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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
58/140

フェイズ36「WW2(30)ダカールの戦い」

 1943年春になると、大西洋の連合軍では「新大陸から旧大陸へ」がかけ声になっていた。

 


 1943年2月2日〜5日にかけて行われた「小アンティル諸島の戦い(ドミニカの悲劇)」で、カリブを巡る攻防戦の帰趨は決したと言われる。

 もしくは、最後の分水嶺を越えたとも言われる。

 

 実際、これ以後の欧州枢軸陣営は、ベネズエラを出入りするタンカーを守ることに全力を傾け、連合軍への積極姿勢を見せなくなった。

 見せたとしても、小アンティル諸島各所から撤退するときだけで、それも連合軍が盛んに攻撃してくるため尻窄みとなった。

 そして南海の小さな島に取り残された枢軸軍の兵士は、そのまま戦争が終わるまで置き去りにされる例も見られた。

 小さな島は一見楽園のような景観だが、島に食糧と水がない場合が殆どなので、飢餓地獄が起きる場合も見られた。

 

 そうした中で、欧州枢軸軍が強固に守ろうとしたのが、小アンティル諸島南端にあるトリニダード島 (トリニダードドバゴ)だ。

 

 同島は、ポートオブスペインという泊地に使える港が南部にあり、社会資本も比較的整っていた。

 飛行場も多数開設され、多数の航空隊で厳重に守備していた。

 トリニダード島の南には、南アメリカ大陸のオリノコ川の広大な三角州が広がり、往来するタンカーはわざわざ島と三角州の間の海峡を通り抜けていく。

 そしてベネズエラ領海内は連合軍は攻撃しないが、三角州を過ぎてしばらく進むとベネズエラ領が終わり、欧州各国のギアナ植民地になる。

 このため枢軸軍は、トリニダード島とギアナ各所に飛行場を開設して、常時哨戒機を飛ばして連合軍の潜水艦を警戒していた。

 

 大西洋の旧大陸側は、フランス植民地の西アフリカのダカールに大規模な飛行場が開設され、多数の哨戒機がここを根城としていた。

 そしてギアナ東端とダカールの間は直線距離で約3700キロあり、この間は最も危険に満ちた海となる。

 このため大西洋上にあるポルトガル領のベルデ岬諸島 (カーボベルデ)の使用をポルトガルに求めた事もあった。

 

 しかも南大西洋を往来する船も通るため、欧州枢軸にとっては生命線だった。

 当然、連合軍潜水艦が最も跋扈する海域となるが、枢軸側は対潜水艦用に改造したウェリントン爆撃機を大量に飛ばして対抗していた。

 だが大西洋のど真ん中は、哨戒の空白になる時間が多かった。

 時間をずらした哨戒機の発着は行われたが、夜間着陸は危険が大きく効率が悪いからだ。

 このため、アメリカ海軍が態勢を整えるようになった1942年夏頃からは連合軍潜水艦の狩り場となり、ドイツ軍のように潜水艦複数による襲撃を繰り返し、主にイギリス海軍の護衛艦艇と死闘を展開した。

 

 加えて、ダカールからモロッコにかけての沿岸を抜けて、ジブラルタルを越えて地中海に入るか、イベリア半島を迂回してイギリスや北海沿岸に至る。

 このイベリア半島沖も、43年春頃には連合軍潜水艦の狩り場となり、北米大陸にも近い事から1942年冬頃から激しい戦いが展開されるようになった。

 

 だが、大西洋上で戦力の拮抗の時は終わりつつあった。

 

 連合軍が攻勢の態勢を整えたからだ。

 


 1943年6月6日、連合軍は空母機動部隊とプエルトリコ島などに進出した航空隊合同で、トリニダード島への航空総攻撃を開始した。

 「トリニダード島沖航空戦」だ。

 

 プエルトリコ島の各飛行場は、連合軍が奪回するとすぐに大量の機械力によって大幅に拡張され、多数の重爆撃機が進出していった。

 また小アンティル諸島の幾つかの島が占領されて、爆撃機を護衛する、もしくは反撃してくる枢軸軍機を迎撃する戦闘機隊が多数配備された。

 戦闘機もほとんどが新型機に転換されており、同数でも遅れは取らなくなっていた。

 枢軸側の主力はイギリス空軍でフランス空軍も加わり、オランダ空軍もドイツから供与された「Fw190A」を運用したが、連合軍は数で押しつぶした。

 

 そして1943年春からトリニダード島を中心とする欧州枢軸空軍とプエルトリコ島を根城とする連合軍の間で、猛烈と言える規模の航空撃滅戦が展開されたが、その激戦を根本からへし折る作戦がこの時の連合軍の攻撃だった。

 

 参加した航空母艦のうちアメリカだけで、既存の《エンタープライズ》《ホーネット》だけでなく、新鋭大型空母の《エセックス》と《レキシントン二世》《ヨークタウン二世》、軽巡洋艦から改装した軽空母 《インディペンデンス》《プリンストン》《ベローウッド》の合計8隻を数え、さらに日本の装甲空母《翔鶴》《瑞鶴》が加わった。

 

 《エセックス級》空母は、アメリカ海軍が大戦後半の主力とした大型空母だ。

 基準排水量は2万7000トンで日本が大戦中に就役させた大型空母より少ないが、先進的で合理的な設計と配置により非常に大きな航空機運用能力を有していた。

 また損害極限 (ダメージ・コントロール)だけでない防御も充実しており、極端な話、格納庫より上の構造物全てが廃墟となっても(アメリカの工業力なら)復活できたほどだった。

 実際、この戦争の終盤に何度も被弾を経験するが、異常と言えるほどの高い耐久力を発揮している。

 

 《インディペンデンス級》空母は、建造途中の軽巡洋艦から改装された軽空母で、30ノット以上の高速が出せて大型高速空母と共に行動ができる点で、日本が軍縮時代から地道に整備してきた軽空母より優れていた。

 だが、船体が軽巡洋艦で大型の機関を載せたままなため機関部が多くを占めており、航空機用の燃料や弾薬を多数搭載することが難しかった。

 この事はアメリカ海軍内でも当初から問題視されたが、上層部が提示した艦載機(と燃料、弾薬)の過積載は、被弾時の危険が大きいので結局取りやめとされていた。

 このため《インディペンデンス級》の搭載機数は33機と適正な数に抑え続け、戦闘力の不足がアメリカでは問題視され続けた。

 ただし、戦闘機を過積載する事があった。

 


 この時の艦隊全体での艦載機総数は700機に迫った。

 そして横合いから殴りかかるように総攻撃してきたため、プエルトリコ島方面からの攻撃に集中していた現地枢軸空軍は一気に態勢を崩されてしまう。

 そしてそのまま激しい航空撃滅戦に晒されて、無為に戦力を失っていった。

 当然枢軸側は後方からの補充を行おうとしたが、大西洋航路では多数の潜水艦が展開して輸送を妨害され、さらに空母機動部隊の空襲は一度では済まなかった。

 

 初めて空母部隊を率いる事になるスプルアンス提督率いる日米の空母機動部隊は、まずはトリニダード島への攻撃を三日続けた後に、一旦後方に撤退する。

 これを枢軸側は通常の後退と見たが、実際は大きく違っていた。

 

 枢軸軍も、連合軍が空母機動部隊を繰り出して攻撃してくることは予測しており、迎撃のための兵力も若干だが残していた。

 そして昼間に攻撃しても犠牲ばかり増えるので、逆襲では出来る限り薄暮攻撃を行った。

 また犠牲が大きくなることを覚悟して、温存していた潜水艦も多数出撃させた。

 

 もっとも、この攻撃はその殆どが失敗してしまう。

 連合軍も敵が反撃してくることぐらい折り込み済みで、徹底して反撃を撃退していったからだ。

 

 この結果、連合軍は駆逐艦1隻が沈み、空母、巡洋艦、駆逐艦各1隻が損傷後退したが、枢軸軍は100機以上の航空機と4隻の潜水艦を失った。

 だが、戦果報告を受けた枢軸側の現地司令部は、攻撃隊の戦果報告を半分程度だと考えても敵空母の半数を撃破したと考えた。

 そして連合軍の空母機動部隊は、損害を受けたので引き揚げたとも考えられた。

 だから通常の後退と考えたのだ。

 

 しかし連合軍は、損傷後退したのは軽空母1隻だけだった。

 艦隊のほとんどは、グァンタナモでの補給と航空隊の補充もしくは交代の後に、すぐに再出撃を実施した。

 そしてその後大西洋を迂回しつつ、南米ギアナ沖合から猛烈な空襲を開始する。

 

 この空襲は、枢軸側がこの時点での敵空母の攻撃はないと考えていたため奇襲となり、まずは最も西側(連合軍から最も遠い場所)にあるフランス領ギアナが大空襲を一日中受けて壊滅してしまう。

 ギアナは、カリブでの戦いで欧州枢軸軍が新大陸最大の中継拠点としていた基地群のある場所だ。

 

 だが、連合軍艦隊が第二目標としたギアナ駐留の欧州枢軸海軍の艦隊主力は既に居なくなっていた。

 幾らか新鋭艦などを増強されていたギアナの欧州枢軸の合同艦隊は、連合軍艦隊後退の報告を受けて「追撃」のために出撃していたからだ。

 その後も無線封鎖しつつ洋上で敵の捜索を続けていたが、帰投直前に連合軍艦隊がギアナを襲ったため半ば偶然難を逃れた事になる。

 そしてギアナ空襲の報告を受けると、追撃や反撃どころか、連合軍空母機動部隊の圧倒的威力を前に、そのまま西アフリカのダカール方面へと後退している。

 連合軍としては好餌を逸した形だった。

 

 それでもギアナには、巡洋艦を中心とした艦隊がまだ駐留していたが、退避もままならないまま残存していた艦隊は壊滅的打撃を受けた。

 その他支援艦艇の多くも撃沈破され、枢軸側の中継拠点、海軍拠点としての機能をほぼ失ってしまう。

 周辺海域を含めて、居合わせた大型タンカーも何隻も沈められた。

 そしてギアナ壊滅こそが、連合軍の第一目標だった。

 

 この、戦果の誤報を原因とした大損害は、枢軸軍内で大問題とされた。

 当然だが、以後はいっそうの偵察及び戦果確認の正確さを求めることが決められた。

 しかし、戦況の悪化と連合軍の戦力の増強、そして枢軸側の洋上訓練を施されたパイロットの不足が改善を難しくしていた。

 


 空母機動部隊の空襲は、その後も機械的といえる正確さでギアナ各所に実施された。

 そこに加えて、航続距離の届く限りプエルトリコの重爆撃機部隊も飛来して、ジャングルと海の狭間に点在する枢軸軍の拠点を熱帯特有の赤茶けた更地にかえていった。

 

 一連の連合軍の大規模な攻勢により、既に大きく疲弊していたカリブ海及びギアナの欧州枢軸軍は壊滅的打撃を受けた。

 もはや戦線を維持する事は難しく、残された兵力の速やかな撤退を行うより他無かった。

 しかし、全ての兵力と残された兵器、物資を大西洋の反対側に撤退させる事は極めて難しかった。

 撤退のための大規模な艦隊や船団を繰り出したら、それ以上の艦隊を連合軍が出して阻止に来ることが分かり切っているからだ。

 また単船で送り出しても、大きく脅威を増した連合軍潜水艦の餌食になる可能性が高く、こちらも出来なかった。

 

 欧州枢軸海軍内では、各海軍の総力を結集した艦隊を繰り出して戦線を立て直す案も出されたが、43年半ばの時点では高速空母が不足しており洋上での制空権の確保が難しい為、撤退のための牽制作戦だけが実行されたに止まった。

 

 このため兵器と物資は、破棄する事とされた。

 兵士についても、大西洋を横断できる爆撃機や飛行艇、潜水艦を用いてパイロットと整備兵を優先的に撤退させる。

 その他、カリブ、ギアナ各地を合わせて20万に達する兵士は、出来る限り小さな拠点の者は他の大きな拠点移動し、さらに敵が侵攻してくるまで持久し、攻撃を受けたら然るべき後に名誉ある降伏をするように命令が下された。

 

 6月以後の戦いは、必然的に連合軍が必要な場所に攻め込み、枢軸側が泥縄式に防衛するという図式になる。

 

 かくして1943年8月1日、カリブでの激戦は枢軸側の全面的な敗北と撤退で実質的に幕を閉じた。

 しかしそれは、新たな戦闘の始まりでしかなかった。

 

 一方でカリブ各地には、適度に空襲を受け補給を絶たれた上で、連合軍から半ば無視された兵士10万以上が、戦争が終わるまで飢えと戦いながら取り残されることになる。

 このため「カリブの監獄」と言われるようになった。

 そして9月には連合軍によるギアナ各地への侵攻も実施され、一部に「アマゾンの監獄」も出現する。

 

 そしてイギリス本国軍を中心に、熟練兵20万を実質的に失って新大陸での戦いは終わり、すぐにも旧大陸での戦いが幕を開ける。

 


 1943年11月3日、日本では「明治節」と呼ばれる祝日だったこの日、連合軍の大機動部隊がアフリカ西岸のダカールを襲った。

 

 連合軍が大西洋を押し渡って行った最初の大規模攻撃だった。

 

 十分に準備期間を設けたので、作戦に参加した空母の数はさらに大きく増していた。

 

 大西洋にいる日本の大型空母は《翔鶴》《瑞鶴》だけだったが、アメリカではこの時期続々と艦隊に新造空母が編入されつつあったからだ。

 

 以下が、この時参加した連合軍海軍の空母の序列になる。

 


・連合軍大西洋艦隊

  ・アメリカ海軍第二艦隊 (TF28)


在来空母:

 《エンタープライズ》《ホーネット》《サラトガ》


《エセックス級》空母:

 《エセックス》《レキシントン二世》《ヨークタウン二世》

 《バンカー・ヒル》《イントレピット》


《インディペンデンス級》軽空母:

 《インディペンデンス》《プリンストン》《ベローウッド》

 《カウペンス》《モンテレー》《カボット》《サン・ジャシント》


  ・日本海軍第五艦隊(大西洋艦隊)

 大型空母:《翔鶴》《瑞鶴》

 軽空母 :《日進》《瑞穂》


 大型空母10隻、軽空母9隻、艦載機総数は常用で1100機に達し、この時は各艦過積載で1300機近かった。

 護衛する艦艇も非常に豪勢で、排水量4万8000トンの新鋭戦艦 《アイオワ》《ニュージャージ》を中心に高速戦艦10隻など100隻近かった。

 日本海軍は新たに巡洋戦艦《高雄》《愛宕》を中心とする増援艦隊に太平洋とパナマを越えさせたので、艦隊の規模はさらに膨れあがった。

 高速水上機母艦から短期間で軽空母に改装された《日進》《瑞穂》も、同時期に《翔鶴》《瑞鶴》用の機体の一部も載せて大西洋に到着したものだった。

 

 しかもこの大艦隊を洋上から支援するために、多数の補給艦やタンカー、交代用の航空隊、予備の航空機を載せた護衛空母など、100隻近い多数の艦艇が幾つもの艦隊に分かれて展開していた。

 また別働隊として、「ハンター・キラー」と呼ばれた対潜水艦部隊が各所に放たれて、周辺に潜伏している潜水艦を、航空機と共に狩っていった。

 もちろん水面下には、多数の友軍潜水艦も先行している。

 

 前年春にインド洋の日本海軍空母機動部隊が「キラー・フリート」と呼ばれたが、それに倍する空前の大艦隊だった。

 

 連合軍はこの大艦隊を、4つに分けた輪形陣をスクウェア状に配置して進撃し、この日の空襲を実施した。

 


 対する欧州枢軸陣営では、新大陸から撤退した時点で、連合軍が大西洋を押し渡ってくることは既定事項だった。

 問題は「最初にどこに襲来するか」だった。

 連合軍の空母機動部隊は、毎月のように空母が増強されるようになっており、空母機動部隊は好きなときに好きな場所、そして全ての戦力を一度に、しかも迅速に叩きつける事が可能だった。

 

 これに対して欧州枢軸側は、守る側だった。

 そして守るべき場所、空襲を受ける可能性の高い場所は一カ所だけでは無かった。

 

 最も攻撃されてはいけないのは、欧州大陸の「出城」と言えるブリテン島だった。

 だがこの時点でブリテン島にはイギリス空軍の航空隊の約半数が配置についており、しかも欧州大陸からの増援を受けることも可能なので、空襲を受ける可能性は低いと判断されていた。

 だが逆に、守るためには部隊を置いておかねばならず、多数の航空隊を他方面に配置する事は難しかった。

 またイギリス空軍は、現状で中東の戦線主力としてを支えなければならず、本土防衛以外の余力が無かった。

 何しろ中東方面は、インド、チャイナから移動してきた連合軍空軍が最低でも3個航空艦隊規模で展開しており、圧倒的戦力だったからだ。

 

 次に重要なのが、モロッコ、というより「欧州の城門」と言われたジブラルタル海峡だった。

 この地の防衛は主にフランス空軍、イタリア空軍が担当しており、双方の国の空軍部隊のそれぞれ半数近くが配備されていた。

 ジブラルタルこそが欧州、地中海の「城門」であり、決して突破されてはいけないからだ。

 1943年春以後は、ロシア戦線から一部の兵力を引き揚げてまでして戦力の増強が行われた。

 地中海のオランには、反撃のための艦隊も配備されていた。

 敵の全面侵攻時には、欧州中から艦隊が殺到して敵を撃滅する作戦ですらあった。

 

 最後に、最も危険と考えられていたのが、アフリカ西岸のダカールだった。

 ダカールは、アメリカとの戦争が始まってから新大陸に向かう最大の中継拠点であり、大西洋を往来する際の出発点だった。

 だがカリブから撤退した事で、一転して最前線となった。

 そして連合軍が旧大陸への最初の橋頭堡にする可能性が高いと考えられていた。

 しかし、上記した通り守るべき場所から安易に戦力を引き抜くことは出来なかった。

 もしダカールに戦力を集中して、ジブラルタルを先に占領でもされたら、戦争の根本が傾いてしまうからだ。

 だからこそ、他から戦力を持ってこなくてはならなかった。

 こうした中で期待されたのが、ドイツ空軍だった。

 

 ドイツ空軍は、本土を含めて4つの航空艦隊が編成されていたが、本土の第1航空艦隊は新規部隊の編成と後方から下がってきた部隊の回復場所となっていた。

 おかげで他の3個航空艦隊は、今までは比較的余裕のある戦いを展開することができた。

 そしてロシアに第2、第4航空艦隊、中東に第3航空艦隊配備していたが、これらはそれぞれの戦線から引き抜くわけにはいかない戦力だった。

 

 そうした中で、ヒトラー総統の命令を受けたゲーリング国家元帥の肝煎りで、第5航空艦隊が編成される。

 編成上の戦力は通常の航空艦隊の半分程度で、1943年11月までに展開できたのはさらに少なく不完全な編成の4個大隊・150機程度だった。

 多くの機体が激戦が続くロシア戦線、中東戦線に必要とされたからだ。

 これに今まで駐留していた他国の部隊とカリブから下がってきた部隊を合わせると、枢軸軍全体での総数は400機を数えた。

 従来の航空隊が多いため哨戒機の比率が高いが、それでも戦闘機の数は250機あった。

 もっとも、総数が400機もあると既存の飛行場では手狭で、バンカーや爆風よけの盛り土もない駐機スペースに、かなりの数が駐機せざるを得なかったほどとなった。

 

 またダカールには、かなりの数の高射砲部隊、陸軍部隊も配備されており、航空要員を除いて20万の大軍が、海岸線沿いの街の周辺部に駐留していた。

 

 そしてこれだけの戦力を維持するのは非常に大変だが、ジブラルタルを抜けて定期的に船や船団が物資を運んでいた。

 この補給路は、哨戒機、護送船団で厳重に守られていたので、輸送コストを除けばダカールは補給面では比較的安定していた。

 


 だが連合軍は、殆ど前触れもなくダカールへ全力で襲いかかった。

 

 確かに、連合軍の大艦隊が動き始める前兆は随所に見られた。

 しかし枢軸側は、目標はモロッコ方面だろうと考えていた。

 まずはモロッコの航空戦力を叩き、その後に半ば孤立した形のダカールへと駒を進めると見ていたからだ。

 

 このためフランス、イタリア本土から予備の航空隊がモロッコに派遣されたりもした。

 各国の艦隊も出動態勢を整えた。

 

 しかし連合軍の目標は最初からダカールであり、まずはダカールの航空戦力を徹底的に破壊してきた。

 欧州枢軸側が連合軍のダカール攻撃に気づいたのは、前日の昼の事だった。

 これも大西洋に出撃した連合軍の大艦隊が、モロッコも攻撃できる航路を進んでいることが分かっていたからだった。

 哨戒潜水艦、哨戒機は濃密に展開していたので、流石に急速接近しつつある大艦隊の姿を見逃す事はなかった。

 しかしいきなりダカールという予測が無かった為、枢軸側の対応は後手に回った。

 

 そしてそこから、蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。

 

 だが、ダカールからモロッコまでスペインの植民地を挟んで最短で2000キロも離れているので、もはやモロッコからの増援は間に合わなかった。

 途中に有力な基地も設けられていなかったので、航続距離の短い航空機だと逃げ出すことも難しかった。

 全力で迎撃するしか道はなく、夜を徹して稼働機を増やす努力、地上での迎撃準備が行われた。

 さらに多数の偵察機、夜間も敵に張り付けるようにレーダーを搭載した偵察機も放ったが、ほとんどが連合軍のインターセプターに撃墜された。

 カリブや大西洋の戦いで苦労したアメリカ海軍の空母は、既にレーダー装備の夜間戦闘機まで搭載しており、夜に接触を保とうとした偵察機までが撃墜された。

 

 そして攻撃の夜明けを迎える。

 


 結果を言えば、「ダカール航空戦」は連合軍にとって鎧袖一触だった。

 

 1300機の艦載機のうち、第一次攻撃隊だけで第一波500機、第二波400機の合計900機に達していた。

 しかも各母艦群で一つの集団を作っており、全ての攻撃隊が100機を越える大編隊だった。

 加えて、同時に襲来した。

 

 連合軍の大編隊に対して、枢軸側は各所に配置した偵察機が的確な情報を送っていたが、連合軍の編隊は必ずレーダー搭載の攻撃機を伴っていたので、連合軍が迎撃戦で奇襲を受ける事はなかった。

 

 枢軸側の迎撃機は、スピットファイア、Fw190Aを中心に200機以上が飛び立ったが、連合軍の攻撃隊の半数が戦闘機だった。

 つまり攻撃側の方が戦闘機の数が多かった。

 しかも連合軍の戦闘機は、この時全て新型機に更新されていた。

 

 日本海軍の空母は、本国から送り込まれてきた「烈風」に乗り換えたばかりで、アメリカ海軍も「F6F ヘルキャット」に可能な限り装備し、第一次攻撃隊第一波は「F6F 」で固めていた。

 

 「F6F」はアメリカ的無骨さと堅実さ、そして何より丈夫で非常に高い整備性と稼働率が特徴だった。

 操縦性も良好で、パイロットからの評価はかなり高い。

 性能自体は、2000馬力級戦闘機としては凡庸、悪い評価だと丈夫なだけと言われることがあるが、格闘戦好きの日本軍パイロットが高く評価したほど運動性能も良かった。

 とはいえ、速度性能は降下速度以外見るべきものはなく、欧州枢軸側は格闘性能が日本軍機よりも劣るので、比較的与しやすい相手と見ていた。

 「烈風」との模擬空戦でも、殆どの場合で「F6F 」が敗北していた。

 

 だが、それなりの性能の機体が無数に来ると、それは数の暴力だった。

 操縦性の高さも、実戦経験の少ない大量のパイロットが乗るには非常に向いていた。

 「F6F」は、急激に肥大化したアメリカ海軍が装備するべき戦闘機だった。

 戦闘機隊の切り込み隊こそ日本海軍の「烈風」隊が務めたが、敵の迎撃を封殺したのは多数の「F6F 」の力だった。

 

 枢軸側からの反撃も実施され、護衛を含めて100機近く送り出したが、艦隊前面に展開する300機もの防空戦闘機の前に押しつぶされた。

 誘導爆弾フリッツXや誘導ミサイルを搭載した爆撃機も中隊単位で飛び立ったが、既に連合軍内に情報がまわっていたため、目の敵のように搭載機のほとんどが攻撃前に撃墜された。

 敵艦隊を見ることが出来た機体はごく少数で、攻撃は完全に失敗した。

 防空隊を抜けたのは数十機あったが、到達したのは激しい弾幕射撃を繰り出すようになったアメリカ艦隊の一部で、帰投時に再びインターセプトを受けた事もあってほぼ全滅した。

 目標があまりに大艦隊すぎて、100機程度の攻撃隊では傷一つ付けられなかったのだ。

 なお、この時アメリカ艦隊は、少数だが「VT信管」や「近接信管」と呼ばれる画期的な性能を持つ信管を備えた高角砲で対空射撃を実施している。

 

 以上のような圧倒的な戦力と攻撃だった為、日米合同の空母機動部隊は「デストロイヤー(破壊者)」と呼ばれた。

 欧州枢軸軍は、支援任務の護衛空母1隻をUボートが沈める戦果を挙げたが、これがほぼ唯一の大きな戦果だった。

 

 そして日米合同の機動部隊は、新たな渾名どおりにダカールの軍事施設を一日で機能停止に追い込むほど破壊し尽くした。

 しかも攻撃は一日では終わらず、二日目も一日目と同じように現れた。

 加えて機動部隊自体が陸に近づいたので、攻撃回数が増えた。

 もう枢軸側からの反撃は不可能だった。

 そして連合軍の攻撃は、三日目も変わらず行われた。

 本来二日目あたりで各空母内の弾薬や燃料が無くなるが、洋上補給で追加されており、切れ目無くそして規模もそのままに空爆が続けられた。

 

 さらにその日の夕方には、戦艦 《アイオワ》《ニュージャージ》《アラバマ》《マサチューセッツ》、巡洋戦艦《高雄》《愛宕》の高速戦艦部隊が沖合に姿を見せ、巡洋艦などと共に盛んに艦砲射撃を実施した。

 

 半島の先端部にある市街地は目標から外されたが、街の南東部にある主飛行場(海岸から約6キロ内陸)には海岸にかなり接近した戦艦の艦砲射撃が実施され、空襲で破壊を逃れた施設や機体を破壊し尽くした。

 《アイオワ級》戦艦の放つ巨弾は枢軸側の想定を越えた破壊力を有しており、多くの地下施設、シェルターを完膚無きまでに破壊していた。

 

 この攻撃により、大西洋は南北に完全に分断され、欧州枢軸は南米などを結ぶ航路を完全に閉ざされることになる。

 

 そして攻撃はまだ終わりでは無かった。

 


 11月7日早朝、前日同様の激しい空襲は、今度は海岸部に行われた。

 しかも沖合には昨日とは違うアメリカ海軍の旧式戦艦が多数姿を見せており、さらに無数の揚陸作戦艦艇が犇めいていた。

 

 ダカール攻撃は、単なる大規模空襲ではなく、連合軍による電撃的な強襲上陸作戦だったのだ。

 

 沖合で迅速に展開して上陸してきたのは、ヴァンデクリフト将軍率いるアメリカ海兵隊を束ねた海兵第一遠征軍で、一度に2個師団の海兵師団が強襲上陸作戦を実施した。

 同将軍は、少し前まで海兵第一師団を率いていた海兵隊指揮官の草分けで、昇進の形でこの時も海兵隊を率いていた。

 そしてカリブの時と違い、新兵器としてLST(戦車揚陸艦)と水陸両用装甲車のLVTが投入された。

 ランプウェイを持った各種揚陸艦船も、盛んに揚陸艇や水陸両用戦車を艦尾から吐き出した。

 ランプウェイを設置するのは容易なため、旧式駆逐艦も数多く改装されて一部が作戦に参加していた。

 

 多数の旧式戦艦と巡洋艦が並んで艦砲射撃を行う中での上陸で、上空には艦載機が乱舞していた。

 沿岸砲台、沿岸陣地のほとんどは既に破壊されており、枢軸側に抵抗する術は無かった。

 いつかの火点、砲台が生き残って上陸部隊に砲撃したが、発砲すると沿岸近くまで近づいていた駆逐艦の猛射を浴びて沈黙していった。

 

 なおこの艦砲射撃部隊には、アメリカの旧式戦艦を主力としつつも、フランス救国政府軍の戦艦 《リシュリュー》が参加していた。

 上陸部隊にも、フランス救国政府軍の部隊が含まれており、建前上でフランスを支援する奪回作戦の体裁がとられていた。

 フランス救国軍指揮官のド・ゴール将軍も、《リシュリュー》に座乗していた。

 


 ダカールには、フランス軍、イギリス軍を中心に20万の戦力があったが、今まで拠点だったので後方支援の兵士が多かった。

 地上部隊としては5個師団(約10万)があったが、ほとんどが機動力のない俗に言う「張り付け」部隊ばかりで、草原など乾燥地帯での戦いに向いている機械化部隊は殆ど無かった。

 ダカール辺りからサハラ砂漠が終わって草原地帯となるので、ダカール周辺には乾燥に強い落花生などのプランテーションが広がり、フランス軍の植民地警備隊も以前から駐留していた。

 

 また、ダカールから南部のサンルイには、西アフリカでは珍しく鉄道もあった。

 奥地に向けての道路網もそれなりに整備されていた。

 全てはフランスによる植民地経営のためのものだったが、軍事的にもそれなりに使う事ができた。

 とはいえ、戦略的にダカール以外に守る場所もないので、兵力はダカールに集中されていた。

 敵を海岸に追い落とすための戦力も戦車連隊と自動車化連隊などによる機動旅団が、少し奥地に展開していた。

 しかし欧州枢軸陣営は、空軍戦力の増援を優先して陸軍を後回しにしたので、地上部隊は十分ではなかった。

 空軍を優先するのは正しいが、この点を後世非難する事もある。

 最初から長期のゲリラ戦や遊撃戦に備えた部隊を送り込み、連合軍を苦しめるべきだったという仮説だ。

 もっとも森林や山岳部など遊撃戦のため隠れられる場所は限られているので、後世の批判は机上の空論とも言えるだろう。

 


 駐留部隊のうち砲兵部隊は豊富だったが、ほとんどが沿岸砲兵と高射砲兵だった。

 しかもこれらの砲のほとんどが、爆撃と艦砲射撃で破壊されていた。

 長らく拠点として利用されていたが、最前線では無かったので要塞化やトーチカ工事が遅れ、さらにカリブでの戦いから連合軍の侵攻が早すぎて、急造の要塞化工事も間に合わなかった。

 

 対する連合軍の侵攻部隊は、アメリカ海兵第1師団、アメリカ海兵第2師団を中核とする海兵第1遠征軍5万を第一波上陸部隊として、アメリカ第1師団など3個師団が続いた。

 兵士の数ではダカールの枢軸側が勝っていたが、沿岸砲兵、高射砲部隊は既に壊滅状態で、沿岸陣地も限られた場所にしかないうえに既に多くが破壊され、制海権、制空権のない状態では、その差は圧倒的に連合軍が優位だった。

 しかも連合軍は、陸軍師団の全てが機械化部隊で、海兵隊までが戦車部隊など多数の戦車、車両を有していた。

 

 しかも数の上で主力となる現地フランス軍は、あまり戦意は高くなかった。

 一部に士気の高い部隊もあったが全般としては士気は低く、連合軍の圧倒的な攻撃が始まるとその士気はどんどん低下していった。

 このため連合軍の上陸作戦はほとんど支障無く進められ、その日の内に海兵隊は十分な橋頭堡を確保し、前倒しで陸軍部隊の上陸までが開始された。

 

 その後も、連合軍の進行スケジュールは前倒しが続けられ、2日目には海岸から6キロほど離れていた飛行場も占領し、早くも3日目にはフランス軍の半数程度が降伏していた。

 ダカールは沿岸部に位置する砂漠の都市のため、都市部や沿岸部から離れると人の生存が難しく逃げ場がないので、枢軸側としては降伏以外の選択肢が無かった。

 しかも連合軍が機械化力を駆使して機動戦、電撃戦を仕掛けて突破、包囲を容易く行うので、抵抗する余裕すら無かった。

 


 ダカールでの戦いは、連合軍の上陸開始から5日目で実質的に決着がついた。

 

 その後も続々と連合軍の後続部隊が上陸したが、多くが工兵部隊と後方支援を担当する部隊だった。

 大量の土木作業機械と共に上陸した工兵たちは、飛行場の復旧と拡張、港湾部の整備と忙しく、後方支援部隊もダカールを連合軍が次に進むための拠点とする作業に忙殺される事となる。

 

 枢軸側は、モロッコ南西部から爆撃機を飛び立たせ、潜水艦多数を用いた戦いを仕掛けたが、ほぼ完全に連合軍が重厚に展開する大艦隊によって阻止された。

 この作戦だけで10隻以上の潜水艦が犠牲となり、モロッコに駐留する仏伊空軍の遠距離進出ができる爆撃機部隊は、一時的に再起不能になるまで戦力を消耗した。

 

 これでアジアから進む連合軍より少し早く、大西洋方面の連合軍はアフリカに強固な橋頭堡を築けたことになる。

 

 そして彼らの次の目標は、ヨーロッパの玄関口ジブラルタルだった。


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