フェイズ30「WW2(24)インド本土戦2」-1
1943年2月4日、イギリスのインド支配の象徴だったカルカッタは無血開城した。
インドでの戦いは、開始当初からずっと連合軍の圧倒的優位で進展していた。
枢軸軍のほぼ全てを占めるイギリスインド軍は地の利をほとんど活かせず、逆に長年の植民地支配のツケを払うように敗退と後退を重ねていた。
1943年2月の時点で連合軍は、南部、東部を中心にインドの半分近くを占領もしくは解放していた。
最前線は南部がナーグプル前面で、東部はカルカッタを軸としたガンジス川河口部からの枢軸軍の駆逐が進んでいた。
連合軍の後続部隊も続々と各地から送り込まれつつあり、最終的には10個軍、30個師団(相当)、総数100万人以上の大軍が展開する予定で、既にその80%がインドに進軍していた。
アメリカ西海岸やパナマ運河から伸びる兵站物資の流れも、輸送路の長さにも関わらず無尽蔵と言える勢いだった。
対する枢軸軍は、イギリス・インド軍、イギリス本国軍併せて約150万とドイツ・インド軍団(DIK)約5万があった。
だが、既にイギリス軍は兵力の3分の1を失い、空軍戦力は半数以上が撃破されていた。
しかも連合軍のインド封鎖は日増しに厳しくなっており、輸送船及び護衛艦艇の不足も相まって、ヨーロッパからの増援や補給は日増しに難しくなっていた。
連合軍はまずは護衛艦艇(イギリス、イタリア艦)を狙った為、護衛船団を組むことも難しくなりつつあった。
しかも中規模以上の船団を組むと水上艦隊が出撃してくるため、枢軸側の輸送は日に日にじり貧に陥っていた。
43年1月の時点で、ヨーロッパから送り出された船のうち約70%が沈められていた。
ロンメル将軍率いるDIKも、予定していた兵力の80%程度しかインドに入ることが出来ず、インドが勝利の地ではない厳しい戦場であることを、アジアに初めて派遣されたドイツ人達に教えていた。
そして、イギリス本国など欧州各国では、緊急で輸送船舶の臨時徴用と増産を進めなくてはならなくなっていた。
大西洋とインド洋双方で激しく消耗するイギリス本国を中心とするヨーロッパ全体の船舶事情は、急速に悪化していった。
加えて言えば、植民地での戦いなので現地での兵器生産はもちろん出来ない。
インド戦線の状況は、カルカッタを追われた形のイギリス・インド軍は、インドで最も大きな戦力を有している事、周辺部からの協力体制が維持されていた事の二つから、現状では十分に抗戦出来た。
連合軍が東部一帯を占領した後だと厳しいと予測されたが、それまでに防衛体制を作り上げようとした。
だが一方では、南部戦線が総崩れの様相を呈していた。
南部戦線は、前年の12月以後三ヶ月間敗退続きで、残る主要都市はボンベイぐらいだった。
ナーグプルにはインド軍を中心に20万以上の兵力が集結したが、敗退を重ねてきた上に軍を離脱した者達のゲリラや兵士のサボタージュが多く、数の半分の戦力もなかった。
対する連合軍は、機甲師団こそなかったが先鋒として進むのは戦車連隊を持つ機械化師団で、他も殆どが自動車化されているため都市を迂回した包囲戦術を取り、イギリス軍が防衛体制を整える前にナーグプルを包囲した。
この包囲には15万のインド軍が取り残されたが、その多くは1週間と経たずに降伏する。
一部のイギリス本国部隊と将校のイギリス人達は徹底抗戦を行おうとしたが、インド兵からなる将兵達が戦おうとしなかったからだ。
その上、都市住民の殆どからもイギリス人は見放されていた。
善良な統治をしていた一部個人を除いて、インドの民はイギリス人を見放していた。
ナーグプルがほとんど戦うことなく開城する頃には、既に連合軍の別働隊がボンベイに迫っており、ボンベイは西海岸ルート以外での鉄道も途絶されてしまう。
これでガンジス川中部流域の輸送ルートは絶たれた事になる。
しかもすぐにも、ナーグプルの連合軍は北上を開始し、カーンプルを目指した。
カーンプルで、東から進んでくる友軍と共に、ガンジス川流域に展開するイギリスインド軍主力を挟み撃ちにする予定だった。
そしてこの時点で、俄然注目を集めたのが派兵当初は現地イギリス軍からあまり期待されていなかったDIKだった。
DIKが注目を集めたのは、アジアで初見参のドイツ軍という事よりも、枢軸側の機甲戦力が連合軍の包囲作戦の外側に位置していたと言うことだった。
DIKは前年秋にカラチに上陸し始め、2月の時点でデリーの南方ジャイプール辺りに集結していた。
部隊規模は増強装甲軍団で、装甲師団2個(第15と第21)と歩兵師団1個としていた。
予定していた自動車化師団は間に合わず、イギリス軍からの供与で歩兵師団を半自動車化して部隊を編成していた。
そして部隊が予定どおり進出していない事に現されるように、各部隊の内容も不十分だった。
理由の多くは日本軍などによる通商破壊戦の影響で、何度も増援物資を送り込んだにも関わらず戦車を中心に80%程度の戦力しか無かった。
だが、まだ連合軍の通商破壊が緩い頃に中心戦力が送り込まれていたので、マシな方だった。
そしてDIKは、300両以上の戦車を有する有力な機械化部隊であり、これほど優秀な枢軸側の機械化部隊は日本軍の前面に展開するイギリス第7機甲師団など一部に限られており、すべて前線に展開していた。
つまりDIKは、枢軸側唯一の予備の機甲部隊という事になる。
このため前線の投入は見合わされ、連合軍の行動を見つつ臨機応変に行動することになる。
独自裁量権の多くも追認の形で認められ、DIKを率いるロンメル将軍は、既に優勢となった連合軍に対して機動戦、遊撃戦を展開するつもりでいた。
ドイツ・インド軍団が最初に接触した連合軍は、最も西を進んでいた南部方面軍の自由イギリス第2軍団に属するオーストラリア第4師団だった。
豪州第4師団は戦車連隊を持つ自動車化師団で、ほぼ全ての装備をアメリカからのレンドリースで固めていた。
他に同部隊は道案内と宣伝、降伏誘導のために自由インド軍を連れていたが、自由イギリス軍が先陣を進むという事の政治的価値を満たすために先頭を進んでいた。
この時、現地では航空優勢はどちらにもなく、先に敵を発見したのは待ち伏せていた形のドイツ軍だった。
そしてドイツ軍は、一部部隊がわざと敵に見つかるように姿をさらし、そして友軍陣地へと誘導するように計画的に形だけ戦いながら引き下がった。
そしてこのドイツ軍の「醜態」に対して、実戦経験の不足から敵の擬態を見破れなかったオーストラリア軍は、戦車連隊が先頭に立って追撃を開始。
追撃の中で陣形も一部が崩れ、追撃した第1旅団は師団司令部に対して増援を要請し、師団司令部は軍団司令部に支援を要請した。
もっとも、軍団司令部は深追いを避けるように命じ、さらに逃走したエリアの航空偵察を連合軍各部隊に要請した。
しかし軍団司令部の判断と命令は少しばかり遅く、豪州第4師団の第1旅団は、気が付いたら狭隘な地形でドイツ軍に半包囲されていた。
しかも対戦車陣地が真ん前に布陣していたため、先鋒で進んでいた「M4中戦車」部隊は、この戦争で初めてアハトアハトこと「88mm Flak38」の餌食となる「M4中戦車」となった。
同砲は、形式的には1918年に開発された事になっている砲(Flak18)の後継砲で、最初から地上の硬い目標に対する攻撃を想定した徹甲弾が開発されていた。
これが図に当たり、1940年5月のフランス戦でロンメル将軍の窮地を救い鮮烈なデビューを飾った。
対戦車砲としては当時世界最強で、撃破できない戦車は無かった。
ソ連赤軍の「KV-1重戦車」ですら(近距離ながら)撃破され、この時点で戦闘例は無かったが日本の「九九式重戦車」でも十分に撃破可能だった。
そしてこの時、オーストラリア軍の「M4戦車」連隊は、短時間の間に1個中隊が「アヒルのように」撃破され、その後ドイツ軍戦車部隊の包囲攻撃などもあって壊滅的な打撃を受けてしまう。
当然ながら追撃どころではなく、包囲しようとするドイツ軍から逃げるのがやっとで、さらに後方から進んできていたオーストラリア軍部隊も、戦闘にまきこまれて大損害を受けた。
結果、攻撃した部隊の約3分の2に当たる3000名の部隊が撃破され、そのうち半数以上がドイツ軍の捕虜となった。
第1旅団は壊滅状態だった。
豪州第4師団は先鋒を務められないほどの損害を受け、部隊の再編成や交代などで連合軍は3日を空費する事となった。
この戦いが、ロンメル将軍率いるドイツインド軍団の最初の戦闘であり、その後も大軍を擁する連合軍に対して、有効な戦いを展開していく。
だが多勢に無勢であり、連合軍全体の進軍を止めるにはいたらず、この時ロンメル将軍が稼いだ時間は全てを合わせても最大でも半月程度だったと言われている。
戦術で戦略はひっくり返せないと言う言葉どおり、敵が大軍を展開しているため、1個軍団に満たない機甲部隊では出来ることには限界があったのだ。
また、現地イギリス軍がドイツ軍に完全に協力的と言えなかった事も、DIKの活動を制約したと言われる事が多い。
イギリス本国はともかく、植民地ではナチス・ドイツに対する様々なマイナス感情が強い場合が多く、友軍や同盟軍としての意識が高いとは言えなかったからだ。
またインド戦線は、ロシア戦線と似た所と似ていない所があった。
ロシア戦線と似ている点は、大軍同士が拠点を巡って運動戦とその阻止を行うという点で、違う点は長い戦線を張って対陣する事がほとんどない点だった。
運動戦を行うのは殆どの場合が連合軍で、枢軸軍というよりインドイギリス軍は何とかして阻止しようという動きが一般的に見られた。
1943年3月3日、連合軍の通称「雛祭り(ガールズ・フェスティバル)」攻勢が開始される。
東インド軍、南インド軍双方が、機械化部隊の総力を挙げて戦線を突破し、そして二つの方向から殺到してガンジス川中流域の50万以上いるインドイギリス軍主力部隊を、長駆包囲殲滅する雄大な作戦だった。
空の支援には、日本陸軍航空隊の約半数に当たる遣印航空軍(1個航空師団規模)と、アメリカ陸軍航空隊の第5航空軍、さらに英連邦自由政府空軍のアジア解放軍団が当たった。
既に日米の戦時生産がフル回転し始めている時期で、さらにパイロットの大量供給が本格化し始めている時期なため、第一線で作戦展開する航空機の数は1500機にも達し、パイロットの三倍と言われる機体(+予備パーツなど)が準備された。
主な戦闘機は、日本軍が「一式戦闘機 隼二型」、「一式重戦闘機 飛燕二型」、アメリカ軍が「P-40 トマホーク」、「P-38 ライトニング」、英連邦軍が「P-40 トマホーク」、「P-39 コブラ」となる。
そしてこの戦いでアジアデビューを果たしたのが、「P-51 マスタング」だった。
「P-51 マスタング」の原型は、イギリスがドイツに降伏する前にアメリカのノースアメリカン社にイギリスが発注した。
だが開発半ばでイギリスは降伏。
その後英連邦自由政府が発注者となったが、資金不足のため開発は遅れぎみとなった。
それでも開発は短期間で終わり、1941年11月には自由イギリス軍に引き渡しを開始した。
しかし初期型は、凡庸な性能しか無かった。
主な理由はエンジンで、アメリカで唯一使える空冷エンジンのアリソンエンジンでは、どうしても高い性能は発揮できなかった。
この時期もアリソンエンジン搭載型ばかりで、液冷エンジン機としては長い航続距離を持ち、低空性能も比較的高いため、支援任務用の機体として蛇の目と侵攻帯を描いて、インドの空を飛ぶ事となる。
性能が劇的に変化するのは、英連邦自由政府とイギリス降伏前にイギリスとライセンス生産の契約を交わしていた日本から、ロールスロイス製マーリンエンジンのライセンス生産が、自動車メーカーのパッカード社で行われてからだった。
1942年夏にはパッカードエンジンと名を変えたマーリンエンジンの大量生産が開始され、自由英連邦政府の強い要望もあって、まずは「P-51 マスタング」への搭載が実施された。
そして暴れ馬は、文字通り暴れ馬に生まれ変わる事となる。
しかしこのタイプの登場はもう半年ほど後の事で、インドでの戦場には遂に間に合わなかった。
ただし、ごく少数だが日本製エンジン(マーリンの日本型)を載せた現地改造の高性能型が飛んでいたという情報もある。
この時期の連合軍で最強の戦闘機は、日本軍と一部の自由英連邦空軍が装備した「一式重戦闘機 飛燕二型」だった。
自由英連邦空軍では「スワロー」と呼ばれ、非常に好評だった。
このタイプは、マーリンの日本生産型エンジンの改良型である「ハ140」を搭載していた。
「ハ140」は、川崎がアメリカのパッカード社との競争に触発されて工場を新設してまで量産開始したエンジンで、もとのマーリンエンジンに準じる性能を発揮した上で稼働率も比較的高かったので、飛燕も初期型とは別物のような機体とすら言われた。
最高速度630km/hの快速と持ち前の運動性によって、イギリス本国空軍の「スピットファイアMk.V」、ドイツ空軍が小数だけ派遣した「BF-109G」、イタリア空軍のマーリン搭載型の「ファルゴーレ」と互角以上の戦いを行い、日本製の液冷戦闘機の代表として広く知られるようになる。
この時期には「隼」もエンジンを強化した二型が前線に投入されていたが、「飛燕二型」の方がこの時期から日本製の日本陸軍機の主力として、少し後に登場する「疾風」と共に主力を占めるようになっていく。
しかし日本陸軍が「大戦決戦機」として開発していた「疾風」の登場は、もう少し先の事だった。
爆撃機は日米共に新型はあまりなかったが、自由英、日本軍双方にも大量に供与された「B-25 ミッチェル」の各種タイプが、最も多くを占めるようになる。
日本陸軍航空隊は、日本海軍が開発した4発重爆撃機の「深山」を採用していたが、重爆撃機の出番があまりない上に国産の中型機(呑龍など)の性能がいまひとつで数が十分では無かったので、アメリカからの供与機が主力を占めるようになっていた。
「A-20 ハボック」もかなりの数が配備されていたが、積載量以外は日本軍機よりも劣ると判断され、米軍と自由英軍しか装備していなかった。
このため日本陸軍航空隊は、国産の「一式爆撃機 呑龍」などを「B-25」と併用した。
また日本の空軍戦力の片翼を担う日本海軍航空隊は、セイロン島を中心に活動していたが、1943年春までにインド南部の西海岸に主に進出して、長い航続距離を利用して盛んにベンガル湾の枢軸軍艦船を攻撃していた。
この中で「一式陸上攻撃機 深山」が真価を発揮していた。
アメリカの「B-17・フライングフォートレス」に匹敵する巨体ながら、低空での運動性が非常に高く、その上雷撃が出来たからだ。
通常の航空魚雷(800kg)なら最大で4本搭載でき、この頃の任務では爆弾槽内に2本搭載して、機銃弾を通常よりもかなり多く搭載していた。
機銃も武式12.7mm機銃を10門〜14門搭載することで、ガンシップに準じた弾幕すら形成可能で、両軍からは「空の海賊」と呼ばれた。
レーダー、逆探知レーダー、探照灯、さらに機体内に追加燃料タンクを搭載した哨戒型の「二式大艇」も数を増して、昼夜を問わずベンガル湾を飛び交って敵を探し、そして友軍を引き寄せていた。
そしてインドへと至る海上交通路がズタズタにされつつあった枢軸側は、インドへの補給と緊急増援を重視するも、最大で80%が海の藻屑と消えていった。
インドに展開する枢軸側の陸軍部隊は、まだ100万を越えていた。
だが航空隊は、1個航空連隊とはいえドイツ空軍までが派遣されてきたが、稼働機数は既に500機を割り込んでいた。
当然だが補充もままならず、部品も不足しているため、日々稼働数と稼働率の双方が低下していた。
完全にじり貧だった。
しかしまだ士気は高かった。
連合軍を泥沼の消耗戦と長期戦に持ち込めれば、戦争全体として十分に「採算」が取れると考えられていたからだ。
もはやインド自体は捨て石の戦場な事は理解されていたが、戦い方はまだあると考えられていた。
また、インドで生産される物資は戦争に必要なものも少なくないため、一日でも長くインドが保持され、物資をヨーロッパに送り出す必要があった。
1943年春のインド戦線とは、枢軸側にとってそのような戦場だった。