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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ30「WW2(24)インド本土戦2」-2

 そして連合軍だが、枢軸側の思惑どおり動く気はなかった。

 だからこそ、空軍の支援のもとで機甲部隊の総力を挙げて突進を行い、電撃的にインド・イギリス軍主力を大胆に包囲殲滅しようとしたのだ。

 連合軍の予定では、1ヶ月で大勢を決して夏までにインド全体での戦いにケリを付ける予定だった。

 何しろ連合軍は、ヨーロッパにまで攻め上がらねばならないのだから、インドにいつまでも足止めされているわけにはいかなかった。

 

 そうした連合軍の思惑もあって「雛祭り攻勢」は苛烈だった。

 

 双方1個航空師団(航空軍)の濃密な支援のもとで、軍団規模の機甲部隊が突進を開始した。

 

 ナーグプルから依然として快調な進撃を続ける南インド軍は、方面軍直轄の戦車第1師団が戦列に加わり、日本第5軍と共に突進した。

 カルカッタ周辺からは、「マレーの虎」と渾名された猛将山下大将のもと、東インド軍が敵に突破口を塞がせないよう4つの機甲挺団を作って、点ではなく線もしくは面による大規模な攻勢で強引に戦線を突破した。

 

 東インド軍では、戦車第2師団を擁する日本第7軍と、第1機甲師団を有するパットン将軍の米第3軍団が突破の先鋒を担った。

 自由英第2軍団を側面に従えた形のパットン将軍の軍団の進撃速度は凄まじく、上陸すぐの包囲戦での不甲斐なさを払拭するような快進撃を続けた。

 あまりの進撃速度に、補給が追いつかないほどだった。

 こうした情景は、一年ほど前のドイツ軍でも見られた光景だが、電撃戦の進撃速度の速さと脆弱性の双方の側面を見せる情景と言える。

 対する日本第7軍の百武晴吉将軍は通信、情報の専門家で、たまたま日本陸軍内の人事の関係で前線指揮官となった人物だったが、通信、情報を重視する姿勢は米英からも好評だった。

 

 日本軍の攻撃はパットン将軍の部隊のような派手さは無かったが、敵陣の突破時には重戦車を先頭に立てて、圧倒的な砲兵、航空援護で一気に二カ所以上で突破して、敵に対応する余裕を与えずに戦線を破壊する堅実さだった。

 しかし電撃戦には拙速が尊ばれる事は理解していたので、アメリカ軍と共同での包囲行動では足並みを乱さない迅速さも見せている。

 中戦車を中核とする戦車連隊には、マレー半島でも活躍した島田中佐が陣頭で指揮に当たっていた。

 

 そして連合軍の電撃戦で特徴的だったのが、ドイツ軍のように進撃が早すぎて補給が追いつかずにへたり込む事がほとんど見られなかった事だ。

 補給が追いつかないほどの進撃も幾つか見られたが、それはごく短時間の事で、敵の方が対応できない場合がほぼ全てだった。

 またアメリカ製の自動車、装甲車両は信頼性、耐久性、そして何より稼働率が高かった為、突き進んでも兵力がほとんど目減りしなかった。

 そして後方からは多数のトラックが兵士と補給物資を運んだ為、進撃の停滞という場面もほとんど見られなかった。

 パットン軍団は、例外中の例外だった。

 それほど進撃速度は早かったのだ。

 

 ただしインド戦線は、ロシア戦線と大きな違いがあった。

 水の問題だ。

 水は煮沸すれば幾らでも使用できるので、現地での補給不足に陥ることが無かった。

 またインド自体が大人口地帯なので、米、小麦などの食糧は正価で買い取ればよく、補給の手間も少なかった。

 それでも100万の大軍が一日に使用する物資の量は1万トンに達するが(※連合軍は機械化率、自動車化率が枢軸側より高く、物資の消費量も枢軸側より多い)、それも大きな問題では無かった。

 アメリカとインドの距離は地球の反対側と言えるほど遠いが、物資のかなりは日本から運び込んでいた。

 石油の一部は近場のインドネシアから供給した。

 そして日本でもアメリカでも、インドの主要港までは船でやって来る。

 そして連合軍の戦時標準戦の積載量は約1万トンあるので、1隻分で1日に必要な物資をインドまで運ぶことが出来る。

 海運での輸送コストは陸路の百分の一と言われるので、ロシア戦線での欧州枢軸軍と比較した場合の優位が分かるだろう。

 しかも主戦線のガンジス川は巨大河川なので、かなりのところまで中型の船で物資を運ぶことも出来た。

 加えてイギリスが張り巡らせた鉄道網は、この戦いで連合軍に益することが多かった。

 


 連合軍の春の攻勢は順調に伸展し、最初の一週間でガンジス方面の最前線のインド・イギリス軍20万が包囲された。

 南部方面は山間部も多いので包囲殲滅戦はほとんど出来なかったが、イギリス軍の遅滞防御戦術に対して、空襲により進撃を容易とさせ、さらには空挺部隊を何度か使用した。

 

 この時期にインドに空挺部隊を持ち込んでいたのは、日本の陸海軍だった。

 日本海軍(海軍陸戦隊)までが空挺隊を持っているのはセクショナリズムの弊害の最たる例だが、実質大隊規模とはいえ部隊が二つあるという事は、それはそれで便利だった。

 日本軍は陸海軍共に設立当初は「挺身団」と名付けていたが、アメリカ軍との共同作戦が進んだ1942年春に「空挺団」と名を変えて、「陸軍第1空挺団」、「海軍陸戦隊第1空挺団」とそれぞれ改名された。

 この空挺団は、敵の後ろ側に廻る作戦で都合5度インド南部の各地で使用され、それぞれ大きな戦果を挙げた。

 主に敵の退路を断つ形での友軍との挟み撃ちで、連合軍の各空軍部隊の援護の下で任務を完遂した。

 先に進撃路を確保した事もあった。

 

 またアメリカ軍からの貸与で輸送機、輸送用の重爆が多数配備出来たことで、人員規模を拡大出来ただけでなく武装や装備の強化、一度に投下する物資の増加が図られた、さらに降下後の補給も潤沢となったので設立当初からだと非常に強力な戦闘力を発揮できるようになっていた。

 

 さらに、イギリス軍が主力をガンジス川流域に配備していたので、南部では連合軍を押しとどめることが出来なかった。

 そればかりか、殆どの場合が立ち止まらせる事すら出来なかった。

 進撃速度は、南部でも電撃戦と言えた。

 そしてインド・イギリス軍は、ガンジス川方面で機甲部隊と空軍による派手な電撃戦をする連合軍に気を取られ、また山間部を簡単に突破できるとは考えていなかったので、南部戦線を疎かにしがちだった。

 こういう点にも、連合軍が空挺部隊を使用できる隙があった。

 


 ガンジス川方面での戦いが、インド・イギリス軍の敗走で中流地域のパトナに移った頃、ガンジス川上流地域の主要都市カーンプル南方に、連合軍が出現してしまう。

 ここは東と南から進撃する連合軍が握手する場所だった。

 

 これほど早い進撃をインド・イギリス軍は予測してなく、対応できる戦力が限られていた。

 比較的近くにいたドイツ・インド軍団は、半月ほど前の遊撃戦での消耗から少し後方に下がって再編成中で、カーンプルの攻防戦に間に合う状態では無かった。

 

 そして連合軍がカーンプルに現れた時点で、ガンジス川中流地域で戦う理由がほぼ無くなった。

 このままでは連合軍の意図どおり包囲される恐れも高いし、唯一の主要港湾である東部のカラチ港と総督府が疎開したデリーを守らなければならないので、そこに新たな戦線を引くより他無かったからだ。

 

 このため枢軸側というよりインド・イギリス軍は、連合軍の南インド軍が後方を遮断する前に何とか西方に逃れるための行動を早めた。

 当然だが簡単にはいかず、東から迫る東インド軍は南インド軍よりも強力で積極的なため、気を許すと戦線が突破されてしまい逃げるよりも前に撃破された。

 悪ければ包囲される部隊もあり、安易に後方に下がることも難しかった。

 そして東インド軍を押しとどめるためにも多くの戦力が必要なので、南インド軍の進撃を押しとどめるための戦力が不足した。

 予備の機甲部隊は実質的にドイツ・インド軍だけで、流石に彼らだけでは荷が重かった。

 しかもこの時点でのドイツ軍は少し後方に下がっていたので、連合軍の初動には間に合わなかった。

 

 しかもここで、連合軍は新たにインドに送り込んだ新鋭の軍団を南方戦線に投入した。

 投入されたのはアメリカ第3軍団で、第3師団、第9師団という事実上の機械化師団と豊富な支援部隊で構成された重武装・重編成の機械化部隊だった。

 同軍団は、独立歩兵大隊複数を持つ上に戦車大隊も軍団予備で持っていた。

 

 そしてアメリカ第3軍団は、友軍の脇を抜けるように北に向けて突進し、カーンプルの東方を抜けるとそのままヒマラヤ山脈の麓まで抵抗がないかのように前進して、インド・イギリス軍を東西で完全に分断する。

 そしてカーンプルの東方には、インド・イギリス軍の主力部隊が山下将軍率いる東インド軍と対峙していたので、同部隊は連合軍に事実上包囲された形となってしまう。

 

 包囲されたのは約60万の大部隊で、食糧以外の余剰供給能力のない場所での抵抗は非常に厳しいと考えられた。

 しかも制空権は連合軍のものであり、ロシア戦線でドイツ軍が見せたような空輸による補給はほぼ不可能だった。

 それ以前に、空輸作戦に使えるほどの輸送機が無かった。

 枢軸側に僅かに残されたのはヒマラヤ山脈の山道を踏破する一部の山岳道路だが、車両はほとんど通れないので徒歩(馬)での補給と連絡を行うのが関の山だった。

 

 また、カーンプルから総督府が疎開したデリーまで約350キロほどしかなく、機甲部隊が大規模な突破戦闘を実施すれば、一週間もあれば到達できた。

 そしてカーンプルからデリーの間には約30万の兵力があったが、ドイツ軍を除いて警備部隊や後方支援部隊が殆どだった。

 予備兵力も若干あったが、ドイツ軍と併せても10万に届いていなかった。

 

 アメリカ第5軍団の軍団長だったブラッドレー将軍が、アメリカンフットボールの得点を意味するタッチダウンという言葉で、この作戦の成功を語ったと言われている。

 


 この時点で、インド・イギリス軍を主力とする在インドの欧州枢軸軍は、決戦と呼べる戦いをしないまま大勢を決せされた事になる。

 しかし戦いはまだこれからだと考えている人々はいた。

 連合軍の包囲網を食い破ってガンジス川中流域の主力部隊をデリー方面に脱出させることが出来れば、まだ戦いは仕切直せる可能性があったからだ。

 

 そして連合軍の包囲陣を突破する脱出作戦を行うのが、東側がドイツ・インド軍団、包囲された西側がイギリス第7機甲師団を中心とするイギリス第8軍だった。

 これ以上の戦力は、戦線を崩壊させる可能性があるので投入することが出来なかった。

 またこれ以外の機甲戦力も乏しかった。

 

 対する連合軍だが、当然枢軸側の好きにさせるつもりはなかった。

 航空隊は阻止攻撃に重点を置き、東インド軍は敵を押しつぶすために攻勢を強化し、敵に挟まれた形の南インド軍は平野部への戦力増強を急いで包囲陣の強化に務めた。

 そして南インド軍が敵を遮断するべき距離は平野部だけで総延長300キロに達するため、戦線は薄くならざるを得なかった。

 そこが枢軸側が付け入ることの出来るスキだった。

 

 枢軸側は、準備が不十分な中で連合軍の戦力が薄いヒマラヤ山脈に近い方から攻勢を開始する。

 

 まずは外側のドイツインド軍団が突進して、分厚くなりつつあった包囲の輪を薄くしていった。

 ここでは運動戦が主体で戦術的要素が大きく、こうした戦いはロンメル将軍の得意とするところだった。

 だが、ブラッドレー将軍が堅実にねばり強い戦い方で対応したので、この時点で枢軸側が包囲網を突き破るには至らなかった。

 そればかりか戦力と時間の浪費を強いられ、激しく動くドイツ軍への補給が十分出来ない状態すら出た。

 このため内側のイギリス第7機甲師団などは予定より早く行動せざるを得ず、各所の部隊も包囲網を突き破るための敵戦力の拘束や、脱出のための移動を開始する。

 特に東インド軍を突進させないため、残りの重砲弾をありったけ投げかけるような弾幕射撃が実施され、連合軍の前進を許さなかった。

 流石のパットン将軍、山下将軍も、次の動きを見つつも進めなかった。

 

 そして東西双方からの激しい攻撃に耐えきれなくなり、連合軍の南インド軍の包囲網の一部が崩れる。

 崩れたのはアメリカ第2軍団と自由英第1軍団の間で、他の戦線でも激しい戦闘が続いているため、連合軍には穴を塞ぐだけの十分な予備兵力が無かった。

 対する枢軸側は、穴の空いた箇所への攻勢を強めて回廊を広げ、出来るなら包囲網を崩壊に追い込んで、逆にヒマラヤ山脈側の連合軍(アメリカ第2軍団)を半包囲しようとした。

 しかし流石に逆包囲するだけの戦力はなく、また連合軍側が制空権を握っているため野心的な攻撃は叶わなかった。

 また半ば孤立した形のアメリカ第2軍団に対して、連合軍は空輸による補給を行い現状維持ばかりか反撃を行わせようとした。

 増援としても日本の空挺団が派遣され、枢軸側に付け入る隙を与えなかった。

 他の箇所でも連合軍の攻撃は激しさを増しており、南インド軍が南部から増援を送り込みつつあるので、包囲網が再び閉じられるのも時間の問題だった。

 


 包囲網が破られている間にインド・イギリス軍は出来る限り脱出を図ったが、鉄道が使えないので自動車、徒歩に頼らざるを得ず、重装備や補給物資を棄てての退却となった。

 包囲網の内側では燃料も不足したため、トラック、自動車への使用を優先して戦車、装甲車も破棄された。

 

 再び包囲の輪が閉じられるまでに約25万の枢軸軍がデリー方面への脱出に成功し、作戦の為に約5万の死傷者が出た。

 穴の空いた箇所では終盤にインドでは希に見るほどの血で血を争うほどの激戦が見られ、友軍の脱出を助けるため特にイギリス本国軍に多くの損害が出た。

 そうした中でもロンメル将軍は自らのDIKを巧みに機動させ、1時間でも多くの時間を稼ぎだした。

 そうした献身的な働きがあればこその25万人の脱出だった。

 枢軸側は奇跡の脱出作戦だと宣伝し、活躍したロンメル将軍を称えた。

 

 しかし一方では、30万以上の兵力は二度と逃げ出せない包囲の輪の中に取り残され、「獲物を逃した」猛将達の激しい攻撃にさらされ短期間での降伏を余儀なくされている。

 そしてそこからが、連合軍の真骨頂だった。

 

 狭い場所に追い込んだ包囲したインド部隊を後方から追いついてきた歩兵師団に任せ、東インド軍主力は南インド軍と合流し、枢軸側に戦線を立て直す余裕を与えず一気に進軍したのだ。

 しかもこの時点で、増援の日本第13軍団(戦車第3師団、第8師団、第9師団)の精鋭部隊が戦列に加入した。

 これに加えて従来の戦車師団(機甲師団)、機械化師団などを含めた多数の機械化部隊が、圧倒的となった空軍の支援の元でデリーに向けての電撃的な進軍を開始した。

 

 複数箇所で戦線を突破しにかかる連合軍相手に、既に機甲戦力の多くを失った欧州枢軸側に対処する術はなく、ロンメル将軍のドイツ軍部隊も僅かに戦線の火消しを行う以上のことは出来なかった。

 

 まさに物量差、補給能力の差がもたらした戦況であり、包囲網からの脱出作戦から僅か9日で、デリーは無血開城せざるを得なかった。

 

 デリーの陥落は、1943年3月23日。

 春分の日を過ぎたばかりの作戦開始から僅か三週間の出来事だった。

 


 それでもインド総督府はさらに西に向けた疎開を行い、取りあえずパキスタン地域北部のラホールに移った。

 ここからだと陸路でアフガニスタン、イラン(ペルシャ)経由でイラク方面に逃れることも可能だからだ。

 つまり海路での脱出を諦めたに等しかった。

 インド洋での戦いが始まってから約1年の間に沈められた枢軸側船舶の総量が400万トンに達すると言えば、少しは状況が分かるだろうか。

 

 また、インドにいて中東への移動(転進)を命じられた枢軸軍の各部隊も同様に陸路での撤退を選び、こちらは主に南よりのイラン(ペルシャ)のみを通るルートを使うべく移動していた。

 この中にはドイツインド軍団の姿もあり、未舗装の昔のままの道路を使っての辛く苦しい撤退を行うことになる。

 

 なお枢軸軍が選んだ道は、アレキサンダー大王の時代から使われ続けてきた道で、第二次世界大戦においても軍隊の移動に使われる形となったものだ。

 とはいえ未舗装なので車両の通行にはかなりの困難が伴う場所があり、枢軸側も当初から補給路としてすら使わなかったものだ。

 そして連合軍も、わざわざ苦労を強いられる追撃をしたくはないので、最悪でもパキスタン地域で決着を付けるべく足早に動いた。

 

 多用されたのは航空戦力で、退路を断つために空挺部隊も何度か使用された。

 そして機械化部隊が突進することで敵に追いつき、さらには追い越して、半ば敗残兵となっていたインド・イギリス軍を次々に捕捉、撃滅し、そして降伏に追い込んだ。

 そして兵士にインド兵が多いので、抵抗が難しいと分かるとすぐに降伏する事例が後を絶たなかった。

 しかもこの降伏にには、宗教問題も絡んだ。

 というのもインド主要部はヒンズー教徒が多く、デリー近辺にはターバンで有名なシーク教徒が多く、パキスタン地域にはイスラム教徒が多い。

 このため違う宗教地域に入る前に降伏を選ぶ現地インド兵が続出し、インド・イギリス軍は敵と戦う前の撤退の最中に自壊していった。

 


 1943年5月、インドでの戦いにはほぼ決着が付いた。

 

 最後まで逃げようとしたインド総督府は、アフガニスタン地域との境界となるペシャワール直前で空挺部隊に捕らえられ捕虜となった。

 この中には、無理矢理連れて行かれていたガンジーやネルーらインド国民会議派の有力者もおり、イギリスのインド統治の悪い面を際だたせる結果に終わった。


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