フェイズ39「WW2(33)クレタ島の戦い」
1944年3月末にスエズ運河が完全運行状態となり、紅海が完全に連合軍の勢力下になると、ナイアガラの瀑布のように連合軍の戦力と物資が東地中海沿岸へとなだれ込むようになった。
それはまさに人と鉄の奔流であり、他戦線の現状維持で手一杯の欧州枢軸軍は、敵に対して十分な戦力を用意出来なかった。
早くも4月初旬からは、クレタ島での航空撃滅戦が開始された。
ギリシアの沖合に浮かぶクレタ島には、中東から後退したドイツ空軍第3航空艦隊が再配置につきつつあったが、再配置もままならない状態で圧倒的優勢な航空撃滅戦にさらされた。
クレタ島からエジプトのアレキサンドリアの距離は約700キロ。
クレタ島から東リビアのトブルクは300〜400キロ程度。
クレタ島からトブルクなら、航続距離の短い欧州の液冷戦闘機でも十分攻撃できる距離だった。
だが攻撃するのは、ほとんど連合軍だった。
トブルクの飛行場は、開設されたばかりでも100機以上の戦闘機が進出しており、十分な支援体制のもとで砂漠迷彩や地中海迷彩を施した連合軍戦闘機が活発に活動していた。
しかも、大量の土木機械を投じて、日々猛烈な勢いで拡張されていた。
連合軍のトブルク侵攻当初に枢軸側は空襲を試みたが、クレタ島などの体制が整っていないのと、連合軍が侵攻時に護衛空母を伴って少ないながらもエアカバーを持っていた事、エジプト方面からの航空支援があったことなどから、攻撃はうまくいかなかった。
連合軍の全ての爆撃機は、エジプトのアレキサンドリアかポートサイドの大きく拡張されつつある各基地から飛び立ち、敵に息をつく暇も与えない爆撃を実施した。
戦闘機は、パイロットの疲労を考えて距離の短いトブルクから主に飛び立ったが、襲いかかってくる航空機の数は欧州枢軸軍が知っている基地の規模では到底運用が不可能な数だった。
つまり短期間で基地が大きく拡張されている事を示しており、また数時間単位しか時間を空けずに連続して襲いかかってくる大編隊を維持できるだけの補給物資を円滑に補給できる能力を有していることも示していた。
同じく中東から後退したイギリス空軍、イタリア空軍は、主にリビア西部方面で守備と再編成につとめていたが、こちらにも連合軍は大規模な攻撃隊を連日送り込んでいた。
欧州枢軸軍が自主撤退したベンガジに展開した戦闘機と中型爆撃機が主力なので、最初の頃は規模と攻撃回数が限られていたが、航空撃滅戦に休日は一切無かった。
連合軍パイロットは交代で十分な休息をとって戦っていたが、枢軸軍のパイロットは休むどころか息を付く暇すらなかった。
それでも、クレタ、西リビアは、今までの中東よりマシだった。
後方からそれなりに補給も受けられるし、本国からの増援や補給も早くなった。
だが、それだけ本国との距離が短くなった証拠なので、逆に危機感は増した。
そして何としても補給線は維持しなくてはならなかった。
さらに枢軸軍は中東やインドと違い、多少の余裕がある枢軸側は反撃も行った。
ただし、アレキサンドリアに対して爆撃機は届くが、戦闘機は双発戦闘機の一部が届くだけなので、援護なしに攻撃隊を出すことは流石に出来なかった。
このため夜間爆撃を選択して、主にクレタ島からはアレキサンドリアに対して、トブルクに対しては西リビア方面から攻撃隊を出した。
このうち初期の攻撃で成功したのは、トブルクに対する夜間爆撃だった。
基地開設初期のトブルクは単発の昼間戦闘機しかなかったので、野戦用のレーダーと高射砲でしか迎撃出来なかったからだ。
しかし枢軸側は、自分たちも後退からの混乱が続いていたので大規模な爆撃をする能力に欠けており、また敵に対する情報の不足から有効な打撃を与えられなかった。
枢軸側の知らない飛行場が、一夜で開設されていたりしたからだ。
一方、アレキサンドリアを爆撃したドイツ空軍の爆撃機は、最初の攻撃から夜間戦闘機のインターセプトを受ける。
この時迎撃したのは、日本陸軍航空隊が配備していた「二式複座戦闘機 屠龍」の夜間戦闘機型だった。
しかも開発初期の「屠龍」から大きく変化しており、エンジンは開発もとの中島飛行機が社運を賭けた「ハ45(誉)」空冷エンジンに強引に換装され、その他レーダーなど夜間戦用装備を搭載するなど、機体各所も様々な改良が施されて殆ど別ものになっていた。
この頃は、対爆撃機用の機体中央上面に機銃を斜め上に向ける「斜銃」は搭載せず、機首部分に20mm、12.7mm機銃を集中し、銃弾を載せられるだけ載せていた。
ドイツ空軍が夜間爆撃に投入した「Ju88」爆撃機は、十分な夜間爆撃装備が無かったこともあり、爆撃は完全に失敗してしまう(夜間戦闘機型は配備される前だった)。
日本側は地上からの管制誘導で迎撃地点まで向かい、そこからは自らのレーダーで敵を捉えていった。
「屠龍」は複座だったが、初期のコンセプトと違いコパイロットがレーダーと地上などからの情報をパイロットに伝えて戦闘を行った。
枢軸側の勢力圏のリビア方面なら、「モスキート」の夜間戦闘機型がいて強敵となっただろうが、当時ドイツ空軍は夜間戦闘機を有していなかったので、ドイツ軍爆撃機は一方的に撃破されてしまう。
夜間爆撃も失敗し、以後は奇襲的な攻撃以外の手段を取らなくなった。
なお連合軍のクレタ島、リビア西部に対する爆撃は、ハラスメント(嫌がらせ)を目的とした少数機による爆撃以外は、基本的には多数の重爆撃機を用いた大規模な昼間爆撃が主力だった。
当然だが戦闘機が多数随伴しており、どちらかと言えば枢軸側の戦闘機を落とすことの方が目的だった。
爆撃も、飛行場よりレーダーサイト、移動野戦レーダーを狙った。
それ以外だと、洋上攻撃のできる多くの機体が、敵勢力圏まで入り込んだ海上で、枢軸側の輸送船舶の攻撃を積極的に実施した。
輸送船攻撃には、早くもスエズを越えてきた潜水艦も加わり、それまで静かだった地中海が今までにない騒がしさとなった。
そしてクレタ島への補給を担当したのはイタリア海軍だが、ここでイタリア海軍の踏ん張りが見られた。
イタリア半島やバルカン半島からの距離は短いが、連合軍も激しく攻撃してくる中で、イタリア海軍の小型駆逐艦、護衛用コルベットは奮闘し、クレタ島の友軍への補給を維持し続けた。
この戦いは、枢軸側というよりイタリア海軍が一方的と言えるほど不利なので、後世の評価が低いことが多いがもっと高く評価するべきだろう。
しかし5月になると、連合軍がシチリア島への航空撃滅戦も始めると、イタリアの余裕が徐々に無くなっていった。
空軍部隊は、イギリス本国空軍が大挙布陣しているのでまだ大丈夫だが、海軍はイタリア海軍が東地中海の担当でフランス海軍もほとんどいないので、一国でクレタ島とリビア西部への輸送を行わなくてはならなかった。
イギリス本国が一部護衛艦艇の供与を行ったが、ドイツからの艦船の支援は若干の軽艦艇が回航された程度だった。
この時期の地中海の連合軍は、とにかく空軍の充実に力を入れていたので、戦力増強の速度が異常なほど早く、欧州枢軸側の対応速度を完全に上回っていた。
しかも洋上護衛、洋上での制空権の獲得は、欧州枢軸にとって苦手な事だった。
対する連合軍は、日本海軍航空隊が洋上専門の部隊なので、これが非常に脅威だった。
加えてアメリカ陸軍航空隊も、陸軍所属でも洋上での作戦能力は高かった。
何より連合軍の戦闘機は航続距離が長いものが多く、連合軍が攻撃圏内としている場所ならば平然と随伴して空中戦をして帰っていった。
4月半ばになると、日本海軍を中心に連合軍の潜水艦が多数地中海に入って通商破壊戦を展開するようになったため、イタリア海軍の苦戦はさらに深刻になった。
この時期の日本海軍は、列強各国に倣った形で量産性とそれなりの性能を持つ潜水艦を多数前線に配備するようになり、この地中海での戦いで大量に投入するようになっていた。
この潜水艦は、日本海軍では「海大型改」と呼ばれる。
同クラスは排水量1500トン程度で、日本海軍としては中型程度の大きさだが、技術的には欧米に並ぶだけの性能を備え、さらに日本海軍独自の技術も全て投入されていた。
何より量産性に優れているため、潜水艦としては短期間でかなりの数が建造された。
建造数はドイツやアメリカに及ぶべくも無かったが、大戦後半の日本海軍潜水艦の主力として各地で活躍することとなる。
もっとも日本海軍自身は、太平洋で活動する大型潜水艦を非常に好んでいる。
大戦中でも、革新的な大型潜水艦の建造計画が動き始めていたし、大戦が終わると従来の建造方針に戻っており、そう言う点からも非常に珍しいと言えるだろう。
その証拠か、日本海軍は「海大型改」を「戦時型」と呼んでいた。
そして日本海軍の通商破壊戦と言えば、水上艦艇というより艦隊規模での通商破壊戦だが、地中海でもその方針を変える気はなかった。
基本的に日本海軍の潜水艦は、列強各国の潜水艦と比べると隠密性能でどうしても性能が一歩及ばなかった。
このため航空機、水上艦艇と合わせた複合的な通商破壊戦を行ったが、この戦術は図に当たり今まで多くの戦果を挙げてきた。
異なる場所(空間)で活動する兵力を投入することで、敵に護衛に際してのリソース分散を強いたからだ。
潜水艦だけなら対潜水艦能力、航空機なら対空能力、水上艦相手なら対艦能力だけあればよいが、全ての面で一定上の能力を与えた汎用性の高い優秀な艦艇を海上護衛で使うのは、上陸作戦など危険度の高い作戦以外では経済効率が非常に悪かった。
そして全てに対応できる贅沢な駆逐艦を大量に配備できるのはアメリカ海軍ぐらいで、欧州枢軸各国ではイギリスがある程度対応できる程度だった。
対して攻撃側は、それぞれ得意分野に特化していればよく、日本海軍の各種兵力はそれぞれ得意とする戦術で敵の補給路に噛みついていった。
その結果がインド洋での大きな戦果であり、イギリス海軍の疲弊にもつながっていた。
「大戦中のイギリス海軍は、ベンガル湾で実質的に壊滅した」と言われる事があるほどだった。
しかし地中海には、連合軍の方針としてあまり大きな水上戦力は投入しないことになっていた。
特に高速戦艦、大型空母の投入は行われないため、その代わりとなる戦力を日本海軍は投入した。
そしてその戦力こそが、日本海軍最強を謳われる第二水雷戦隊だった。
第二水雷戦隊は、日本海軍伝統の水雷戦を得意としており、夜間戦闘の訓練も十分に積んでいた。
そして配備される駆逐艦は、大戦に入って就役した《夕雲型》や、改装された対空重視の駆逐艦ではなく、高い水雷戦能力を維持したままの駆逐艦が多かった。
一見古い戦術への固執とも見て取れるが、一つの方向に特化しているので状況が嵌れば絶大な戦果を示した。
その事は、大戦に入ってからの数々の戦果が証明しており、欧州枢軸側からも「”獰猛”な水雷戦隊」と恐れられていた。
第2水雷戦隊
旗艦:軽巡洋艦《能代》
第8駆逐隊 《朝潮》《大潮》《満潮》《荒潮》
第15駆逐隊《黒潮》《親潮》《早潮》《夏潮》
第16駆逐隊《初風》《雪風》《天津風》《時津風》
第18駆逐隊《霞》《霰》《雹》《颪》
以上が1940年初秋の開戦時の編成で、44年春頃は第8駆逐隊、第18駆逐隊が抜けて、第17駆逐隊の《浦風》《磯風》《浜風》《谷風》が編入されていた。
日本海軍自体の駆逐艦数は、損耗が少ないこともあって増加の一途だったが、修理や整備のため全てを動かすことが出来ず、さらに戦域の広がりに対して水雷戦隊の数が足りないので、1個水雷戦隊当たりの定数が減らされていた。
逆に水雷戦隊を率いる軽巡洋艦が不足していたので、前線配備ではない水雷戦隊の旗艦には旧式の「5500t型」軽巡洋艦が動員される傾向が強かった。
1942年度計画で慌てて多数の軽巡洋艦の建造を開始していたが、それらの登場は早くても1945年に入ってからだった。
一部では、駆逐艦が戦隊旗艦となる事もあった。
このため1944年には、アメリカから《クリーブランド型》軽巡洋艦2隻の貸与も受けていた。
この時期の第2水雷戦隊は、戦場が中東に移った時点で本土に戻って整備と乗員の休養、さらには再編成を行って高い戦闘力を有する大型駆逐艦の《陽炎型》で統一されており、最高速力以外でイタリア海軍の駆逐艦を圧倒していた。
もっとも、イタリア海軍の駆逐艦の多くが基準排水量1600トン程度なのに対して、《陽炎型》は2200トンもあるのだから圧倒していて当然だろう。
イタリア海軍などは、日本とアメリカの艦隊型駆逐艦の事を、航続距離と航海性能の高さもあって「巡洋駆逐艦」と呼んだりもしていた。
その証拠と言うべきか、《陽炎型》の航続距離は6000海里近くもあったし、荒波にも非常に強かった。
また日本海軍の駆逐艦の場合、《陽炎型》と《夕雲型》が両用砲を搭載していたので艦隊全体での対空能力も高いし、速射性能にも優れているので対艦戦闘力も他国の同クラスの駆逐艦よりも高かった。
加えて日本海軍の駆逐艦の多くと同様に、射程距離の長い「酸素魚雷」を標準装備していた。
しかも第二水雷戦隊所属艦は、魚雷の半数を降ろして機銃を増設する駆逐艦が多い中で、魚雷装備をそのまま維持していた。
要するに非常に攻撃的で贅沢な駆逐艦による艦隊であり、これ以上となるとアメリカ海軍でも《フレッチャー級》以後の駆逐艦で部隊編成をしたものになるだろう。
日本海軍の第2水雷戦隊による戦闘だが、当初は他の友軍部隊の到着が遅れていたので、部隊を二つに分けた上で交互に出撃を繰り返した。
そして出撃では、航続距離と速度性能を活かして、トブルクから戦場までの通常航行でも24ノット以上で突進して敵の意表を突く事が多かった。
普通は16ノットか18ノット程度で航行するので、その固定観念を持っていると会敵時間が完全に違ってしまうからだ。
加えて夜襲を好んだ。
洋上の夜間爆撃が難しい事への補完措置でもあったが、夜間の艦隊運用は難しく夜間戦闘は混乱が多いので、余程熟練していなければならず、熟練兵が多く訓練が行き届いた第二水雷戦隊にはうってつけだった。
そしてリビア西部への海上輸送は、真っ直ぐ進めば12ノット程度の輸送船でも丸一日あればシチリア島からリビア西部唯一の港湾都市トリポリにたどり着くことができる。
ただし対潜水艦用のジグザグ航行を行うので、30%〜50%程余計に時間がかかった。
つまり直線で22時間のところが、実際は28〜33時間ほどかかるわけだ。
しかも12ノット出る輸送船の方が少なかった。
また、日中にトリポリに着くと、危険な入港時に連合軍の攻撃を受ける可能性が高いので、枢軸側船舶の入港は夕方が目指された。
出来るのなら、より安全なチュニジアから陸路輸送したいところだったが、当時は鉄道もないので車両では効率が悪すぎて使いたくても使えなかった。
大きく迂回する航路も、枢軸側の潜水艦の主に夜襲が脅威のため、当初は直線ルートが使われた。
枢軸側の輸送船団がシチリア島を離れるのは、到着から約28時間前。
そのすぐ後はマルタ島の制空権下も通るので、トリポリの戦闘機の援護と合わせれば、常に戦闘機の援護は受けられる状態となる。
しかし翌日の夕方入港が目標なので、マルタ島を抜けた頃には日没となる。
そして舞台は夜間戦闘となり、大胆な攻撃を予測し切れてなかった欧州枢軸側は、日本艦隊の燃費無視の突進も予測できなかった事もあり、完全な奇襲を許してしまう。
しかも第2水雷戦隊は、最初の襲撃の時は当初自分たちのレーダーを待機状態で使用せず、逆探知装置と目視だけで敵を探し求めた。
逆探知装置の方が、レーダーより先に敵の電波を捉えられるからだ。
来るはずのない敵が闇夜に忍び寄ったこともあり、護衛のイタリア艦艇は日本艦隊からの発砲を受けるまで、正確に敵の接近を察知出来なかった。
もちろん常時レーダーを使用していたので、日本艦隊の発砲前に未確認艦隊を発見していたが、敵はいないという先入観があるため最初は友軍と誤認していた。
その後は敵と判断されたがかえって混乱し、戦闘態勢を整える前に日本艦隊の発砲を許した。
この時軽巡洋艦《能代》は、本土での近代改装を終えた上で実戦に臨んでおり、日本海軍初の実用型射撃電探「32号射撃電探」を搭載していた。
それ以外にも米英から技術導入して開発された最新の電探で身を固めており、いきなり射撃電探の電子ビームを浴びせかけると同時に、6門の60口径15.5cm砲を斉射した。
《阿賀野型》軽巡洋艦の連装砲塔は、本クラスにしか採用されなかった砲塔で、《最上型》などの3連装型が分発5発程度なのに対して、合理的な配置によって分発6発と少しだけ発砲間隔が短かった。
射撃開始は距離1万2000メートルと夜間戦闘としては遠いが、レーダーを用いた上に従来どおりの見張り員による観測、サーチライト照射により、最初から射撃はかなり正確だった。
しかも旗艦発砲と共に、長い射程距離を誇る両用砲を搭載する駆逐艦も一斉に射撃を開始して、まずは邪魔な護衛への攻撃を行った。
全ての駆逐艦も、小型艦用の射撃電探の「33号射撃電探」を搭載していたので、夜間射撃は十分に可能だった。
この時イタリア船団は、最新の《ソルダティ級》駆逐艦4隻と《ガッビアーノ級》対潜コルベット4隻、他3隻の小型艇が10隻の輸送船を護衛していた。
輸送船の主な荷物は航空機用の燃料と爆弾、そして地上部隊の増援用の重装備と弾薬だった。
どの船もリビア西部の防衛に必要な物資を満載しており、うち3隻はガソリンと軽油を積載したタンカーだった。
増援に加えて大部隊への補給なので、こうした補給部隊を頻繁に送り込まなければならなかった。
この時点でイタリア船団の指揮官は、船団を解くべきか悩んだ。
本来なら船団をすぐにも解くべきだが、周辺には連合軍の潜水艦がウヨウヨしているのは確実で、護衛もなしに輸送船を放り出せなかった。
しかも翌朝になれば、独航している輸送船を狙った空襲が容易に予測できた。
本来なら空襲と潜水艦の攻撃だけを考えていたのに、予想外の水上艦艇による夜襲で、手順が全く狂ってしまったが故の混乱だった。
そして指揮官の乗る駆逐艦 《ランチエーレ》は、指揮官が判断を下す前に《能代》の猛射を浴びて沈黙してしまう。
しかも初期の段階で艦橋に被弾して、司令官以下の司令部が壊滅してしまい、イタリア艦隊の混乱が広がった。
その混乱を、歴戦の日本艦隊は逃さなかった。
緩慢に進み続ける船団への突撃を開始し、イタリア駆逐艦のお株を奪うほどの速力で突進した。
夜の闇の中でも、各艦が立てる激しい波と航跡が見えるほどだった。
そして護衛艦艇を両用砲の速射で八つ裂きにしつつ突破すると、ノロノロと遅蒔きながらの回避運動を開始した輸送船に急接近して必中の近距離雷撃を行った。
各艦の雷撃で10隻中8隻に命中弾を浴びせ、各種誘爆による破壊の炎は闇夜を明るく照らし出した。
その後も第2水雷戦隊の襲撃行動は続き、夜が白むまで戦闘を継続して、輸送船はもとより護衛していた艦艇も半数以上を撃破してしまう。
夜が明けると連合、枢軸双方の戦闘機と爆撃機が周辺海域に到着したが、基本的に連合軍の方が数が多いので、第2水雷戦隊は適度に対空砲を及び腰なイタリア軍爆撃機に浴びせつつ、友軍機の護衛のもと悠々と帰途に就いた。
これが4月6日の「第一次マルタ沖海戦」で、以後同種の戦闘はアメリカ海軍の水雷戦隊を加えつつ、枢軸側がリビア西部を保持している間続くことになる。
もちろん欧州枢軸側も手をこまねいていたわけでは無かった。
その典型例が5月13日の「第五次マルタ沖海戦」だった。
「第五次マルタ沖海戦」で枢軸側は、連合軍の偵察機が去った夜になってから、対潜水艦掃討を念入りにした上で、多数伴っていた輸送船を対潜コルベットだけ護衛に付けてシチリア島に引き返させた。
そうして護衛本隊の軽巡洋艦 《アブルッチ》《ジョゼッペ・ガリバルディ》《カイオ・マリオ》《クラウディオ・ドルソ》と駆逐艦6隻による艦隊だけが、日本艦隊が襲来するのを待ちかまえつつ前進を続けた。
《アブルッチ級》はイタリア海軍唯一の大型軽巡洋艦で、残る2隻も主砲の速射性能の高い新鋭の《カピターニ・ロマーニ級》なので、水雷戦隊相手には十分な戦力と言えた。
この日の襲撃は日本艦隊担当で、第16駆逐隊と第17駆逐隊の駆逐艦8隻だけで輸送船団の分散を目的とした襲撃を計画していた。
攻撃自体は、潜水艦と航空隊の役割の予定だった。
このためレーダーは最初から使用した上で、4隻ずつ2隊に分かれて接近して、情報を共有しつつ敵の陣形把握を行いつつ接近した。
そして接近中の時点で、日本艦隊は「敵船団」がいつもと違うことを半ば勘で察知したと言われている。
そしてイタリア艦隊の巡洋艦が発砲する前に、司令官の判断で平行に進みつつ搭載していた半分の魚雷を用いて隠密雷撃戦を実施。
魚雷の到達は、縦列を組む「敵船団」中央で、中央隊列が巡洋艦と想定して発砲するより前に着弾するタイミングだった。
異常なほどの長い射程距離も発揮できる「酸素魚雷」ならでは戦法と言えるだろう。
最初の爆発は、日本海軍の想定より早く起きた。
中央縦列の日本艦隊側で縦列を組んでいた駆逐艦の1隻に、半ば偶然に魚雷が命中したからだ。
夜でも分かる大きな水柱が瀟洒な駆逐艦の船体中央に高々と噴き上がり、この時点で実質的な戦闘が開始される。
イタリア艦隊は、ただちに砲撃を開始して、念のための雷撃を警戒して、被弾した駆逐艦の被雷から考えて被弾しない方向に転舵した。
だが転舵方向は、別の4隻第16駆逐隊が放った16本の酸素魚雷のほぼ真横に位置した。
しかも命中直前で横腹を晒したことになる。
魚雷を撃った水兵が、甘い演習でもこうはいかない、と述懐したほどのタイミングだった。
イタリア艦隊の巡洋艦に次々と魚雷が命中し、全艦被弾の大損害を受けてしまう。
特に最後尾の《クラウディオ・ドルソ》は巡洋艦としては小型なのに2発の酸素魚雷を受けたため、ほとんど轟沈といえる短時間で撃沈していった。
他の艦は各1発の被雷だったが、射程距離を減じて装薬を増やした61cm酸素魚雷の威力は大きく、戦闘力をほぼ喪失していた。
戦闘は、この一撃でほぼ決したほどの大打撃だった。
しかも大量の魚雷命中を受けて、日本艦隊は直ちに突撃を開始。
既に5隻に減っている駆逐艦に、矢継ぎ早に両用砲の速射を浴びせかけた。
そしてさらに、輸送船がいないことを照明弾で確認すると、損傷して身動きがままならない敵艦に近距離まで近づいて残りの魚雷を叩き込んだ。
その後も戦闘は継続されたが、日本艦隊は損傷艦こそ出すも沈没は皆無で、さらに《カイオ・マリオ》と駆逐艦1隻を撃沈し、3隻を撃破した。
最終的な戦果は、軽巡洋艦2隻、駆逐艦3隻の撃沈で、イタリア艦隊で無傷だったのは、皮肉にも友軍巡洋艦の後退を勇敢に援護し続けた駆逐艦1隻だった。
圧倒的強力な陣容の敵に対する事実上のワンサイドゲームは、連合軍の勢いを示したと言われることが多いが、やはり最精鋭な上に実戦慣れした部隊が自由に戦闘できたが故の戦果と見るべきだろう。
なお、東地中海には、アメリカ海軍も水雷戦隊を中心とした艦隊を送り込んでおり、こちらもカリブ海で激戦を繰り広げた精鋭部隊を送り込んでいた。
そして日本の水雷戦隊と交代で通商破壊戦を仕掛けて多大な戦果を挙げている。
このアメリカ艦隊は地中海戦隊と呼ばれ、カリブ海での後半戦で勇名を馳せたエインワース提督(当時少将)、ムースブルッガー(当時中佐)など優秀な指揮官が多く含まれていた。
このため、マルタ島南方の海上交通路を巡る数々の夜戦は、日米精鋭水雷戦隊の戦果合戦の場と言われたりもした。
そして精鋭部隊ばかりと戦わされるイタリア海軍は、空と水面下からの激しい攻撃もあったので、瞬く間に損害を積み上げて目も当てられない惨状となった。
結局この戦い以後、欧州枢軸はリビア西部への輸送を、効率を無視してチュニジアの迂回ルートを取るようになる。
だが、これはこれで船団上空と潜水艦から守る空軍の負担が増したので、輸送効率の悪化と合わせてジワジワと欧州枢軸を苦しめることとなった。
リビア西部での航空撃滅戦と海上輸送路を巡る戦いは続いたが、5月にはクレタ島での戦いに呆気なく決着が付いた。
一定の戦力をアレキサンドリアで準備した連合軍が、圧倒的航空戦力を用いて制空権を奪い、一気にクレタ島を攻略してしまったからだ。
この場合、リビア西部での戦いは一種の陽動とすら言えるが、連合軍としては戦力が揃ったので単に定石の作戦展開をしたに過ぎない。
イタリア海軍の戦力が大きく減った事も理由の一つだったが、決定的な要因でもなかった。
しかし、連合軍が孤立した島への侵攻に十分と考えた戦力にしては、十分すぎる戦力だった。
以下が、44年5月の時点で地中海入りしていた、連合軍の重巡洋艦以上の艦艇になる。
・連合軍・地中海艦隊(司令官:近藤大将)
日本海軍・遣欧艦隊(旗艦:CL《樫原》 司令官:草鹿中将)
BB:《伊勢》《日向》《山城》
CL:《鈴谷》《熊野》《最上》
CL:《阿武隈》《木曾》《多摩》
CVE:《大鷹》《雲鷹》《冲鷹》《海鷹》《飛鷹》《隼鷹》
アメリカ地中海艦隊
CG:《ヒューストン》
CL:《ボイス》《ホノルル》《へレナ》
自由イギリス地中海艦隊
CG:《エクセター》《オーストラリア》《キャンベラ》
自由イタリア艦隊
BB《コンテ・デュ・カブール》
自由オランダ艦隊
※《デ・ロイテル》などCLのみなので記載せず。
これで大型艦はほぼ全て、当時の連合軍としては十分とはいえない数かもしれない。
しかし膨大な航空戦力が各地に展開して、各飛行場から目標となる敵地を行動圏内とした。
それでも高速空母の活躍の場があると言う意見もあるが、空母機動部隊の特性の一つである敵拠点に秘密裏に接近すると言うような大胆な戦闘を行うには、地中海は狭すぎた。
高速戦艦については、ジブラルタル周辺を除いて地中海で高速戦艦を有するのはイタリア海軍のみで、それも地上機の空襲で対処できると考えられていた。
しかもイタリア海軍は、クレタ作戦が始まるまでに多くの損害を受けていたので、大挙出撃する可能性は非常に低いと考えられていた。
それでも万が一出撃してきた事態に備えて、日本海軍を中心に対艦攻撃部隊がアレキサンドリアなどに待機した上でクレタ島攻略作戦が開始される。
なお、日米の対艦攻撃部隊は、イタリア艦隊主力が出撃してくることを願っていたと言われる。
当時クレタ島には、ドイツ第三航空艦隊が展開していた。
だが、中東での戦い以後損耗が続いているため、完全戦力にはほど遠かった。
しかも連日の航空撃滅戦と、連合軍による海上補給路の破壊と封鎖のため、クレタ島に全部隊を展開させること自体が無理だった。
このためドイツ空軍は、中東からの移動の時点でギリシア本土に部隊のかなりを移動させていた。
クレタ島には主に戦闘機部隊が展開しており、クレタ島はバルカン半島の「盾」としての役割が期待されていた。
もちろん連合軍がすぐにバルカン半島に上陸してくるとまでは考えていなかったが、バルカン半島奥のルーマニアにはヨーロッパ最大の油田があるので、油田の防衛のためにもクレタ島は「盾」として機能することが望ましかった。
しかし一ヶ月も「バトル・オブ・クレタ」が続くと、クレタ島が「盾」として使える時間が限られていることが実感できた。
如何に強力な「盾」であっても、持っている腕ごとへし折るような攻撃を連合軍は仕掛けてきていたからだ。
このため1944年5月25日に連合軍のクレタ島侵攻作戦が開始されても、連合軍が予測したよりも欧州枢軸軍というよりドイツ第三航空艦隊の抵抗は激しくなかった。
もっとも「クレタ作戦」には、三個航空艦隊相当の作戦機3000機以上が投入されていたので、まともに防戦したとしてもドイツ空軍に出来ることは限られていただろう。
正面から戦っていたら、完全にすり潰されていた可能性が非常に高かった。
しかもこの時の連合軍は新鋭機を大挙投入して、そのどれもがアレキサンドリアから直接クレタ島とその周辺部に飛来できる航続距離を持っていた。
アレキサンドリアからクレタ島の距離は、東西に長いクレタ島だと約500〜800キロになるが、往復1600キロ+空戦時間をこなせるだけの機体が連合軍に多数存在していた事になる。
しかも5月には、対岸のトブルクの飛行場も大幅に拡張され、多数の航空機が展開していた。
アメリカの「リパブリックP-47 サンダーボルト」の「D型」、「ノースアメリカンP-51C ムスタング」、日本の「三菱 零式艦上戦闘機」、「三菱 三式艦上戦闘機 烈風」、「中島 一式戦闘機 隼」、「川崎 一式重戦闘機 飛燕II型」、そして戦場では事実上初見参の「中島 三式戦闘機 疾風」だ。
「中島 三式戦闘機 疾風」は日本陸軍が「大戦決戦機」として投入した戦闘機で、それだけに大きく期待されていた。
1943年晩秋に正式化され、中島製の2000馬力級エンジンの「ハ45 誉」を搭載した汎用性の高い戦闘機で、当初から高い性能を発揮した。
敢えて他国と比較すれば、ドイツの「フォッケウルフ Fw190A」とアメリカの「リパブリックP-47 サンダーボルト」の後期型に少し近い。
少しなのは、日本陸軍機の性癖として格闘性能が高いレベルで維持されており、速度性能については降下速度など他国に比べると劣っていた。
また機体の丈夫さも、他国に比べると少し脆かった。
だが、総合性能は非常に高いレベルで維持されており、エンジンさえ完全ならどの機体と戦っても遅れは取らなかった。
烈風との模擬戦でも、格闘戦ならほぼ勝てた。
とりわけ、一撃離脱を旨とする欧州枢軸各国の液冷戦闘機からは嫌われた。
「隼」の正統な後継機と言われることも多く、「ヘビー・ファルコン」と言われることもある。
しかし肝心のエンジンに問題があった。
「ハ45 誉」は、2000馬力級の空冷エンジンとしてはコンパクトにまとめられ過ぎており、戦場で使うエンジンに相応しくないと言われることが多い。
事実整備が手間で、稼働率も他の2000馬力級エンジンと比べると見た目で分かるほど低かった。
だが、アメリカ製プラグと100オクタンガソリンを使い、整備が完全だった場合は目が覚めるようなと言われるほどの性能を発揮した。
特に疾風はプロペラとの相性が最高にマッチしたため、設計値より高い速度を叩き出した。
つまり疾風は、デリケートな心臓を持ったエースという事になるだろう。
また、日本が二種類の戦闘機用空冷2000馬力級エンジンを開発した事に、特に後世の研究者から非難されることが多い。
どちらか一つ、より正確には「木星」1択にするべきだと。
だが二種類あるのは、日本の航空行政と陸海軍、メーカー対立の失敗であり、日本ならではの失敗と言えるだろう。
そうした日本の事はともかく、「数は力」と言われる航空戦でしかも圧倒的優位だったクレタの戦いだった事もあり、欠点が露呈することもなかった。
また整備にも力が入れられていたので、投入された機体の殆どが十分な性能を発揮して、名に恥じない初陣を飾っている。
そして空の戦いで連合軍が物量と新兵器で圧倒したことで、実質的な決着が付いたと言えた。
「クレタ島上陸作戦」自体は、連合軍の上陸部隊が海岸に一歩を記した時点でほとんど決着がついていた。
戦艦などによる事前の艦砲射撃すら必要ないほどで、上陸時の戦闘もほとんど無かった。
地上での戦闘は、殿を受け持っていた現地軍部隊が、連合軍の一部部隊と戦ったのみだった。
現地のドイツ軍は、前日夜までに主に夜間に順次ギリシア本土方面に後退していた。
クレタ島駐留の戦闘機部隊も、最後の離陸を行うとそのままクレタ島を後にして、北へと飛び去っていった。
僅かに戦った部隊も、遅滞防御とゲリラ戦の部隊で、順次戦いつつギリシア本土に後退している。
ヒトラー総統も、ルーマニア防衛のために空軍部隊の損耗を嫌って死守命令は出さなかった。
敵の抵抗が激しい場合の増援として、大規模な空挺作戦すら準備していた連合軍だったが、呆気なくクレタの戦いは終わり、連合軍はついに欧州の一角に取り付くことに成功する。
そして戦いは、この戦い以後1940年7月以後「聖域化」していたヨーロッパを主な舞台とするようになる。