フェイズ29「WW2(23)満州帝国遣露軍見参」-2
満州帝国軍が動き始めてからちょうど1週間後、満州帝国軍とソ連軍は敵陣深くで握手に成功した。
彼らの包囲網の中には、一部を逃すも約30万の枢軸軍がいた。
包囲形成時、満州帝国軍、ソ連軍ともにかなりの距離を一気に突き進んだため、包囲している戦力はかなり危なかった。
ソ連軍は無理して200キロ以上も進軍したので尚更だった。
だが、付近の枢軸軍で最も有力なのは包囲下に置いたドイツ第2軍で、他は殲滅するか壊滅的打撃を与えていた。
このため十分な時間を使い、主にソ連軍は包囲網に増援を送り込むことができた。
さらにソ連軍は、ドイツ軍の反撃に備えて編成されたばかりの第2親衛軍、第7戦車軍を戦線に送り込んだ。
満州帝国軍も周辺のハンガリー軍、フランス軍を退けつつ戦線を整理し、一部戦線をソ連軍に譲る事で戦線の厚みを増した。
包囲された側にいたハンガリー軍は、既に軍の体裁をなさず、ドイツ軍寄りに布陣していた一部の生き残りがヴォロネジ方面のドイツ軍に合流しただけで、連合軍が包囲網を分厚くすることに貢献した形になっていた。
対して枢軸側だが、すぐの反撃は不可能だった。
周辺の枢軸各国軍は壊滅状態か、身動きが出来ない状態だった。
しかも一番奥で包囲された形のドイツ第2軍は、ヴォロネジ占領のため主力がドン川の東側にいるため、西側に向けての反撃どころではなかった。
しかもソ連空軍は、ヴォロネジに架かる橋(浮橋含む)の攻撃を強め、ある意味二重にドイツ第2軍を友軍から切り離そうとした。
それでも即座に全てを棄てて包囲網の突破に全力を投入すれば、第2軍だけでも突破できた可能性が高いと後世の研究では判断される事が多い。
実際、満州帝国軍、ソ連軍もそれを恐れていた。
だがヒトラー総統は、ヴォロネジが次のモスクワ攻略には是非とも必要だと考えていた為、第2軍がヴォロネジから動くことを拒否し続けた。
それでもドイツ軍は、包囲網を食い破るべく戦線各地から装甲戦力を中心とした予備部隊を集めた。
だが、反撃開始には最低三週間は必要だった。
戦線が広がりすぎている上に、夏からの攻勢の後も各部隊が戦線に張り付かなければならなかったので、予備部隊が極度に不足していたからだ。
その上、僅かな間に3個軍が壊滅的打撃を受けて、戦線に空いた穴を塞ぐ事が急務となっていた。
その間、ヴォロネジへの補給を行わなくてはならないため、前年冬にも活躍した空軍の輸送機部隊が、大挙動員される事になった。
この空中補給には、ドイツ空軍だけでなく欧州各国も出せる限りの機体を出す事が決められ、イギリス空軍も輸送機のかなりと一部重爆撃機を出した。
この空中補給に対して、連合軍も当然阻止に出た。
そしてここで満州帝国軍が非常に多くの高射砲、高射機銃を装備していることが活きてきた。
枢軸側は損害を恐れて満州帝国軍の上空を使えず、空路が自ずと限定されたからだ。
そしてソ連軍も多数の高射砲を持ち込み、戦闘機による阻止を行った。
さらに2月下旬はロシアの大地にとってまだ冬であり、厳しい気象条件は輸送の大きな妨げとなった。
かくして枢軸側の補給は定量に達する事はなく、連合軍の包囲下にあるドイツ第2軍の戦闘力は着実に低下していった。
このため一日も早い反撃作戦と包囲網突破作戦の開始が求められたが、部隊が集まらないのでどうにもならなかった。
またこの時のドイツ軍の焦りは、春の訪れにあった。
早ければ3月初旬に雪が雨に変わり始め、雪解けも始まる。
そして地面の雪解けが始まると、ロシアの大地は秋同様に泥で覆われてしまう。
そうなっては機械化部隊の機動力も発揮できなくなり、包囲網突破も極めて困難となる。
このためドイツ第2軍に十分な補給を行い、内と外からの包囲網突破が理想だったが、連合軍(ソ連空軍)の補給を絶つ為の戦闘は苛烈を極め、また41年冬の空中補給で大きな消耗を強いられていたドイツ空軍の輸送機部隊は、十分な補給を提供できなかった。
イギリスの空輸部隊なども加わっているので、ある程度は補えたが、それでも足りていなかった。
そもそも、30万もの将兵への空中補給そのものが無茶なのだ。
なお、当時のドイツ第2軍の指揮官は、ヴァルター・ヴァイス上級大将。
この2月に司令官に就任したばかりで、軍人としての経験はともかく部隊の指揮には十分慣れていなかった。
ただし軍人としては野戦指揮官としての経歴を積み重ねてきた典型的なドイツ軍指揮官で、防御戦に定評があってヴォロネジの守備をするドイツ第2軍の指揮官に任じられていた。
ヴァイス上級大将は現場でキャリアを積み上げてきただけに、ドイツ総司令部よりも自身の考えと前線の他の言葉に従う向きが強かった。
だが、ヒトラー総統からヴォロネジ死守が命じられている以上、内側からの包囲網突破に全軍を用いる事が出来なかった。
このため血路を切り開くのは主に外側で集結中の救出部隊に委ねられたが、こちらもうまくはいかなかった。
ソ連軍が各地で活発な戦闘を開始し、主にドイツ軍以外の枢軸国部隊への攻撃を激化させ前線各所でほころびが見られ、補うためもしくは防衛のためにドイツ軍の戦力が当てられた。
このため、当初第3、第4装甲軍の抽出部隊で行う予定の救出作戦は、第3装甲軍だけで行わなくてはならなかった。
しかも実質的な戦力は1個装甲軍団程度で、支援の歩兵部隊などを加えても包囲している方が優勢だった。
このためドイツ軍は、自分たちもソ連の同盟国を攻撃対象に選ぶ。
ソ連軍よりも与しやすいと考えたからだ。
かくして満州帝国軍1個方面軍(軍)に対して、「春の嵐」と命名された反撃作戦を開始する。
満州帝国軍の正念場だった。
満州帝国軍は包囲の外側に予備兵力を置き、ドイツ軍の反撃を前提とした分厚い布陣を敷いた。
このため自分たちが占領した一部地域をソ連軍に委ねたのだ。
そして満州帝国軍司令部、ソ連軍双方が予測したように、満州帝国軍に対してドイツ軍の反撃作戦が開始される。
ドイツ軍の反撃は、ドイツ軍随一と言われる作戦家のマンシュタイン将軍が直接指揮した事もあって巧妙で苛烈だった。
だが、ドイツ軍がそれほど苦労しないと考えていた包囲網突破は、鉄の壁にぶつかったかのように全く叶わなかった。
理由は、ロシア人から教えを請うた巧みな陣地と石原将軍以下の参謀団の手腕だけでなく、満州帝国軍の意外という以上の頑強さにあった。
まず、機甲戦力、対戦車火力が枢軸側の予想を大きく上回っていた。
多数の「T-34/76」がある上に、動きがソ連軍一般よりも機敏だった(※多くが無線機を搭載していたためだ)。
75mm砲を搭載するアメリカ製の「M4」中戦車や「M3」中戦車、「九七式中戦車改」もかなりの数見られた。
その上、最も重要な箇所には日本陸軍が誇る重戦車「九九式重戦車改」が、巧妙に築かれた防御陣地でダッグイン戦法を取るなどした。
ソ連製の「KV-1」、「KV-2」などは、車体を埋めたトーチカとなってドイツ軍を阻んだ。
また、対戦車砲の一種として使用された、主に満州で改造された戦車のシャーシに大型の対戦車砲を載せて軽い装甲を施しただけの砲戦車(対戦車自走砲)も多数の姿見られた(※現地改造で正式装備でないものも少なくなかった)。
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そして機甲戦力よりも厄介なのが、今までのロシア戦線だとフランス軍しか味わった事が無かった、満州帝国軍の異常なほどの対戦車兵器の豊富さと強力さだった。
ドイツ軍の88mm砲ほど強力な火砲は殆ど無いが、とにかく数が多い上に75mm級(※一部、各種長砲身3インチ砲とアメリカ製のM3 90mm砲の先行型も存在)が主力で、濃密な対戦車陣地を作り上げていた。
しかも軽迫撃砲(擲弾筒)、機関銃など日本陸軍由来の装備・編成も多いので、戦車以外にも多くの損害が出た。
この濃密な防御陣を、進撃したドイツ兵達は「パックフロント(対戦車砲陣地)」と呼んで畏怖した。
そして密度と縦深の面でスキがないのでつけ込むことも難しく、与えられた状況に対して満州帝国軍は非常に強固で、機甲部隊による突破は難しかった。
陣地も第一線だけでなく、第二、第三と予備陣地が少ない時間で構築されていた。
急造陣地の中には、戦車の車体を埋めてトーチカとしたものも見られた。
ならば空襲による支援となるが、こちらも満州帝国軍はもとから高射砲、高射機銃を多数装備するため、依然として冬の寒さに苦しむ空軍部隊は逆に大損害を受けてしまった。
ソ連空軍機も、全力を挙げて満州帝国軍の上空を守った。
ロシア人の操る日本製の「ラースタチカ(飛燕)」も飛んできたし、空飛ぶ戦車(Il-2 シュツルモビク)を駆る魔女達も時折姿を見せた。
そして対戦車部隊となった機甲部隊の戦力を側面から支える歩兵だが、ドイツ軍将兵ばかりか満州帝国軍の日本人将校が驚いたほど戦意に溢れていた。
当初、満州帝国軍の日本軍指揮官達は、最も苛烈な戦場の兵士にヒロポンと言う一種の覚醒剤の使用を考えていたが、それも不要だった。
理由は実のところ簡単で、兵士の半数近くがもと中華民国の兵士で、彼らにはこの戦場で戦って生き残る以外に後がなかった。
また、残りの多くの兵士も漢族出身だが、彼らも戦場に出ることで従軍後の自分たち(含む家族)の地位向上を図るために戦っていた。
そして武功を挙げれば、地位はさらに確固たるものになる(という約束の)ため彼らは奮闘した。
従軍すればいいのだから適当に戦えばいいという考えもあるかもしれないが、派兵前から怯懦や敵前逃亡と言える行動に対して日本人将校は厳しく、彼らの目もあるため手を抜きたくても抜けなかった。
そして兵士達にとって意外な事に、日本人将校の多くは兵士の訓練に苦労を厭わず、また面倒見がよい者も少なくなかった。
兵士と同じ場所で同じ食事をとる将校の姿は日本陸軍だとかなり一般的だが、漢族の彼らにとって今までにない光景だったため大いに驚き、日本人将校達に付き従う事を誓ったと言われる。
そして漢族の民族的特徴として、自分たちの方が有利ならば彼らは勇敢な場合が多かった。
そして満州帝国軍は兵力の密度で攻め寄せるドイツ軍に勝り、レンドリースのおかげで十分な兵器と弾薬があった。
航空支援は不十分だったが、ドイツ側も十分ではなかったので結果として許容範囲だった。
そして共に戦うロシア人達も、この戦いでは満州帝国軍を積極的に支援したので、戦場での孤立感も無かった。
それでもマンシュタイン将軍は、様々な手を使って押し進んだ。
対して石原将軍は、戦線突破さえさせなければ自らの勝ちなので、とにかく予備兵力を惜しまず、スキを見せず防ぐことに専念した。
そうして数日間、神経のすり減るようなぶつかり合いが続く事となる。
1943年3月12日に開始されたドイツ軍のヴォロネジ救援は、23日に実質的に失敗の形で終焉した。
作戦を続行すれば救援の可能性もあったが、ソ連軍が南方戦線各所で枢軸軍の急所(主に同盟国の戦線)を突く攻撃を行って戦線全体が不安定となっているので、コーカサスの友軍を支えるために他の地域での防御に機甲部隊は必要だった。
ヴォロネジはあくまでモスクワを奪うための場所であった事が、この時の悲劇を決定した。
3月25日頃から、大挙進軍したソ連軍とドイツ第二軍の間にヴォロネジでの市街戦が始まり、31日にドイツ軍の降伏をもって幕を閉じた。
包囲した約30万のうち降伏したのは約15万。
他は戦いの中で倒れ、ソ連軍はこの戦争で初めての勝利と言える勝利を飾ることとなった。
満州帝国軍を含めた連合軍の損害も小さくはなかったが、要衝の一つを奪い返した上にドイツ軍の主力部隊を包囲殲滅した事は大きな勝利だった。
ここでソ連にとって問題なのが、満州帝国軍が勝利に大きすぎる貢献を果たしたことだった。
ドイツ軍の不意を突いて作戦を開始したのも、ドイツ軍の反撃を凌いだのも満州帝国軍だった。
作戦規模ではソ連軍が主な役割を果たし、予想以上に多くの犠牲が出たヴォロネジの市街戦と解放はソ連軍が行ったが、ソ連軍は脇役で満州帝国軍が勝ちを譲ったも同然だった。
さらに問題となったのが、満州帝国軍の独断専行だった。
ソ連最高司令部が満州帝国軍と極秘に進めた作戦という事にしても良かったが、その場合満州帝国軍政府など他の連合軍との間にも事前承認などがなければならないが、ソ連以外で事後に事前の書類などを揃えることは不可能だった。
結局、中盤までが「偶然」として片付けられ、それ以後は戦機を見て積極的に戦果を拡大した結果とされた。
そしてこの独断専行に対して、事実上の宗主国であり多数の将校を出している日本政府、陸軍中枢は、満州帝国軍の日本人将校達を相応に処罰するつもりだった。
だがその前に、ソ連はスターリンをはじめ国を挙げて満州帝国軍の「遣蘇総軍」(※ソ連国民向けには「連合軍・ソビエト連邦救援軍」と呼ばれた)の将兵達を公的に絶賛し、赤旗勲章をはじめ数多くの勲章授与を決定し、一部の者でもよいのでモスクワでパレードも行いたいと満州帝国軍政府などに要請してきた。
これは、「英雄」を作ることで戦時下で困窮する国民の不満を逸らすと同時に、満州帝国軍をこのまま戦線に留め置くことを目的としていた。
他国の兵士を英雄として称えることに対しては、少なくともスターリンは満足していた。
自国兵士なら一時はともかく今後問題となる場合もあるが、他国の兵士なら戦争が終わればいなくなるので、賞賛ぐらいいくらしても構わないからだ。
それに勲章で恩を売って、その後利用する切っ掛けにもなる。
その上、「友邦の軍が母なる大地で多くの血を流しているのに〜」という論法で自国将兵にハッパをかけることもできる。
また国民に対しては、ロシア人が孤独でないことを知らせ、精強な友軍が共に戦っていることを知らせるまたとない機会だった。
しかも活躍したのが、日本軍、アメリカ軍でない点も政治的には重要だった。
満州への野心を内心持ち続けていたスターリンだったが、少なくとも満州帝国軍はなかなか都合がよかった。
ソ連側の意向もあり、満州帝国軍並びに日本帝国は石原ら将校の独断専行を不問に付すばかりか、参加した将兵らを賞賛すらしなければならなかった。
しかも満州帝国は、新興のかりそめの国とすら言われた為、ソ連同様に作戦に従事した将兵らを賞賛し、報償付きの勲章に加えて階級の特進も盛んに実施した。
戦死者にも、特進の上で家族への恩給も上乗せした(※当座の金はアメリカから出た。
)。
このお陰で、漢族、旧中華民国軍の兵士らの士気も大いに上がった。
何しろ、期待薄だった「約束」が本当に守られたからだ。
また、名目上満州帝国軍に属している日本人将校の中には、正式に満州帝国軍に籍を移す者も多く現れるようになった。
本来の彼らは、日本のために戦っているという自負はあったが、ロシアでの体験が実状とは違っていると感じたからだ。
それに満州帝国軍の方が、自分たちに報いてくれるし出世もできた。
派遣軍の参謀長だった石原完爾は、1943年内に正式に満州帝国軍上将(中将と大将の間)の階級を受けると同時に、日本陸軍を退役して満州帝国へと帰化している。
その後石原完爾は、満州帝国軍初めての満州族以外の元帥にまで昇進している。
「兵士の父」と兵士達から称え慕われた辻政信も同じく帰化の道を選び、戦中に少将まで昇進した上で戦後に政界に進出し、馬占山将軍のもとで活躍する事となる。
ヴォロネジの戦い以後、5月までロシアの大地は再び泥の海に沈み、戦線は静かになった。
だが冬とは大きく違っていた。
戦線はヴォロネジ周辺で連合軍が少し奪回しただけだったが、戦線は一気に不安定となっていた。
枢軸軍は、ドイツ第2軍とイタリア第8軍が編成上から姿を消し、ハンガリー第2軍、ルーマニア第3軍も1個軍団しか残らないほどの壊滅的打撃を受けて、もはや後方に下げるより他無かった。
合わせれば1個軍集団に匹敵する損害であり、その穴埋めの為に枢軸軍はヨーロッパからの増援だけでは全く足りず、コーカサスに展開する膨大な部隊の一部を引き揚げなければならなかった。
そしてこの事は、5月から予定されていたバクー油田への最後の突進に大きな障害となって立ちふさがった。
バクーに行くためには南部戦線を支えなければならず、バクーに行くためには少しでも多い戦力が必要だった。
そして、ヴォロネジを失ったことでモスクワ攻略の野望が絶たれたヒトラー総統は、バクー攻略を採らざるを得なかった。
そうしなければ、ヨーロッパ全土が石油という戦略資源のために戦争を失うからだ。
そしてお互い大戦力を展開してしまったコーカサスでの決戦に勝利しなければ、これもまた戦争を失ってしまうからだった。
かくして1943年夏、欧州枢軸軍は「最大の賭け」に出る事となる。