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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ38「WW2(32)北アフリカの戦い1」-2

 連合軍がエジプトに第一歩を記したのは、1944年3月18日だった。

 

 最初に渡ったのは、浮橋建設を半ば囮とした水陸両用戦車部隊だった。

 本来は砂浜に上陸する設計だった水陸両用戦車部隊の後ろには、こちらも上陸作戦に使うLVTアムトラックが多数続き、あっと言う間に機甲大隊規模の部隊が枢軸側が手薄な場所に溢れた。

 そしてさらに後ろからは、簡易ボートなどに満載された兵士達が、次々に運河を越えた。

 作戦を行ったのも、日本陸軍で上陸作戦専門部隊とされる歴戦の第五師団(機械化師団)だった。

 

 これには欧州枢軸軍も意表を突かれたが、渡河作戦を多数の上陸作戦用装備で行ったのは、後にも先にもこの作戦だけだった。

 

 そして橋頭堡が確保されると、その場に別の浮橋の建設が進んだ。

 歴戦の連合軍将兵にとって、直近で砲兵の支援をあてに出来る上に浮橋で部隊を送り込めるので、海岸への上陸作戦よりも気楽なものだった。

 

 渡河を確認すると同時に、空挺部隊が少し後方の各所に大規模な空挺降下作戦を決行した。

 

 この空挺作戦に参加したのは、インドから転戦してきた日本陸海軍の空挺部隊(※どちらも連隊規模に拡大されていたが、名称は空挺団のままだった)と、アメリカ陸軍の第82空挺師団の1個旅団、そして自由英連邦軍の1個空挺大隊だった。

 

 初めて輸送グライダーも使われ、空挺隊員と装備を載せた多数の輸送機以外に、重爆撃機に曳航された輸送グライダーが多数が実戦初参加した。

 この輸送グライダーは、大戦初期にドイツ軍が使ったものを見た自由イギリスの発案で作られ、カナダで量産されたものだった。

 珍しいことに、アメリカでは一機も生産されていない。

 

 同空挺作戦は、連合軍が行った初の大規模空挺降下作戦であり、実験的要素も強かった。

 基本的には、大規模渡河作戦での後方攪乱と要地の早期占領が目的だが、大規模な空挺降下作戦そのものが出来るのかを確かめるのが本当の目的だった。

 

 そして空挺降下は大成功だった。

 

 欧州枢軸軍は、この段階での大規模空挺作戦を全く予測してなく、残地諜報者から大型機集結中の報告を受けても港湾部の大規模空襲を警戒していた。

 報告自体が正確に伝えられなかったのもあるが、そんなに早く連合軍が大規模空挺作戦の準備をしてきたとは考えがたかったからだ。

 多数の輸送機の存在も、渡河作戦に際しての万が一の空中補給用だと考えられていた。

 実際、ペルシャ湾からベイルートルートでは、車両以外に空中輸送機も多数使用されていた。

 

 だが、実際は違っていた。

 ベイルートに臨時の拠点を置いた空挺部隊が、数百機の輸送機、重爆撃機、グライダーを短期間で集めて飛び立たせ、そして戦闘機部隊を露払いとして地中海を越えて一気に降下してきた。

 

 枢軸軍将兵が、多数の輸送機から無数の落下傘が花開くのを口をぽかんと空けて見上げたという逸話も多く、完全な奇襲攻撃となった。

 エジプトの民衆の一部などは、アッラー以前の古代の神々の兵士達が舞い降りてきたと勘違いしたとも言われた。

 

 降下した各空挺部隊は、降下の際にかなり散らばっていたが、効果的な抵抗がないので素早く各部隊ごとに集まることができた。

 そしてすぐにも要地を占領したり街道を封鎖したり、破壊活動を開始した。

 また空挺部隊の効果を確認した地上では、既に渡河が第二段階に入り、本格的な歩兵部隊がエジプト側に渡り始めていたので、軽戦車や装甲車で編成された威力偵察部隊が、弾薬と重装備が少ない空挺部隊に合流するべく突進を開始した。

 

 激しい空襲、重砲弾幕、予期せぬ水陸両用車両の群れによる渡河に加えて、後方に大規模空挺降下までされたため、現地欧州枢軸軍は完全に浮き足立ってしまう。

 

 運河の対岸からは無数の砲火に支援され、次々に浮橋が伸びつつあり、もう止めようが無かった。

 そして本格的な戦車部隊までが対岸に渡るに及び、最前線の枢軸軍の士気が崩れた。

 

 そして一度崩れると建て直しが効かなかった。

 

 渡河されたのも複数箇所なので、枢軸軍が後方に待機させていた機甲部隊による機動防御も手数が全く足りなかった。

 しかも依然として激しい空襲が続くため、機甲部隊そのものが遮蔽のない場所で移動も十分出来なかった。

 

 連合軍は実質的に僅か1日でスエズ運河を渡り、その勢いのままエジプトへとなだれ込んだ。

 

 この作戦を成功させたブラッドレー将軍は、その手腕を実施面で認められ、パットン将軍を抜いて軍集団司令へと抜擢される事になる。

 

 スエズ運河渡河からわずか3日後、体勢を整えた連合軍は、すぐにも機甲旅団を先頭に立ててナイル川流域への進撃を開始する。

 既にスエズ各所にいた枢軸軍の主力部隊は後退しており、ポートサイドでは逃げられなかった艦船が自沈していった。

 一部はスエズ運河を通行不能にするために運河での沈没を試みたが、即席の思いつきだった事もあり、運河閉塞を強く警戒していた連合軍の激しい空襲で阻止された。

 

 エジプトのナイル・デルタは、アレキサンドリアとポートサイドを底辺として、カイロを中心とする三角形だと考えると少しは分かりやすいだろう。

 そしてこの三角地帯は、砂漠の中にあって唯一の緑豊かな場所で、古代の昔からアフリカ随一の穀倉地帯だった。

 

 そしてエジプト王国自体は、スエズ運河が通じる頃からイギリスの実質的支配を受けるようになり、辛うじて独立を維持するも保護国となり植民地状態だった。

 このため反イギリス感情が強いが、力で押さえ付けられている形だった。

 しかし力のタガは外され、連合軍が雪崩を打って押しよせた。

 

 欧州枢軸側は、現地ドイツ軍が市街戦を行うよう進言したが、病気療養中でロンメル将軍の姿がないため、イギリスのオーキンレック将軍の意見が是とされ、市街戦を避けることになる。

 イギリス本国政府としては、市街戦を行ってこれ以上現地民衆の心証を悪化させては、戦後がどうなるにしてもイギリスがスエズの利権を保てなくなると考えてのことだった。

 

 連合軍では、エジプト自体には解放という考えがアメリカ軍、日本軍の間で強かったので、市街戦は出来るだけ避け枢軸軍が残されていた場合は包囲して降伏を促した。

 

 そして一週間もすると、ナイル・デルタから枢軸軍の姿は見えなくなった。

 カイロはほとんど無血開城で、総督府には連合軍各国の旗が翻り、エジプトは連合軍の占領下に置かれることが宣言された。

 

 一方、ナイル川流域でほとんど戦わなかった枢軸軍は、殿を受け持った一部以外は、連合軍が占領作業に忙殺されている間に、少しでも西へと逃れた。

 アレキサンドリアから迎えの高速艦艇で闇夜に紛れて逃げた者もかなりいたが、残りは車両に乗っての辛い逃避行だった。

 この脱出には以前はカルカッタ(コルカタ)にいた兵士もおり、イギリス植民地支配の象徴だったカルカッタ、カイロの二つが陥落するのを目撃した生き証人となった。

 

 そうして懸命に逃れる枢軸軍に対して、連合軍の追撃は容赦がなかった。

 熟練兵を1兵でも帰さない事が、その後の作戦の円滑化につながるからだ。

 

 カイロ、アレキサンドリアを後にした欧州枢軸軍にとって、まともな補給が受けられる場所はイタリア領リビア東部沿岸にある港湾都市トブルクだった。

 アレキサンドリアからだと、直線距離で約700キロ。

 車両に乗っているとはいえ、短期間で移動できる距離では無かった。

 しかも移動は度々空襲で邪魔され、車両が破壊され立ち往生した者達は、自然の猛威から生き延びるために、追いかけてくる連合軍の先遣部隊に降伏するより他無かった。

 

 しかし、トブルクにたどり着いた兵士達にも不幸が待ちかまえていた。

 トブルクが遠望できた時、街から激しい煙が噴き上がっていたのだ。

 

 これは、いち早くスエズ運河を越えた、連合軍の水陸両用戦部隊が、僅かな護衛と航空隊の援護を受けて、中継港でしかなく防備がほとんどないトブルクに強襲上陸作戦を決行したために発生した煙だった。

 

 上陸してきたのは、日本海軍陸戦隊と自由英海軍コマンドの合わせて1個旅団に過ぎなかったが、現地を守るイタリア軍は形ばかりの沿岸砲と高射砲を除いて、重装備をほとんど持たなかった。

 移動できる戦力の装備は、植民地警備用の軽装甲車と機関銃、迫撃砲が精々だった。

 黒シャツ隊がいるので数だけは多かったが、民兵という名の元ゴロツキがほとんどの彼らは、連合軍が上陸するとその場でベッドのシーツで作った白旗を掲げてしまう。

 黒シャツ隊以外の部隊も、植民地でぬくぬくとしているだけの警備部隊なので、一般部隊に比べると腑抜けも同然だった。

 初めての大規模空襲と巡洋艦からの艦砲射撃で腰を抜かしてしまい、次々に降伏した。

 抵抗としては、空に向けて銃弾を一発でも撃てば良い方だった。

 

 この段階で連合軍がこれほど大胆な作戦に出たのは、リビアの実状を良く知っていたからだ。

 情報は、先に降伏して自由イタリア委員会に属するイタリア人達や、アメリカに移民したばかりのイタリア移民からもたらされてたものなので、ほぼ正確だった。

 しかも最初から内通者がおり、連合軍の作戦は円滑という以上に速やかに進められた。

 その証拠に、降伏したイタリア兵の何割かは、そのまま自由イタリア軍に参加していった。

 

 イタリア人の多くは、既に戦争の大局が見えたと考えたので、速やかに行動に表したのだ。

 これを腑抜けや変節者、機会主義者と非難する者も少なくないが、そもそもイタリア人はドイツの戦争に巻き込まれたと強く考える者が多かった。

 その上で既に十分義理は果たしたので、祖国が戦場となる前に自分たちの戦争を止めようと考えていたからだった。

 つまりは、第二次世界大戦のような総力戦や殲滅戦争などという考え自体が異端な考えで、イタリア人の考えの方が欧州人本来の考え方とも言えるだろう。

 

 命からがらトブルクまで下がってきたエジプトにいた数万の欧州枢軸軍だが、トブルクを迂回してさらに500キロ近く西のベンガジまで後退するより他無かった。

 しかし移動のための燃料がすでにほとんど無かったので、全てが後退することは無理だった。

 このままトブルクへの援軍に駆けつけるにしても、迅速な後退の邪魔になる重砲などは殆どエジプト領内で破棄し、当座の燃料と最低限の弾薬しか持っていなかったので、簡単に撃破されると考えられた。

 このためさらに重装備、戦車など燃費の悪い車両を棄てて、残った燃料と車両でベンガジを目指すことになる。

 

 流石にというべきか、それ以上連合軍が攻撃の手を伸ばすことは無かったが、これでエジプトは完全に陥落したも同然だった。

 主要都市と港湾を押えたら、砂漠での勝負は付くからだ。

 しかも一週間もすると、カイロ方面から快速部隊がトブルクに入ったので、枢軸側が巻き返そうとした動きに先んじていた。

 

 だが、トブルクの連合軍の数が少ないという情報を受けた欧州枢軸側は、これ以上侵攻を受けないために、トブルクに展開する連合軍船団に対する攻撃を行おうとした。

 地中海での上陸船団の数は流石にまだ少ないだろうと予測されたので、トブルクの部隊を叩くことで侵攻を阻止しようとしたのだ。

 

 攻撃は艦隊による夜襲と決まった。

 昼間だと、カイロ方面から飛来する空軍部隊の激しい空襲が予測されたからだ。

 

 しかしここで枢軸側は、連合軍の攻め寄せる時の行動パターンについて少し考えるべきだったかもしれない。

 

 大幅に近代改装された旧式戦艦 《カイオ・デュイリオ》《アンドレア・ドリア》を中核とするイタリア海軍の高速打撃艦隊は、自分たちの庭でもある地中海を快速を活かして進軍し、連合軍の予測よりも早くトブルクへのカウンター攻撃を実施した。

 

 しかしトブルク沖合に陣取っていた連合軍艦隊は、報告にあった巡洋艦だけでは無かった。

 確かに日本海軍の大型軽巡洋艦《鈴谷》《熊野》を中核とする日本海軍の地中海先遣艦隊の姿はあったが、もう一つ《イタリア》と《コンテ・デュ・カブール》を中核とする自由イタリア艦隊の姿もあったのだ。

 

 連合軍としては、イタリアの植民地を攻めるのに際して、今までどおり同じ国の自由軍を先頭に立てて大義名分を整えただけだったのだが、ここに同士討ちともいえる戦闘が発生する。

 

 しかも両者は最初、相手の正体が分からなかった。

 

 互いにレーダーで敵影を捉えるが、特にタラント湾から急行したイタリア艦隊は、眼前に展開する高速大型艦を主力とした艦隊が、沈んだか破壊された筈の自国の戦艦だとは考えなかった。

 連合軍も、これほど早くリビアに攻め込む予定が無かったので、自由イタリア委員会の存在こそ公表していたが、それに属する軍隊についての詳細は伏せていた。

 これは、リビア侵攻に合わせて公表して、イタリアに心理的ダメージを与えようとしていた為だった。

 

 だが公表前にイタリア艦隊は来てしまい、知らないまま戦闘へと突入していった。

 対する自由イタリア艦隊は、接近する敵の詳細こそ不明だが、相手がイタリア艦隊だとは考えていた。

 

 「トブルク沖海戦」は、両者の錯綜の中で始まったが、自由イタリア艦隊は最初は同胞への攻撃を躊躇していた。

 しかし相手に自分の正体を明かす手段もなく、先にイタリア艦隊が攻撃を開始してきたので仕方なく応戦を開始する。

 しかも彼らの後ろには、連合軍の船団の一部がトブルク港または沖合で停泊しているので、連合軍としてここを突破されるわけにはいかなかった。

 また日本艦隊はもっと早く動き始めており、最新型の射撃レーダーを用いて矢継ぎ早に敵水雷戦隊の隊列に6.1インチ砲の猛射を浴びせ始めていた。

 

 日本艦隊は、今までの戦いに加えてアラビア海での通商破壊戦で戦い慣れているため、戦闘のテンポが早い上に動きが的確で、編成は軽巡洋艦と駆逐艦だけだが戦闘のイニシアチブを握っていた。

 そして自由イタリア艦隊も、友軍に合わせて行動せざるを得なかった。

 

 これで双方のイタリア艦隊が火蓋を切ったが、他の連合軍艦隊に合わせて訓練に明け暮れていた自由イタリア艦隊の方が、どちらかと言えば動きが機敏だった。

 イタリア艦隊の方は、敵に想定外の戦艦がいたことに動揺し、慣れない夜戦と言うこともあって及び腰になっていた。

 

 そうした中で互いに星弾を撃ち、双方の姿を目視でも捉える。

 これでイタリア艦隊は、戦っている相手が同じイタリア戦艦である事を悟る。

 見慣れた瀟洒な姿を見間違える筈も無かった。

 これで士気を無くしてしまい、特に戦果もないままそのまま闇夜へと引き返していった。

 だが、駆逐艦数隻が日本艦隊に蜂の巣にされて沈められただけで、その後も連合軍の追撃は続いた。

 

 追撃したのは、主に敵潜水艦から友軍艦隊を守るために先遣艦隊と共に地中海入りした護衛空母の艦載機だった。

 

 高速タンカーから改造した日本海軍の護衛空母《大鷹》《飛鷹》《隼鷹》は、それぞれ約30機の艦載機を搭載しており、搭載機は既に旧式化している「零戦」とまだ現役の「天山」だった。

 「天山」は対潜哨戒用だが、過去の戦例から母艦には最低限の対艦装備も搭載していた。

 そして再び敵艦隊の攻撃を受けないために、夜明け前にレーダー搭載機を先導に攻撃隊が発進し、逃げるイタリア艦隊を目指した。

 

 そしてトブルクという敵勢力圏となった場所まで踏み込んでいたイタリア艦隊は、シチリア島からの戦闘機隊の行動圏内に入る前に、日本軍編隊の攻撃を受ける。

 

 敵が既に空母まで展開しているとは予測していなかったイタリア艦隊は混乱し、隊列を縦陣のまま全速力で逃走を開始した。

 このため日本軍攻撃隊は対空砲をあまり気にすることなく、適時射点について雷撃を実施した。

 

 この雷撃で旧式戦艦 《カイオ・デュイリオ》《アンドレア・ドリア》は、共に航空魚雷2発を被弾。

 それでも戦艦だったため、最高速度は落ちるも航行に支障はなく、そのまま逃走を続けた。

 そして敵が一目散に逃げる様を最後まで偵察すると、最後の日本軍機がイタリア艦隊上空から去っていった。

 

 これが「リビア沖海戦」で、二つの小さな海戦は積極的な反撃に出たイタリアの敗北で幕を閉じた。

 そしてこの戦闘は、連合軍の進撃速度の早さを欧州枢軸側に思い知らせる事となった。

 そればかりか、東地中海の制海権すら失ったようなものであり、イタリアの受けた衝撃は非常に大きかった。

 

 そのすぐ後、欧州枢軸陣営は緊急会議を開いて当面の防衛策を決めた。

 

 クレタ島の増強と、シチリア、リビア西部、チュニジアの三角地帯の絶対防衛圏の設定が主なところで、連合軍をヨーロッパに進ませない戦力の再配置が急がれることとなった。

 

 絶対防衛圏が設定されたのは、ここを突破されてしまうと西のモロッコ方面の主補給路が途絶する上に、地中海全体の制海権を事実上失ってしまうからだった。

 そして地中海の制海権を失えば、ヨーロッパ世界そのものが「柔らかい下腹部」を無防備に晒してしまう事になる。

 

 そして、この決定によりリビア東部のベンガジは半ば放棄されることになったため、カイロから後退を続けていた欧州枢軸軍の残存部隊は、さらにリビア西部のトリポリまで移動を強いられることとなった。

 

 そして1944年の4月初旬にはリビア東部全体が連合軍の占領下となり、ベンガジに航空拠点を構えた連合軍は、航続距離の長い戦闘機を護衛としたさらなる航空撃滅戦を継続した。

 

 もう枢軸軍には下がって良い場所は無かったが、連合軍の手はまだまだ先へと伸びつつあった。

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