フェイズ33「WW2(27)中華民国降伏」-1
ロシア南部で激戦が開始された頃、カリブ/大西洋戦線、アジア戦線も大きく動いていた。
そうした中で、ヨーロッパが忘れかけていた戦線が遂に終わりの時を告げた。
1943年9月8日、中華民国政府は連合軍に対して降伏した。
枢軸陣営の中華民国と日本を中心とした連合軍の戦いは、1941年10月に中華地域の平野部での戦いが実質的に終わったと見る意見が多い。
連合軍にとっては、平野部を占領したことでむしろ自分たちの陣営内の問題の方が大きくなった。
というのも、満州帝国が自分たちこそが中華地域を統治する正当性があると言い始め、一部の軍隊が「占領」ではなく「統治」を独自に開始し始めたためだった。
日本、アメリカは慌てて満州帝国の動きを止めさせ、近代国家同士の戦争及び外交という枠内での行動のみを許した。
おかげで、張作霖首相を実質的な首班とする満州帝国の動きは、表向きは沈静化した。
だが水面下では、中華各地の軍閥が張作霖や満州帝国と関係を求めて動くなど、予断を許さない状態が続いた。
満州帝国皇帝の溥儀も、自らはいつ紫禁城に戻れるのかと毎日側近に問いかけたと言われている。
また、42年春にソ連が東トルキスタン(ウイグル)に独自に侵攻したことも、頭の痛い問題だった。
理由は言うまでもないが、ソ連も勝手に動く傾向が強く、しかも共産主義政権を作りかねないので、戦後の中華地域の事を考えるとこちらも非常に厄介だった。
だが、満州帝国とソ連の動きに最も過剰に反応したのは、当時は鉄道すら引かれていない中華奥地の四川盆地に逼塞する、中華民国の独裁者蒋介石だった。
蒋介石は、自分たちの戦争に勝負が付いた時点で、条件付きの降伏を考えていた、と言われる。
だが、中華世界を奪う者とバラバラにしようとする者が現れた以上、徹底抗戦するより他無かった。
幸い欧州枢軸諸国、特にイギリスは支援継続を約束しており、実際にビルマ方面から兵器、物資の支援を行った。
そして、より多く運ぶため、ビルマ、インド奥地、中華地域の雲南地域に大量の労働力を投入して、道路の建設も行った。
これが俗に言う「援蒋ルート」だった。
しかし戦争は、蒋介石にとってさらに悪い方へと転がっていく。
日本軍を中心とした連合軍が快進撃を続け、1942年春にはインド洋にまで進軍したからだ。
これでイギリスに余裕が無くなり、支援は少なくなった。
さらに1943年1月25日、ガンジス川河口部に連合軍が強襲上陸作戦を決行した事で「援蒋ルート」は物理的に遮断され、枢軸陣営は物理的に中華民国を支援する事が出来なくなった。
その間、中華戦線はどうなったのか。
1941年秋から翌年春までは、連合軍は沿岸部の平定(占領)と安定化に力を入れた。
実質的な占領統治で、この間に沿岸部、平野部の70%以上が連合軍の軍門に降った。
戦闘地域以外の軍閥達が、続々と連合軍への恭順を示したからだ。
それでも欧州枢軸の援助があるので、蒋介石側に止まる者も少なくなかった。
特に奥地には多く、連合軍も準備を整えた上での侵攻を行う事を決めた。
そして1942年春になると、連合軍は中華民国が首都を疎開させた重慶への爆撃を開始する。
重慶に通じる鉄道が当時はないので、十分な数のトラックがないと侵攻は不可能だった為、代替手段として爆撃が選択されたのだ。
しかも陸路侵攻しようとしたら、北の奥地の西安方面から進まねばならず、同地域への侵攻から始めなければならなかった。
要するに、非常に面倒くさかった。
そしてこの状況を利用したのが、日米、主にアメリカの航空関係者だった。
爆撃により航空機の威力を為政者達に見せて、自分たちの独自軍建設の布石にしようと言うのが狙いだ。
つまり重慶爆撃は、主に日米の軍内部での内政の要求によって発生したと言っても過言ではないだろう。
爆撃機の出撃拠点は武漢と呼ばれる地域で、そこは揚子江を遡った先にある内陸の要衝で、鉄道も十分に引かれていたし7000トン級の船舶でも遡上できるので、爆撃拠点としては最適だった。
そこに日本陸海軍航空隊とアメリカ陸軍航空隊の重爆撃部隊と長距離侵攻可能な戦闘機隊のうち、有力な部隊が続々と集結した。
1942年春だと重爆撃機は「三菱 一式重攻撃機 深山」、「ボーイングB-17 フライングフォートレス」が主力で、主に航続距離の長い「三菱・零戦」艦上戦闘機が護衛することになった。
「P-39」や「P-40」戦闘機も中華地域には大量に進出していたが、航続距離の問題、空戦能力の問題から重爆撃機の随伴は「零戦」とされた。
後に日本兵も着用するようになるボマージャケットに身を包んだアメリカ軍爆撃機乗り達は、最後まで随伴する「零戦」を「リトル・フレンズ」と呼んで頼りにした。
武漢から重慶までの直線距離は、おおよそ800キロメートル。
戦闘機隊の基地は武漢より少しだけ重慶に近い岳陽に置かれ、日米共に装備する「B-25 ミッチェル」中型爆撃機の基地もここに置かれた。
加えて、日本陸軍航空隊も「中島 一式戦闘機 隼」を「B-25」と共に岳陽に展開して、同様に爆撃をする手はずとなっていた。
対する中華民国空軍は、既にインドに退いたイギリス・チャイナ派遣軍が残した「ハリケーン」戦闘機を主力としていた。
徐々に増えつつある「スピットファイア」など他の機体もあったし、ソ連製の旧式機もまだ若干残っていたが、全てを合わせても300機程度だった。
1942年秋頃まで続いたイギリスの供与は、毎月50機程度で「スピットファイア」戦闘機と「ウェリントン」爆撃機が殆どだったが、爆撃機はパイロットが足りない上に数も少ないので限定的な偵察以外でほとんど役に立たなくなっていた。
そして戦闘は重慶だけでないので、日々の消耗に供給が追いついていないのが現状で、さらにパイロットが最初から不足していたので、パイロットの不足から飛べる機体の方が余り始めていたのが1942年春頃だった。
航空機の自力生産力がない国では、小規模でも航空撃滅戦を相手にされてしまうと、取り返しのつかない消耗を強いられるしか無かったのだ。
中華民国空軍は、まともな練習機もないので訓練から試練を強いられていた。
なお、重慶爆撃の開始が春とされたのは、四川盆地は秋から春にかけての冬の間は靄のような霧が出やすくて爆撃に不向きな季節だったからだ。
一帯を霧を覆い尽くす事も珍しくはなく、偵察すらままならない時もあった。
このため連合軍は、爆撃は気象条件が整う5月から10月と決めていた。
そして42年になると日米の戦時生産が大きく向上して、育成されたパイロットの数も増えていたので、最初から100機単位の「戦略爆撃」を行うことを決めていた。
なお「戦略爆撃」もしくは「都市爆撃」、さらには「無差別爆撃」と呼ばれる戦術は、古くは第一次世界大戦から行われていた。
無差別爆撃としては、第二次世界大戦直前にあったスペイン内戦のゲルニカ爆撃がピカソの絵画によって有名となったが、第二次世界大戦ではこの時まで大規模な戦略爆撃はほとんど行われていなかった。
ヨーロッパの戦争が一度呆気なく終わったのが主な理由で、1941年初夏に始まったソ連との戦いでは枢軸側に戦略爆撃を行う機材と余力がない上に、ソ連が異常な数の高射砲でモスクワなどの守りを固めるため、行いたくても行えなかった。
枢軸側が日本に行った爆撃もせいぜい中規模で、戦略的には嫌がらせの域を出ていなかった。
このため重慶爆撃が、大戦初の大規模な戦略爆撃だった。
連合軍の戦略爆撃に対して、中華民国空軍は場当たり的に対処するしかなかった。
中華民国を積極的に支援していたのがイギリス本国なので、レーダーと無線機による航空管制を思い浮かべるだろうが、中華民国空軍にまともな航空管制の設備と能力、人材が無かった。
レーダー(RDF)は対空監視用のものが供与されていたが、大量の真空管が必要となる航空管制が出来るほどの無線機は、結局中華民国に供与されなかった。
まずは自ら、そして次に欧州諸国への供給を行い、世界各地を防衛することを考えると、中華民国の分まで無かったからだ。
それでもレーダーを有したことで、中華民国首脳部は空襲(爆撃)を楽観視していた。
有ると無いでは大違いだからだ。
だが彼らは勘違いしており、レーダーと戦闘機さえあれば迎撃は出来ると思い込んでいた。
近代戦争というものを理解していなかったが故だが、そのツケは大きかった。
5月25日に現れた連合軍は、重慶からは日米各1個大隊の重爆撃機が飛び立ち、岳陽からは零戦2個大隊とB-25が1個大隊の編隊が飛び立ち、途中で合流して合わせて約250機の大編隊となって重慶に迫った。
護衛戦闘機の多さが、連合軍がこの戦争で学んだ事の多さを物語っていた。
対する中華民国空軍は、約150機の戦闘機を各所から随時迎撃に出撃させたが、レーダーで捉えた段階から戦闘機の緊急発進が始まり、編隊ごとに迎撃に向かった。
上空で事前に待ちかまえるというような事は、この時はあまり考慮されていなかった。
と言うよりも、今まで偵察機以外飛んでこなかった事で油断しており、突然大編隊で襲来してきたので大きく動揺していた。
そして各所で中華民国軍機と零戦の空中戦になったが、練度の差から殆どの場合一方的展開となった。
それでも中華民国軍機の方が数が多いので、全体の3分の1程度が重爆撃機部隊の迎撃を行った。
ところが日米の重爆撃機は、10〜12門のM2重機関銃で武装し、しかも4機編隊を4組で16機の1個中隊単位による重厚な陣形を組んでおり、死角のない濃密な弾幕を形成した。
そしてハリケーン、スピットファイアというあまり丈夫ではない戦闘機では、重爆撃機の濃密な弾幕を抜けることがかなり難しかった。
その上、中華民国のパイロットは多くが未熟なため、重爆撃機に到達する前に距離を誤って機銃掃射して無駄に弾をばらまくだけで、なかなか命中させられなかった。
相手が大きいため、経験がないと距離感が掴めなくなるからだ。
しかも中華民国に供与されている機体は全て7.7mm機銃搭載型のため、たとえ命中しても重爆撃機の主要部を撃ち抜く事自体が難しかった。
加えて言えば、機銃の射程距離でも完全に負けている事になる。
かくして中華民国の迎撃は失敗し、最初の爆撃で重慶は700トンもの爆弾が絨毯爆撃の形で投下された。
これが重慶爆撃の始まりだった。
当時の重慶は市街地はそれほど広くはないため、連合軍が入念に準備した重慶及び周辺部の爆撃計画は、都合6回の爆撃で一ヶ月もするとほとんど消化されてしまう。
つまり、目標が無くなるほど破壊されたということだ。
市街地はほぼ全滅の更地か瓦礫状態で、計画されていた焼夷弾投下は不要だった。
このため次の目標として、同じ四川盆地の奥地にある成都などを爆撃した。
同地の爆撃は、戦闘機の随伴が不可能なので重爆撃機隊のみで行われたが、小数の旧式機以外の戦闘機は配備されていなかったため、1つの都市に対して一回の爆撃で十分な成果が出た。
そしてこれで、中華民国政府に安全な場所がない事を教え、さらに疎開することを抑止する事もできた。
しかしこれでも具体的な効果がないので、占領していない奥地の主要都市全域に爆撃を広げる事となった。
主な爆撃対象は、武漢から広東の間にある華南内陸部の都市と、華北奥地にある西安などだった。
この時西安の爆撃は、日本軍側から中止することが提案されている。
と言うのも、歴史的にあまりにも重要な都市だからだ。
とはいえ日本が中華民国の士気を気にしたのではなく、歴史的重要性を考えての事だった。
唐の時代の長安の都と言えば、日本の歴史でも習う場所だからだ。
そしてアメリカも日本及び満州国に配慮するという形で、西安には警告的な意味の爆撃以外は行わない事とした。
華南地方の爆撃では、爆撃してすぐにも現地の軍閥が続々と連合軍に降伏していったので、夏の間に爆撃する対象もほとんど無くなってしまった。
これでも、中華民国が音を上げる素振りを見せないので、9月からは別の手段が講じられる事となった。
別の手段とは、四川盆地に至る全ての道路を爆撃することだった。
と言うのも、重慶には生産施設が乏しく、四川盆地全体を見ても同様で、武器弾薬は他から運んでくるより他無かった。
そしてインドから伸びる道こそが、中華民国の生命線だった。
連合軍はこれを爆撃で、道路ごと吹き飛ばしてしまおうと考えたのだ。
そして道路攻撃、輸送部隊攻撃は戦術爆撃で、戦術爆撃は日本陸海軍が戦前から(ソ連相手に)想定していた爆撃だった。
また、主力となるB-25にも向いた任務でもあった。
大型のB-17では微妙だが、トラックを狙うならともかく道路を破壊する事ぐらいわけなかった。
かくして態勢を整えた1942年8月末頃から、四川盆地、重慶に至る道路の戦術爆撃が開始される。
この爆撃は順調に成果を挙げ、ジリジリと重慶の中華民国軍を締め上げていった。
道の方は人海戦術で何とか復旧したが、輸送による損害で輸送のかなりを受け持たざるを得なかったイギリス本国にも、相応の負担と損害を与えることも出来た。
戦略的な意味でも十分な成功だった。
しかし10月に入ると四川盆地は霧が出ることが多くなりはじめ、視界が悪くなるので低空に降りての爆撃の危険性が増してしまい、中途半端な状態で爆撃を中断せざるを得なかった。
一方の中華民国は辛うじて一息ついたが、事態は時間が経てば経つほど中華民国の不利に傾いた。
インドからのイギリス本国の援助は、インド洋での連合軍の通商破壊戦の影響などによりさらに減少していたが、それでも為政者達の上に爆弾が落ちてこなくなっただけマシだった。
だが、連合軍が冬の間何もしないわけではなく、着実に中華沿岸部での統治を安定化させ、奥地への侵攻もしくは降伏を進めていった。
1943年春までに中華民国領内の人口のうち80%以上が連合軍の占領下もしくは影響下となる。
しかし蒋介石率いる国民党が降伏もしくは講和を求める事はなく、頑なに徹底抗戦を唱えていた。
もちろん蒋介石にも徹底抗戦の理由はある。
ドイツなど欧州枢軸がソ連を打倒すれば、陸路での連絡と援助が期待できたし、戦争自体がドローになれば支配を取り戻すチャンスがあるからだ。
と言うよりも、自分たちの戦局がここまで悪化した以上、中途半端な降伏や講和は、蒋介石や国民党の命運が尽きる事を意味すると考えていた。
実際、中華の歴史を紐解いても、その通りだった。
彼らは、他力本願とは言え、自分たちが生き残るために戦い続けるより他無かったのだ。
しかも連合軍は、中華民国とその指導部を「裏切り者」と定義し、特にアメリカが強い怒りを向けていた。
今までのチャイナシンドロームがあっただけに、その反動は大きかった。
なおアメリカの怒りは、中華民国が国家として敵というだけでなく、漢民族敵視にも発展していた。
1941年には、1882年に制定されるも既に形骸化して久しい中国人排斥法が戦時と言うことで事実上復活さらには強化された。
中華系は、全ての公職から追放され、大学にも入れなくなった。
さらには、多くのことでも強い制約が課せられた。
当然だが中華地域からの移民は無条件禁止され、この中国人移民禁止法は戦後も長らく維持されることになる。
戦争直前にアメリカを逃げ出したチャイナ系もかなりおり、その中には開戦時に渡米していた蒋介石の妻宋美齢も含まれていた。
また一方では、中華系アメリカ人の青年の一部は軍に志願して、中華戦線での通訳などで活躍し、ヨーロッパにまで進んだ中華系独立大隊も存在した。
つまり中華系アメリカ人は、日系人と並んでアメリカ軍として戦った有色人種でもあった。
だが、事態はさらに悪化し、一部で中華系の暴動が起きたり、新聞を使ったロビー活動などが行われ、結果として政府による中華系排斥が大きく強化される。
そして1942年には、中華系住民の殆どを敵性民族だと法律上定義して、国籍剥奪の上に財産没収をして荒れ地に作られた収容所に強制収容してしまう。
その数は30万人を越えた。
これは当時の白人至上主義の結果でもあるが、現代になりアメリカの汚点の一つともされている。
1943年に入ると、中華民国にとっての戦局はますます悪化した。
連合軍がインドに上陸し、1月には援助ルートが完全に切断されてしまった。
イギリスは口では援助する意志を表明していたが、当のイギリスが援助してもらいたいぐらいの状態で、実際中華民国への援助は完全に途絶えた。
昨年のうちに運ばれた兵器や物資では、とても戦争は戦い抜けそうに無かった。
特に5月から再開される事が確実視された戦略爆撃を前に、もはや抵抗は無意味と言える状態だった。
今度重慶、成都が爆撃を受けたら、地図の上から歴史有る都市が完全に消えて無くなると考えられた。
その証拠に、武漢の連合軍基地は大幅に拡張され、数百機の重爆撃機が配備されていた。
そうして1943年5月15日、連合軍による四川盆地への爆撃が再開される。
しかも規模は前年を大きく上回っていた。
戦時生産が完全に軌道に乗っていたのもあるが、日本陸海軍、アメリカ陸軍の戦略爆撃を通じて空軍力を為政者に認めさせようと言うアーノルド将軍などのエア・フォース・マフィア達が、チャイナでの戦争の決定打として戦略爆撃を位置付けていたからだ。
例え弱小国とは言え、戦略爆撃で敵を降伏に追い込むことが出来たのなら、為政者達や他の同業者も空軍力を認めないわけにはいかないという考えだ。
そしてアーノルド将軍は、切り札としてカーチス・ルメイ大佐を中華奥地に送り込んだ。
ただし日本の「戦略空軍」を運用する日本海軍は、特に自分たちの航空隊を独立空軍にしたいとは考えていないため、足並みは今ひとつ揃っていなかった。
当初から海軍航空隊を指揮する塚原二四三提督(当時中将)も、現場でのアメリカ軍との協力には労を惜しまなかったが、意見や思惑に違和感を持ち続けたと言われている。
そして前年より大規模かつ苛烈な爆撃が開始された。
一回の爆撃には、重爆撃機6個大隊、約300機が基本で、これに1個大隊の戦闘機が随伴した。
随伴の戦闘機が大きく減ったのは、それだけ中華民国空軍の抵抗力が低下したからだった。
また「B-25」「B-26」などの中型爆撃機は、引き続き四川盆地へと向かう交通網の破壊、移動する地上目標の破壊を、より大規模に開始した。
このため中型爆撃機は、地上襲撃型が増えていた。
もはや中華民国にとって絶望的で破滅的な爆撃であり、高射砲などによる僅かな抵抗も「蟷螂の斧」の状態だった。
既にイギリス本国からの援助はなく、援助がなければなけなしの戦闘機が飛び立つことも難しかった。
液冷エンジンを搭載した戦闘機は、エンジンの整備が面倒で故障も多いため、整備も重要ながら交換用のエンジンが必要不可欠で、供給できなければ飛ぶことが出来なかったからだ。
供与されたレーダーも既に全て破壊されており、連合軍の為すがままだった。
このため一ヶ月もすると、「目標を探すのに苦労する」と連合軍の爆撃機乗りが不平を漏らすほどで、戦闘機も地上すれすれまで降りて機銃掃射を主な任務とするようになっていた。
あまりにやることがなくなったので、民衆蜂起や降伏を促すビラを蒔いたりもした。
日本陸海軍の指揮官からは、「もったいない」から爆撃を一旦停止してもよいのではという意見も出た。
だがルメイ大佐は、特に気にした風もなく部下達に命令を下し続け、日本軍には連合軍として歩調を合わせるように求めた。
敵が降伏するまで全てを吹き飛ばすのが、戦略爆撃だからだ。