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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
51/140

フェイズ32「WW2(26)バクー攻防戦」-1

 1943年5月、ロシアの大地は決戦、もしくは決断の時を迎えていた。

 

 ロシア戦線でのヴォロネジ攻防戦は1943年3月末に終了し、再び戦場は静かになった。

 しかし両軍共に再編成と再配置に忙しく、5月に動きだすことを想定していた。

 

 そして、両軍合わせて1000万人以上の巨大すぎる軍団が動き回ったのだが、この時期のロシアは春の雪解けで地面が泥のようになって進軍どころではないので、敵を気にせず移動できるのが唯一の利点だった。

 そして両陣営共に、戦争の転換を図る為の作戦を練り、そして動いていた。

 


 枢軸軍の一番の狙いは、昨年から継続されているバクー油田の恒久的な占領だ。

 ベネズエラ、ペルシャ双方の油田からの移送が危機的状況に瀕しているので、新たな油田の確保は最早一刻の猶予も許されない状況だった。

 

 対する連合軍、というよりソ連軍の目標はコーカサスに犇めいている枢軸軍200万の大軍を包囲殲滅することだった。

 それが無理でも、コーカサスから叩き出すことを戦略目標としていた。

 

 そしてこの両者の目標の場合、枢軸側が不利だった。

 枢軸側は春に戦線の側面を固める部隊が大打撃を受けた為、その混乱がまだ続いていた。

 兵力の移動はソ連軍よりも激しく、戦線の側面となる地域の防衛のためにコーカサスから丸々一個装甲軍を呼び戻さざるを得なかった。

 このためバクー侵攻のための戦力が不足してしまうが、コーカサス方面では主攻勢正面を限ることで戦力の節約を行おうとしていた。

 前年はコーカサス全域の占領を目指していたが、今回はバクーに絞り込んでソ連から石油を奪うことを第一目的とした。

 自分たちが石油を使えるようになれば一番だが、それは二の次とした。

 まずソ連から油を奪い、ソ連が身動きできなくなってからコーカサスの完全占領を目指せばよいと考えが改められたからだ。

 そして油を失ったソ連の大きな弱体化は間違いなく、翌年モスクワを落としてロシア戦線にケリを付けるつもりだった。

 

 一方では、枢軸内で持久作戦に転じるべきではないか、という意見も強かった。

 既にロシア戦線での兵力差、戦力差は、ソ連軍優位に傾いていたので、大規模な攻勢と戦線の維持の双方を行うことが難しくなっているからだ。

 また石油問題に関しては、統計数字、各種資料から人造石油の生産を大幅に拡大することでガソリン供給の目処は立っているので、バクーにこだわる事もないという意見も強かった。

 この場合、皮肉なことに世界中の枢軸の勢力圏が縮小しているので、重油の需要が今後大幅に減少する事が確定的なのが、持久派といえる人々の意見を補強していた。

 

 そして持久派としては、連合軍が戦争を投げ出すまで欧州を守りきれば、この戦争は乗り切れると考えるようになっていた。

 もはや、アメリカの圧倒的という以上の国力と生産力は明らかな上に、無尽蔵に兵力を用意してくるロシア(ソ連)を力づくで滅ぼすことも極めて難しくなったので、持久戦略こそ正しいと論陣を張った。

 

 だがドイツ、というよりナチスそしてアドルフ・ヒトラーは持久を否定し、アメリカ人がヨーロッパに来る前にヴォルシェビキ(ソ連共産党政権)を倒し、ヨーロッパを奪いに来る植民地人アメリカと劣等人種(日本)を撃退して戦いに勝利するのだと譲らなかった。

 ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)にとってソ連の共産党は不倶戴天の敵であり、ヒトラーにとってスターリンは宿敵なのだから、彼らとしてはアイデンティティーとして譲るわけにはいかなかったのだ。

 ソ連を倒さずに持久戦略を採ることは、自分たちの戦争目的、政治目的、そして精神的目的の放棄だからだ。

 


 また、現実問題として、コーカサスには42年夏に200万の精鋭部隊が攻め込み、43年春の時点でも170万以上の大部隊が展開していた。

 しかも機甲部隊の実質3分の2近くが依然としてコーカサス方面にあって、ソ連軍部隊と対峙していた。

 そしてアストラハンからボルゴグラードを経てクルスク方面まで、1個機甲軍を含む150万以上の大軍を以てソ連軍の反撃を押しとどめる戦線を作り上げていた。

 南方とほぼ同じ距離となる北方と中央には合わせて120万の兵力しかなく、機甲部隊は少なかった。

 春の戦いで枢軸側は50万以上の兵力を失ったので、予備と呼べる戦力もヨーロッパ本土で編成もしくは再編中の部隊以外にほとんど無かった。

 

 つまりは、バクー以外を攻勢の戦略目標とするには、夏の間のほぼ全てをかけて兵力の再配置を行わなくてはならない。

 補給態勢の事も考えたら、最低でも2ヶ月は必要となる。

 後世の一部で言われるモスクワ攻略の可能性については、物理的には夢物語レベルで不可能なことだった。

 加えて言えば、戦力の移動はソ連軍の方がむしろ有利だった。

 もちろんコーカサス方面の戦力は枢軸側以上に簡単には動かせないが、当時のソ連軍の野戦軍主力はヴォロネジからボルゴグラード(スターリングラード)の東方に展開しており、モスクワ正面への移動も枢軸よりも容易かった。

 その気になれば、アストラハン方面からコーカサスに突進させることも不可能ではなかった。

 

 そして43年春頃のソ連軍は、軍属を除いて約800万を数えるようになっていた。

 しかし練度の低い兵士が多い上に、ロシア語をほとんど理解できないアジア系兵士が激増しているため、攻勢に使える精鋭部隊はせいぜい4分の1程度だった。

 20才から25才の若いスラブ系ロシア人(白人)兵士は激減していたが、数は力だった。

 加えてロシアの大地には、連合軍として80万の満州帝国軍がクルスク前面に布陣していた。

 枢軸との単純な戦力差は約2倍に開いており、41年冬から構築されたモスクワ前面の陣地地帯などの防戦の有利を考えると、この時期に枢軸側がロシア戦線で大規模な攻勢に転じるのは非常に危険だった。

 後世の評価では、戦争に負けないために長期持久体制の構築に全力を傾けて、連合軍が戦争を投げ出すまで抑え込み続けるのが一番だと言われることが多い。

 しかしそれは、国家財政の面から見たら破産に向かうのも同じだった。

 何であれ勝たなければ、ドイツに明日は、未来は無かった。

 

 戦争をじり貧で終わらせない為にも、枢軸側は「賭け」に出るより他無かった。

 そして賭けに出ることができる場所は、物理的制約によってバクー油田しかなかったのだ。

 


 かくして欧州枢軸は、三度ロシアの大地に総力を挙げて襲いかかることを決める。

 しかしこの決定に不満を持つ国は少なくなく、特にイギリスは大西洋とインドの防衛に力を入れると決めて、ドイツや欧州枢軸との距離を今までよりも取るようになってしまう。

 そしてイギリスに甘いヒトラー総統が、ロシア人を倒すまでの時間稼ぎをイギリスがするのだと、イギリスの行動を半ば放任してしまう。

 これではせっかく友軍、構成国家が一つの地域に固まっている優位を棄てるに等しいが、当初から二正面戦争になっている事自体が戦略的に間違っているのであり、今更な状態とも言えるだろう。

 


 欧州枢軸によるバクー進撃の開始予定は、5月半ばが目指された。

 5月に入れば泥の季節も終わり、あとは乾いた夏の季節が訪れ、進撃が容易くなるからだ。

 また、時間が経てば経つほどソ連軍が強化されるので、攻勢を行うなら一日でも早い方が良かった。

 

 またこの攻勢開始は、ヒトラーの気まぐれが一つ作用していた。

 

 新兵器を攻勢に投入することだ。

 

 新兵器とは「V号戦車」と「VI号戦車」だ。

 「パンター(パンサー)」、「ティーゲル(タイガー)」の名で知られる非常に優秀な戦車の初期型で、新兵器好きのヒトラーが新たな力によって戦局を打開できると考えた。

 いや、期待した。

 

 「V号戦車」は、中戦車が究極的に進化した姿の一例だった。

 45トンを越える重戦車並の重量と巨体、その重量から考えたら十分な機動性、各部が傾斜した十分な分厚さを持つ装甲、そして70口径という異常に長い砲身を持つ75mm戦車砲を有する。

 しかも様々なギミックが組み込まれており、一部では量産に不向きな装備も見られた。

 そして開発と量産を急いだため、量産当初は完成度が低かった。

 また構造が複雑なことが量産の妨げになった。

 実際、初期型のA型は故障が多く、D型でようやく求められた性能を発揮するようになっている。

 

 「VI号戦車」は、ドイツ陸軍が初めて保有したと言ってよい重戦車だった。

 57トンの重量と巨体、100mmに達する垂直に切り立った重装甲、そして何より当時の全ての敵戦車を撃破可能な56口径88mm対戦車砲を装備していた。

 ただし欠点も多く、特に量産性に欠ける上に、整備が非常に大変だった。

 足回りが弱いため、運用にも細心の注意が必要で、専門に熟練した戦車兵と整備兵を掛け合わせた特別編成の部隊でしか、まともに運用することが出来ないほどだった。

 これは他の枢軸国で運用された事がなく、連合軍が捕獲して使用された例がない事からも明らかだ。

 凝り性と言われるドイツ人以外が運用できない「特別な」戦車なのだ。

 試供品として、大金をはたいて入手したイギリス本国が、「戦車を買ったつもりが、工芸品を買ってしまったようだ」と論評したほどだった。

 

 上記二つの兵器は、1943年に入る頃から量産にかかりつつあり、「VI号戦車」の方が量産開始が少し早く、一番最初の実戦部隊(重戦車大隊)は中東へ送られている。

 そしてヒトラー総統は、量産開始が少し早かった「VI号戦車」が一定数揃ってから攻勢をするべきだと考えていた。

 「V号戦車」は試験運用と訓練中に問題の多くが露呈したため、流石に5月の投入は断念したが、それでも夏の実戦投入を強く命令していた。

 そして「VI号戦車」による1個重戦車大隊、4個中戦車大隊が何とか前線に揃う5月22日が作戦発動日に変更された。

 

 上記二機種以外にも、48口径75mm砲を搭載した「III号突撃砲」、「IV戦車H型」が各部隊に量産配備されるようになり、ドイツの機甲戦力は質の面で大幅に強化されていた。

 


 バクーを再度攻める枢軸軍は、ソチなど黒海側でソ連赤軍がまだ保持している都市の攻略を取りやめて、同方面の戦力を可能な限り削減した。

 山岳地帯を圧迫し続けていた戦力も同様で、一部では後退も行って戦線を整理して必要最小限の戦力とした。

 その上でカスピ海側に戦力を集中し、兵站駅となっているグロズヌイ(コーカサス山脈北東部山麓の都市)を起点として、カスピ海沿岸の都市マハチカラ前面の強固な陣地を強引に突破し、その後都市を包囲しつつ進撃を継続、一気にバクーを目指すこととされた。

 ただしマハチカラからバクーに至るカスピ海沿岸は、すぐにコーカサス山脈が迫っているため、機甲部隊の進撃に適した十分な平地が無かった。

 このため機甲部隊による迂回突破は非常に難しく、強引に突破していくしかなかった。

 山間部では山岳師団などによる牽制攻撃も行われ、空挺部隊の投入も計画されていたが、約350キロの道のりを押し通るより他無かった。

 

 主に攻勢を行うのは、第1装甲軍、第4装甲軍、第11軍になる。

 これらでA軍集団を再編成し、第17軍、イタリア第7軍、新着のイタリア第2軍、フランス第5軍で他のコーカサス戦線を支えるC軍集団を再編成した。

 この移動だけでも大変で、4月丸々が使われた。

 しかし春に戦闘のあったボルガ川、ドン川方面の戦力が低下しているので、本来コーカサスに向かう予定だったドイツ軍の本国からの増援の多くがボルガ川、ドン川方面に充てられた。

 加えてイギリス本国からは、多数のバレンタイン歩兵戦車、クルセイダー巡航戦車など多くの兵器が枢軸各国に供与された。

 

 また空軍については、第2、第3航空師団が支援に当たることになっており、本国にある形だけの第1航空師団、他のロシア戦線を担当する第4航空師団よりも質量共に高い状態とされた。

 イタリア空軍、フランス空軍も旅団規模の空軍部隊を展開した。

 

 なお第1装甲軍には大ドイツ装甲師団、第4装甲軍にはSSと通称されるナチスの親衛隊の実戦部隊(武装SS)のうち、第1、第2、第3装甲師団が編成に組み入れられていた。

 これらの師団は、部隊規模が大きい上に重戦車中隊を持ったり重砲が他より強力など、通常よりも優良な装備を持っていた。

 そして全部隊の先鋒を担う事になっていた。

 


 今回も迎え撃つ形となったソ連赤軍だが、2年間の戦いで組織など質の面で大きく変化していた。

 加えて、主に北太平洋航路とシベリア鉄道によって安全に注ぎ込まれるアメリカ、日本の物資の奔流が、質の面、装備の面で著しい変化を及ぼしていた。

 アメリカのレンドリース、日本帝国、満州帝国とのバーター取引や供与兵器、物資によって、当時のソ連の戦争は支えられるようになっていた。

 ソ連は支援に全面的に依存することで、自らの生産を戦車、重砲、戦闘機などの正面兵器の生産に特化し、武器弾薬以外の衣服、食糧の多くを支援に頼った。

 また、自動車、トラックは多くがアメリカ製となり、無線機など量産が必要な電子機器の多くもアメリカからの貸与に頼った。

 

 正面装備となる兵器についても、戦車、戦闘機の多くがアメリカ、日本から送られた。

 日本は主に中華とインドで陸上の戦線を抱えていたので支援は限られていたが、アメリカは国力に比べて地上戦をしているのはインドなど一部なので、この時期に生産された陸軍用の兵器の多くがロシアの大地に注ぎ込まれた。

 装備の一部はロシアに派遣されている満州帝国軍にも注がれたが、当時のロシア戦線の80%がソ連赤軍のため受け取る装備、物資は膨大な量になっていた。

 

 もっとも、ロシア戦線向けレンドリースの約20%は満州帝国軍向けとなっていたので、現地満州帝国軍は日を増すごとに強化され、43年夏頃になるとソ連軍の親衛隊並の装備を有するまでに強化されている。

 

 部隊編成も戦果を挙げたことなどを理由に改変され、紙の上でも戦車師団、自動車化師団による2個機甲軍団が編成上に姿を見せていた。

 こうした部隊は満州族の伝統にならって「八旗」と通称され、特に精鋭部隊は皇帝直属部隊とされて「禁軍(=近衛軍)」などとも呼ばれた。

 春前の戦闘で実働60万人まで減少した兵力も、大幅な補充によってもとの兵数を上回るまでに回復していた。

 満州からロシアへと足を踏み入れた補充兵達は、満州帝国軍の勝利の宣伝によって自ら志願した男達だった。

 

 そして枢軸軍を迎え撃つ主な装備だが、陸では無尽蔵に量産されるようになった各種「T-34/76」中戦車が中心だったが、アメリカ製の「M4」中戦車も急速に数を増しつつあった。

 満州帝国軍では、全ての師団に戦車大隊を置く事が可能なほど供与が進んでいた。

 ソ連軍にも配備が進められ、稼働率の高さや操作し易さなどからロシア人達から非常に好評だった。

 「M4」の防御の難点については、どの戦車でも寿命は一週間と言われたほどの状態だったので、特に不満が出る事はなかった。

 ただし貸与された戦車のかなりは、無線機が搭載されていなかったと言われている。

 また現地改造で、タンクデサントがし易いように取っ手が溶接されたりしている現地改造型もあった。

 

 空軍については、ソ連の機体も「ヤコブレフ Yak-3」、「ラボーチキ La5FM」など優秀なものが量産され始めており、日米の貸与、供与も規模を拡大していたが、状況が好転しているとは言い難かった。

 戦車同様もしくはそれより酷い比率で撃墜されるため、機体をいくら投入しても満足のいく制空権が取れない状態が続いていた。

 しかも枢軸側は、ドイツだけでなくフランス、イタリアなども大規模な空軍部隊を派遣しているため、数の優位すら難しい状態が続いていた。

 このため満州帝国軍で一定規模まで編成されていた空軍部隊については、ロシア戦線への投入が躊躇われる状態が続いていた。

 この空の優位も、枢軸側が攻勢を決意した大きな理由になっていた。

 


 1943年5月22日、枢軸軍によるロシア戦線での三度目となる夏季攻勢が開始された。

 目標はバクー油田。

 

 狭い戦線で第1装甲軍と第4装甲軍が横並びとなり、濃密な機甲突破部隊を編成して、ソ連軍が待ちかまえるマハチカラ前面の重厚なパック・フロント(対戦車陣地群)へ正面から突撃した。

 

 ドイツ軍機甲部隊の突破力は、ソ連軍の予測を大きく上回っていた。

 同時に、ソ連軍の3重に敷かれた対戦車陣地群はドイツ軍の予測を上回っていた。

 だがこの時は、ドイツ軍機甲部隊の方が上回っていた。

 よく言われるように「ティーゲル」と愛称の付けられた「VI号重戦車」の力だけでなく、突破を命じられた部隊全体の威力(戦力)が大きかったためだ。

 

 ソ連軍が一ヶ月は持つと考えていた重厚な陣地群は、1週間で全て突破されてしまう。

 しかも現地は広い平原ではないので、突破された場合はその都度増援を注ぎ込む他なく、増援が尽きた時点で戦線が突破されることになる。

 この戦いは、第一次世界大戦の塹壕戦と少し似ていた。

 この時点でソ連側に機甲部隊の予備はなく、全てがドイツ軍精鋭部隊の鋼鉄のミキサーに細切れにされてしまう。

 無論ドイツ軍も無傷ではなかったが、まだ十分に突進力を有していた。

 このために、去年の秋から準備してきていたのだ。

 

 なおこの一連の戦いを「マハチカラ大戦車戦」と呼ぶ事もあるが、戦車など機甲部隊の密度はともかく絶対数はそれほど多くはない。

 

 マハチカラ前面のパック・フロント突破後、枢軸軍は機甲部隊をほとんど持たない第11軍の一部にマハチカラ市の包囲とその後の占領を命じると、そのまま突進を続けた。

 まだ最初の目標を超えたばかりで、時間をかけている場合では無かったからだ。

 

 ドイツ軍の次の目標は、120キロ先のデルベントの街。

 地形はさらに平野部が狭くなるため、第1装甲軍と第4装甲軍が交代で先鋒を担って間断なく突進していった。

 そしてマハチカラ前面でコーカサス方面の戦力の多くを投入していたソ連軍に、これを押しとどめることは出来なかった。

 出来るのは遅滞防御戦で、これは当初それなりに機能した。

 

 だが、コーカサス山脈を踏破してきたドイツ軍山岳師団や猟兵部隊、空挺部隊の精鋭が山側から各地に浸透してソ連軍の戦線の側面や後方を脅かすと、遅滞防御もあまり機能しなくなってしまう。

 マハチカラにほとんどのチップ(戦力)を載せていた現地ソ連赤軍は、戦線を支えながら後退するのがやっとだった。

 

 このコーカサスの状況は、ソ連軍または連合軍によるカスピ海を使った補給と戦力補充に限界があった事が原因していた。

 ただでさえ100万以上の軍隊を支えなければならない上に、帰りには石油も運ばねばならず、その上で補充や増援、毎日の補給を行うのは、流石に荷が重かったのだ。

 東鉄など連合軍もコーカサスの輸送に多くの努力を割いたが、労力と犠牲は許容量を大きく上回っていた。

 ロシア戦線とは、それほど巨大な陸戦の舞台だったのだ。

 


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