フェイズ35「WW2(29)中東での戦い」-2
中東に姿を見せた重戦車は、ドイツ軍が「VI号重戦車」通称「ティーゲル」。
重量57トン、56口径88mm戦車砲を持ち、最大装甲100mmを誇る。
そして全身を重装甲で鎧った、実にドイツらしい形状の重戦車だった。
戦後、ドイツ軍戦車と言えばこの戦車がイメージされるというほど有名となった戦車だ。
日本軍は、従来の「九九式重戦車改 ジヘ」ではなく、こちらも新型の「三式重戦車 ジヲ」だった。
「ジヲ」は、日本の三菱と陸軍大阪工廠が総力を傾けて開発した、「九九式重戦車 ジヘ」の正統な後継者だった(※次期中戦車の開発を、41年頃から半ば脇に置いて開発されたとすら言われる。)。
パッと見た印象は、傾斜した重装甲と巨大な大砲を載せた、ドイツ軍の「ティーゲル」よりも先進的な姿を持った重戦車だった。
印象は当時のソ連軍戦車に近い。
前線でも「大きなT-34」などと呼ばれたりもしたし、ソ連軍の次の重戦車(「IS-2型」)にも少し似ていた。
重量は丁度50トンとライバルより少し軽いが、車体前面(上部)は大きく傾斜(45度)した90mmの一枚装甲を持ち、瞬間的な装甲のたわみも計算において高い防御力が発揮できた。
出来る限り小さくまとめられた砲塔前面は、最大で120mmあった。
砲塔前側面も傾斜して90mmあった。
車体の他の装甲も可能な限り傾斜装甲が取り入れられており、斜面だらけだった。
ただし完全な鋳造砲塔は、日本の冶金技術の未熟から構想段階で採用されず、砲塔の一部に止まっている。
また後部、下面などの優先順位の低い箇所の装甲はかなり削られているので、それを弱点とする向きもある。
車高はそれほど高くないが、印象としては平たく大きかった。
本来なら出来る限り小さくまとめるべきだが、技術の未熟もあって大きめにならざるを得なかった。
それでもドイツ軍のV号戦車、VII号戦車の車体より小さい。
そして巨大な車体の後方の少し盛り上がった中に、航空機エンジンをデチューンしたものを搭載し、最大で600馬力が発揮できた。
エンジンは、当初アメリカとの共同開発で液冷ディーゼルエンジンを搭載しようとしたが、短期間では所定の出力のものが開発できないため、次善の策として航空機エンジンの改造型が採用された。
それでも初期型は600馬力と不足気味だったが、約1年後に登場した改良型は機械式過給器付きで700馬力となり、ようやく目標性能に達した。
そして巨大な砲を支えるジャイロ・スタビライザーもアメリカ製で、そればかりかトランスミッションもアメリカのパテントを購入して改良を加えた上で搭載していた。
足回りは、開発当初はT-34同様のクリスティー式と呼ばれる型式を取り入れようとしたが、クリスティー式は重戦車にはあまり向かない事と、短期間での技術習得が出来なかったため、従来のものを部品レベルから大幅に強化した上で使用した。
部品にはアメリカ製の部品も多用されたが、それでも足回りには若干の不安を抱えていた。
以上のように、見た目はロシア(ソ連のT-34)のデザインラインを大幅にとり入れた中に日本の型式が見える姿だったが、中身は事実上準アメリカ製だった。
M2重機関銃や無線機も実質的にはアメリカ製で、中に乗ったアメリカ兵が自国製と間違えたと言われたほどだった。
だがそれだけに機械的信頼性は高く、当時の日本の大型戦車としては破格の性能を持っていた。
同車両がこれほどの性能を持ち、そしてアメリカから最新技術すら取り入れる事が出来たのは、日本だけでなくアメリカの事情も関わっていた。
と言うのもアメリカの上層部は、戦車は「M4」以上は不要だと強く考えており、重戦車などという量産効率、輸送効率が悪く運用コストのかかる装備は不要だと考えていた。
ドイツの戦車を見くびっていたのと、空襲で対応すれば良いと合理的に考えていたからだ。
だが、戦場では何が起こるか分からない。
弱い戦車では、戦車兵の士気にも関わる。
加えて、ロシア戦線からも刻々と凄まじい戦いの様子も伝えられていた。
日本陸軍などは、満州帝国軍に自国の試作兵器をどんどん送り込んで、何が正しいのかの実戦試験を繰り返していた。
このためアメリカでも、重戦車を何とか確保したいと考えた末に、重戦車運用の経験も豊富な日本の話しに乗ることにしたのだ。
このため三菱は「九九式重戦車」を製造していた専用工場をさらに強化した上でライン変更して、1943年夏に「三式重戦車 ジヲ」の本格的量産を開始した。
3月に量産は開始されたが、九九式の工場で生産したため効率が悪かった。
専用工場でも最初は月産50両程度だった。
だが最盛期には150両近くに達し、44年秋にはさらに別の工場での量産も開始された。
そして「心ある」アメリカ人達の思惑どおり、日本からアメリカに一部(30%程度)が供与された。
もっとも、車内は見た目以上に狭いため(※中も斜面だらけなので余計に狭く感じる)、アメリカ陸軍では同戦車に配属される兵は小柄な者が選抜され、日系兵が乗って話題になったりもした。
なお、同車両の設計及び開発は難航し、極めて短期間の間に同時に3つの試作車両を開発した上で新たに設計された。
そして問題点を実地で洗い出すため、3種類もの試製二式重戦車があった。
さらに実験を兼ねて改良型まで作られたり、一部は実戦試験にまで投入された。
このため、日本陸軍が取りあえず名称を与えただけの試作車両がこの時期に幾つも並び、同車両は日本の重戦車としては12番目の車両(各種試作、試作の改良型含む)となった。
ちなみに、「ジヲ」という名は開発コードのようなもので、最初のカタカナはチ=中戦車、ジ=重戦車など種類を現し、後ろの文字は「イロハ」の文字順で開発順を現す。
つまり、重戦車=ジと「イロハニホヘトチリヌルヲ」の「ヲ」を合わせた言葉が「ジヲ」になる。
だが、紹介されたり供与を受けたアメリカ兵や敵となった枢軸兵は、欧米向けの名だと考えて地球や大地を意味する言葉だと勘違いした。
このため「Type3」よりも「Geo」の方が有名となった(本来ならJiwoとでも呼ぶべき)。
話しが長くなったが、ドイツ軍の重戦車が火力は若干上だが、総合性能は日本の重戦車の方が勝っていた。
ドイツ軍は「ジヲ」を「V号」と「VI号」の中間ぐらいの能力、性能と判定していたので、これが分かりやすい評価だろう。
加えて「ジヲ」の方が価格は「VI号」より安く、運用効率も重戦車としてはかなり高かった。
少なくとも、専門の戦車兵と整備兵による特別部隊を作らずに済んでいる。
そして「ジヲ」は、エンジンを換装したように改良を受け入れる発達余裕が持たされており、戦争中にも進化を遂げていくことになる。
主砲も、タングステンをふんだんにつかった徹甲弾が開発された。
主力戦車の先駆けと言われることもあるが、流石にこの称号は過剰な評価と言えるだろう。
「ジヲ」は、あくまでバランスの採れた重戦車だった。
肝心の戦車戦だが、最初は「VI号」を前面に立てて強引に突破しようとした枢軸側を、「九七式改中戦車」部隊の第一線が一瞬で突破された事で焦った日本軍が、虎の子の「ジヲ」重戦車中隊を投入する形で起きた。
そして突破戦闘と防御戦に長けると言われる重戦車同士の戦いは、ほぼ互角だった。
日本側が防御陣地をある程度用意していたことで、日本側の不利も無かった。
この結果に対して日本軍は自信を深め、ドイツ軍は焦りを持った。
というのも、ドイツ軍は異常なほど「VI号」に大きな自信を持っており、さらに「劣等人種」が作った「ブリキの玩具」に負けるわけがない、と一方的に考えていたからだ。
実際「九七式改」や「M4」に対して、「VI号重戦車」は圧倒的だった(※連合軍戦車は「IV号戦車」にも負けたが。)。
だが「ジヲ」は違っていた。
機動性、安定性など多くの点で「ジヲ」の方が勝っていた。
装甲も可能な限り傾斜している上に、戦艦など海軍の装甲技術を使った強固で分厚い鋼板なので、防御力も非常に高かった。
主砲の威力は「VI号」の方が若干上だが、相手の装甲と機動性を考えると誤差範囲内だった。
何より「VI号」は「ジヲ」をアウトレンジ攻撃できず、同じ距離だと正面から撃破される可能性もあり、実際何両も正面から撃破された。
距離が詰まれば相手の「ジヲ」も同様に撃破できたが、機動性では「ジヲ」が勝るため「VI号」の方が不利を強いられた。
そしてこの時のドイツ軍としては突破戦闘全体で損害を受けすぎており、相手が抵抗力を失っていなかったので引き下がるより他無かった。
つまり「VI号重戦車」を装備した重戦車大隊が、実質的に敗北したということだ。
しかも撃破車両、遺棄車両が何両も連合軍に捕獲されており、この時点で多くの情報が連合軍に知られてしまうこととなった。
とはいえ、「VI号」と「ジヲ」がこれほど正面から戦うことは極めて珍しかった。
このため両軍からそれぞれ恐れられ、互いに無敵の重戦車としての名声を獲得していく事になる。
虎の子の重戦車大隊を投入してもラチが明かないと分かると、枢軸軍はバスラ及び後方のバグダッドに戦力を集めて、連合軍の攻勢に対抗する向きを強めざるを得なかった。
そして年内は、双方戦力と物資の備蓄に務めるのだが、輸送の戦いとなると連合軍が圧倒的に優位だった。
欧州枢軸側に海路で至る連合軍の船舶を有効に攻撃する手段がないのに対して、連合軍の重爆撃機は爆弾か機雷を地中海側港に手当たり次第落として廻ったからだ。
そして枢軸側は、航空撃滅戦で大きな劣勢に追いやられているため、空の戦いで建て直しがきかなかった。
航空機だけなら自力でヨーロッパから中東まで来ることも可能だが、現地に燃料と弾薬、予備パーツがなければ話しにならなかった。
飛行機の数だけ自力で送り込んでも、飛行場で的になりにくるようなものだった。
これは連合軍がかなり遠隔地まで爆撃することで拍車がかかり、中東に至るまでの中継飛行場が何度も爆撃されて、枢軸側は後方でも大損害を受けている。
そして空での戦いで敗れ、補給の戦いでも破れたので、補給と補充が不可欠だった陸軍部隊の増強も叶わなかった。
明けて1944年、中東での連合軍の優位は圧倒的となりつつあった。
空でも陸でも、インドから転進してきた大部隊が活動しており、戦力差は比較にもならなかった。
しかも連合軍は、補給面でも十分な支援体制も整えていた。
対して枢軸側は、ただでさえ連合軍の戦略爆撃で前線への戦力と物資の投入が難しいのに、そもそも大規模な増援を送ることが難しかった。
ドイツ軍は、象徴的な部隊以外をロシア戦線に注ぎ込んでいるので、まわしたくても戦力が無かった。
イタリア軍は、数はそれなりに残っているが、陸軍主力は既にロシア南部で壊滅的打撃を受けており、イタリアの国力では回復が難しい状態だった。
イタリア軍に関しては、空軍部隊も他国からの支援がなければ既に立ち行かない状態だった。
これはイタリアの国力と基礎的な工業生産力(技術力ではない)の問題であり、当時のイタリアでは総力戦が難しいことを示している。
フランス軍は、中東の一部が自分たちの植民地なので、警備部隊程度は最初から置いていた。
だが、1943年後半からは、中東よりもモロッコなど北アフリカ西部の防備を固めることが枢軸内で決められているので、警備部隊以上は中東に置いていなかった。
最初から中東を守っているイギリスは、自分たちの利権(特に油田)が数多くある事から防衛にも力を入れていた。
当初の兵力は、治安維持以外だと航路防衛用ぐらいだが、連合軍の脅威が増すと陸軍、空軍を増強した。
海軍は航路を行き来する部隊が数多くあったが、連合軍との熾烈な戦いで徐々にすり減っていった。
特に海上護衛、船団護衛は、一部のイタリア海軍部隊以外は全くアテにならないので、イギリスが行うしかなかった。
そこに日本海軍を中心とした連合軍が、潜水艦だけでなく水上艦隊、航空機をインド洋に繰り出して徹底的に攻撃してきた。
このため1942年春から約一年間の間に、インド洋で民間船舶400万トン(※排水量7000トンの戦標船で換算すると約570隻)と共に多くの護衛艦艇が失われた。
なけなしの護衛空母、旧式軽巡洋艦、各種駆逐艦、護衛艦など100隻以上に及んでいる。
このため連合軍がアラビア半島に進んでくる頃には、船舶も護衛艦艇もインド洋地域で枯渇しかかっている状態だった。
そしてアラビア半島での戦いが始まった初期は、イギリス本国軍が枢軸側の主力として連合軍の矢面に立ち、そして消耗戦の中で壊滅してしまった。
イギリス本国からは、継続的に補給と増援が送り込まれていたが、日々の消耗を前にしては逐次投入の悪循環だった。
ペルシャ経由で陸路撤退してきた兵力の戦力回復すら、十分には行えない状態だった。
しかもイギリスは、大西洋方面でも主な役割を果たさなければならないため、国としても兵力分散を余儀なくされていた。
結果として、イラクを中心にして展開する枢軸軍は、地上兵力は30万以上と多いが、ドイツ、イギリスの一部精鋭部隊以外はアテにならない戦力だった。
特に砂漠や乾いた平原での戦いなので、機動力のない戦力は足止めにもならなかった。
航空隊はまだ300機程度が維持されていたが、43年8月からの航空撃滅戦の前に消耗を続けており、ヨーロッパから幾ら兵力を投入しても消耗に追いつかず増えることがなかった。
しかも前線のパイロットは、交代できないので日々の戦いで欠けていき、質の面でも戦力は日々下がっていった。
ロシア戦線は極寒地獄だが、中東戦線は灼熱地獄などとも言われた。
対する連合軍は、1944年1月には山下大将、アイゼンハワー大将双方がアラビア半島に直接乗り込んでくるほどに戦力を増強させていた。
戦力規模は既に軍集団単位で、しかも1個軍以上の戦車または機械化師団が地上戦力の中核を占めていた。
航空隊は2個航空艦隊規模となり、常に1000機以上の稼働機を抱えて枢軸軍に猛烈な航空撃滅戦を仕掛けていた。
パットン将軍などは、一日も早い進軍命令を催促していた。
中東での戦力の質、量共に連合軍が圧倒するようになっていた。
あとは、連合軍がいつ本格的攻勢を開始して、中東全域から枢軸陣営を追い出すかだった。
そうした中で、ドイツではロンメル将軍が酷暑と過労で倒れて本国へと帰国。
その間隙を突くように、連合軍の大攻勢が開始される。
クウェートに陣取った連合軍は、パットン将軍を「中東特別機甲軍」の指揮官として、バスラを包囲する部隊と一気にバグダッドを突く部隊に分かれ、一種の二重包囲を企図した大機動戦を仕掛けた。
パットン将軍は、当然とばかりにバグダッド進軍の部隊と共に進んでいった。
バスラ包囲の指揮は、中華戦線から移動してきたばかりの岡村将軍が行った。
(※インド作戦を指揮した梅津将軍は、インド占領統治のために残留せざるを得なかった。
田中将軍は、ペルシャ方面に進んだ歩兵部隊中心の指揮をしていた。)
直接参加した兵力は、おおよそ60万。
車両7万両以上、戦車4000両で大機動を実施し、これを約2000機の航空機が支援した。
これほどの規模の機動戦は、数百万の兵士が犇めくロシア戦線でも滅多に見られないものだった。
この戦闘を戦史では「バグダッド大突破」と呼ぶ。
もはや戦闘ではなく、バスラを包囲した部隊の一部はそのまま東に転じてペルシャ方面に向けて進撃し、タイミングを合わせて空挺降下した部隊と共にアバダン油田地帯を一気に占領した。
アバダン油田の施設のかなりが現地イギリス軍により破壊されていたが、枢軸側が最後まで石油輸送を行っていた為、施設を破壊しきることは出来なかった。
連合軍が大規模な空挺作戦を展開した事も、油田の破壊阻止に大きく影響した。
バグダッド方面に進んだ連合軍は、バスラ方面から後退する枢軸側の機械化部隊との競争になった。
各所で小規模、中規模の遭遇戦が発生したが、圧倒的制空権を実現していた連合軍が戦闘全般を優位に運んだ。
局所的にドイツ軍戦車隊に連合軍部隊が敗北する場面もあったが、そのドイツ軍戦車隊も連合軍の爆撃で多くが吹き飛ばされていった。
砂漠や平原では、一度遮蔽陣地を離れてしまうと隠れる場所に乏しく、自らがたてる砂煙ぐらいしか隠れる場所がないので、逃げる枢軸軍部隊は航空隊にとっていいカモだった。
こうした戦場では、軽量の75mm砲と12.7mm機銃を積めるだけ積んだ「B-25リベレーター」、「A-20 ハボック」などの襲撃機型が活躍した。
またこの戦場には「A-26 インベーダー」の飛行隊が初めて戦場に姿を見せて、この時の地上襲撃でその威力を示している。
この「A-26」は日本陸軍が非常に気に入って、熱心に貸与だけでなく購入すら求めたため、製造元のダグラス社は生産ラインを増やして増産に務めることとなった。
なお日本陸軍では、猛烈な搭載火砲から「炎龍」と呼ばれた。
そうして圧倒的機動力と制空権の力により、中東での戦いは連合軍の一方的展開となった。
バグダッドもほとんど無血開城で、枢軸軍は遅滞防御戦をしつつ奥地のキルクークに逃れるのがやっとだった。
一部は包囲を逃れるためペルシャ領内の山岳地帯へと逃れたが、ほとんどは連合軍に捕捉されて降伏している。
イラク方面での戦いでは、約10万の枢軸軍が包囲されて降伏しており、中東での枢軸軍の戦線は完全に崩壊する。
後は、連合軍の残敵掃討と占領のための電撃的な進撃が続いただけだった。
枢軸側は、嫌がらせや後退の時間を稼ぐための戦闘を行う以外はほとんど何も出来なかった。
そうして稼がれた時間で、枢軸軍は近東のベイルートかスエズ方面を目指して後退していった。
その後退の中でも、徒歩や移動力に劣る場合は連合軍に追いつかれて殲滅か降伏を余儀なくされ、最終的に地中海から海路逃れるか北アフリカ(エジプト)に後退した枢軸軍は7万人ほどだった。
連合軍もバクダッドからは鉄道を利用できないが、大量の車両を持ち込んでいたので機動性が枢軸軍とは段違いだった。
連合軍の最大の敵は中東の厳しい自然と距離そのものであり、主に地理に明るい自由イギリス軍、自由フランス軍の先導のもと、日本軍とアメリカ軍、自由イギリス軍から編成された100万を越えた連合軍は、スエズ運河と地中海へと続々と達することとなる。
また、侵攻に際しては、工作員達が事前に中東の現地アラブ勢力の協力も仰いだ。
なお、このアラブ勢力への協力では、面白い交換条件が少し後に実施されている。
それはメッカ巡礼の支援と援助で、現地住民の慰撫工作として実施されたが予想以上に好意的に迎え入れられた為、その後中東だけでなく連合軍勢力下の全てのイスラム教徒に対して実施され、連合軍への支持取り付けに大きく貢献する事となる。
インドでのイスラム教徒対策が多少なりともうまくいった理由の一つとして、間違いなくメッカ巡礼支援があった。
イスラム教での最大級の表現でもある「イスラムの友」という言葉すら使われたほどだった。
イスラム教徒にとってのメッカ巡礼は、生涯に一度は行うべき信仰の形だが、当時の交通事情から非常に難しかったのだ。
かくして、日本とアメリカ、いやアメリカは、既に莫大な埋蔵量を誇ると予測されていた中東の石油を実質的に牛耳ることに成功した。
分け前は、元から利権を持っているイギリスをはじめとした連合軍各国で分けることになるが、国力、戦争貢献度、何より資本力と技術力においてアメリカが手にしたも同然だった。
日本は、当座の石油も欲しかったことから、半ばついでのように倒されたパーレビー王朝(※イギリス本国政府が戦争中に作った傀儡の王朝)があったイランの利権を主に獲得した。
これは、その後のイランが日本の指導の元でイラン流と言われる、トルコに似た民主共和制を目指す始まりでもあった。
なお、中東の話しには政治的に難しい問題が一つ起きていた。
言わずと知れた「ユダヤ問題」だ。
近東の地中海沿岸に位置するパレスチナと呼ばれる地域は、西暦が始まる以前の時代にユダヤ人による王国があったとされる。
だが、西暦に入ってローマ帝国によってユダヤ人は追放され、ユダヤ人達が住んでいた場所からユダヤの名が消された。
そしてユダヤ人は、ヨーロッパ世界を中心に世界中に離散し、故郷無き民となった。
時を経て第一次世界大戦において、イギリス帝国は富裕層の多いユダヤ人から戦争協力を得るため、ユダヤ人国家への支持を約束した。
この結果シオンの大地となるパレスチナ地域に、自主的にユダヤ人が集まり始める。
ロシア革命の時期にも、虐殺を恐れた多数のロシア系ユダヤ人がパレスチナへと逃れた事もあり、現地のユダヤ人の数は大きく増えた。
しかしイギリスの二枚舌、三枚舌の外交の影響もあってユダヤの国が作られることはなく、ユダヤ問題だけがくすぶった状態で経過していく事になる。
しかし1940年7月に事態が加速する。
パレスチナを委任統治していたイギリスが、ユダヤ人排斥を掲げるナチス・ドイツの軍門に降ったからだ。
そしてイギリスで王位に返り咲いたエドワード八世は、ナチスの政策を支持した。
首相のハリファックスも、ドイツへの追従外交を行った。
イギリス本土の国民も、ヨーロッパ標準のユダヤ嫌いから国の政策を相応に支持した。
そして順当に行けば、パレスチナからユダヤ人は再び追放された可能性が高かった。
実際イギリス本国政府は、すぐにもパレスチナのユダヤ人追放を計画した。
もっともドイツ政府が求めたのは、パレスチナのユダヤ人の強制収容所への収監や他地域への追放ではなかった。
ナチスドイツが求めたのは、ヨーロッパ中のユダヤ人をパレスチナに「追放」してパレスチナ自体をユダヤ人の管理地区という名の「隔離地区」にする事だった。
こうして1940年冬頃から、ヨーロッパ各地の収容所にいたユダヤ人が、続々とパレスチナ地方に送り込まれることになる。
ここで特に問題となるのは、現地パレスチナ住民が住んでいることだが、ナチスドイツとイギリス本国は武力を用いて邪魔なパレスチナ人を追い出して、ユダヤ人の居住地区を設定していった。
このパレスチナ人追放ではかなり酷い虐殺も行われ、連合軍の進撃後に暴露されて戦後にも尾を引く問題となったほどだった。
最も酷い事例だと、隔離地区には住民は「居なかった事」として虐殺され、その後無人となった地域にユダヤ人が送り込まれている。
なお、ドイツの一般親衛隊の一部とイギリス本国のナチスシンパの有志が主に事態を進めたため、パレスチナはユダヤ人にとって過酷な環境だった。
現地は水資源が少なく、灌漑をしなければ農業は難しく、住む場所もほとんどないので、収容所をヨーロッパからパレスチナに移したような状態でしかなかった。
しかしイギリス本国政府は「保険」もかけており、世界中からのパレスチナへの支援や援助を受け入れていた。
これに、主にアメリカのユダヤ人、ユダヤ団体が第三国経由で支援や援助を実施した。
またイギリス本国政府も、目立たない程度で支援を行った。
また、ヨーロッパ中のユダヤ人をパレスチナに送るというのは、半ばプロパガンダだった。
戦争遂行中のドイツにとってユダヤ人は労働力として必要なため、労働力になる健康な男性を中心にしてヨーロッパ各地(の工場の側の収容所)に留め置かれ、パレスチナには主に老人、子供、病人が多く送り込まれた。
この事もパレスチナでのユダヤ人の苦難を増す事になる。
この点において、ドイツの戦時生産を主導したシュペーア軍需相が、連合軍から第一級の戦争犯罪人とされている。
そして数年後、100万近いユダヤ人で溢れたパレスチナ地方は、1944年1月末頃に連合軍の占領下となった。
連合軍に追われた枢軸軍が姿を消すと同時に、ナチスの一般親衛隊も雲を霞と逃げ散ってしまい、過酷な環境に喘ぐユダヤ人だけが残されていた。
戦後の一部プロパガンダと違い、一般親衛隊は虐殺してから去ったりはしなかった。
虐殺に必要な弾薬や銃弾、毒ガスを持ち合わせていなかったからだ。
ただし一部のユダヤ人を、様々な目的のために連れ去ってはいた。
また食糧供給を止めたので、飢餓が広がって多くの犠牲者が出たのも事実だ。
パレスチナに進軍した連合軍は、事情はある程度知っていたので、ただちにユダヤ人の支援と救援を開始する。
しかし直接行ったのは日本軍で、アメリカ軍は間接的な支援しかしなかった。
救援の資金と物資のほぼ全てをアメリカが出したが、ユダヤ問題はアメリカ国内でも人種差別に関わるデリケートな問題のため、アメリカ人が直接関わる事が当初は避けられたからだ。
その後、ユダヤ問題がナチスドイツの非道を象徴する事件の一つとして扱われて事態は一変するが、初期の段階でパレスチナのユダヤ人を献身的に助ける日本兵の姿は世界中に拡散し、ドイツ宣伝省は劣等人種同士の傷の舐め合いと酷評し、少し後の連合軍各国ではいち早く行動に出た日本兵が賞賛されることになる。
そしてアラブへの慰撫工作を含めて、戦後の日本は手探り状態のまま中東に深く関わらざるを得なくなっていく。
そうしたパレスチナでの情景が、中東での最後のシーンだった。
中東での戦いは終わり、連合軍の前には地中海の青い海が広がっていた。
ヨーロッパは目の前だった。