フェイズ38「WW2(32)北アフリカの戦い1」-1
連合軍の戦略構想の例えに「車輪 (カートホイール)」と「万力 (バイス)」がある。
車輪とは、アメリカ、日本、英連邦、ソ連の四カ国の軍を4つの車輪に例えたものと言われ、北大西洋戦線、ロシア戦線、アジア戦線の三つから欧州を押しつぶしていくのが万力だ。
この車輪は最初は噛み合わず、万力はむしろ枢軸側が連合軍を押しつぶす側だった。
だが基礎的な国力、生産力、資源分布、人口などから、戦略的に見て連合軍の優位は明らかだった。
欧州枢軸側の先端技術力の優位を挙げる者も少なくないが、戦争の決定打となる要素では無かった。
そして1943年中に連合軍が地球を一周する交通網「アーシアンリング」を完成させたように、ファシズムに征服されたヨーロッパ世界は自らの世界に押し込められつつあった。
しかし1944年の春を前にして、少しばかり停滞していた。
世界最大の陸戦が行われているロシア戦線は、欧州枢軸軍のコーカサス撤退による戦線の引き直しで両軍が夏の間中動き回り、ドイツ軍がソ連軍に付け入る隙を与えなかったので、秋には戦線が安定していた。
そして双方ともに防御態勢を取ったため、ソ連軍は43年の冬季反抗が実質的に出来なかった。
そして厳冬期を迎えたため、ほぼ冬営状態だった。
大西洋戦線は、2月の連合軍の攻勢が実質的に失敗して、アメリカ海軍の空母機動部隊は予想外の損害を受けていた。
このため日本海軍を中心とした次の作戦が延期を余儀なくされ、欧州枢軸側に洋上に押し出す海軍力はないため、一時的な停滞状態となっていた。
「車輪」は、最初の段階で躓いた事になる。
そしてこの時期動いていたのは、北アフリカ戦線、もしくは地中海戦線だった。
1944年2月初旬、東アジアから進軍した連合軍は、ついに地中海に達した。
そして通常なら、次の進撃の準備を整えるのに時間がかかるのだが、連合軍というよりアメリカが産み出した兵站組織が、軍団に止まることを許さなかった。
この時期、アメリカ軍、日本軍、自由英連邦軍が最も多く展開していたのが中東戦線だった。
しかもインド戦線、チャイナ戦線が終わって浮いた部隊が、続々と中東に押し掛けていた。
そして連合軍は、先鋒を進む部隊を優先して臨時に機械化させて進めさせ、その後ろに鉄道もないのに太い補給路を作っていった。
非常に贅沢に戦争をしているわけだが、戦時経済がフル回転しているアメリカ、日本からは無尽蔵といえるほどの兵器、車両、物資が送り込まれているので、これらを消費するためにも進まねばならなかった。
何しろインド、中華戦線の消滅で、物資を浪費する戦線が無くなっていたからだ。
そして本来なら人命軽視のような進撃は連合軍では避けられるのだが、巨大な兵站部隊とそれに加えて優秀な工兵部隊によって、進撃した先々ですぐにも飛行場が開設、拡張され、進撃を支える航空部隊も難なく展開したので、地上部隊は吹き飛ばされた枢軸軍を捕虜にして、占領作業を進めるのが主な任務のような有様だった。
中東に展開していた欧州枢軸軍が何とか一息ついたのは、スエズを越えてエジプトまで逃げのびた段階だった。
エジプトのスエズ運河の地中海側にあるポートサイドは、それまでインド及び中東戦線などアジア戦線を支えてきた一大兵站拠点であり、ナイルデルタ(三角州)の西にあるアレキサンドリアは艦隊集結地として利用されていた。
このためエジプトには多くの兵器と物資があり、先に後退してきた部隊と増援部隊、増強された兵器により、一方的な制空権では無い場所だった。
しかし同地域の連合軍は、圧倒的戦力だった。
アラブ地域にあった連合軍の1944年2月頃の単純な兵力量は、空軍が3個航空艦隊(航空軍)と地上部隊100万人になる。
しかもその後ろには、さらに100万の兵力と、3個航空艦隊が準備されつつあった。
この時期の中東にあった主な航空部隊は、日本陸軍が遣印航空軍から改変された第三航空軍(1個航空艦隊規模)と、日本海軍の第十一航空艦隊(1個航空艦隊規模)、それにアメリカ陸軍航空隊の第5航空軍(1個航空艦隊規模)、自由英連邦空軍のアジア航空集団(半個航空艦隊規模)になる。
これにチャイナから転戦しつつある日本陸軍の第五航空軍、アメリカ陸軍の第20航空軍が各所で再編成中または移動の途中だった。
さらにアメリカ本土では第6航空軍(新設部隊)が、移動の準備を進めていた。
さらには、チャイナ奥地を吹き飛ばした部隊を基幹とした、重爆撃機専門部隊である第8航空軍が戦略予備として移動準備中だった。
英連邦軍も、オージーでの部隊編成を急いでいたので、さらに半個航空艦隊を地中海方面に増派予定だった。
しかもアメリカ陸軍航空隊は、カリブで戦った部隊を基幹として、大西洋を押し渡る予定の大部隊が編成中だった。
基本的にこの時期の連合軍の航空部隊は、30〜50機程度で大隊を編成する。
日本軍の場合は、大隊を戦隊や航空隊と呼ぶ場合もある。
部隊の最小単位は小隊または分隊で、初期の頃は3機小隊編成だったが、既に2機で分隊、4機で小隊という基本単位が戦闘機隊の主流となっていた。
そして2〜3単位を束ねて上位組織になる場合が多いが、大隊(戦隊)から連隊を飛ばして旅団の単位になる場合もある。
軍団という単位を用いる国もある。
日本陸軍航空隊の編成だと、戦隊(大隊規模)→飛行団→飛行師団→航空軍になる。
また、戦闘部隊に加えて連隊以上の部隊だと、偵察、輸送などの部隊が加わる事が多い。
しかし部隊規模や名称は各国で様々で、2〜3単位で上位組織にならない事もある。
さらに戦時なので、消耗があったり編成自体が変則化するため、実際と定数に差が開くことが多い。
しかも国によって部隊規模が違ってくる。
しかし一方で、編成表には載らない予備機があるのが普通なので、最大で約二倍の機体数を保有する部隊もあったりする。
日本陸海軍でも、戦争が進むに従って「愛機」ではなくその時状態の良い飛行機に乗る事が増えていた。
特にアメリカからの貸与機を扱う場合、パイロットよりずっと数が多いのが普通なので愛機を持つことは希だった。
連合軍に対して現地の欧州枢軸側の航空部隊は、イギリス本国のオリエント航空軍(1個航空艦隊規模)、ドイツの第3航空艦隊、イタリアのオリエント航空団(半個航空艦隊規模)になる。
だが枢軸側は、日々の消耗と十分ではない補給状況のため、連合軍がほぼ編成表どおりの部隊なのに対して、半数から精々3分の2程度の実働数だった。
しかも欧州枢軸側の部隊編成の方が小柄だった。
このため単純な数字だと連合軍:枢軸軍=3.5:2.5が、実数では連合軍:枢軸軍=3.5:1.2程度になってしまう。
つまり約3倍の戦力差で、この上に基地や補給の状況が上乗せされる。
そして日々の消耗で、劣勢な側で最も損害が大きくなるのがパイロット(搭乗員)だった。
兵力が多い側は、交代で任務に就くので後方で十分に休息と再訓練をして、さらに部隊を整えた上で戦場へと戻る事ができる。
しかし少ない側は、戦線を支えるために負傷以外で後方に下がることが出来ず、日々の戦いで心身共に消耗して、実力を十分発揮できない中で撃墜されていく。
そしてベテランの数は減る一方なので、戦線を支えるパイロットの多くが後方から補充された新人となる。
そして戦場で落とされるのは殆どの場合が新人で、さらに劣勢な側は熟練者が日々の戦いで1人また1人と欠けていく。
前線に残るのは補充された新人ばかりとなり、その新人は次々に落とされて熟練者はほとんど育たない。
戦いが続く限りこの悪循環から逃れる事はできず、こうした戦いを航空撃滅戦と呼ぶ事がある。
航空撃滅戦とは、単純な兵器の消耗よりもパイロットの消耗のことを主に示している。
そして1942年に入ってからの欧州枢軸軍は、ロシア戦線以外で劣勢で消耗する側だった。
中でも1942年夏以後のインド戦線、中東戦線での数の上での消耗は激しく、44年になり戦場が地中海へと移行しつつあっても建て直しが出来ていなかった。
ドイツ空軍にはけた外れのスコアを持つエースパイロット(撃墜王)が何人もいたが、逆に枢軸軍パイロットの実に90%がほとんど初陣で撃墜されていた。
対して連合軍側は、適度に後方で休養する上に、ある程度戦果を挙げると教官など後方勤務に従事するため、熟練パイロットはそれなりに多いが飛び抜けたエースパイロットはほとんど居なかった。
特にアメリカ軍にその傾向が強く、日本陸海軍はドイツとアメリカの中間ぐらいのエースパイロットが何人かいた。
日本海軍だと、「セイロンの魔王」や「烈風虎徹」などの名が後世にも残されている。
話しを戻すが、中東から北アフリカにかけての連合軍は、44年半ばまでに地上戦力200万、航空部隊7個航空艦隊の態勢を作る予定だった。
当然補給体制も整えており、年内に欧州本土にまで橋頭堡を作る積もりでいた。
これに対して主にエジプトに展開する欧州枢軸軍は、補給を受けても現状では敗残兵に等しくやせ細っていた。
だが、大幅な増援予定を含めると、同時期までに地上部隊60万、航空部隊3個艦隊(完全編成)に強化される筈だった。
しかし2月の時点では、エジプトには元から居た警備部隊を含めても10万に届いていなかったし、重装備も多くを失っていた。
航空隊は先に後退したため健在だったが、日々続く航空撃滅戦の前に青息吐息だった。
中東にまでいかなかった物資と兵器で補っても、絶対的に兵士の数が足りなかった。
両者が完全戦力で揃ったと仮定すると、地上戦では攻者三倍の原則に従えば何とか枢軸側が防戦可能だが、数学的なランチェスターモデルが採用される航空戦では、連合軍は20%以下の損害で枢軸軍を完全撃破できる計算になってしまう。
しかし枢軸軍には、これ以上の増援をエジプトに送り込むことは無理だった。
大西洋では、英本土、モロッコの航空戦力を引き抜けば、連合軍の肥大化した空母機動部隊に蹂躙されるし、ギリギリの戦いを続けているロシア戦線から引き抜くことも無理だった。
ちなみにこの時期欧州枢軸各国の大まかな空軍戦力は、ドイツが3個半、イギリスが3個、フランスが2個、イタリアが1個半、その他合わせて半個の合計10個半の航空艦隊を持っていた。
この数字は実数で、紙面上ではもう少し規模は大きくなる。
対して連合軍の航空戦力は、海軍の空母機動部隊を含めると、欧州枢軸側の2倍以上の戦力になる。
そしてオリエント戦線とも当時言われた中東・エジプト地域に、余剰航空戦力の多くを注ぎ込んで圧倒的な航空優勢を作り上げようとしていた。
これは、ロシア戦線以外で大規模な航空部隊を配備できるのが、同地域しか無くなっていたためだった。
そして連合軍は、同地域での航空撃滅戦による欧州枢軸側の消耗を図ろうとも企図していた。
また、敵の抵抗が弱い場合は一気に進軍し、北アフリカ東部、東地中海を越えてイタリアを目指す予定だった。
最短のスケジュールだと、年内にはイタリアに侵攻している予定だった。
そして中東での戦線崩壊の打撃から立ち直れない欧州枢軸側は、大規模な増援を決定しつつも場当たり的な防戦以外の選択肢が見えない状態だった。
これはヒトラー総統がいくら獅子吼しようとも、シュペーア軍需大臣が辣腕を発揮しようとも覆らない現実だった。
しかし枢軸側にも優位な点はあった。
連合軍が抱える長大な補給路に比較して、欧州枢軸側の補給路が非常に短くなったことだ。
連合軍の無数の爆撃機の存在を考えると、東地中海ですら安全とは言えなくなっていたが、インドやカリブまで補給路が伸びていた頃とは大きな違いだった。
だが欧州枢軸が思った以上に、連合軍に負担は無かった。
特にインド洋方面は、インド洋から欧州枢軸側が追い出されていたので、距離の問題以外で連合軍に新たな負担は少なかった。
しかもほとんどが海路なので、距離が伸びた事による不利はほとんど無かった。
強いて不利な点を挙げるなら本国との距離だが、既に途切れることなく太い補給線が敷かれているので、本国から前線までかかる時間以外での不利は見られなかった。
それでも欧州枢軸側の補給負担が大きく軽減されたことは、今までとの大きな違いだった。
そして欧州枢軸軍は、まだ保持されていた紅海のアフリカ側からスエズ運河経由で通商破壊部隊を送り込もうとしたが、すぐにも連合軍はスエズ運河のユーラシア大陸側(アラビア半島側)まで進んできていた。
また、アレキサンドリアより東の欧州枢軸軍の拠点は、ことごとくが重爆撃機の爆撃対象とされ、補給線がアフリカ大陸側の細い陸路だけとなった紅海沿岸の基地群(というほど基地は無かったが)は、補給の途絶で短期間で沈黙していった。
アラビア海最大の拠点のアデンには潜水艦がかなり残っていたが、スエズ運河が使えなくなった段階で、既に敵地となった喜望峰回りで欧州に戻るか、戻るだけの航続距離のない潜水艦などの艦艇は、人員だけ陸路でアフリカ大陸沿いに撤退して現地で破壊するより他無かった。
この中で、航続距離が十分ではない中型潜水艦が多かったイタリア海軍の潜水艦は、ほとんどがアデンで破棄された。
爆撃で半ば廃墟となったアデンの港からヨーロッパに向けて脱出できたのは潜水艦だけで、それも途中の攻撃で何隻かが失われていった。
サハラ以南のアフリカは、南アフリカが寝返って以後いっきに連合軍に陣営が変わっていっているので、潜水艦以外が逃げ出すことが出来なかった。
小さなヨットで船出して、中立国の船を装いつつ無事に帰投した話しがブリテン島で花を咲かせたが、そのような冒険まがいの航海でなければ、枢軸側がインド洋から逃れる術はなくなった。
紅海沿岸部も、もともと兵力と拠点が無きに等しいほど乏しかったので、一度空爆を受けて破壊されてしまうと、補給も途絶えているため残存兵は撤退するより他無かった。
それに抵抗するにしても、そのための装備が無かった。
スエズ運河が塞がれたので、ボート一隻通すこともできず、中流域から滝が各所にあるナイル川を輸送路に使うことも難しかった。
そして何より、1944年3月半ばになると、連合軍がスエズ運河を渡るためにシナイ半島を中心に兵力を振り向けてきたので、もう中東やインド洋での妨害どころではなかった。
連合軍がスエズ運河を渡るのに使った手法は、一見オーソドックスな渡河作戦だった。
敵の対応能力を上回る各所に陣取って浮橋の建設を開始し、複数箇所から一気に渡ろうという算段だった。
当然枢軸側は阻止しようとしたが、1500キロ離れたペルシャ湾奥のバスラからは重爆撃機の群れが押しよせて全てを吹き飛ばしはじめ、400キロも離れていないベイルートからは戦闘機が無数に飛来して制空権を確保した。
爆撃はポートサイド、アレキサンドリアなどエジプト沿岸の港全てに行われるため、枢軸側はせっかく送り込んだ船団から物資を受け取ることが難しかった。
しかも機雷まで空中投下してくるので、空襲を含めて艦船の損害も相次いだ。
ベイルートにはカウンターの空襲も仕掛けたが、戦力差のため損害ばかりが多くてすぐに尻窄みになった。
それでも3月半ばまでに、枢軸側は約25万の兵力をエジプト北東部に配備した。
多くが補充と増援で、中には最新鋭の装備を持つ部隊もあった。
国別で見ると、インドから下がり続けてきたイギリス軍が一番多く、全体の約半数を占めていた。
「アフリカ軍団」とさらに改名された現地ドイツ軍は、補充と増援を受けても6万程度にまでやせ細っていた。
ロシア戦線を優先したため、満足な増援が送れなかったのだ。
そして残りが、新たに送り込まれたイタリア軍になる。
これ以外に、隣接するリビアには約20万のイタリア軍が居ることになっていたが、多くはファシスト民兵組織の黒シャツ隊で戦力にならず、残りも古くから植民地に居座る戦いを忘れたような警備部隊なので、近代戦では何の力も無かった。
彼らの多くは、ただ補給を圧迫するだけの存在だった。