来る場所に展開していた。

 つまり枢軸側は局所的に数で負けている事になり、しかも質の面でほぼ互角なので、ランチェスター・モデル通り枢軸側が劣勢に立たされた。

 

 当然だが地上の被害が続出し、ドイツ軍が苦労して作り上げた対戦車陣地が何もしないまま幾つも葬り去られた。

 しかも満州帝国空軍は、夜間爆撃も途切れず実施しているので、前線の将兵は夜もロクに眠れなかった。

 

 この航空攻勢を、ドイツ軍はソ連軍の夏季攻勢の前触れと考えた。

 しかしこの時ドイツ軍が想定した状況は、以前から空での綻びが見えるクルスク正面でさらに航空撃滅戦を仕掛けることで、ドイツ空軍とドイツ軍の予備部隊を集めることだと考えた。

 

 そしてソ連軍は、空が手薄になった別の場所で攻勢を取ると考えられた。

 現に、ドイツ軍が掴んでいるだけで最低4カ所、ソ連赤軍の精鋭部隊が戦線後方に集結していた。

 中央軍集団の前が1箇所、南方軍集団の前が3箇所。

 

 当然だが、南方でソ連軍は大規模な攻勢を取ると考えられた。

 特に、ドネツ川の対岸で渡河の準備が行われている兆候が強く見られているため、最も南部、最も東部となる戦線で最も危険な場所であるドネツ川区域の警戒態勢が強められ、一部予備部隊の移動も開始された。

 しかも満州空軍の活動に連動して、他戦線のソ連空軍の活動も活発化していた。

 

 ドイツ軍では、クルスク正面にいる満州帝国軍は、二次的な攻勢に参加すると予測された。

 43年春の奇襲攻勢を例外として、基本的に二次的な役割しか果たしていないからだ。

 所詮は寄せ集めの劣等人種の軍隊、という侮りもあった。

 

 だが、5月22日の夜明け前、ドイツ軍の予測と違う事態が起きる。

 クルスク前面の満州帝国陸軍・遣蘇総軍が、一斉に重砲の火蓋を切ったからだ。

 


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