フェイズ35「WW2(29)中東での戦い」-1
1943年9月半ばから、ペルシャ湾内での航空撃滅戦が開始された。
連合軍ではインド洋での海軍の大規模な出番はなくなったので、任務を終えた日本海軍を中心とする連合軍海軍の主力部隊は、一路進路を日本本土にとった。
次の戦場へ向かうため、オーバーホールと可能な限りの改装を施すためだ。
特に開戦以来連戦続きだった《赤城》以下の主力空母群は、戦争を戦い抜くためにカタパルト設置を含めた実質的な近代改装を予定していた。
また艦艇の中には、今までの無理が祟って痛んでいる艦もあるので、この大戦を何とか乗り切るための修理や補強、実質的な改装が計画されていた。
そして主力部隊の過半は、来年には大西洋に進出する予定だった。
海軍にとっての戦争は、完全に次のステージへと移りつつあった。
加えて、長い間祖国から遠く離れていた将兵達に、少しばかりの休養を与えて心機一転させる目的もあった。
日本人にとって、世界を舞台にした大戦争は心の負担も小さくなかった。
またインドでの戦いが終わったので、インドにあった航空戦力は続々と中東へと進みつつあった。
さらに言えば、中華での戦いも9月8日に終わったので、三ヶ月もすれば日本本土などで再編成された大量の航空戦力も、他方面、おそらくは中東へ注ぎ込まれる予定だった。
このためアジア方面の連合軍としては、最低でも一ヶ月、できれば年内は地固めに使って、それから満を持して攻撃する手もあった。
だが事は航空撃滅戦であり、相手に休息と回復する時間を与えてはいけないものだった。
このためアラビア半島に進んだ連合軍は、インドからの増援を随時受け取りつつ連合軍との航空撃滅戦を展開した。
ペルシャ湾での航空撃滅戦の焦点は、ダンマームに開設されていた飛行場だった。
欧州枢軸軍の航空機は、特にドイツ軍が航続距離に難点があるため、バスラからドバイやアブダビを攻撃することは難しかった。
問題は爆撃機ではなく、戦闘機が随伴できないからだ。
それでも爆撃機のみによる空爆が行われたが、昼間の強襲では散々な結果に終わった。
夜間爆撃も、日本陸軍が投入したばかりの夜間戦闘機「屠龍」に追い回されるだけに終わった。
昼間の爆撃では、ドイツ空軍は世界初の誘導爆弾を搭載した「Do217」爆撃機を数機投入したが、投下前もしくは投下途中に戦闘機の邀撃を受けて全て撃墜されて戦果を記録しなかった。
このため連合軍は、この時はまだ「おかしな動きをする爆撃機がいる」という程度にしか思わなかった。
また枢軸側の爆撃は、ホルムズ海峡を通過する船にも向けられたが、護衛のない爆撃機は戦闘機のカモでしかなかったが、連合軍の物資輸送の効率を落とすなどの目的のため行われた。
また、空中投下できるパラシュートを付けた機雷も若干数投下されたりもした。
このため連合軍では、掃海任務に力を入れるようになっている。
そしてダンマームだが、9月の時点では枢軸側の拠点だった。
ドバイなどへの増援が間に合わなかった機体も進出したため、当初から100機以上の機体が駐留し、早くは連合軍がドバイなどを攻撃している時から前線基地として使用された。
だが、同基地は基本的に中継飛行場だったので、燃料、弾薬の不足ばかりか基地施設も不十分だった。
レーダーは移動式のものが持ち込まれたが、施設が必要な航空管制は無理だった。
対する連合軍も、当初はドバイなどの占領のためダンマームへの攻撃は行わず、9月半ばの時点でもマスカットを拠点とした中型爆撃機が偵察や小規模な爆撃をするぐらいだった。
だがドバイ、アブダビの飛行場が本格的に稼働状態に入ると、その威力が発揮されるようになる。
しかも9月下旬には、インドから大規模な増援部隊が到着したため、アラビア半島北東部に展開する連合軍機は、すでに300機を越えていた。
しかも、補充を抜きにして毎月100機以上の投入が予定されており、来年になれば1個航空艦隊(1000機)規模の部隊が新鋭機に機体更新した上で到着する予定だった。
さらに言ってしまえば、8月初旬にインド、9月初旬に中華というアジアでの二大戦線に決着がついたので、日本陸海軍航空隊、アメリカ陸軍統合アジア航空軍、英連邦自由政府空軍・アジア航空軍のほぼ全てが自由に使えるようになったことになる。
これらを合計すると6個航空艦隊(=航空軍)以上の戦力になり、さらに日本海軍が誇る当時世界最強だった空母機動部隊まで加えることも可能だった。
この戦力は、当時の欧州枢軸の空軍戦力全体に匹敵するほどで、生産力、工業力、そして動員能力の差が如実に出始めていた事を示していた。
連合軍空軍のアジアでの動きを枢軸側も掴んでいたので、とにかく目の前の敵を消耗させて戦力を減らしておかねばならないと考えた。
また枢軸側も、中東戦線というよりペルシャのアバダン油田の重要性をこれ以上ないぐらいに理解していたので、可能な限り増援部隊を送り込んだ。
これはロシア戦線に向かう予定だった部隊も含まれており、ドイツ空軍はヒトラー総統の命令により年内に第3航空艦隊を全て中東に送り込むことを決定したほどだった。
またイタリア空軍も、主力を中東に派遣する事を決めた。
しかしイギリス空軍、フランス空軍は、大きく変化した大西洋戦線での戦力建て直しのため、中東ではなく大西洋方面に戦力を注ぎ込まねばならず、空軍戦力はドイツとイギリス、イタリアの合同軍に任される事となった。
現地空軍の総司令官には、ドイツ側のごり押しもあって第3航空艦隊の指揮官でもあるケッセルリンク将軍が就いた。
ペルシャ湾での航空撃滅戦は、まずは枢軸側が有する中部のダンマーム近辺で激化した。
枢軸側が当初構想していたような、ドバイなどへの攻撃はほとんど行うことは出来ず、枢軸側は防戦一方だった。
そして最初から日米合同で大戦力を投じた連合軍に対して、枢軸側は逐次投入となった。
最初の主力は従来から兵力を展開しているイギリス空軍だったが、現地部隊は一週間も経たずに壊滅的打撃を受けてしまう。
そしてそこからは逐次投入に陥り、また飛行場が頻繁にダメージを受けるため運用効率が落ちて、さらに飛行場への補給も激しく妨害されるため物資不足に陥った。
兵器や物資の輸送は船と陸路の双方で行われたが、船は一度に運べるが攻撃を受けると一度に失われ、さらに船がすぐに無くなったので、10月に入ると砂漠を横断する陸路が主軸になった。
そして陸路はトラックを使うしかないが、本来なら陸軍部隊の輸送や補給に使うトラックが、この輸送で疲弊し、そして連合軍の空襲で激減していった。
10月半ばには、ドイツ空軍、イタリア空軍が防衛を担当してイギリス空軍は戦力建て直しのため一旦後方に下がったが、枢軸側が戦況を立て直すことは出来なかった。
連合軍は二週間ごとに大隊規模の増援部隊が到着しており、前線部隊も二週間で交代して新規が前線に出てくるため、戦力が増えることはあっても減ることがなかった。
しかも、現地枢軸軍を常に圧倒する戦力を投入していた。
そして砂漠の砂そのものと洋上での戦闘と沿岸部の基地での塩害は、機体の消耗に拍車をかけるが、機械的に液冷機の方が不利だった。
枢軸軍では軍馬とも言われた「Fw190A」が流石の稼働率と高性能を見せて気を吐いたが、連合軍は「烈風」、「隼III型」、「飛燕II型」、「P-51C マスタング」、「P-38ライトニング」、「F4U コルセア」、そして「P-47 サンダーボルト」と、次々に新型機を投入した。
マーリンエンジンのアメリカ生産型であるパッカードエンジンに換装した「P-51C マスタング」は見違えるような高性能を発揮し、「飛燕II型」を上回った。
「隼III型」は「隼」の最終生産型で、エンジン、機体構造の多くが変更されていたが、速度面で旧式化が目立つも低空での格闘戦能力の高さから一部の熟練パイロットから非常に好まれた。
枢軸側も「隼III型」との空中戦は非常に嫌った。
「P-47 サンダーボルト」は排気タービン過給器を装備した丈夫で贅沢な高々度戦闘機だが、初期型はあまりパッとした性能では無かった。
しかし丈夫な事もあって戦闘爆撃機として初期の頃から重宝され、その後改良を重ねながらアメリカ陸軍の主力戦闘機の一角にのし上がっていく。
なお、戦力の大幅な増加と機体更新については、日本の場合は中華戦線からの引き揚げと機種改変、そして前線への再投入が早くも始まっていることを示していた。
アメリカ軍の場合は、アジアに大軍を派遣してもなおカリブ・大西洋方面以外に大戦力を惜しみなく投じられる状態を示していた。
そして戦闘機よりも厄介なのが、日米が繰り出す爆撃機の群だった。
中型機は「B-25」、「B-26」などで埋め尽くされ、数の差は現地枢軸軍が対処できる状態ではなかった。
それより厄介だったのが重爆撃機で、「深山改」、「B-17G」、「B-24」などの4発機が枢軸軍の後方の基地を手当たり次第に爆撃し始めているため、戦闘機はいくらあっても足りない状態に追いやられた。
中東に後方拠点は実質なくなり、地中海側のベイルートやスエズのポートサイドなどの港湾拠点までが激しい絨毯爆撃を受ける始末だった。
しかも重爆撃機は、特に遠隔地の拠点に対しては夜間爆撃も実施したのだが、これを有効に迎撃できる夜間戦闘機が当時の欧州枢軸軍には無かった。
この戦争が始まってから、大規模な夜間爆撃という事態に直面した事がないため、機材がほとんど開発、配備されていなかったからだ。
地上のレーダーで察知し、サーチライトで追いかけて高射砲で撃つのが一番の対策という状態で、中東の夜に戦闘機の出番はなかった。
「Fw190A」の全身にレーダーアンテナを立てたタイプを急遽製作したが、単発機では付け焼き刃以上には役に立たなかった。
だがこの時の教訓から、イギリスはモスキートの夜間戦闘機型を開発するようになった。
ドイツも既存機から探したが、適当な双発機が殆ど無かった。
既にBf110は生産ラインも無くなっており、仕方なく爆撃機のJu88の夜間戦闘機型が急ぎ開発されることになった。
新規開発については、色々欲張っていたメッサー社は既に開発能力がキャパシティー一杯のため、ドニエル社とドイツ以外での仕事が多くなったハインケル社に新たに開発が命じられた。
もっとも、枢軸側の夜間戦闘機が戦場に姿を見せるのは1944年に入ってからの事で、中東の戦場には全く間に合わなかった。
このため連合軍の重爆撃機部隊は、夜間爆撃を好んで行った。
そして11月に入って中東の欧州枢軸空軍が完全に息切れを起こすと、連合軍はダンマームへと侵攻する。
この戦闘は、基本的に連合軍が敵を押しつぶす形で侵攻したので、結果は一方的だった。
だが、ドイツ軍の最後の抵抗といえる空襲は、連合軍に少なくない衝撃を与えた。
誘導爆弾・通称「フリッツX」による攻撃だ。
「フリッツX」による攻撃は9月頃から行われていたが、この時まで成功例が無かった。
枢軸側が連合軍を攻撃するときは常に連合軍が制空権を持っており、搭載した爆撃機が撃墜か撃破、途中で撃退されてばかりだったからだ。
この時も6機の「Do217」爆撃機が、それぞれ1発の「フリッツX」を搭載していた。
当然、連合軍の迎撃を受けたが、戦闘機隊の奮闘によりうち4機が投弾に成功。
このうち2機が誘導中に高射砲弾で撃破もしくは撃墜され、2発が敵艦船にヒットした。
命中したのは、日本の大型軽巡洋艦の《三隈》と大型輸送船1隻。
1.5トンの爆弾が、最終的に音速に達する速度で命中した衝撃は凄まじかった。
だがその速度が幸いして、直撃を受けた《三隈》は爆弾が船体(非装甲部)を貫通してしまい、その直後に爆発したため至近弾的な効果しか発揮しなかった。
とはいえ総重量1.5トンの破壊力なので、判定中破の損害を受けて後退している。
大型輸送船に幸運はなく、船体の最も深い場所で爆発したため艦底起爆魚雷のような破壊を及ぼした上に誘爆を起こし、轟沈と言えるほどの短時間で沈没した。
そして軍艦の損害よりも、輸送船の損害に連合軍は青くなった。
輸送船は、上陸作戦に必要な物資が満載されており、火薬に誘爆して大爆発を起こしたからだ。
幸い歩兵は殆ど乗っていなかったが、この爆撃は上陸作戦にもかなりの影響を与えた。
その翌日、上陸作戦の最中にもドイツ軍機は現れ、この日も複数の「Do217」から「フリッツX」を投下。
「Do217」を見つけると連合軍迎撃機は狂ったように迎撃に出たが、1発の「フリッツX」が艦砲射撃任務で出撃していた戦艦《扶桑》を直撃。
戦艦の強固な防御甲板すら容易く貫いた大型爆弾は、《扶桑》の機関部で炸裂した。
これで《扶桑》は一時行動不能に陥り、アメリカ海軍から導入した損害極限技術が無ければ、弾薬庫への誘爆で沈没したと言われるほどの大損害を受けた。
当然大破で、他艦に曳航されてアブダビまで後退し、そこで工作艦の応急修理の後に日本本土まで本格的な修理に戻ることとなった。
なお《扶桑》は機関部を半分破壊されており、修理するだけでも据え変えるよりも時間がかかるため、半ばついでに大幅な近代改装工事に着手する事になる。
しかし、《扶桑》への攻撃でドイツ軍の誘導爆弾を落とせる機体が現地に無くなってしまい、連合軍の上陸作戦自体は大過なく終了した。
またこれ以後、連合軍は誘導爆弾に対する神経を尖らし、爆弾投下に必要な高度と距離で独特の動きをする中型爆撃機を目の敵のように迎撃するようになる。
このため誘導爆弾を搭載可能な「Do217」は、懸命の護衛にも関わらずバタバタと表現できるほど落とされ、機体の損害の多さのため誘導爆弾は使用中止に追いやられた。
ドイツ空軍は、精鋭の第3航空艦隊の主力部隊をこの時期に本格投入開始したが、油田の防衛を厳命した総司令部が総指揮官のケッセルリンク元帥の言葉を否定して逐次投入させてしまい、有効な戦闘を展開する前に戦力を消耗していった。
ケッセルリンク元帥は、短期間の時間を作って自分たちの戦力をかき集め局所的な優位を作り上げ、そこから順次戦線を立て直す構想と計画を持っていたが、上層部の無理解と連合軍の数の優位と戦況がそれを許さなかった。
連合軍がダンマームを占領した時点で、中東での戦闘は戦略的意味で決着がついたと言ってもよかった。
連合軍が、ペルシャのアバダン油田をかなり容易く攻撃できるようになったからだ。
しかも8月から続いた航空撃滅戦により、中東に展開する欧州枢軸空軍は完全に息切れしてしまっていた。
ドイツ軍肝いりの第3航空艦隊ですら、継続的な戦力補充を受け続けても戦線の維持すらままならなかった。
イタリア空軍は、遠距離進出能力に欠けるため、他国からの支援を受けても既に残骸といえる有様だった。
連合軍との戦力差は圧倒的に開いているし、補充と増援は逐次投入の形で短期間の間にすりつぶされていったのだ。
そしてダンマームを占領した連合軍は、ここから地上部隊をイラク方面に向けて送り込み始める。
大量の車両があればこそ出来る荒技だった。
連合軍は、砂漠での戦闘に適した機械化部隊を続々とアラビア半島中部に上陸させ、大量の支援車両に後方支援させながら積極的に北上を開始した。
11月半ばには陸路でイラク前面のクウェート(現地語で砦の意味)に到達した連合軍は、そこで初めてまともな枢軸軍の地上部隊と遭遇する。
途中までバスラ方面の上陸作戦に備えた配置と陣地構築をしていた枢軸軍としては、予想外の状況だった。
ここに陣を張っていた枢軸軍は、インドから後退してきたドイツ軍で、イギリス軍はまだ後方で再編成中だった。
対するのは、インドから中東へと進んできた山下大将率いる連合軍の先遣部隊で、日本戦車第2師団、第18師団で、すぐ後ろにはパットン将軍が率いるアメリカ第3軍へ編入された第3軍団(第3師団、第1機甲師団)が追随していた。
この時の戦闘は、日本軍の機甲捜索大隊がまずドイツ軍からの攻撃を受ける。
相手の戦力が分からないため日本側は慎重に動いたが、その消極姿勢を突かれてドイツ軍部隊に迂回突破を許して窮地に陥る。
そこに後続の戦車大隊を中核とする機甲旅団が救援の為に進んできたが、この部隊も砂漠を激しく動き回るドイツ軍に翻弄されて捜索部隊を救い出すのが精一杯で、それでも大きな損害を受けて後退せざるを得なかった。
開けた地形での小規模部隊の運動戦は、ドイツ軍指揮官ロンメル将軍が最も得意とするところだった。
そして容易ならざる事態と考えた連合軍は、すぐにも大量の航空機を繰り出したが、すでにドイツ軍は戦場から姿を消した後で、完全に肩すかしを食らってしまう。
戦場から空軍基地から遠いため、十分な航空支援が与えられなかったが故の敗北でもあった。
この戦闘が、ついにインドで直接対決が叶わなかったドイツのロンメル将軍と日本の山下将軍の直接対決だった。
初手は完全に連合軍の敗北であり、連勝続きで浮かれていた日本軍の鼻面をへし折る形となった。
しかしこれで連合軍の勇み足な進撃は止められ、防衛体制を固めてから枢軸側の拠点となっているバスラ攻略の準備が進められるようになる。
このため、その後もう何度かドイツ軍が遊撃的な攻撃を仕掛けてきたが、砂漠に作り上げた陣地に籠もった日本軍は守りに徹し、航空隊を呼び寄せることで何とか撃退している。
優勢な側が守りに入られると、遊撃戦といえるような機甲部隊の戦い方はあまり効果が見られなかった。
友軍の士気を鼓舞するため前線指揮にでた山下将軍は、攻防ともに優れた手腕を持つ指揮官だった。
マレーの虎とも渾名された山下将軍は、虎と言うよりはインドでの戦いぶりから怒れる象のようだとも言われた。
そしてこの頃の小競り合いで、一つ興味深い戦いがあった。
東西の重戦車同士の激突だ。