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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ42「WW2(36)空のロシア戦線」

 欧州近辺の海が騒がしくなっていた頃、ロシアの大地も大きく動き始めていた。

 

 ロシア戦線は、1943年初夏からの欧州枢軸のコーカサスへの攻勢が戦略的に大失敗して、夏に戦線の大幅な縮小が実施された。

 ソ連赤軍がほとんどを占める連合軍は、ドイツ軍の攻勢を押しとどめることに力を使いすぎた為、枢軸軍の大幅な計画的退却に対して十分な追撃が出来なかった。

 それでもその秋の間中戦線は活性化し、各所で断続的な戦闘が継続された。

 この間両軍は戦線全域で小競り合いを繰り返したので、兵力の消耗もお互い激しかった。

 

 それも10月末の泥の季節の到来と共に終わり、ロシア戦線は静けさを取り戻した。

 そして本来なら、12月か翌年1月にソ連赤軍による大規模な冬季反攻が行われる予定だったが結局中止された。

 

 主な理由は、戦線が大きく変化しすぎた為、巨大すぎる戦力の再配置に手間取ってしまい、さらにバクー油田からの石油供給が滞ったためだった。

 

 そして冬季反攻を実施しないまま、春を迎えてしまう。

 

 冬季反攻が出来なかった事をスターリンは一度激怒したと言われるが、将軍達の理論立てた説明に何とか納得し、初夏から開始予定の攻勢を必ず成功させるように命じた。

 

 なお、冬季反攻が無かったのは、ドイツ軍のバクー油田の部分的破壊が遠因だと言われることが多いが、完全には真実ではない。

 影響は皆無ではないが、やはりソ連赤軍が巨体になりすぎたのが原因だった。

 1944年春を迎える頃のソ連赤軍の総数は、空軍に後方要員や軍属を含めると1200万人を数えていた。

 ソ連の生産力に加えてアメリカ、日本のレンドリースでも、この大軍に十分装備を施し補給体制を整えることは出来なかった。

 唯一の連合軍である満州帝国軍は、中華戦線が終わって転戦してきたり、新たに得た捕虜を補充として送り込む事で、100万を数えるようになっていた。

 

 これに対して枢軸軍ロシア戦線の枢軸軍の総数は、400万人近くに減少していた。

 主に、あわせて軍集団規模を派遣していたフランス軍がモロッコに主力を移し、イタリア軍はロシアで半壊した後に残りの多くが北アフリカ・地中海の守備に向かってしまっていたからだ。

 またドイツ軍自身も大きく消耗していたので、兵力の減少は数字以上に酷かった。

 それでもイギリスからの戦車、重砲などの武器・弾薬の供与が続いていたので、東欧諸国の軍隊もロシアに踏み込んだ時よりも強化されており、後世言われるほど弱体では無かった。

 フランス軍もイタリア軍も、1個軍はロシア戦線に派兵し続けていた。

 イギリス本国からの兵器供給も、より規模を拡大して各国に行われた。

 

 ドイツ軍自身も、欧州の防衛を枢軸各国に任せることで、ほぼ全力をロシア戦線に投じ続けていた。

 ロシア戦線以外のドイツ陸軍部隊はバルカン半島にいるのみで、これも数の上では限られていた。

 

 双方の空軍については、連合軍の側が少し変化していた。

 

 少し脱線してから本筋に戻りたい。

 

 欧州枢軸軍はドイツの第二、第四航空艦隊が依然として踏ん張っていたが、徐々に制空権の維持が怪しくなっていた。

 原因は、ソ連空軍の増強だけではなかった。

 ロシア戦線に「飛龍師」「空行騎」などの名称を付けた、満州帝国空軍が姿を見せるようになっていたからだ。

 

 満州帝国空軍の戦線投入は1943年秋で、まずは試験的に1個航空団が送り込まれた。

 この部隊は、ロシアの空でどれだけ戦えるかを調べる試験部隊であると同時に教導部隊でもあった。

 「連合軍第八航空戦区」と名付けられた空域を担当し、そこでドイツ空軍との空戦を行い、何が必要かどうすれば良いのかを満州本国に詳細に知らせた。

 なお正式に「第八航空戦区」と呼ばれる空域は正式には存在せず、現場では「どこでもない空域」と認識されていた。

 基本的には満州帝国軍・遣蘇総軍の上空が「第八戦区」と認識され、遣蘇総軍の移動に伴い「第八戦区」も移動していった。

 なお、「八」のナンバリングの由来もよく分かってなく、縁起がよいなどの様々な説があるが、単に連合軍内での戦闘空域の番号を振っていった順番なだけというのが定説だ。

 しかし戦後、様々な憶測を呼ぶことになる。

 

 「第八戦区」に派兵された部隊は当初1個航空団だが、ほとんど中隊単位で装備が違っていた。

 1943年秋の時点で日本、アメリカが第一線で運用していたほぼ全ての種類の戦闘機と中型爆撃機、小型爆撃機が送り込まれており、夜間戦闘機、艦上機までが配備されていた。

 まだ連合軍内でも装備数が少ない最新鋭機すらあった。

 またソ連からも、対地攻撃機のシュツルモビクを供与されたりもしている。

 

 また機体の一部は、ロシアの空で飛ぶことを考えて通常とは違うチューニングだったり、エンジンそのものを通常とは違うものを搭載している機体もあった。

 特に寒さ対策は徹底されていた。

 

 司令部も最初から旅団規模で、日本陸軍から移籍していた少将が指揮をとっていた。

 種類が多いので予備機の数も豊富で、多種類の機体を整備するため整備兵も熟練者を中心に非常に多く送り込まれていた。

 

 多くの機種を有するように一種の実験部隊で、さらに先遣部隊だった。

 このため便宜上は教導部隊とされた。

 教導部隊なのでパイロットも選りすぐりで、1920年代から満州帝国空軍で飛んでいたベテランの満州人もいれば、日本陸軍から移籍している者も少なくなかった。

 中には戦訓修得を目的に、アメリカ陸軍航空隊や日米の海軍航空隊から出向している者までいた。

 他にも、極東共和国のロシア人やアメリカなどに亡命したユダヤ人もいた。

 一説には、中立国からの志願兵や降伏した中華民国のパイロットまでいたと言われる。

 さらに、後方勤務だが女性パイロットまでがいた。

 また多国籍のため、通訳ができる兵士までが派遣されたりもしている。

 もっとも、あまりにも雑多な集団となったので、「愚連隊」や「アウトロー」などとも呼ばれたりもした。

 だが部隊の結束、戦闘力は非常に高く、出現当初から現地のドイツ空軍でも話題となった。

 要するに、「プロの集団」だったわけだ。

 

 一般的に、ソ連空軍のパイロットは練度が低かった。

 これはソ連軍特有の人命軽視もあったが、戦争前に軍の大粛正があった事、初戦で奇襲を受けた事、とにかく一人でもパイロットを前線に送り込まざるを得なかった事などが原因していた。

 このためロシアの空では、総力を挙げてるとは言えドイツ空軍が比較的余裕のある戦いが出来た。

 ドイツ空軍の勲章持ちエースの多くも、ロシアの空で戦果を挙げている。

 

 しかし「第八戦区」に派遣された満州帝国空軍部隊は違っていた。

 パイロットは熟練した者がほとんどで、機材、状態も良好だったからだ。

 

 部隊名は「満州帝国空軍・第四特設教導航空団」で、通称「四教」と呼ばれた。

 また「四教」をもじって「四凶」と通称された。

 「四凶」とは古代中国に出てくる4体の悪神で、各飛行大隊の通称名もその悪神の名をコールサインとしていた。

 機体の中には、絵心のある者にその悪神を描かせていたものもあった。

 ドイツ空軍にもこの話が伝わると、「悪魔軍団トイフェル・アルメーコーア」などと呼ばれるようになる。

 

 そして1944年春になると、続々と満州帝国空軍の本隊が送り込まれてくるようになる。

 

 これまで満州帝国空軍は、中華戦線にしか投入されなかったが、これには大きな理由があった。

 要するに、まともなパイロットが全然居なかったのだ。

 

 満州帝国そのものは、1927年に中華中央から分離する形で成立した。

 しかしほぼ完全に日本、アメリカの傀儡国家で、軍隊も日本軍が殆どを占めていた。

 それ以外は、首相となった張作霖の軍閥と、彼らに付き従ってきた中小の軍閥の兵士達だった。

 日米からの移民もかなりの数が住んでいたが、彼らは大規模農業経営者や富裕層、官僚などで、大戦に入るまでは軍人にほとんどならなかった。

 

 そして宗主国といえる日本、アメリカは、当初は国境警備、国内警備以上の満州帝国軍を望まなかったため、本格的な近代的部隊の編成は先送りにされ続けていた。

 各国への半ば言い訳として士官学校は作ったが小規模で、満州人と日系、米系だけのものだった。

 だが、1930年代になるとソ連の脅威が増してきたので、そうも言っていられなくなる。

 満州帝国空軍の実質的な建設開始も、1930年代半ばに始まった。

 

 装備、人員共に日本陸軍が出しており、資金だけはアメリカからも出ていたので潤沢だった。

 またアメリカ陸軍も教官や武官を派遣していたので、ほぼ最初から多国籍で雑多な空軍としてスタートしたと言える。

 また日米が主導したので、空軍ではなく陸軍航空隊でも良いのではと言う意見も強かったのだが、満州帝国は海軍がほとんど存在しないので、軍が実質的に一つだけでは政治バランスが取れないと考えられ独立空軍として建設されている。

 ただしこの裏には、日米両陸軍の空軍マフィアが一枚噛んでいた事は間違いない。

 アメリカ陸軍のアーノルド将軍も、戦前に視察に訪れている。

 要するに他国で自分たちの軍の実験を行おうという魂胆だ。

 また、利権を求めて日米の航空機メーカーも多くが支援に加わっていた。

 当初から、無償で供与された日米メーカーの機体が並んでいたりもした。

 

 空軍の規模が急速に拡大したのは30年代の末頃からで、パイロットの大量育成もスタートする。

 と言っても、漢族を中心とする満州の国民全般の教育程度、識字率が高くはないので、パイロット及び整備兵の育成は難航した。

 その点、長年のアメリカ資本による開発で日本よりモータリゼーションが進んでいた分だけ、満州帝国陸軍の拡大の方が簡単だった。

 その中で日米からの移民は教育程度も高いし、世界的に見てもアメリカに次いでパイロットの比率が高いので、日米系移民のパイロットが多く見られた。

 彼らの中にも国防意識が高まっていた事も、志願率を伸ばした。

 また満州帝国は、空軍の「促成栽培」を促すべく世界中から志願者を募り、国民資格や報酬につられた人々も流れてきた。

 

 空軍はほとんど一から作らねばならないので苦労は多かったが、日米からやって来た軍人達は満州帝国空軍を一種の実験場と考えて、色々と実験的な事を行いつつ新たな軍を建設していった。

 その様相は、一面では初期のドイツ空軍に少し近かった。

 

 そして中華民国の枢軸国側での参戦が、満州帝国空軍に決定的な変化をもたらした。

 連合軍の青天井な支援と援助の決定と、パイロットの計数的な大量育成の開始だ。

 育成のための教官も日米からさらに多数が派遣され、とにかく全国規模での適性検査で素養の認められた者を手当たり次第に飛行学校に放り込み、戦時特有の促成栽培で一人前に仕立てていった。

 選抜された者も、自らの地位と生活の向上をかけて努力した。

 教導団だけで3つも編成され、最初にロシアに派遣された「四教」も単に4番目の教導団という以上の意味ではなかった。

 

 そして、その一部と先行して育成されていたパイロット達は、中華戦線に投入され実戦経験を得ることとなった。

 さらに一部のパイロットは、日本陸軍航空隊に一時的に移籍して実戦経験を積んでいる。

 そして当初の予定では、1942年春にロシア戦線にも空軍部隊が派遣予定だった。

 調査武官の派遣も、陸軍の派遣と同時期に行われている。

 しかし当時のロシア戦線はドイツ空軍が非常に優勢で、世界的に見て二線級以下の能力しかないと考えられていた満州帝国空軍部隊を投入する事は、軍という組織から見て自殺行為と考えられた。

 また、ロシア戦線でのレンドリースの状況、現地に派遣された満州帝国陸軍部隊の補給状況などを見た上で、順次派遣することとなる。

 要するに、派遣しても邪魔になると考えられたのだ。

 

 そして中華戦線が予想以上に長引いたため、空軍派遣はさらに先送りとされた。

 それでも43年春にはロシアに派遣しようとしたのだが、今度はソ連が止めた。

 受け入れ体制が十分ではないなどが主な理由だが、要するに空からロシアの実状を見られたく無かったからだ。

 陸軍やレンドリース部隊なら限られた戦区や鉄道沿線以外見ることはないが、空だと自由に飛ばれて見せたくないものまで見られる恐れが高かった。

 

 ようやくソ連が派兵を許可したのは、ドイツ軍がコーカサスから追い出されてからだった。

 自分たちが有利になったので、多少は見られても構わないという事になったからだ。

 

 そうして最初に派遣されたのが「四教」だった。

 「四教」はロシアの空で実戦経験を積み上げ、翌年春にその結果と教訓を踏まえた本格的部隊がやって来る。

 3個航空団を擁する「第一航空軍」の部隊規模は日米の航空軍(航空艦隊)と同規模で、当時の満州帝国空軍のほぼ全力だった。

 これは中途半端な戦力を投入して消耗することを嫌ったのと、レンドリースの拡充でロシアの空で活動する為の十分な支援と補給の目処が立ったからだった。

 また中東や地中海などに派遣するにしても、すでに日米英の空軍で空は一杯なので、満州空軍が行くまでもないという理由もあった。

 

 1944年春頃の主な装備は、日米陸軍の戦闘機と戦闘爆撃機、中型爆撃機が主体だった。

 戦闘機は「一式戦闘機 隼III型」、「一式重戦闘機 飛燕II型」、「P-38ライトニング」、「P-51C マスタング」、「P-47D サンダーボルト」が多かったが、海軍機の「F4U コルセア」戦闘機も戦闘爆撃機枠でかなりの数があった。

 ロシアの空では、戦闘機は柔軟な対応をするため戦闘爆撃機が好まれたからだ。

 「隼III型」だけは戦闘機任務にしか就けないが、低空での格闘戦の無類の強さから一部の熟練パイロットから非常に好まれていた。

 ドイツ空軍も、「隼III型」が火力が最も貧弱にも関わらず「新人殺し」と嫌った。

 

 爆撃機は、相変わらず安価で生産しやすい「ノースアメリカンB-25 ミッチェル」の数が多いが、「マーチンB-26 マローダー」、「ダグラスA-20 ハボック」の姿もあった。

 日本の「呑龍」などの姿も若干あった。

 その中でも特にA-20 は、地上襲撃機として期待されていた。

 他にも「百式司偵III型」、「二式複座戦闘機 屠龍」(夜戦型)など、豊富な陣容を持っていた。

 

 そして何より、十分な練度を持ったパイロットが多数を占めていたので、当初からドイツ空軍の勝手を許さなかった。

 派兵が遅れた分だけ訓練に時間を割いたし、パイロットの数も揃っていたので交代で任務に当たることも出来た。

 パイロットの殆どは満州国籍の者で漢族出身者が過半数以上を占めたが、ロシアの空を飛ぶパイロット達は陸軍同様に従軍と活躍で自分たちの未来を勝ち取るため懸命に飛んだ。

 中には、教官となっていた物好きな日本、アメリカのパイロットが飛び続け、そのまま満州帝国に定住した者もいた。

 また、日露戦争後から日米の移民が行われているので、満州育ちの日米移民の姿もかなり見られた。

 古くから農業移民として入っている日米移民は、大規模農業経営者が多く農業用に飛行機を使う者も少なくないので、戦前からアマチュア飛行士の数も多かった。

 そうした中で、アメリカから移住した黒人パイロットの姿もあったが、黒人系パイロットの採用は救国フランス空軍の次に早く、アメリカでの採用よりも早く数も多かった。

 共産主義とは共存できないがロシアの大地を侵すドイツは許せないと言う理由で、極東共和国のロシア人もかなりの数が義勇兵として参加していた。

 

 対するドイツ空軍を中心とするロシア戦線の枢軸空軍だが、主力は「Bf109G」、「フォッケウルフ Fw190A」、「スピットファイアMk.V」戦闘機で、スピットファイアは東欧各国の空軍が使っていた。

 強化型マーリンエンジンを積んだ「スピットファイアMk.IXまたはMk.VIII」も、ある程度供与されていた。

 また「ホーカー・ハリケーン」が戦闘爆撃機として姿を見せていた。

 とはいえ東欧各国の空軍の規模が小さいので、ほとんどはドイツ空軍だった。

 そうした中で、半ば意地で有力部隊を派遣しているのがフランス空軍で、強化型マーリンの国産型を積んだドボアチンやアルゼナルの機体が100機ほどロシアの空を飛んでいた。

 

 爆撃機は「ユンカース Ju88」がやはり多かった。

 後継機の「ユンカース Ju188」もいたが、ドイツ空軍自体がジェット爆撃機の生産に移行しつつあるため生産数が少ないまま生産終了してしまい、数は限られていた。

 また、中には対戦車砲を搭載した地上襲撃機型の「Ju87」急降下爆撃、ドイツ版空飛ぶ戦車の「Hs129」攻撃機の姿もあり、ロシアでの戦いの特徴を見せていた。

 ドイツ本土では、新世代の兵器であるジェット機の開発と部隊編成が本格化しつつあったが、前線に出てくるのは早くて夏だったし、ヒトラー総統の思惑と違ってロシアの空にはあまり必要がないものだった。

 

 そしてロシアの空でのドイツ空軍は、爆撃機の数が目立っていた。

 ソ連空軍はパイロットが未熟な事が殆どなので、数は多くても脅威が低かったからだ。

 異常なほど多数を撃墜したドイツ空軍のスーパーエース達も、主にロシアの空で戦果を稼いでいた。

 逆に地上目標は「掃いて捨てる」ほどあったので、爆撃機が求められていた。

 「ソ連人民最大の敵」とまでソ連から名指しされたハンス・ウルリッヒ・ルーデルが有名だろう。

 

 満を持して投入された満州帝国空軍は、連合軍の中でも二流国家、傀儡国家の空軍とは思えないほど精強だった。

 ドイツ空軍との戦いもほぼ互角で、同じレンドリースの機体でもソ連軍パイロットが操るのとは全く違っていた。

 当初、侮ってかかっていたドイツ空軍は、何度も手痛い損害を受けた。

 ドイツ空軍も、開戦頃の精強さが日々の消耗の中で失われていたとはいえ、これは満州帝国空軍が十分な練度を持っていたからだ。

 

 そして1944年春のロシア戦線は、満州帝国空軍が大きな鍵を握るようになっていた。

 満州帝国空軍第一航空軍は、基本的に満州帝国遣蘇総軍の上空を守るが、満州帝国軍のいる場所は中央戦線と南方戦線のほぼ真ん中だった。

 具体的な場所はクルスクとヴォロネジの間で、満州帝国空軍は北はオリョール、南はハリコフを行動圏内としていた。

 そしてその場所は、ドイツ第二航空艦隊と第四航空艦隊の継ぎ目に近い場所でもあった。

 

 第四航空艦隊は南方軍集団の頭上を守り、第二航空艦隊が北部と中央軍集団の上を守っていた。

 かつてはイギリス空軍、フランス空軍、イタリア空軍の部隊も多数いたのだが、その殆どがロシアを去って各地に散らばってしまっていた。

 戦略レベルでの戦況の悪化が、ロシア戦線に大きな影響を与えている実例だった。

 

 そして現地ドイツ空軍は、親衛隊などの例外を除いて練度に劣るソ連空軍だけなら何とか五分で戦えたが、完全編成の1個航空艦隊が新たに出現するとなると話しが違っていた。

 

 そもそも今までは、満州帝国軍のいる辺りでの空の脅威は低かった。

 ソ連空軍が満州帝国軍の頭上も守っていたが、やはり自軍優先になりがちだった。

 このため満州帝国軍は多数の高射砲、機関砲を装備してドイツ空軍に対抗していたため、余計な損害を嫌ったドイツ空軍の側も害のない状態なら満州帝国軍にあえて強い攻撃は行わなかった。

 行っても、嫌がらせ程度の攻撃が精々だった。

 

 しかし43年秋に「四教」が現れて、事態が変化し始める。

 

 突然の有力な空軍部隊の出現により、戦力バランスが変化したからだ。

 「四教」の稼働機は航空団としては少ない200機程度だが、絶対数で同じの場合でも戦闘力はドイツ空軍に匹敵した。

 戦闘機100、戦闘爆撃機50、攻撃機50、その他偵察、輸送部隊も持ち、空軍基地には自前の高射砲部隊まで持っていた。

 しかも多数の移動式レーダーを有している点、優れた無線機と司令部施設による航空管制を持つ点も、一般のソ連空軍とは違っていた。

 

 交戦のたびにドイツ空軍は手痛い損害を受け、相手の規模と作戦空域が限られている事もあって、秋から冬にかけては無視する傾向を強めた。

 このため「四教」が他の空域に戦闘を挑みにきて、ソ連空軍の側からの「忠告」で活動の制限を受けたりすらした。

 

 そして冬の活動の停滞期の間に、ロシアの満州帝国空軍部隊は大幅に増強された。

 活動拠点となる空軍基地も拡大し、野戦用空軍基地の数そのものも増えた。

 春を迎える頃には第一線での稼働機500機を数え、その数は増える一方だった。

 しかも全般的な練度も、ドイツ空軍一般と比べても遜色ないほど高かった。

 ドイツ空軍部隊は、ソ連空軍相手なら二倍、三倍でも押しとどめることも出来たが、相手がほぼ互角では抵抗も難しかった。

 しかもソ連空軍の親衛隊を越えるほどの練度と連合軍の最新装備を持つ「四教」は、依然としてロシアの空にあって現地満州帝国空軍の中核部隊となっていた。

 

 そして1944年春、ロシアの一部ではドイツ軍が相手制空権下で戦わねばならない状況に突如追い込まれてしまう。

 

 制空権を奪われる戦いは、ドイツ軍もインド戦線、中東戦線、北アフリカ戦線で体験していたが、それはドイツ空軍第三航空艦隊とロンメル将軍の陸軍だけだった。

 ドイツ海軍はカリブで戦っていたが、局所的だし他の軍に連合軍の事を話すほどの経験も無かった。

 同様に、オリエントにいるドイツ軍の話しは、ドイツ軍上層部で軽んじられ、ロシアにいるドイツ兵の耳にはほとんど入らなかった。

 

 その代償が、1944年春に一気に支払われ始める。

 

 それまでロシア戦線のドイツ軍など欧州枢軸軍は、必要性が低かったため野戦軍の対空装備をあまり持っていなかった。

 ハトハトで知られる高射砲兼対戦車砲や対空機銃を搭載したハーフトラックなどの対空車両は一応あったが、多数ある高射砲は殆どの場合対戦車砲としてのみ使われていた。

 対空車両は、優先順位が低いためそもそも生産数や現地改造車が少なく、配備されているのは一部の精鋭部隊ぐらいだった。

 前線の空軍基地を守る為の高射砲部隊はかなりの陣容だったが、それらの部隊は殆どの場合ゲーリング国家元帥の指揮下にあった。

 

 そうした状況に慣れた上に、俄に対空装備が欲しくなっても急には揃わない状態で、満州帝国空軍の激しい空襲を受けるようになる。

 

 満州帝国空軍が主に攻撃するようになったのは、近隣の枢軸軍はもちろんだが、南部の第四航空艦隊の空域に対してだった。

 あえて北の第二航空艦隊には手を出さず、南方戦線のソ連空軍と共に第四航空艦隊を攻撃した。

 当然だが集中攻撃になり、南方戦線の制空権は一気に連合軍優位となった。

 要するにロシアの空でも、航空撃滅戦を企図したわけだ。

 

 ドイツ空軍も懸命に巻き返しを図ろうとしたが、今までノーマークだった満州帝国空軍の激しい航空攻勢が予想外に始まったので対応が遅れ、多くのことが後手後手に回った。

 しかもソ連空軍の脅威も日々増していたので、なおさら対応が遅れた。

 

 そして制空権が怪しくなると、地上のドイツ軍部隊にも影響が出始める。

 

 戦線が維持されて陣地に籠もっている間は空襲の損害も知れているが、常に移動しなければならない輸送部隊などには如実に影響がでた。

 兵站駅となっている重要都市は流石に高射砲で厳重に守られ大丈夫だが、対空装備の少ない末端の戦線では徐々に影響が広がっていった。

 また逆に、ドイツ空軍から満州帝国軍への攻撃は、攻撃機や爆撃機のみでの出撃だと今までと違って半ば自殺行為となった。

 満州帝国軍の上空には、常にレーダーと無線機で管制された戦闘機部隊が飛ぶようになっていたからだ。

 そして戦闘機部隊もかなりの脅威のため、枢軸側が戦闘機の随伴を行っても損害が出た。

 そして制空権が得られるようになると、地上の満州帝国軍の動きも活発になり、小競り合いが増加した。

 そしてその支援のためにドイツ空軍も出撃しなければならず、損害と負担ばかりが増えた。

 

 しかも満州帝国空軍は、ソ連空軍の多くと違って夜間戦闘も厭わず、レーダーを装備した攻撃機を使って夜間爆撃も行うようになった。

 この夜間爆撃は主に鉄道、輸送路、前線に近い兵站拠点に対して行われ、枢軸軍の兵站に少なくない損害を与えると共に、枢軸軍の補給全般、防空部隊への負担をかけていった。

 

 防備が薄い前線のドイツ空軍基地への空襲も実施された。

 さらには航続距離の長さを活かして、ドイツ軍が後方だと考えている拠点や輸送路の攻撃も行った。

 こうした事も、現地ドイツ空軍の負担が増える大きな要因となった。

 

 しかも満州帝国空軍は、時間が経つに連れて数が増えたし、実戦経験を積んだパイロットが増えたので脅威も増していった。

 

 5月になる頃には、ドイツ空軍が受ける圧力は大きく増しており、重みで軋む音を立てるように疲弊していった。

 

 そしてその軋みは、戦線全体にも影響を与える。

 

 1943年初秋の頃に安定したロシア戦線は、その後長い戦線に沿った両軍の対陣となった。

 そして両軍の戦力が比較的拮抗していた事、両軍の補給状況が十分ではない事、両者防御陣地の建設を熱心にした事、などを主な原因として冬になっても対陣が続いてしまう。

 ソ連軍の冬季反攻も北部での小規模なもの以外は行われなかった。

 これではまるで第一次世界大戦の西部戦線だとすら言われた。

 

 しかし、誰もが状況に甘んじていたワケではない。

 ソ連は、とにかく相手より多い戦力を準備するべく、さらなる国民の動員を進めて軍を強化した。

 枢軸側は、各地に戦力が間引かれていく中で、戦時生産の強化による個々の部隊の強化で対抗した。

 

 だが長大な戦線での日々の戦いに追われて、なかなか戦力の備蓄、予備兵力の抽出が出来ないのが現状だった。

 それどころか、前線各部隊の兵器、兵員の定数すら十分に満たせない状況にすら陥りつつあった。

 

 そうした中での、満州帝国の空軍部隊大挙投入だった。

 

 新規の空軍部隊によって枢軸側の一部戦線に揺らぎが生じ、それが双方の独裁者の心を刺激する。

 

 この頃ドイツ軍は、敵の攻勢を敢えて引き寄せて「後手の一撃」で敵野戦軍に大打撃を与えることで、さらなる戦線安定を目論んでいた。

 もはやモスクワを陥落させてソ連を降伏させることが極めて難しい戦況なので、「経済的に相手が戦争を投げ出すまで戦う」という政治条件、戦略的勝利を引き出すための非常に堅実な戦略だった。

 ヒトラー総統自身は、新型戦車の数が揃ってきたので攻勢に転じるべきだと考えていたが、新型戦車が戦場に出てきていたのはソ連軍も同様なので、前線を中心にして将軍達は機動防御案を推していた。

 そしてコーカサスからの後退での自信喪失から回復しきれていないヒトラーは、積極的防御案に条件付きながら承認を与えていた。

 

 ソ連赤軍は、優位に立った兵力のうち精鋭部隊を集中して、敵野戦軍の一部に対する包囲殲滅戦を計画していた。

 ヴォロネジの戦いの再来を狙おうと言うことだ。

 しかもそれだけではなく、戦力バランスを変化させ一気に戦線を西に押し戻す事を次の目的としていた。

 既に戦略的優勢を獲得していたソ連としては、アメリカ人が西からやって来る前に少しでも西に進むというのが1944年頃の戦略だった。

 

 そしてそこに満州帝国空軍の活躍が始まり、ソ連側が攻勢に出る戦術的な下地が出来てくる。

 ただし、この時期の攻勢には、満州帝国陸軍の参加が必須だった。

 何しろ戦線が揺らいだのは、まさに彼らの目の前だったからだ。

 今から軍隊を移動させて場所を交代していたら戦機も勝機も逸してしまうので、攻勢に参加せざるを得なかった。

 またドイツ軍は、満州帝国陸軍は滅多なことで犠牲の大きな攻勢には出てこないと考えていたので、そうした点でも付け入る隙はあった。

 

 一方で別の問題もある。

 基本的に満州帝国陸軍・遣蘇総軍は、満州本国並びに日米両政府がソ連政府の要請を受けなければ大規模な攻勢に参加しない事になっていた。

 これは1943年春の攻勢を受けて改訂されたもので、日米としてはやたらと血の気の多い現地将兵の独断専行を抑止するための措置だった。

 ソ連としても勝手に動かれては困るし、まして戦果を挙げすぎても、逆に大損害を受けても問題となる。

 満州帝国空軍の活発な活動すら抑えようとしたほどだ。

 

 ただし今回の攻勢の場合、満州帝国軍は最初の攻勢を担当する可能性が高く、大損害を覚悟しなければならない反面、戦果はあまり期待出来なかった。

 数ヶ月かけて作られた防御陣地帯に正面から突撃して、無事で済む筈がないからだ。

 最悪、一歩も前進しないまま部隊が壊滅する可能性だってあった。

 

 ソ連赤軍も、同盟国軍をすりつぶすような作戦を政治的に行うわけにもいかないので、攻勢を二段階とする作戦案を提示する。

 

 第一段階は、誰もが予測する遣蘇総軍とその周辺に集まったソ連軍部隊による正面からの攻勢。

 物量と制空権を用いた強引な攻勢で、ドイツ軍の正面突破を目指す。

 しかしこれで突破できる筈がなく、クルスクという重要拠点を守るために集まってくるドイツ軍をおびき寄せるのが目的だった。

 

 第二段階こそが本命で、クルスクから南北双方の100キロから200キロ離れた地点で秘密裏に集結したソ連赤軍の親衛隊、突撃軍、戦車軍団を用いて、クルスクでの包囲殲滅戦を企図した突破戦闘を仕掛ける。

 

 周辺のドイツ軍の予備兵力はクルスク前面に集まっている筈で、南北のソ連軍は正面のドイツ軍部隊と数が大きく減った予備兵力を叩けば、一気に前進できる可能性があった。

 そして両者が南北に旋回して握手し、クルスク方面に集まって居るであろうドイツ軍を包囲殲滅するのが戦略的な目的だった。

 クルスク奪回は二次的な目標で、何よりドイツ野戦軍の撃滅が目的だった。

 これにより戦力バランスを大きく傾け、次の第三段階で全軍を用いて南方戦線全域で全面攻勢に打って出て、一気にドニエプル川まで奪回してしまおうという野心的な戦略構想だった。

 

 攻勢に参加するのは、第一段階で80万、第二段階で150万、最終段階で300万人以上。

 倍々ゲームで将兵が攻勢に関わる予定であり、ドイツ軍の予備兵力を根こそぎ奪い去り、一気に戦争の帰趨すら決しようというものだった。

 

 作戦名は「バトゥ」。

 かつてロシアと東欧を席巻したタタール(モンゴル)の将軍の名が冠せられた。


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