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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
52/140

フェイズ32「WW2(26)バクー攻防戦」-2

 枢軸軍というよりドイツ軍の攻勢は、一ヶ月を経っても継続していた。

 マハチカラ前面では一日5キロも進めなかったが、マハチカラ通過後は一日10キロ以上進軍できる日もできた。

 それでも狭い平野の進軍には苦労が多く、山間部を並進する形の山岳部隊は、進撃が順調でも一日に進める距離には限界があった。

 

 一日10キロ進めるとして、一ヶ月と少しでバクーに到達できる計算になる。

 ソ連軍は、コーカサスの他の戦線から戦力を引き抜いて防戦に回していたので現状では進軍に影響が出ていたが、このままいけばコーカサス方面のソ連軍の方が先に息切れする事が数字の上で分かると、枢軸側に希望と楽観論が出てくるようになる。

 戦力が引き抜かれたコーカサスの他の戦線でも、枢軸軍優位の戦闘が各所で展開されるようになった。

 バクー以外の場所でのソ連軍は、本格的に山岳地帯に追いやられつつあった。

 そしてコーカサス山脈は鉄道が引けるような山脈ではない上に補給に使える道路も限られているので、徐々にソ連軍は防戦一方に追いやられていった。

 コーカサス山脈自体に枢軸軍も本格的に進撃できるわけではなかったが、この場合は現地ソ連軍を無力化してバクーを占領してしまえば、現地での戦いは終わったも同然だった。

 

 バクーは大油田であると同時に、コーカサス方面の補給拠点、しかも策源地ともなっていたからだ。

 バクーさえ占領してしまえば、コーカサスのソ連軍は根をなくした大木であり、絶ち枯れるより他無かったのだ。

 


 6月末、ドイツ軍はバクー前面の陣地群に到達した。

 そこは既に油田地帯の入り口で、望遠鏡で覗くとはるか遠くに油井がそこら中に立っているのが遠望できた。

 このため、戦闘は慎重を期さなければならなかった。

 油田を得るのが目的だという理由もあるが、文字通り油の上にいるようなものだからだ。

 

 だがその景色を見るまでのバクー前面は、マハチカラ前面に匹敵する野戦陣地群となっていた。

 早くは42年秋から陣地構築が開始され、一時はマハチカラ前面が重視されるも、ドイツがバクーを諦めていないと分かった時点で工事を加速させ、さらにこの一ヶ月の間は突貫工事を進めた。

 防御力はモスクワ正面を質と密度の面双方で上回り、マハチカラ前面よりも強固だった。

 そしてここに置いた戦力は、基本的に移動できない張り付け部隊ながら、それだけに重装備を有していた。

 

 当然だが、ソ連軍は頑強な抵抗を止める様子はなく、先鋒部隊だけではどうにもならないため、ドイツ軍は主力部隊を揃えて本格的な攻略を行う準備を急いだ。

 

 しかし「ドイツ軍バクー到達」の報告は世界中を駆けめぐり、ベルリンでは早くも祝杯を挙げかねない状態だった。

 だが、ドイツ軍のバクー襲来はソ連軍にとって反撃の狼煙を上げるべき時だった。

 

 敵の主力部隊を、最も深いところに誘い込むことに成功したからである。

 


 1943年7月5日、ボルゴグラード近辺に展開する枢軸軍、主にドイツ軍以外の部隊が比較的高い密度で展開する地域に対して、ソ連軍は大規模な二重包囲戦を仕掛けた。

 

 第1親衛軍、第2親衛軍、第5戦車軍、第7戦車軍など精鋭部隊を多く含んでおり、彼らは枢軸側のフランス第5軍とルーマニア第4軍の間で最大規模の進撃を開始した。

 

 攻勢正面の東部に位置するボルゴグラード近辺には精鋭のドイツ第6軍が、ボルゴグラードからアストラハンにかけてのボルガ川にハンガリー第1軍とフランス第3軍がいて、特に反撃が予測されるアストラハンにはフランス第3軍の機甲師団を含んだ精鋭部隊が戦線を張っていた。

 また中央から南寄りに移動したドイツ第4軍が、満州帝国軍を抑え込む場所に位置していた。

 

 そして各地域の後ろに第3装甲軍に属する装甲軍団が、それぞれ機動予備、万が一反撃を受けた場合の予備兵力として待機していた。

 


 ドイツ軍以外の同盟国軍が多いため、一見戦力が低いように見える。

 加えて、ソ連軍は日を増すごとに増強されているのに対して、ドイツ軍以外の枢軸各国の増強度合いは低いと言われる事も多い。

 しかし主にイギリス本国から、かなりの供与、貸与兵器を受け取っているので、よく言われるほど戦力は低くない。

 主にイギリスの「バレンタイン」か「マチルダII」歩兵戦車か「クルセイダー」巡航戦車だが、師団単位で戦車隊を持つ事は多いし、ルーマニア以外は差はあるが戦車の自力生産能力も有している。

 フランスだと、ソ連軍の「T-34/76」中戦車ともある程度対等に戦える「S41」中戦車などを自力生産している。

 さらにフランス軍だと、砲兵の国だけに対戦車砲もかなり優れていたし、ドイツ軍同様の対戦車自走砲(突撃砲)も有していた。

 自動車、トラックの配備も進められている。

 欧州枢軸軍の最大の欠点は、基本的に鉄道から離れたときの補給能力の低さだが、動かなければ問題も最小限となる。

 ソ連軍と比較したら、歩兵師団同士の戦闘力はほぼ五分という評価も多いほどとなる。

 もちろん、士気の面、兵器の習熟度、兵士の練度などの要素を加味すると評価の下がる事も多いが、後世言われるほど「弱い」わけではない。

 43年春にハンガリー軍やイタリア軍が蹂躙されたのも、兵力の密度、イニシアチブなどの差が大きい。

 さらに攻める側は精鋭部隊を用いるので、差が広がるのは仕方ない。

 

 そして43年に入ってからの一番の問題は、ソ連軍が過半を占めるロシア戦線の連合軍が枢軸側の二倍の数を揃えるようになっている事だった。

 例えば、クルスクの南方に布陣しているドイツ第4軍は、春に暴れまわった満州帝国軍の遣蘇軍集団との対峙を強いられている。

 個々の力量差はともかく、単純な戦力差は二倍以上もあった。

 

 そしてこの時、フランス第5軍とルーマニア第4軍に襲いかかったのは、ソ連軍の精鋭部隊で戦力差は単純な数で5倍以上もあった。

 このため突破正面の各1個軍団は24時間以内に存在価値を失うほどの打撃を受けて、ほとんど消え去ってしまう。

 

 しかしここからは、ドイツ軍の動きが早かった。

 同方面でのソ連軍の反攻、コーカサスから目を逸らすための反攻は折り込み済みであり、そのために第3装甲軍の多くが後方で予備兵力として拘置されていたのだ。

 

 直ちに比較的近い2個装甲軍団が移動を開始し、ボルゴグラードを包囲しようと次の行動に移りつつあったソ連軍の急所を突いて、敵の進撃を押しとどめた。

 だが逆に、ソ連軍も同方面でのドイツ軍の反撃は予測していた。

 このため無理してボルゴグラードへ進撃することなく、進撃路を転じて自分たちに近い方へと旋回していった。

 しかし、ソ連軍に包み込まれた形となったルーマニア第4軍は残存部隊も完全に包囲された形になり、ボルゴグラード方面に展開していたドイツ第6軍の一部もソ連軍の包囲下に置かれた。

 そしてドイツ軍の反撃に呼応するように、南部戦線各所が動いた。

 というよりも、ドイツ軍の機甲予備部隊が動くのを待っていた。

 

 最も北では、両隣のソ連軍と共同で満州帝国軍が大規模な攻撃を開始して、モスクワ方面のドイツ第4軍(の一部)を牽制しつつ、フランス第5軍を最初に戦線を突破していたソ連軍と共に包囲するべく猛烈な突進を開始していた。

 満州帝国軍は、二つの軍の一つが重厚な陣地でドイツ軍を押しとどめてもう片方に機甲戦力を集中して突破部隊としていた。

 このため機甲戦力はソ連の親衛隊や戦車軍に匹敵するほどだった。

 そして先の勝利の後だけに、将兵の士気も非常に高かった。

 

 ボルゴグラード東方からアストラハンにかけて展開するハンガリー第1軍とフランス第3軍に対しても、複数の箇所からボルガ川を渡河するための作戦が開始された。

 ボルガ川を渡ろうとする数は非常に多く、枢軸側が一カ所潰しても別の一カ所で渡河を果たしている状態のため、徐々に対処不可能に陥りつつあった。

 

 ソ連軍がほとんどを占めるロシア戦線の連合軍は、枢軸側が最も恐れていた大規模同時攻勢、しかも物量に任せた力技の攻勢を仕掛けてきたのだ。

 

 当然だがソ連軍の受ける損害も大きいのだが、それは覚悟の上だった。

 損害を前提にして、兵力と物資も揃えられていた。

 また可能な限り枢軸軍の急所を突く攻撃としたため、枢軸側が受ける損害も非常に大きくなった。

 ボルガ・ドン方面で戦線の穴埋めに奔走するドイツ第3装甲軍は、想定された敵の反攻、限定された場所での機動防御を前提に配置についていたが、想定以上の事態を前に許容量を大きく超えていた。

 周辺部の全体指揮官としてモーデル元帥が奮闘したが、彼の力量だけでは被害と敵の浸透を最小限に止めるのが限界だった。

 


 一連の戦闘で、7月に入る頃には枢軸軍の南部戦線は多くの場所で引き裂かれていた。

 150万の兵力が配置されていたが、僅か一ヶ月で三分の一が姿を消していた。

 損害を埋めることも出来ず、特に奔走を続けた機甲戦力の消耗が激しかった。

 

 そしてこの間、欧州枢軸軍というよりもドイツ中枢は大きく混乱していた。

 

 一刻も早くバクーを落として南方方面に救援軍を派遣するべきか、バクーばかりかコーカサス戦線全てを棄てて、全力で兵力を移動して戦線の再構築を行うか、だ。

 

 陸軍総司令部(OKH)は総司令官のブラウヒッチュウ元帥から一般の参謀に至るまでほとんどが、今すぐコーカサスから全部隊を転進させて戦線を再構築するべきだと考えていた。

 前線からも同じ要望が各所から届いていた。

 42年冬から装甲部隊の再建と拡大に奔走していたグデーリアン上級大将などは、ヒトラー総統に怒鳴り込んでそのまま役職を罷免されてしまっていた。

 

 アドルフ・ヒトラー総統は、将軍達とは違った意見を持っていた。

 後世でもよく使われた「あなたは戦争経済をご存じではない」のフレーズそのままの論陣で熱弁を振るい、バクー油田が如何に必要か、重要か、死活問題であるかを説いて、占領後の救援軍派遣を譲らなかった。

 また、ソ連の燃料源であるバクーを最低でも使用できなくする事は、現状の攻勢を燃料問題から大きく鈍らせる可能性も非常に高いし、今後の戦局に強く影響する可能性も高いのも事実だった。

 

 そして、この議論によって枢軸軍は貴重な時間を失い、結局ヒトラーはバクーの一日も早い攻略を譲らなかった。

 


 ボルガでの戦いの間のバクー正面での戦闘は、バクーの主油田地帯に至る一帯が半ば要塞のように野戦陣地化された対戦車、対装甲陣地となっていたため、ドイツ軍の精鋭部隊は攻めあぐねた。

 

 「VI号重戦車」中隊を前面に立てて強引に突破しようとした強力なSS戦車軍団は、頼みの「VI号重戦車」が正面から撃破される場面にも遭遇した。

 「VI号重戦車」をこの時点で撃破したのは、アメリカ製のM3 90mm砲だった。

 もとは高射砲で、1940年冬から41年にかけてアメリカ本土防衛のために高射砲として過剰に生産されたものを、必要なくなったので対戦車砲に改修したもので、かなりの数がロシアにレンドリースされていた(※日本なども同砲を大量に供与されている。)。

 この対戦車砲ならドイツ軍の88mm砲ともほぼ互角に撃ち合うことが出来たし、「VI号重戦車」を比較的まともな距離から撃破する事もできた。

 当時の他の戦車なら容易く撃破できた。

 ロシア人達も複製を試みた程だった(※意外に高額になったので量産はしなかった)。

 

 そして攻勢開始から3日で、ドイツ軍の進撃はほぼ手詰まりとなった。

 ソ連軍の反撃があまりにも激しく、陣地が強固すぎるため、既に長い進軍で疲れが見えて消耗もしている装甲軍団では、突破は不可能だったのだ。

 

 それでも攻勢は続いた。

 ソ連側はバクーに有力な機甲部隊を配備していないので反撃してこないからだが、ソ連軍としてはこの陣地さえ守りきれば勝ちという判断があるため頑健に抵抗した。

 陣地も非常に重厚に作られていた。

 このため1メートルを争うという攻防が続いたが、遂にドイツ軍は引かざるを得なかった。

 

 ボルガでの戦いが、いよいよ容易ならざる事態、つまり反撃に転じたソ連軍が黒海もしくはアゾフ海への進撃を行う可能性が高まったからだ。

 万が一ロストフで遮断されてしまえば、コーカサスとボルガ河口部の枢軸軍合計250万近い戦力が本国と切り離された狭い地域に押し込められる事となる。

 そうなってはロシア戦線の全面崩壊は確実であり、ドイツ、いやヨーロッパが戦争を失うことになってしまう(※厳密にはクリミア半島からコーカサスへの経路は残されるが、短時間で重装備を持ったままの大軍を通せる場所ではない)。

 

 そうならないためには、もはや全面的に下がるより他無かった。

 流石のヒトラーも自らの意見を下げて、戦線の維持とコーカサスからの「転進」を許可し、さらに前線の将軍達にかなりの自由裁量権まで与えた。

 全ては戦争を失わないためだった。

 

 だがドイツ軍は、バクーからの去り際に徹底した重砲による長距離砲撃と、動員できる限りの空軍機による爆撃を実施した。

 目標は油田地帯とパイプライン。

 せめてソ連軍が今後使う石油を少しでも減らそうと言う嫌がらせの攻撃で、ヒトラー総統が命じたものだった。

 

 この攻撃は、軍隊への攻撃を警戒しすぎていたソ連軍の虚を突くことになり、また石油が欲しいドイツ軍が油田を無差別に破壊しないと楽観視していた事も重なって、大きな損害を出すことになってしまう。

 バクー油田は、一時的に30%に産油量が低下し、パイプラインの完全な再建は戦争中には叶わなかった。

 他にも油田に連動した製油施設にも大きな損害が出ており、油田全体の4分の1の機能が一時的に失われることとなった。

 幸いというか皮肉というか、この時点ではカスピ海を経由しての輸送力が限られていたので問題は無かったが、その後のソ連の戦争に小さくない影響を与えることとなる。

 

 この一事をもって、枢軸側の限定的な作戦成功とする評価もある。

 


 コーカサスから150万の兵力が移動を開始した。

 

 撤退は前進より難しいと言われるが、主力が機甲部隊のため撤退も迅速だし、追ってくる敵への対処も比較的容易かった。

 それに、コーカサスのソ連軍は防戦主体の重装備の歩兵部隊がほとんどで、しかも既に大きく消耗しているため、コーカサス方面からの追撃は厳しくは無かった。

 

 大変なのは、アストラハンからボルゴグラード、ヴォロネジ前面にかけての前線の維持だった。

 ボルゴグラード周辺のドイツ第6軍は半ば包囲されており、枢軸側の同盟軍2個軍が編成から姿を消すほどの損害を受けていた。

 

 それでも枢軸側の撤退と部隊の再配置が進められた。

 枢軸側が予定した新たな南方戦線は、クルスク前面からロストフ前面にかけてだった。

 これにより、南方の戦線の長さはコーカサスを含めると一気に4分の1近くに縮小し、戦線を整理して戦力密度を高めることができる。

 作戦の実質的失敗から自信を失っていたヒトラーは、この撤退案と持久戦略への転換に大きな異を唱えることもなく、前線に裁量権もあったため兵力の移動は比較的うまくいった。

 

 もちろんソ連軍はドイツ軍に襲いかかったが、5月からの戦闘でより多くの損害を受けているソ連軍に追撃しきる戦力はなかった。

 さらにはロストフに向けて突進する力も不足していた。

 唯一の連合軍である満州帝国軍は、戦力の再編成が終わらないと言う理由で、一連の攻勢が停滞した後はおつき合い程度の攻撃しかしなかった。

 

 しかもドイツ軍は、規模は限られていたが追撃で突出したソ連軍部隊の撃破にも成功しており、コーカサス方面とボルガ河口部に展開していた枢軸軍は大きな犠牲を出すことなく兵力の再配置を図ることができた。

 

 だが5月下旬から二ヶ月間に枢軸軍が受けた損害は、死傷者100万人に達し、戦車だけで3000両失っていた。

 

 3000両という数字は、1943年にドイツが生産した戦車の約半数に当たる数字で、無視できる損害では無かった。

 それ以上に、無理な攻勢と防戦を一度に行った事による人的損害は極めて深刻で、以後枢軸軍は攻勢を取る能力を無くすばかりか、防戦一方に追いやられることになる。

 


 その後もロシア戦線は、両軍の戦力再配置と戦線の引き直しで大きく動き続けたが、両者の戦力が拮抗していた事と、主にドイツ軍がソ連赤軍に付け入れさせなかった為、ほぼ欧州枢軸側の思惑どおりの戦線が再構築される事となる。

 だが、その移動で夏を使い切ってしまい、また移動の労力もあって双方共に能動的な攻勢に出ることは出来なかった。

 

 そして秋になると戦線が完全に膠着してしまい、どちらも戦力と戦線の再構築を続けたためそのまま冬の対陣となった。

 

 ロシアの大地の地獄は、まだまだ終わる気配は見えなかった。

 


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