フェイズ33「WW2(27)中華民国降伏」-2
もはや戦争の末期症状だった。
そして、連合軍はあまり気にしなかった。
中華民国は連合軍からすれば「裏切り者」であり、不用意に戦争を長引かせた原因の一つとなっていたので、容赦する理由が無かったからだ。
アメリカなどは、中華民国のことを「サンドバッグ」と呼んだ。
日本も余計な戦線を作らせ自分たちの国費を目減りさせた元凶として、中華民国に対して悪い感情を強く持っていた。
そして枢軸陣営の戦争もさらに悪化した。
中華民国が期待したロシアでのドイツ軍の攻勢までが失敗するに及び、最早これまでだという雰囲気が防空壕や山間部への疎開で何とか生き延びていた中華民国首脳部を支配した。
独裁者の蒋介石だけが例外だったが、中華民国にとってもはや害悪でしかなかった。
1943年7月25日、蒋介石が総統の座から引きずり降ろされた。
しかしそこからは事実上の内戦状態に陥り、四川盆地は重慶の残骸を中心に血で血を争う抗争状態に陥ってしまう。
蒋介石の親衛隊や秘密警察の忠誠度は意外なほど高く、また蒋介石に連なる人々が全てを失うまいと足掻いたからだ。
ただし蒋介石は、内戦初日に反体制派に拘束され、厳重に軟禁されてしまっていた。
混乱が沈静化するのに約一ヶ月を要し、1941年に重慶を脱出した後に連合軍と接触を持ち、そして連合軍の支援で再び重慶に戻った汪精衛(汪兆銘)らが政権をなんとかまとめあげる。
そして9月8日、中華民国は連合軍に対して降伏。
政府も軍隊もまともな組織を成していないため、全面的な降伏を約束せざるを得なかった。
いわゆる「無条件降伏」だ。
降伏調印は連合軍占領下の上海で行われ、中華民国は戦争から完全に脱落する。
アジアの一角とは言え枢軸陣営から降伏した国が出た事は、政治的にそれなりの意味を持っていた。
欧州枢軸諸国は、表向きの言葉はともかく「所詮は劣った有色人種の国」が降伏したことに、あまり衝撃は受けていなかった。
連合軍では、チャイナの降伏は一応戦争の転換点の一つと捉えられた。
何より連合軍にとって、東アジアが完全に安定化し、中華地域に展開していた大軍が他に転用できるようになったことに大きな意味があった。
中華での戦いは、1941年秋に実質的な陸戦にケリが付いたが、その後も2年近く軍隊は中華地域に展開していた。
戦略爆撃部隊以外は小競り合い以上の戦闘をする事は珍しく、主な任務は治安維持と降伏した軍閥地域への進駐、そして占領地全体での占領統治だった。
戦車は必要ではなく、移動のためのジープとハーフ・トラックが重宝された。
占領統治は、1941年11月に上海で最初の「中華地域・連合軍総司令部(C-GHQ)」が置かれ、ダグラス・マッカーサー大将を総司令官、今村均大将を副司令官とした。
最終的な実戦部隊は、日本陸軍が約20個師団、アメリカ軍が5個師団、満州帝国軍が7個師団相当の30万、自由英連邦軍が1万人程度で、合計約120万に及んでいた。
またビルマ方向の雲南方面国境には、タイ王国の部隊が日本軍と共に少数が参加している。
この戦力で、中華民国の残存部隊を圧迫しつつ、降伏したり恭順した部隊や軍閥、合計約300万人を統治した。
支配領域の人口は戦争中に2億人を越え、軍政による統治は当初から難しかった。
このため今村均将軍が中心となり、実戦部隊を預かる本間雅晴将軍、岡村寧次将軍(両者共に戦時昇進で少し早く大将に昇進)、アメリカ陸軍のジョセフ・スティルウェル将軍らと実務を進めた。
そうした中での中華民国、というより中華地域の占領統治の方針が決められていったが、アメリカ政府から多くの権限を与えられた総司令官であるマッカーサー将軍の独善的要素が強く、日本側にも水面下で不満が出ていた。
と言うのも、アメリカはトップダウン型の組織で、日本がボトムアップ型の組織形態をとることが殆どだからだ。
それでも日本側の代表となる今村将軍の尽力と人徳双方のお陰で、少なくとも連合軍内での問題が表面化したり、関係が悪化することは無かった。
マッカーサー将軍も、今村将軍を高く評価してかなりの配慮を見せていた。
占領される側の不満については、少なくとも戦争中はあまり見られなかった。
と言うのも、主にアメリカから連合軍に供給される物資(衣料・食品)の一部が、慰撫のため中華民衆にも配給されたからだ。
チャイナでは仕事が少なかった野戦病院による無償医療提供も大好評だった。
また、連合軍が現地のものを購入する場合も、正価もしくは少し高いぐらいで購入した。
この場合ドルが好まれたが、円でも特に気にされなかった。
中華民国の紙くず同然となった紙幣と比べるべくもないからだ。
また連合軍も、軍票などをは使わず、必ず正規の紙幣で決済を行い、出来る限り為替は使わずに現金決済を心がけた。
また占領地には大量の憲兵、MPが派遣されたが、連合軍としては治安の安定による占領コストの低減を目指したものだったが、民衆からは非常に好評だった。
軍政としての法制度も日米の基準に沿ったものが暫定的に取り入れられたので、非常に公正だった。
各地のマフィア(結社)、連合軍の「恩恵」を受け損ねた中小の軍閥からは不評もあったが、それでも治安は大幅に向上した。
そして占領地での税制についても、各地の地方政府(軍閥)をアメと鞭で統制することで、戦前の最も良い時期以上の公正さが実現された。
マッカーサーは、民衆から「皇帝」と呼ばれたりもした。
しかし中華地域全体の国家として良い面は、以上の基本的な点だけだった。
何より、独立を一度剥奪されていた。
まともな中央政府が無くなっているのだから当然だが、連合軍は中華民国に対して悪い感情ばかりを持っていた。
マッカーサー将軍(※実際にまとめたのはスティルウェル将軍とその配下)からアメリカ本国に送られてくる報告書、通称「マッカーサー・レポート」を分析したアメリカ合衆国の中華占領統治準備委員会は、将来の中華地域について今後の混乱の元凶となる全ての要素を排除し、まずは文明国による統治を徹底しようと考えるようになっていた。
自由主義に基づく民主共和制を敷くアメリカ合衆国から見たら、中華民国の統治は「中世ヨーロッパ並」もしくはそれ以下の中世国家だった。
地方政府は暴力、軍事力とセットで支配しているように見えた。
中央からの支配・統制も緩く、当然中央政府の統治能力も低かった。
これでは確かに全体主義的な独裁政治が必要になるわけだと、納得がいったほどだった。
中央政府自体も、「問題」が多すぎて話しにもならなかった。
特に全般的に賄賂で物事が運ぶ状態は、官僚制度として最悪と考えられた。
また中華民国は連合国にとって「裏切り者」であり、単なる敵よりも制裁と罰を与えるべきだと強く考えていた。
この点は、裏切られた感情が強い日本も違いは無かった。
首相の山梨や外相の幣原は、長い目で見た場合の事を考えてもう少し穏便であるべきだと考えていたが、アメリカと日本国内の世論には逆らえなかった。
このため連合軍による占領統治は、中華民国の独立を停止(剥奪)した上での長期間の軍政が前提とされた。
統治には、中央からの強い命令とそれを物理的に可能とする軍事力による抑止が必要と判断されたからだ。
そして軍政により地方軍閥を解体して近代的な地方政府に作り替え、同時に中央政府も連合軍の指導で民主的政府の再構築を目指すこととされた。
また、独立復帰後は外交や軍事力など国家の基本的な能力は与えるが、近代産業(重工業、先端産業)については多くを与えないことが基本方針とされた。
下手に自力生産能力を与えると、勝手に武器を作り始めて再び内輪で対立し、それが解消しても外に向けて軍事力を行使したがる傾向が強いと考えられたからだ。
しかも中華民国は、満州地域(満州帝国)を「取り戻す」事を国是の一つにしていたのだから、連合軍としては中華中央の国家に力を与えてはいけないという考えが強かった。
この点は、中華統治にある程度の温情を考えていた日本も同様だった。
だが、全ての工業を取り上げてしまうと、新たな植民地統治だとリベラル派に言われてしまうので、段階的に軽工業を中心にある程度は認めることとされた。
しかし重工業については、長期間支援や技術供与の停止状態が続くことになる。
なお、国そのものに大きな制裁を加えるので、国家要人に対する処罰は比較的穏便となった。
総統(首相)の蒋介石と一部大臣、軍指導部の要人など、一部の処刑は実施される事となったが、中枢以外の者は穏便なものとされた。
刑罰も禁固刑が中心で、その後恩赦された者も少なくなかった。
この処置は、連合軍が文明国である証を世界と後世の歴史に見せるためでもあったが、全ての有力者を処刑してしまうとその後の中華国家の屋台骨全てをへし折ってしまうからだった。
しかし連合軍が受けた人的損害が少なかったことも、裁判に影響したことは間違いないだろう。
中華民国は面倒な敵ではあったが、基本的に弱い敵でしかなかったのだ。
その他の国民党、軍人、財界関係者についても、各種国際条約違反者、人道にもとる行為をした者以外は、ごく一部を除いて当初の予測よりもずっと穏便な処置で済まされた。
ただし、殆どの者が一度は公職から追放され、社会的な制裁も十分以上に実施されている。
国民党を支援した財閥も徹底的に解体された。
不正蓄財も没収の上で、税金の足しとされた。
それを免れたのは、当面必要な汪精衛らの一派だけだった。
そしてこうした裁判は、1944年春から「上海国際軍事裁判」として戦争中に実施され、戦時中と言うこともありあまり注目される事はなかった。
蒋介石は、反体制派に拘束されてそのまま連合軍に引き渡され、その後獄中から出ることもなく絞首刑に処され、戦争終結までにこの世を去った。
正確な没年は、記録が曖昧という事とされて今日に至るも明らかにされていない。
1920年代から中華情勢を左右した人物としては、寂しすぎる末路といえるだろう。
なお、占領統治後の新たな中華民国像についてだが、アメリカの理想主義が大きく影響した。
理想主義とは「民主主義」や「自由主義」とも連動する「民族自決」だ。
そしてこれこそが、チャイナ全体に科した最も重い「罰」だった。
中華地域には、既にモンゴル人民共和国と満州帝国の例が存在する事も影響して、占領した各地でも少数民族調査がかなり詳細に実施された。
この調査はアメリカだけでは短期間でできないので、満州帝国(東鉄)と日本からも膨大な資料が求められた。
中華と長い関わりのある英連邦からの意見も求められた。
基本的に中華民国は、蒋介石を中心とする独裁国家、全体主義国家なので、少数民族が抑圧されていると考えられていた。
混乱を避けるため統一国家としての再スタートの方が正統だとして、清朝の事を持ち出した者もいたが、清朝こそが前近代的な帝国主義だと断じられてしまい、最低でも民族自治を大幅に認める連邦制、出来る限り民族ごとの分離独立が相応しいと考えられた。
中華民国内からの声はほぼ完全に無視された。
そしてこの案に、日本なども特に異を唱えなかったが、ソ連が積極的に賛意を示した。
そして1942年春先に民族自決の考えが出てすぐに、ソ連は中華民国への宣戦布告と東トルキスタンへの侵攻を行う。
これでアメリカに警戒感が出たが、当時ソ連は窮地に立たされた同盟国なのでそれほど強い警戒感では無かった。
また日本、満州、そしてアメリカで動く団体が、中華の「民族自決」を求めて強いロビー活動を展開した。
彼らは中華地域を牛耳ってきた漢民族に抑圧されてきた人々で、主に満州国に住む人々だった。
そして占領統治の中で、内モンゴルでの国民党軍の非道、以前から独立を訴えていたチベットへの高圧的な態度などが明らかになると、中華地域の民族自決が基本方針として強く前面に打ち出されるようになる。
そして戦争中なので、事態は急速に進められていった。
また、連合軍各国でそれぞれの地域の占領統治と自治政府、後の独立政府作りを手助けすることが決められた。
基本的には、東トルキスタンがソ連、内蒙古が満州(+日米)、チベット地域全域が日本とアメリカ(+英連邦自由政府)の担当とされた。
問題となったのは、インドシナ国境に近い南部と雲南地域を中心とする南部奥地だ。
様々な少数民族は多いが、歴史的に中華国家に含まれている事がほとんどの地域だからだ。
しかし、連合軍に敵対した懲罰的意味合いを持たせる事も考慮された結果、中華中央から切り離す事が決められた。
またこれらの地域の独立を補助する目的もあって、海南島の主権が連合軍(後に国連)に移管され、各国により共同占領統治されることになる。
戦中の計画として中華民国に残されるのは、10〜11世紀にあった宋朝の領域にかなり近い地域だけだった。
なおチベット、内蒙古によってソ連の「取り分」とされた東トルキスタン、モンゴルは中華中央から切り離された形となり、これも日本、アメリカの戦略だった。
そしてソ連も東トルキスタンを得ることで、取りあえずは満足しており、連合軍の勝手な都合で中華地域は切り刻まれることが内定していった。
この中華分割を、第一次世界大戦の時のオスマン朝トルコと比較する事もある。
または、阿片戦争から約百年かけて、ついに分割されたという意見もある。
このため連合軍の方がよほど帝国主義だという意見は、今日においても根強い。
なお、降伏直後の汪精衛率いる中華民国は、内乱後になんとか再編成した政府だったため非常に能力が低下していた。
また、戦争中に官僚や軍人の多くが失われるか離散している事も、統治能力の低下を助長していた。
このため連合軍が強い軍政を敷くしかなかったのも事実だった。
現地政府を立てた上での間接統治が理想だが、したくても出来なかったのだ。
しかも中華の多くの者が職業意識ではなく賄賂で動き、賄賂を渡さないと簡単にサボタージュするという酷さのため、連合軍による強い統治が進められる事となる。
公正な税制と相応の経済安定があっても変化がなかったので、この点で中華社会に対する連合軍の態度は厳しかった。
だが戦争はまだ継続中で、これから連合軍はヨーロッパに進軍して行かなくてはならなかった。
このため中華地域の統治に多くの労力、兵力を割くことはできず、120万の大軍のうち戦闘力の高い部隊を中心に半数の60万がすぐにも他方面に転用され、当面は残り60万で占領統治を実施する事になる。
また残る60万も、順次警備用の軽装備部隊と交代していく。
しかし60万では十分な数では無かったので、C-GHQ(中華地域・連合軍総司令部)は統治に軍閥など中華既存の軍事組織を、連合軍による再教育と訓練、そして監視のもとで利用せざるを得なかった。
必然的に統治能力は低下したが、既に中華地域で連合軍に敵対する国家、政府がない事と、戦時と言うことで許容された。
だが統治の一部を現地に任せた事は、その後の中華地域での混乱の呼び水になってしまう。
また部隊の移動に伴って、人事も大幅に変更された。
C-GHQ総司令官は、1943年11月に今村均大将に交代した。
ダグラス・マッカーサー大将は、アメリカ政府からヨーロッパに進む陸軍を率いる総指揮官に指名されたため本国に戻ることになり、長らく過ごした東アジアを離れた。
その際、中華戦線で長く行動を共にした本間雅晴大将を、アメリカ軍が日本軍を指揮下に置く際の総指揮官とする事をマッカーサーが望み、日米協調を考えた日本政府、陸軍もマッカーサーの要望を叶え、本間はマッカーサーと共に大西洋からヨーロッパに進んでいく事となる。
以後、中華地域の占領軍総司令官として長らく過ごすことになる今村均大将は、アメリカというよりマッカーサーが引いたアメリカ的統治の道筋に東洋的統治を巧みに織り込み、また現地の人々とよく話し合う事で比較的穏健な占領統治を行った。
このため連合軍内、日本陸軍内での評価よりも、元中華民国の政府、軍人からは非常に高く評価され、「仁将」と尊敬されたほどだった。
とはいえ、これ以後の中華地域は混乱の時代へ突入し、新たに成立していく世界的な対立構造の中での最前線の一つとなっていく事になる。