表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
49/140

フェイズ31「WW2(25)大戦中期の各国の就役艦艇」-1

 インドでの戦いが終わろうとしている時期、各国では新規の大型艦の迎え入れが進んでいた。

 


 1943年6月、インド最後の要衝カラチが強襲上陸作戦とパットン将軍らのデリーから南下した機甲部隊による挟み撃ちで陥落した。

 これでインドでの戦いは、残敵掃討を残して終了した。

 ガンジス川中流域での戦い以後の戦況推移は、戦略、戦術双方で彼我の差が大きく開いたため非常に早かった。

 インドでの戦いは、結局の所植民地での戦いであり、補給路が無くなった枢軸側は、民心の離反もあって自壊の形で溶けるように消えていった。

 もちろんその後も、奥地に潜んだ小規模兵力による抵抗や小規模なゲリラ戦は行われたが、インドでの大勢は決していた。

 

 120万も溢れた連合軍は、半年後には連合軍側の自由インド軍を除けば10万程度にまで減少している。

 

 その後インドでは、主に宗教を原因とする内部での対立が激化していくが、それは戦争自体にはほとんど関係のない事だった。

 戦場としてのインドは、既に「終わった場所」となったのだ。

 


 そしてカラチが落ちた事で、連合軍の爆撃機はアラビア半島北東部を作戦行動圏内に入れたので、欧州枢軸側はペルシャ湾を通過する海上ルートがほぼ途絶されてしまう。

 実際6月には、カラチからペルシャ湾口のホルムズ海峡付近の欧州枢軸陣営の基地に対して、「深山」爆撃機を用いた大規模な爆撃が実施された。

 

 これはペルシャのアバダン油田の輸送ルートが一つ閉ざされただけでなく、ペルシャ湾からイラク、そしてイランからバクー油田方面への攻撃を行っていたイギリス本国軍の補給ルートの一つを閉ざすことにもなった。

 

 もちろん地中海からペルシャ湾岸まで陸路の鉄道を使うルートは活用出来るが、このルートは基本的に石油を運ぶことにしか使えない。

 なぜなら、当時は中立国のトルコ領内を通過するルートしかまともな鉄道が無かったからだ(※オスマン帝国時代の影響で、本格的な鉄道ではない軽便鉄道が敷設されている地域もある。)。

 トルコも一般貨物扱いできる石油ならともかく、軍隊、軍需物資の輸送は拒んでいた。

 戦局が徐々に連合軍有利に傾いているので尚更だった。

 それでも欧州枢軸側は、トルコにアメと鞭双方を見せて何とか鉄道の軍事輸送を認めさせようとしたが、トルコに戦争も辞さずの態度を見せられては、これ以上強い態度には出られなかった。

 戦争状態になって鉄道運行が滞れば、アバダン油田の石油輸送すら危機に瀕するからだ。

 既にベネズエラ油田からの輸送も危機的状況なので、これ以上の危険は犯せなかった。

 

 このため軍事面で地中海からペルシャ湾やコーカサス山脈方面へ向かうには、途中まで道路を使うしかなく、鉄道はイラクの一部でしか使えなかった。

 このため中東のイギリス軍を中心とする枢軸軍は、車両不足と深刻な補給不足に陥ってしまう。

 当然だが、イラク北部からのバクー方面、コーカサス方面の空襲は規模を大きく縮小し、イランからソ連国境を脅かしていた部隊は、引き揚げざるを得なかった。

 当時はロシア戦線も正念場だったが、補給のない軍隊には価値が無かったからだ。

 

 また、インドから陸路ペルシャ経由で苦難の撤退をしてきたイギリス本国軍、ドイツ・インド軍団に対しても、イラク領内での再編成もままならなかった。

 これを憂慮したのはイギリス以上にドイツの方で、ドイツは43年6月に急いでトラックと物資そしてドイツ軍用の装備を満載した船を中東に出した。

 イギリスも同じように船団を出したが、このドイツ、イギリスの中東への補給強化は、当然だが他の戦線にも影響を与えた。

 

 一番影響があったのはロシア戦線で、ただでさえ十分な数ではない輸送トラックが大きく減少してしまう。

 また期待の重戦車大隊の一つが、ヒトラー総統の鶴の一声で中東に回されてしまい、他にもIV号戦車の新型(48口径75mm砲装備型各種(G型またH型の初期型))も、かなりの数が中東に優先的に回された。

 インドで奮闘してドイツの存在感を示したロンメル将軍(※インドでの功績を評価され上級大将に昇進)には、いち早く補給と補充が必要だと判断されたからだ。

 現実問題として、イランの油田を守るためにも、兵力の増強は必要だった。

 イギリス本国も、かなりの努力を中東に注いでいる。

 危険を承知で、紅海からアラビア半島沿岸を通る海路も使われ、多大な犠牲を出しつつ補給が行われた。

 


 なお、インドを巡る攻防戦では、1942年春から約1年の間に損害を省みず枢軸側の船舶が行き交ったため、インド洋だけで毎月平均40万トン(月間の最大で53万トン)、合計約400万トンの輸送船舶が失われた。

 

 しかも失われた多くが、ヨーロッパではイギリス以外があまり保有していない外航用の中型以上の貨物船で、イギリスが多数建造した《エンパイアー級》の戦時標準船(※アメリカの《リバティー級》、日本の「A型」と同規模)も多数犠牲となった。

 また、船団護衛のために出撃を繰り返した駆逐艦など護衛艦艇の損害も酷く、駆逐艦だけで40隻以上が失われた。

 さらに連合軍が空襲、潜水艦と併用して水上艦艇を艦隊規模で運用して大規模な通商破壊戦を行うため、小規模から中規模の水上戦が発生した。

 加えて、双方の空襲による艦艇の損害も大きく上積みされた。

 

 同時期のカリブ海は巡洋艦など高速大型艦の墓場、アイアン・ボトム・シー(鉄底海)とも言われたが、アラビア海は駆逐艦など護衛艦艇の墓場だったのだ。

 主にイギリスが受けた巡洋艦の損害も小さくなく、4隻が沈みその倍の数が深い損傷を受けた。

 連合軍も巡洋艦の損害は出たが損失はなく、しかもアッズやセイロン島など進出した大規模な修理・整備部隊(大型工作艦や浮きドックなど)で迅速に修理するため、戦力の補充と維持という点で連合軍が圧倒的に優位にあった。

 そして数の上で枢軸側は当初から数の上で不利なのに、時間が経つほど不利は大きくなっていった。

 


 一連の戦闘ではイタリア海軍も何度か小規模、中規模の海戦を展開したが、イギリス本国海軍同様に損害を受けると、大型艦の損害を恐れて紅海入り口のアデンに引き篭もり状態になってしまう。

 それでもアデンに高速戦艦多数がいれば連合軍は安易に侵攻できないので、艦隊保全にはある程度意味があった。

 アデンなどには、イタリア空軍もかなり増強された。

 

 また1943年春には、イタリア海軍待望の《ヴィットリオ・ヴェネト級》戦艦3番艦の《インペロ》が戦列に加わった。

 外見がイギリス艦のようになるまで徹底改装された豪華客船からの改装空母 《アクィラ》も、ようやく完成を見て地中海での訓練に入っていた。

 同様の改装工事に変更した空母 《スパルヴィエロ》も、急ぎ大規模な改装中だった。

 

 大型艦以外だと、小型の巡洋艦ながら防空能力も期待できる《カピターニ・ロマーニ級》の大量建造を急いでいた。

 1941年秋頃から巡洋艦の大量喪失が、質より量の戦略をイタリア海軍に採らせたためだ。

 駆逐艦についても、イタリア海軍らしい瀟洒なデザインの《ソルダティ級》は計画半ばで中断され、小型の対潜型コルベット(《ガッビアーノ級》)の建造に変更された。

 ただしコルベットは地中海運用が前提の艦艇のため、イタリア海軍が何を考えていたのかが良く分かる例と言えるだろう。

 

 そしてイタリア海軍が新規戦力を迎え入れたように、1942年秋頃から、列強各国は大型の新鋭艦を多数就役させつつあった。

 

 これには理由があり、戦争直前の1938年、1939年に建造計画がスタートした場合が多いからで、加えて1941年の改装計画が実を結んだからでもあった。

 

 枢軸側から順に見ていこう。

 


 まずは枢軸の盟主ドイツだが、ドイツ海軍の新鋭大型艦は航空母艦 《グラーフ・ツェペリン》がようやく完成を見たばかりだった。

 

 1936年の年末に起工された同艦は、就役まで7年の歳月をかけたように、試行錯誤と設計変更の連続だった。

 そもそも当時のドイツに航空母艦の建造ノウハウが全くないので、イギリスの《フェーリアス》を参考にして、他国から得た僅かなスパイ情報と各国が保有する艦艇の外観から推測した設計、建造が進められた。

 関係の薄い日本にまで、有償技術供与の打診や協力要請があったりもした。

 そしてどこからの支援も受けられなかった。

 当然というべきか、そのままではまともな空母になるわけがなかった。

 空母は現代においても建造のための特殊な技術と経験が必要とされる特殊な艦艇だからだ。

 

 しかもドイツ海軍は、同艦を一種の通商破壊艦として使用することも考えていたので、単艦で作戦行動して遭遇戦があっても対応が出来るように、空母に多数の火砲を装備しようとした。

 

 基準排水量が2万トンを越えながら搭載機数が少ないのは、初期の火砲を多数搭載する設計を引きずっている為だ。

 また同艦は、イギリスを倣って飛行甲板にある程度装甲を施すことで、さらに搭載能力を減らした。

 

 また初期設計では、火薬を連続して爆発させる方式の危険なカタパルト、構造が複雑すぎるエレベーターなど、常識を疑うような艤装予定の装備もかなり見られた。

 

 同艦にとって幸いだったのは、1940年7月にイギリス本国との戦争が終わったことだった。

 事実上降伏したイギリスから、多数の賠償艦と関連する技術が得られたからだ。

 しかもイギリスは、アメリカとの戦争が本格化するとドイツに対する全面的な協力をドイツに打診し、同艦の仕様は大幅にイギリス方式を導入することとなる。

 火砲を両用砲と機銃のみとし、カタパルト、エレベーター、着艦装置などをイギリスから輸入するなど装備面でも大きな変更が見られた。

 

 とはいえ簡単に変更できたわけではなく、まずは頓珍漢な部分が多かった設計図をまともな形に書き換え、資材、装備を揃えながらの建造工事となった。

 

 その後も、ソ連戦勃発に伴う建造優先度低下などの困難を乗り越えて、ようやく1943年2月に就役を見た。

 

 完成した姿は、ドイツとイギリスの折衷的なイメージが強く、ドイツの独自色はかなり薄れていた。

 しかし空母としての基本的なシステムはイギリスのものをそのまま取り入れた為、完成度は依然として過剰な武装を差し引いても及第点となった(※接近戦の可能性があるとして、副砲は全廃されなかった。)。

 

 そして《グラーフ・ツェペリン》に続く重巡洋艦からの改装空母 《ヴィーザル》など、その後の空母の雛形になったほどだ。

 

 とはいえドイツ海軍にとって当面は唯一の航空母艦でしかなく、しかも北大西洋での制海権が怪しくなったので北海、バルト海での訓練以上の行動はしばらく取ることは無かった。

 

 他に空母は客船からの改装が2隻進んでおり、44年半ばの改装完了が予定されていた。

 加えて1940年に計画された海軍計画の2隻の大型空母は、日本、アメリカへの対抗という名目で建造が押し進められており、早ければ44年内の完成を目指していたが、ソ連との戦争のため完成の遅れがこの頃は懸念されていた。

 


 空母以外だと、巡洋戦艦 《シャルンホルスト》《グナイゼナウ》の大規模近代改装が終了していた。

 船体を延長して主砲を55口径28cm3連装砲塔から47口径38cm連装砲塔に変更するのが主な改装点で、その他では副砲を減らして対空装備の充実が図られていた。

 排水量も2000トン以上増えたため、最高速力は約1ノット低下した。

 しかし防御力はほぼそのままなため、名実共に巡洋戦艦となったと言えるだろう。

 

 これ以外の艦は、アメリカ、日本に対抗するための1940年度計画で、16インチ砲を搭載する大型戦艦2隻を中心として巡洋戦艦3隻、空母2隻などが計画され、この頃だと大型戦艦以外の船体が完成した段階だった。

 

 大型戦艦は計画時は「H級」と呼ばれていた《フリードリヒ・デア・グロッセ級》戦艦で、基準排水量5万2600トン、47口径40.6cm砲連装4基8門を主武装とする。

 基本的には《ビスマルク級》の拡大改良型だが、主機関がポケット戦艦と同じオール・ディーゼルという特徴を持っていた。

 非常に長い航続距離を誇り、ドイツ海軍が本艦に何を期待していたのかを想像する事ができる。

 戦艦としての火力は、発射速度の速さもあってアメリカの《アイオワ級》に匹敵する程だが、防御力には建造中から疑問も多かった。

 ヴォータン鋼と言われる性能の高い装甲を使用しているので重防御だと言われ、装甲配置は欧州での戦闘距離に合致したものだったが、日米の海軍関係者は首を傾げる事が多い。

 

 巡洋戦艦は、建造するか悩まれたが、建造にかかる時間を考慮した結果、建造が決まった。

 能力、性能は改装後の《シャルンホルスト級》とほぼ同じだが、各所が簡易化されて面倒な部分も省略された戦時建造型と言える設計になっている。

 

 新型空母は、イギリスから図面を貰い受けた上で《グラーフ・ツェペリン》の経験を踏まえて急ぎ設計されたもので、見た目には《グラーフ・ツェペリン》を一回り大きくしたイメージだが、内部は空母としての完成度を高めているため、日米の空母に準じる能力を有している。

 艦名は《アトランティカ》と《パシフィカ》とされ、ドイツが世界の海に出る意志を見せたが、これは多くの面で宣伝要素が強かった。

 空に関連のある人名が当てられなかったのは、空軍がゲーリングの名を強引に押し通そうとした為で、海軍側の反撃でこの名に落ち着いたと言われている。

 

 そしてソ連との戦いに資源を取られがちなため建造は遅れ気味だったが、1942年夏から秋にかけての大敗以後、「イギリスを助ける」という政治目的の総統命令によって最優先での建造促進が命令され、3交代24時間体制での建造が進められていた。

 だが戦艦は基準排水量5万トン級、巡洋戦艦、空母は共に3万トン級の巨体のため、近年の建造経験が豊富とは言えないドイツでは、就役には1944年を待たねばならなかった。

 そして《シャルンホルスト級》を軽装甲にして簡易化したような内容の巡洋戦艦については、他の艦の建造を急ぐため43年秋の時点で建造計画が凍結され、建造途中だった船体や完成済みだった各種装備など他の艦に回されたり、解体されて他の兵器や弾薬となった。

 

 それ以外に関しては、巡洋艦以下の水上艦艇の建造が遅れがちな上に数も少なかった。

 装甲艦、重巡洋艦については、資材と建造施設の関係もあって1隻も計画すらされていない。

 潜水艦の建造は別格の扱いを受けて多数建造されていたが、それも連合軍の反撃による大量の消耗の前に虚しい状況になりつつあった。

 しかも1942年内までは、戦場が遠方のカリブ海やアメリカ沿岸なので、建造に手間のかかる大型潜水艦の整備を中心としていた為、一度消耗してしまうと回復が難しかった。

 そして1943年に入ってからは、中型や小型潜水艦の建造に力を入れるようになった。

 


 フランスは、1番艦が亡命した《リシュリュー級》戦艦の《ジャン・バール》《クレマンソー》の建造が進んでいたが、1943年前半ではまだ就役していなかった。

 

 空母も、イギリスから技術を導入して《ジョッフル》《ペインヴェ》の建造が進んでいた。

 《ジョッフル級》空母は、計画当初は全長200メートル、基準排水量1万8000トン、最高速力33ノット、艦載機数40機だったが、イギリスからの技術導入により大幅に強化された。

 防御力を高めるために飛行甲板への装甲を厚めにし、飛行甲板自体も前後に伸ばして艦首をエンクローズ(閉鎖型)として、全長を越える210メートルとなった。

 しかし重心低下のためバルジを付けることとなり、基準排水量は2万トンを越えて最高速力も31ノットに低下した。

 また火砲は当初予定の6インチ砲を止めて、当初から両用砲として機銃の装備も非常に強化される事となった。

 

 《リシュリュー級》戦艦4番艦の《ガスコーニュ》は、1941年に急ぎ建造が開始されたが同艦は船体がほぼ完成した段階で、カリブの戦いを踏まえて飛行甲板に装甲を施した重防御空母としての設計変更がこの時期急ピッチで行われていた。

 

 そしてその後計画された《リシュリュー級》拡大型とも呼べる4万5000トン級戦艦は、建造施設のスケジュール、資材不足などのためついに計画以上に発展することは無かった。

 

 巡洋艦などの建造についてもドイツよりも熱心で、《ド・グラース級》の建造再開及び改良型の追加建造が進められ、その他連合軍に対向できる優秀艦艇の整備を進めていた。

 しかし、数が必要となる対潜水艦用護衛艦艇など戦時艦艇の建造は低調なままだった。

 だがフランスの場合は、建造力などの問題から多数整備をするにも限界があるので、大型艦、高性能艦に特化したのも仕方のない一面もあった。

 


 イギリス本国では、1937年、38年の計画だと合わせて戦艦5隻、装甲空母6隻を中心とする計画され、このうち装甲空母2隻が1944年就役予定の他は全て就役していた(※既に戦没艦も多数出ていた)。

 そして1940年秋の戦略状況の激変に伴い、大型戦艦4隻、大型空母4隻の建造を中心とした非常に大規模な艦隊整備計画が開始された。

 

 新型の16インチ砲を搭載する4万トン級の《ライオン級》戦艦4隻、3万6000トン級の《オーディシャス級》装甲空母4隻、1万5000トン級の《コロッサス級》中型空母3隻、大型軽巡洋艦6隻が中心だったが、他の枢軸各国との大きな違いは小型の護衛艦艇の多さだった。

 また、日米同様の商船改造の小型低速空母(護衛空母)多数の整備も盛り込まれており、イギリスが海上交通路防衛を重視している事を見て取ることが出来る。

 しかし43年秋以後は、戦況の悪化で航路の多くを失ったので、大型艦、高性能艦の建造重視へと転換している。

 海上護衛を最大目的としていたイギリス海軍が、何百年ぶりかで艦隊決戦を目的とした海軍へと変化した瞬間だった。

 この一事だけでも、連合軍の戦略的優位が分かるだろう。

 

 なお、1942年に大規模な建造計画が持ち上がったが、カリブでの激戦によって計画は大幅な変更が加えられて、予定していた6万トン級の巨大戦艦(※18インチ砲搭載と言われるが詳細不明)と基礎計画ができていた4万トン級の大型空母を中心とした雄大な計画は、現行の計画の達成促進に変更された。

 

 そして欧州近海での制海権確保と沿岸防衛を主軸に据えた為、小型の潜水艦など沿岸部の防衛に適した艦艇の整備に力が入れられていた。

 

 またこの時期で注目したいのは、大規模な近代改装を行った巡洋戦艦 《フッド》だった。

 機関の換装は工期の関係で諦めたが、水平甲板の張り替えと配置変更による大幅増厚、主砲の仰角の増加、主砲塔の装甲強化、両用砲を含む対空火器の全面刷新、艦橋構造物の刷新、電子装備の充実、これら重量増加を緩和するバルジの装着など多岐に渡り、新造戦艦とよく似た外観に生まれ変わっていた。

 この結果排水量は一気に5000トン以上増えて、最高速力も29.5ノットにまで低下した。

 それでももとが巡洋戦艦なので、防御の強化には限界があった。

 


 一方連合軍だが、艦艇の新規建造能力を持つのは実質的に日本とアメリカだけだった。

 とはいえアメリカは、世界の半分以上と言われるほどの造船能力を持つ工業大国であり、大型艦が建造できる船台だけで16箇所、重巡洋艦などを建造できる造船船台も11箇所を保有し、さらに新たな船台を作って、多数という表現すら不足する艦艇の建造を押し進めていた。

 軽巡洋艦、駆逐艦などの建造可能数に至っては、目を疑うレベルだった。

 しかも建造速度も、他国の追随を許さないほど速かった。

 

 日本はアメリカよりも劣るが、造船能力では1930年代半ばにはイギリスを追い抜いて世界第二位で、平時だった1937年〜39年は世界一の建造量すら誇っていた。

 近代的な施設も次々と誕生し、建造技術も大きく向上した。

 

 1930年代は日本の造船業の躍進期でもあり、北太平洋航路の活発化、日米交流の親密化が造船量を大きく伸ばす要因となっていた。

 そして造船力は鉄鋼生産力を伸ばす大きな要因となり、経済全体も大きく拡大したため軍事予算も大きくなった。

 そして経済の拡大、利権の拡大に伴って海軍のさらなる拡充、本格的な外洋海軍の建設を政府も理解するようになり、海軍工廠の増強、戦時に軍艦が建造可能な建造施設の増加に多くの努力を割いた。

 

 1920年代までの日本は、大型艦建造施設は4箇所しか無かった。

 大型軽巡洋艦以上の艦艇のほぼ全てがこの4箇所、つまり呉海軍工廠、横須賀海軍工廠、長崎三菱造船所、神戸川崎造船所の大型艦建造施設で建造された。

 だが1930年代になると、主にタンカーや大型貨物船を作る民間の尾道船台、今治船渠が建設され、特に今治船渠では海軍呉工廠の全面的な協力のもとで電気溶接によるドック建造、ブロック工法の研究も行われた。

 

 そして1937年に海軍休日が終わると、横須賀では整備、修理用を兼ねた巨大な建造ドックの建設が始まった。

 民間でも、三菱が長崎に、川崎が泉州にそれぞれ巨大な建造用ドックの建設を開始した。

 民間施設は日本経済の拡大に応じたものだったが、全て有事を見据えたものでもあった。

 このため海軍予算から多くの助成金も出されていた。

 その他、戦時建造計画を前にして、佐世保工廠の機能を強化して中型艦用建造ドックが建設され、辺境とすら言える大湊にも中型艦の建造も可能なドック(主に入渠用)が作られた。

 さらに5箇所の民間造船所(大阪鉄工所、玉造船所、浦賀船渠、播磨造船、鶴見製鉄造船)を有事の際には重巡洋艦や中型空母まで建造可能なように能力を強化した。

 これらを合計すると、最大で大型艦9隻、中型艦7隻が同時建造可能だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
小説家になろうSNSシェアツール
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ