フェイズ29「WW2(23)満州帝国遣露軍見参」-1
1942年のロシア戦線は、秋になると一気に停滞感が広がった。
枢軸側は200万の大軍がコーカサス山脈の裾野で、塹壕無き戦線を作って前進を止めていた。
それ以外のレニングラードからアストラハンまでの長大な戦線も、両軍合わせて1000万人を越える大軍が布陣して睨み合っていた。
間違いなく世界最大規模の戦線であり、有史以来最大級の戦場でもあった。
だが、互いに大軍を展開しすぎたため補給が追いつかなくなり、戦争が停滞化してしまったのだ。
枢軸側は新たに伸びた補給線の維持に手一杯で、ソ連軍は石油の供給が停滞した事を最大の原因として、全体の機動性が大きく制限されてしまっていた。
ソ連軍では、当初は枢軸軍の夏季攻勢による攻勢が限界に達した段階で、大規模な冬季反攻を企図していた。
しかし、石油 (=ガソリン)の不足と、前年の冬季反攻が中途半端に終わったにも関わらず損害が大きかった事などを考慮して、反攻作戦の延期がソ連の指導者の承認の元で決められてしまう。
1943年2月末、本来なら誰もがもう数ヶ月は平穏に過ぎると考えていた頃、一見些細な変化からロシア戦線が一気に活性化する。
原因は、ロシア戦線唯一の連合軍部隊の満州帝国軍だった。
満州帝国軍は80万の大軍で、戦線で言うと中央部と南部の要衝でいまだソ連軍が前年夏に奪われたヴォロネジの北西部に2個軍で展開していた。
枢軸側のヴォロネジ方面への攻勢により戦線の形が変わり、満州帝国軍は1個方面軍が西に向いて、もう一つが北を向く格好、要するに「角」に位置する状態となっていた。
前面の枢軸軍は、西にフランス第5軍がいて、北には南部から兵力入れ替えで移動してきたハンガリー第2軍がいた。
最も近いドイツ軍はヴォロネジを囲むソ連軍の精鋭部隊と睨み合っている第2軍が展開していたが、満州帝国とはかなり離れていた。
枢軸側の一番近い要衝はヴォロネジのほぼ西正面にあるクルスクで、兵站駅(兵站拠点)として攻勢発起点にもなっていた。
だが枢軸側は満州軍を過小評価しており、満州軍の目の前は攻勢に参加しない中央軍集団に属するフランス軍で、その南隣のハンガリー軍も広がった戦線の穴埋めのため展開しているに過ぎなかった。
ドイツ軍はヴォロネジから動けないので、満州帝国の脅威では無かった。
北のツーラ方面を向いているドイツ第4軍についても、多数のソ連軍を前に安易には動けなかった。
これらをまとめれば、満州帝国軍の位置は一見線区の継ぎ目の重要な箇所だが、イニシアチブを握る枢軸側としては攻勢を行う場所の合間にあるので、守る連合軍は固守さえしていればよく、相手の戦力から考えたら攻勢を受けるはずの無い場所だった。
ソ連、ドイツ双方にとって二の次として良い場所であり、この時点では戦争の焦点になりにくい場所でもあった。
しかしソ連全軍と比較すると、満州帝国軍はレンドリースと実戦経験者の有無もあり、ソ連赤軍の一般の歩兵軍よりも優秀な戦力だった。
戦略単位となる師団当たりの規模と戦力は、ソ連軍一般の二倍以上と大きかった。
対するフランス第5軍とハンガリー第2軍だが、両軍共に10個歩兵師団で編成され、一部自動車化されている以外は馬での兵器と物資運搬を行う歩兵師団だった。
重砲から迫撃砲、重機関銃に至る装備数も満州帝国軍より少なく、フランス軍はともかくハンガリー第2軍と満州帝国軍では比較にもならない戦力差があった。
しかも満州帝国軍・遣蘇総軍は、21個師団、2方面軍全てを1つの戦力単位としても運用可能で、満州帝国内で兵力をやりくりして、満州戦車第一師団を中心とした機械化軍団も予備部隊として編成していた。
そして1941年秋からの派兵以来、小競り合い程度の戦いと相手が引いたから前進した程度の戦果しか挙げていない事に、日本陸軍将校を中心とする満州帝国軍の幹部将校達が苛立ちを日々募らせていた。
日本陸軍将校を中心とする彼らも派兵当初は「左遷」だとやさぐれたりもしたし、ドイツ軍に対して装備が貧弱なので攻勢に出ようという気も起きなかった。
だが、1941年冬の反攻作戦に一応参加したことで士気が向上し始め、戦果を求めるようになる。
そして冬季反攻では、機動防御に出てきたドイツ軍に手痛い反撃を受けるなど、相応の損害を受けた事もありロシア戦線の厳しさも思い知らされていた。
そして1942年5月から枢軸側の二度目の夏季攻勢が始まったが、目の前の枢軸軍のフランス軍は自分たちだけだと半ば牽制を目的とした砲撃戦を仕掛けてくる程度で、ドイツ軍が進まない限り前進してこなかった。
このため満州帝国は大きな損害を受けることもなく、夏の戦いを乗り切っていた。
損害を見越して送り込まれた補充兵が、予期せぬ予備兵力となったほどだった。
戦線の変化も比較的乏しく、あったのは戦線の広がりに対して守備範囲が広がった事だが、それも目の前に新たに展開した相手がフランス軍よりもさらに劣るハンガリー軍なので、自分たちの優位は十分にあった。
そうした中で、レンドリースにより日々戦力が強化され、戦力だけが増強され続けていた。
だが、ソ連軍中枢から春まで攻勢は厳禁という「強い要請」が出されていた事もあって、満州帝国軍の日本人将校達も流石に単独で動きだそうとは考えなかった。
勝手に攻勢に出て仮に成功しても、突出したところをドイツ軍(の予備部隊)に叩かれて終わりな事ぐらい理解していたからだ。
しかし、「春まで」という曖昧な言葉に対して、ロシア人と満州にいる人々との間に感覚の違いがあった。
一般的にロシアの春は遅く、最低でも雪が溶け始めて春が来始める。
しかし日本人一般の価値観では3月からが春で、2月も後半になると春に向けた動きをするべきだと考えていた。
加えて、満州の冬はヨーロッパ・ロシアより気温の面で厳しい事が殆どだが、川の氷が溶け始めるなど春への変化は3月初旬に訪れる事が多いので、2月後半ぐらいから春の準備を行うべきだという感覚を満州帝国は持っていた。
そこで満州帝国では、物資の備蓄や部隊の配置などで、ロシア人達が行うであろう反撃の時にどのようにでも動ける準備を一足早く始めた。
前面の敵軍の動きが緩慢だったため、この準備は順調に進められた。
そして準備が終わったので、特に気にすることもなく次の行動に移った。
行動とは偵察だ。
しかし相手の布陣などはこの一年殆ど変化が無いことが分かっていたので、日本人将校達はより正確な情報を知るべく「威力偵察」を考えた。
そして威力偵察の要請は前線から司令部へと伝えられ、満州帝国陸軍ソ連派遣総軍司令部も、一般的な行動として威力偵察を了承した。
そしてここからが、総軍参謀長だった天才や鬼才と言われた石原完爾将軍の面目躍如だった。
石原中将は、日本人将校達がせっかく派遣された戦場で何もしないことに少なからず不満を持っていることを十分に理解し、この事を利用できないかと考えていたと言われる。
当人も、ロシアの大地で無為に毎日を過ごすことに飽きていたと言われる。
言われるというのは、ほとんど何も物的証拠が残っていないからだった。
彼が行った事を調べても、多少行きすぎた感は見れるが「念のため」の戦闘準備の枠を越えていなかった。
天才と言われた彼らしい用意周到さだが、全ては想定内の事態に対応できる準備に過ぎなかった。
もっとも、「想定内」という言葉は満州総軍内での想定内であり、石原中将と彼の言葉に乗った人々の目的は、世界最大規模の陸戦で自分たちも「派手な戦争がしたい」という事に結実していた。
そして石原自身は、この時を停滞しきったロシア戦線で自分たちが主導権を握るまたとないチャンスと見ていた。
そして石原が行動を起こす際の切り札だが、この時満州総軍は「員数外」の装備を多数持ち合わせていた。
多くがソ連軍の装備であり、主に現場でドル札、酒、煙草、甘味などの物々交換で日々蓄えられた「T34/76」戦車、各種重砲、高射砲、そしてこれらの武器弾薬だった。
既に「T34/76」戦車などの技術交換や相互供与協定は連合国間で結ばれていたが、違法行為と呼んで間違いなかった。
満州帝国軍の「慰問所」も、ソ連軍将校などが賄賂として案内されて満員御礼だった。
加えて、自分たちの人脈を用いて、日本本土や満州から幾つかの装備を持ち込んでいた。
増援戦力についても、書類上で日本軍から満州軍に所属をかえて満州や中華地域にいる日本軍部隊を呼び寄せたりしている(当然だが日本陸軍中央も承認している)。
さらに、損耗と故障を見越して定数よりずっと多く送り込まれていたレンド・リースのトラック、燃料、その他補給物資と組み合わせることで、優秀な装備を持つ機甲部隊を作り上げていた。
もちろんだが、暇に任せて訓練にも精を出した。
この機甲部隊は、満州帝国唯一の第1戦車師団ではなく、紙の上では半自動車化された歩兵師団でしかなかった。
数にして4個師団で、この戦力は本来は総予備として各方面軍が保持している戦力を中心としていた。
その戦力を彼らは、動かない戦線をいい事に後方で訓練に明け暮れさせ、死者すら出す厳しい訓練によって、俄作りながらかなりの練度を持つ部隊に作り替えていた。
加えて訓練に関しては、基本的に対陣する以外にすることがないのを良いことに、後方に下がっている全ての部隊に対して実施していた。
越権行為ギリギリの行動が多く、中には与えられた権限を越えていたものも見られた。
だが、血なまぐさい戦場で受動的なことに飽きていた日本人将校達は、石原のたくらみに結託して当たり、事態が正確に日本本土に伝えられることは無かった。
僅かに伝えられたのは、「日々の損害が激しいのでもっと増援、装備を寄越せ」と、「現地の実状に沿って臨機応変に対応しつつあり」というおきまりの報告だけだった。
総司令官の馬占山大将も、自らの満州でのさらなる出世、戦後の政界への進出を夢見て、石原に好きなようにさせていた。
馬将軍の視界に連合軍はなく、ソ連では魔王のごとく恐れられてもいるスターリン書記長も眼中にはなかった。
馬将軍が石原に問いただしたのも、「それをしたら俺にどれだけ利益があるか?」ということで、いかにも馬賊出身らしい考えだった。
こうした動きに、現地に多数入り込んでいたアメリカ軍など他の連合軍連絡将校、観戦武官は、最初は何が起きているのか全く知ることが出来ず、露見してからは目を丸くするばかりだった。
しかしこの企みには、アメリカ人も大きな勢力を持つ「東鉄」も一部噛んでおり、連合軍の上層部は誰もロシアの僻地で行われている日本人達の企みに気づくことは無かった。
気づかなかったのはロシア人上層部も同じで、気づいた一部の者も賄賂によって黙りを決め込むか、中には祖国を救うためと割り切って荷担する者もいた。
流石にNKVDは気づいていたが、スターリン経由の命令によって見て見ない振りをするばかりか、水面下で協力すらしていた。
戦場神話程度の噂だが、石原将軍とNKVDのベリア長官が密談をしたとか、石原将軍がスターリンに密かに謁見していたという話しまである。
何にせよ、ロシア人の多くがせっかく日本人達が積極的に動こうとしているのだから、止めようとする者もいなかったという事だ。
むしろ少しばかり奇異な目で見つつも、感謝してすらいた。
理由はどうあれ、何の見返りもないのに、自分たちの方からロシアの大地でロシア人のために戦おうとしているからだ。
そして、日本人の悪巧みに気づいているロシア人達は、日本人が大きく動き、そして大きな成功を収めた場合に備えて、下には知らせないまま準備をすることも怠りなかった。
1943年2月19日に開始された満州総軍の「威力偵察」は、自分たちの前にいて最も弱いハンガリー第2軍に対して行われた。
直接参加したのは、機械化捜索大隊と言う名の増強連隊規模の部隊で、五色の満州帝国旗を描いた「T-34」戦車が1個連隊も属した、実質的には重武装の機械化装甲旅団だった。
しかも威力偵察部隊の後方には、念のために軍団規模の機械化部隊、支援の重砲部隊が出番を待っていた。
日本人に率いられた満州帝国軍は、戦線に風穴を開ける気満々だった。
そして日本陸軍伝統の夜襲という形で、指揮する日本人たち以外誰も予想しなかった中で「威力偵察」という名の攻勢が開始される。
機械化部隊よりも先に、満州帝国軍の第1機動連隊という隠密作戦、特殊作戦に長けた部隊が投入された。
彼らはもともと日本陸軍所属の日本人部隊で、気づかれないまま敵塹壕線に浸透して、敵将兵を人知れず殺害してまわり、野戦電話の有線を切断し、突破口を確保していた。
そしてこの行動に見られるように、敵が本格的に気づく兆候が見られるまで、しばらくは重砲の砲撃も行われなかった。
進めるだけ進んでしまい、出来るなら敵上層部が状況を把握するまでに戦線を突破してしまうつもりだった。
特別捜索大隊は深夜11時に沈黙のまま突進を開始したが、先頭を突進した「T34/76」戦車を最初に出迎えたのは第1機動連隊の友軍だった。
しばらくは彼らの案内で進み、そしてそのまま第一線を突破してしまう。
前面のハンガリー軍の司令部(大隊または連隊規模)も機動連隊の特務部隊によって既に壊滅していたため、ハンガリー軍の反応は遅れた。
結局ハンガリー軍が気づいたのは、予備の第二線に到達した段階だった。
だが第二線には、敵の攻勢があるまでは後方に下げられた待機部隊の一部が配置されているだけで、この時は警報すら出ていなかったので、戦力はともかく戦闘力は無きに等しかった。
しかし、来ないはずの敵を見付けた兵士の一部が、何とか上位の師団司令部に第一報を通報し、ようやくハンガリー軍が動きだす。
だが敵状が分からないので、上位のハンガリー第二軍司令部は敵の威力偵察以外あり得ないと常識的判断を下して、現地部隊への対処のみ命令した。
念のため軍直轄の砲兵の準備はさせたが、夜に動いた限定規模の敵に対するには不要と考えていた。
その日の夜、満州帝国軍は進めるだけ進み、威力偵察部隊の指揮官は「想定外の事態」に対して増援要請を行う。
これを軍団司令部、軍(方面軍)司令部が了承。
総軍司令部もソ連軍に知らせることなく、予備部隊の投入を命令した。
これで戦線のすぐ後ろに待機していた機械化師団2個からなる「増援部隊」が動きだし、既に出動準備を完了していたため、直ちに前進して突破口の拡大と急速な回頭を実施する。
そして夜明け1時間前、猛烈な重砲弾幕が前線を揺るがした。
砲撃には、当時は満州帝国にまだ供与されていない筈のロケットランチャー、通称「スターリンのオルガン」が戦線各所で大隊規模のまとまった数で参加していた。
重砲には、本来満州帝国軍には配備されていない24cm榴弾砲など日本陸軍だけが有する筈の大型火砲も参加していた。
アメリカが貸与を開始して間のない、ロング・トムこと長砲身155mm榴弾砲までが火蓋を切った。
砲撃は突破口の先と左右に対して行われ、これで完全に事態が両軍の多くに知れ渡った。
そして満州総軍司令部は、近在のソ連軍並びにモスクワの総司令部に対して、「敵の威力偵察部隊を撃破。
我が軍はその後も進撃を継続中。
なお戦線は拡大しつつあり、我が先鋒部隊はハンガリー軍の戦線突破に成功せり」と伝えた。
新たに投入された増援部隊の先頭には、1個大隊の当時日本陸軍だけが装備していた筈の「九九式重戦車改」がいて、「缶切り」となって敵の戦線を引き裂いていた。
この時点で、近在の枢軸軍はフランス第5軍、ドイツ第2軍、イタリア第8軍、さらにもう少し南にルーマニア第3軍がいた。
少し北にはドイツ第4軍がいた。
秋までならヴォロネジを落とした第3装甲軍がいたのだが、彼らは夏の戦闘での消耗で一旦後方に下がり、その後主力部隊がコーカサス方面に投入され、中央軍集団の第2装甲軍以外の全ての装甲部隊がコーカサス方面に展開していた。
つまり、機動防御の出来る機械化部隊が大きく不足していた。
対するソ連軍は、満州帝国の隣で第40軍がヴォロネジ前面で頑張っていた。
その隣に増援で入った第6軍、第13軍があり、3個軍でヴォロネジのドイツ軍を抑えていた。
そしてその南隣には65軍が比較的低密度で展開していたが、すぐ後ろには敵に気づかれないように第1親衛軍、第5戦車軍と、戦車軍団を有する第21軍が控えていた。
この3個軍は来るべき時の反撃作戦に準備されていた精鋭部隊で、本来予定していた冬季反攻作戦が行われていれば、ロストフ目指して突進し枢軸軍をコーカサスに閉じこめてしまう予定だった。
だが作戦は延期され、待機を命じられていた。
そこに満州帝国からの緊急電が届いた。
満州帝国の報告が正しければ、ヴォロネジとその周辺の枢軸軍を包囲殲滅することも可能な位置にあった。
日本軍は実質的に北部から戦線突破に成功しているので、急ぎソ連軍の精鋭部隊が南部から日本軍との握手を目指して突進すれば、今からでもかなりの数の敵を包囲殲滅できる可能性が十分にあった。
満州帝国軍の位置は戦線の丁度角になっている上に、ボルガ川の東岸にあるヴォロネジ市を奪回を目的とした作戦はソ連軍内でも早くから検討され、次点の作戦として一応の作戦も立案されていた。
しかし満州帝国を含む大きな移動を伴う予定で、枢軸側に事前に気づかれる可能性が非常に高く、実現は難しいと考えられていた。
この事は枢軸側も知っていたので、同方面で戦線は動かないと考えていた。
だが、満州帝国軍がそのまま突進を開始したと言うことは、作戦発動のチャンスでもあった。
そして突然の攻勢を受けた枢軸側は混乱していた。
何しろ、この時点で敵が攻勢もしくは反攻に出てくる兆候が全く無かったからだ。
諜報でも無線傍受でも航空偵察でも兆候は無かった。
特にソ連軍の物資の動きから、この時期の攻勢はあり得ないと判断されていた。
しかも動いているのは、現時点では動くことはない筈の満州帝国軍だけで、ソ連軍は通常の行動しかとっていなかった。
このため、満州帝国軍の独自判断による威力偵察戦が偶発的に拡大したと考えるべきだが、それにしては満州帝国軍の動きが激しく、ハンガリー軍は戦線突破されて戦線が実質的に崩壊していた。
損害も既に1個軍団が戦闘不可能なまでに打撃を受けており、朝にもたらされた情報では満州帝国全軍が激しい砲撃を浴びせかけ、続々と突破口から増援を送り込んでいた。
機械化部隊による軍団規模での威力偵察などあり得ないので、その日の正午に現地ドイツ軍も連合軍の限定的反攻と判断し、ハンガリー軍の救援に動き始めた。
しかしドイツ軍の主力はコーカサスにあり、一番近いドイツ軍はほとんど身動きが取れなかった。
ハンガリー軍の隣のフランス軍は、戦車は相当数持っていたが自動車不足から機動性に欠けており、さらにその北方で戦線を張っているドイツ第4軍にも装甲師団、機械化師団は無かった。
中央軍集団の第2装甲軍に属する部隊のうち、戦線の後方で待機している部隊を使う他ないが、出動させるにはかなりの時間が必要だった。
南方のB軍集団、第3装甲軍に属する装甲師団も、一部がコーカサスからハリコフまで下がっていたが、再編成と休養中だったので似たような状態だった。
満州帝国軍が枢軸側の現状を知っていたとしたら、絶妙のタイミングだった。
そして熱心に事前情報を集めていた満州帝国の石原達は、その絶妙のタイミングで作戦を決行していた。
満州帝国軍が始めた戦闘は、魔王と魔王の頂上決戦とすら言われたロシアでの戦い全体から見れば、取るに足らない小ささだった。
だが、ダムに開けた針の穴のように、穴からは徐々に水があふれ出していた。
そして誰もが予想外に作られた流れに翻弄されていった。
満州帝国軍は、全ての陣営の混乱を利用してとにかく突進を続け、目の前のハンガリー軍を撃破し続けた。
そして満州帝国軍の動きに呼応することを決めたのが、ジェーコブ将軍らに絶好の機会だと説得された形のスターリン書記長だった。
スターリンはヴォロネジとボルゴグラードの間の少し後方に展開していた、反撃用の第1親衛軍、第5戦車軍と周辺の空軍部隊に24時間以内の反攻作戦開始を命令。
流石に時間がないため、48時間以内に修正されて一斉に行動を開始した。
ソ連軍の予備部隊は、行動に備えた待機を続けて当座の物資も自前で蓄えていたので、行動に移るのが非常に早かった。
そして満州帝国軍の突然の攻撃開始から4日目早朝、ついにソ連赤軍の精鋭部隊が動きだす。
満州帝国軍の石原らが目論んでいた、「戦争が動いた」瞬間だった。
動きだしたソ連軍の前面には、イタリア第8軍とルーマニア第3軍がいて、その隣のボルゴグラード市には精鋭のドイツ第6軍がいたが、ボルゴグラード北方はボルガ川、ドン川の流れない場所で河川防御ができないので、目の前のソ連軍を前にして動くことは不可能だった。
これでヴォロネジのドイツ第2軍など、約40万人の大部隊が窮地に立たされる事となる。
既に満州帝国軍は、3日間で100キロ以上前進していた。
攻勢正面に立たされたハンガリー第2軍は、既に1個軍団が全滅し、残り2個軍団も半壊状態だった。
そしてソ連軍の大規模な攻勢によって、正面となったイタリア第8軍とルーマニア第3軍の継ぎ目にいたそれぞれ1個軍団が、瞬時といえる時間で壊滅し事実上消滅してしまった。
慌てたように満州帝国軍の前に展開していたフランス第5軍が、牽制と兵力の自らへの誘因を目的とした攻撃を開始したが、予期していた満州帝国軍は激しく反撃し、第二段階としてハンガリー軍に増援を送るはずだったフランス軍が逆に動けなくなっていた。
それでも後方で予備兵力として待機していた部隊(主にドイツ軍)が、満州帝国軍、ソ連軍精鋭部隊に対して包囲阻止を目的とした反撃を実施したが、どの部隊も後方で今までの消耗の回復に務めている部隊なので、圧倒的戦力差の前に半日を稼ぐのが精一杯だった。
しかもドイツ軍の軍集団司令部が、反撃の規模や目的を過剰もしくは過小に見誤ったため、予備部隊は間違った場所に投入されていた。
そして間違いはそのまま双方の優劣へと直結し、枢軸側は巻き返しが常に後手後手にまわってしまう。
枢軸側の醜態は、自分たちが攻勢側だという認識に多くの原因があった。
それほど満州帝国軍の攻勢が意外だったのだ。