フェイズ27「WW2(21)インド本土戦1」-2
1942年12月6日に上陸してから、連合軍の進撃は順調だった。
上陸から3日後には早くもマドラスに向けての進撃を開始した。
これに対して枢軸軍は、周辺に約30万の戦力を配置していたが、マドラス近辺には4個インド師団、2個本国師団を中心に15万を配置していた。
だが、侵攻前後からインド民衆のサボタージュが強まり、鉄道での移動は困難さを増した。
それでなくても連合軍の空襲によって鉄道はあまり使えないので、機動力に欠ける部隊の多くが遊兵、つまり実質的な戦力に数えられない兵力と化してしまった。
例外はイギリス本国から派遣された部隊だが、インドに配備された枢軸軍150万の5分の1程度しかいなかった。
戦力価値は半分近いと算定されていたが、本国部隊は基本的に機動性を用いた反撃や突破阻止のために使う予定だったが、当初から積極的に動かざるを得なかった。
そしてマドラスは、呆気なく連合軍に包囲される。
自動車両を大量に装備する連合軍は、鉄道を使うことなく友軍制空権下を突き進み、僅か1週間で防備体制の整わないマドラスを包囲し、同時に15万の兵力も包囲下に置いた。
その間も、上陸地点からは続々と後続部隊が上陸しつつあり、30万名を越える南インド軍(方面軍)は全戦力を発揮するべく部隊を整えつつあった。
一方の枢軸側は、各地のインド師団の移動がままならない場合が多く、南部防衛の本来なら機動予備だった本国部隊(軍団規模)がマドラス郊外で包囲下に置かれた為、これを救出するべき戦力が無かった。
鉄道で続く内陸部のバンガロールには、本国師団を中心とした10万の兵力があったが、空襲のため移動がままならなかったし、包囲網を破るには歩兵以外の戦力が足りなかった。
しかも連合軍は、すぐにも内陸への侵攻も開始して、バンガロールへの侵攻すら開始していた。
そしてマドラスで、枢軸側というよりインド総督府が恐れていた事態が起きる。
インド民衆の蜂起だ。
蜂起を促したのは、事前に入り込んでいた連合軍側の工作員と、インド独立の闘士として知られていたチャンドラ・ボーズ率いる自由インド軍の工作員だった。
蜂起した人々は、連合軍が空中投下や潜水艦の隠密輸送で渡した武器を手にしていたし、英軍に属していた大量のインド兵も合流した。
このためマドラスの枢軸軍は、連合軍と戦う前から戦力の半数近くを蜂起の鎮圧に投じざるを得ず、それすら焼け石に水の状態だった。
現地インド兵も、続々と自らが仰ぐ旗をかえてしまったからだ。
ここで連合軍は、マドラスに対して24時間の猶予を与えて降伏を勧告。
配下のインド兵の統制も難しい為、マドラスは戦うことなく開城した。
なおチャンドラ・ボーズは、日米と欧州が戦い始めた時点で中立国経由で日本へと亡命し、主に日本からの支援を受けながら活動を続けていた。
この亡命でチャンドラ・ボーズは、ソ連へと亡命した後に満州経由で日本に至っており、ここに欧州を見つめる当時のソ連の思惑も見えてくる。
そしてボーズは、活動の中で英連邦自由政府のチャーチルなどとも会談や交渉を持ち、自らの活動と戦後の独立を確認している。
もちろん戦中は、連合軍に全面的に協力することを約束していた。
そして彼らの存在と活動があったからこそ、連合軍のインドでの工作は円滑に進められた。
マドラスが上陸から僅か9日で降伏したことは、インド全土を揺るがした。
カルカッタにあったインド総督のリンリスゴー侯爵(本名:ヴィクター・ホープ)は、国民議会を通じてインド民衆の協力を重ねて要請したが、マハトマ・ガンジーやネルーら国民議会は強い反発を示した。
なお当時のリンリスゴー侯爵は、イギリスの総督にありがちな慎重で臆病な人物だと言われるが、こうした人物は中央からの命令に弱くそして忠実であり、彼は現地の実状を知らない本国が言うままに強権を振るって弾圧ばかりしていた。
このためインド国民議会、民衆、さらには各地の藩王の多くからの支持はなく、結果として枢軸陣営としてのインド崩壊を最も助けた人物とすら評される事がある。
そしてこの時も、強い反発にでたインド国民議会などに対しても、投獄などの厳しい措置に出た。
結果、ガンジーやネルーなど1万人以上が大量投獄され、インド総督府に対するインド民衆の反発はより強まった。
この行為は、オーキンレック、マウントバッテン両将軍など現地インド軍から反対が出たほどだ。
当然だが、枢軸側のインドでの戦いはより不利になり、連合軍は各地で歓迎され、特に有色人種の日本軍は大歓迎の様相を呈するようになる。
この中で、解放戦争に赴いたと考えていたアメリカ兵達が、「ジャパニーズばかり狡い」とぼやいたと言われる。
連合軍は、マドラス陥落後すぐにも内陸部のバンガロールの攻略を開始する。
基本的には正面からの侵攻だが、デカン高原という地形障害の多い地域への侵攻になるため苦戦が予測された。
だが、枢軸側のイギリス人達はインド民衆の支持を失い、古くからイギリスへの反発が強い南部はこぞって連合軍に協力したため、もはやまともな戦争にならなかった。
形ばかりの自由インド軍を含んだ前進した連合軍は、各地で「解放軍」として歓迎されたほどだった。
枢軸側は、とにかく信頼できる兵力と地盤が確保できる場所まで後退するより他無く、早すぎる連合軍の進撃は敵の抵抗よりも自らの補給を心配しなければならなかった。
その補給についても、食糧など現地で調達できるものは幾らでも民衆が持ってくるので、タダで貰うわけにいかない連合軍は、特にアメリカが大量に持ち込んでいた現金で決済を実施せざるを得なかった。
そしてこの現金決済は民衆の間にさらに噂を呼んで、無尽蔵と言えるほどの物資が連合軍の手元に自らやって来た。
このため連合軍の主計(補給)将校は、「麦が歩いてやって来る」と目の回るような忙しさだった。
軍隊並の結束を見せるインドの鉄道労務者も、連合軍によるインド「解放」と独立の約束の前に揺れ動き、情勢が連合軍に有利になった地域では続々と離反者が出た。
宣布活動では、各地に浸透した自由インド軍が大活躍した。
枢軸側のインド兵も同様で、戦う前にイギリス人将校を拘束するなどして連合軍(自由インド軍)に合流する部隊が後を絶たなかった。
中には、最新兵器を携えて部隊ごと合流した例も見られた。
逆に、連合軍占領地での抵抗活動、ゲリラ活動はほとんど起きず、長く続きすぎたインド統治の実態をさらけ出す事になる。
こうして枢軸軍の戦力は戦わずして目減りし、連合軍は1943年を迎えるまでにバンガロールを落とし、さらに約400キロ先にあるハイデラバードまで一気に進軍した。
このためこの戦争最初の「クリスマスまでに〜」という賭けでのバンガロール陥落は、慌ててハイデラバードに変更されたほどだった。
あまりに早い進撃に率いるモントゴメリー将軍は苦言を呈したが、好機を捉えた拙速こそを重視した日本軍とアメリカ軍に押される形で、自らの意見を下げざる得なかった。
もっともモントゴメリー将軍が常に慎重だったわけではなく、後に大胆な作戦も立案、実施している。
なお、バンガロールが陥落すると、南部から北部に伸びる鉄道の全てが遮断された事になり、年内にインド半島南部の制圧という希望的観測上での目標もほぼ達成された。
この間、連合軍に投降もしくは合流した枢軸兵は20万人に達した。
そしてその約半数が、自由イギリス政府が設立した形の自由インド軍に属した。
上陸から約一ヶ月後、年を越す頃には既にマドラスに連合軍の大型輸送船が接岸するようになり、航空隊もセイロン島などからマドラスなどへ急ぎ進出しつつあった。
そしてハイデラバードの包囲と陥落をもって、一旦進撃を停滞させる。
補給路の確保と、あまりにも放置していた地域の制圧と降伏手続きのためだった。
しかし補給路の確保は、インド民衆の協力もあって予想以上に簡単だった。
それにマドラスが使えるのなら、ここに大型輸送船で各種物資などを送り込んで兵站拠点と出来るので、ロシア戦線での枢軸軍と比べると補給の負担は著しく軽かった。
海と陸の輸送負担の差は1対100と言われる事もあるが、まさにその通りだった。
しかも鉄道も使えるので、イギリスが放り投げたものを再利用するだけで済んだ。
このため1月半ばには、次の攻略目標のナーグプル目指した進撃が始まる。
そしてナーグプルへの道を三分の二ほど消化した頃、ベンガル湾に再び連合軍の大艦隊が溢れる。
1943年1月25日、ガンジス川河口部に連合軍が強襲上陸作戦を決行した。
連合軍の東インド軍は、基本的にガンジス川流域の広大なヒンドスタン平原を突進するため、南インド軍よりも機動性の高い部隊が多く配備されていた。
指揮官も総指揮官がマレーでの電撃戦を実施した山下将軍で、その配下にもインドでの戦いで猛将で知られる事になるパットン将軍が配置されていた。
戦車師団(機甲師団)と戦車、装甲車の数も多く、全体の編成自体もより強力で、平原での野外決戦も想定した編成となっていた。
だが、上陸最初の攻略目標が総督府のあるカルカッタ(現コルカタ)であり、枢軸軍の激しい抵抗が予測された。
実際、カルカッタ周辺にはイギリス本国兵が多く配備されており、全体でも50万の兵力が配置に就いていた。
しかし、連合軍の上陸作戦自体は止めようがなかった。
上陸作戦には、前年12月の上陸作戦と陽動作戦に参加した全ての艦艇が参加していた。
基地航空隊はビルマのアキャブが拠点となるので少し遠かったが、アメリカが爆撃機部隊を大幅に増強するなどしていたので、兵力に遜色は無かった。
上陸は、カルカッタ西部のガンジス川河口部西岸で、上陸作戦に特化している日本陸軍の第5師団と海軍陸戦隊第1特別陸戦旅団、さらにアメリカ第2師団、オーストラリア第3師団、自由イギリス海軍コマンドなどが順次上陸した。
激しい抵抗が予想されたので一度に多数の部隊が上陸し、第一波は上陸戦に慣れた部隊が特に選ばれたが、ここでも連合軍の予想よりも抵抗は少なかった。
理由の多くは、全ての海岸を守るのは不可能だからで、それでもインド師団1個が現地を守備しており、南部よりも激しい水際迎撃が実施された。
だがそれでも、連合軍の予想よりも少ない抵抗で、上陸作戦そのものを阻止するには至らず、上陸作戦は1日の遅れを出したに止まった。
なお上陸するのは3個軍の予定で、残りの1個軍は上陸した部隊に呼応する形でビルマからそのまま陸路を進撃して、カルカッタ北西部での握手する事でガンジス川一帯の枢軸軍を包囲殲滅する予定だった。
そして包囲殲滅後に軍を一気に西に向けて、カーンプルで南インド軍と握手してデリーを目指す予定だった。
カルカッタを中心としたガンジス川河口域は、古くからイギリスの植民地だった事もあって、比較的イギリスの統治が強いまま保持されていた。
また、南部よりもイギリス本国部隊が多く配備されていた。
中には第7機甲師団などの有力部隊もあり、戦車、装甲車、自動車の数も今までで一番多数が配備されていた。
これらはイギリス本国での戦時生産が順調な証拠であり、まだインド航路が機能していたときにインドに運び込まれたものだった。
カルカッタ周辺には、そうして運ばれた約20万のイギリス本国兵が配備されていた。
この数字は本国兵の3分の2に達しており、カルカッタがどれだけ重視されていたかを示している。
インド師団も、装備がよく忠誠度も高い部隊が優先的に配備されていた。
残念ながらドイツ・インド軍団はまだ北西部におり、最初の戦場には間に合いそうにもなかった。
そしてイギリス本国兵はインド師団よりもずっと優秀であることを示し、連合軍が上陸後にすぐにも周辺の兵力が迎撃のために移動してきた。
だが連合軍は、既に橋頭堡は十分に確保していたし、沖合には戦艦多数の大艦隊が展開し、さらに洋上には空母機動部隊が濃密な航空支援を提供していた。
対して枢軸軍は、依然として継続されていた航空撃滅戦での消耗のため、十分な航空支援は出せなかった。
連合軍の空襲のため部隊の移動も大きく遅れてしまい、イギリス・インド軍が計画していた防御計画は半分も出来なかった。
連合軍が上陸した沿岸部では、日本軍艦載機、日米の爆撃機が激しい空襲を行った為、鉄道輸送はほとんど機能せず、道路を進むのも昼間は危険な状態で、移動中に多くの戦車やトラックが撃破された。
それでもかなりの兵力がカルカッタ西部に集結し、上陸して占領地を拡大しつつある連合軍と対峙した。
この時点で連合軍は、先鋒部隊と占領地拡大のための機動戦力が上陸していたが、まだ全体の3分の2程度しか上陸していなかった。
そのうち実質的に戦闘可能なのは半数ほどで、戦力を十分に発揮できる状態では無かった。
だが軍司令官の山下大将、アメリカ第1軍団を率いるパットン中将らは拙速を重んじる決断を下す。
既に日本戦車第2師団、アメリカ第1機甲師団という機甲戦力の中核部隊が戦闘可能だったことが大きな理由とされ、連合軍は本来なら防備を固めるべきだと言われる段階で、大胆にも敵主力部隊の包囲殲滅戦を企図した。
敵を水際に落とそうと動いている敵を逆手に取ったわけだ。
包囲するべく機動戦を仕掛けるのは、日本戦車第2師団、日本第18師団、アメリカ第1機甲師団、アメリカ第2師団で、自由イギリス第2軍団などは橋頭堡付近での敵の迎撃と拘束を果たすことになった。
作戦に参加する通常師団も全て自動車化師団で、戦車部隊(大隊または連隊)も有していた(※まだハーフトラックの配備が十分進んでいなかったので、機械化師団とは言い難い)。
そして海岸の橋頭堡破壊を目的に前進していたイギリス・インド軍に対して、積極的な行動を開始した。
連合軍の予期せぬ動きに、当初イギリス軍は連合軍が積極的な防御戦闘を仕掛けてきたとしか考えなかった。
それが常道だからだ。
そして橋頭堡の多くの箇所での攻勢は、最初はほぼ同じように感じられたため、イギリス軍は通常以上の対処はせずに自らの橋頭堡の対する攻撃のための動きを続けた。
自分たちの方が反撃を行おうとしているという固定観念も、イギリス軍の行動を心理面で拘束していた。
だが、約1時間後に飛来した沖合から飛来した空母艦載機による集中爆撃を作戦開始の合図として、連合軍の大胆な攻勢が開始される。
最初に突破戦闘をしかけたのは、岡田中将率いる日本戦車第2師団だった。
同師団は、戦車連隊2個を抱える戦車旅団を2個と重戦車連隊1個、機械化捜索連隊1個、機動歩兵連隊1個、機動速射砲大隊1個、機動砲兵連隊、機動工兵大隊、などから編成されていた。
戦車連隊は通常58両の戦車から編成され、部隊の基本は中隊となる。
中隊をまとめて連隊として運用するのは騎兵の名残で、イギリス、フランスなどが同様の編成を取っている。
日本の機甲師団(戦車師団)の最大の特徴は重戦車連隊で、連隊と言っても定数で36両しか持たないが突破戦力として編成に組み込まれていた。
この戦闘でも、全部隊の先頭に立って突進していた。
ただし今までの「九九式重戦車」ではなく、エンジンをより大きな馬力のものに換装し、トランスミッション、キャタピラーなど多くの箇所に改良を加えた「九九式重戦車改」だった。
総重量は1トン増えたが、機械的信頼性や稼働率も相応に向上していた。
ただし日本での生産力に限界があるため、1942年だと専門の工場を一つあてがっても月産10〜15両の希少種だった。
だが数は少なくても、衝撃力は依然として大きかった。
イギリス軍は新開発の速射砲(対戦車砲)の6ポンド砲(長砲身の57mm砲)を前線に持ち込むようになっていたが、通常砲戦距離で「九九式改」を撃破することはほとんど無理だった。
逆に戦車相手なら徹甲弾、対戦車砲なら榴弾を撃ち込んで撃破していった。
ある程度の機動性を得た重戦車は、強引な突破戦闘には最適だった。
新たに投入された6ポンド砲搭載の「クルセイダー Mk. III」巡航戦車も例外ではなく、車内のシステム工学の不備もあって日本の「九七式中戦車改」などとの戦いでも依然として不利を強いられた。
だが例外が出現する。
「チャレンジャー Mk. III」歩兵戦車だ。
「チャレンジャー Mk. III」歩兵戦車は、約40トンの巨体を重装甲で覆ったイギリス陸軍伝統の重戦車で、「マチルダII」の後を継ぐ存在だった。
主砲も新型の6ポンド砲装備で、相応の対戦車戦闘力を有していた。
ただし、独特の無限軌道の形状が示すように歩兵戦車のため、「マチルダII」同様に足が遅く不整地だと時速13kmととにかく遅かった。
「九九式改」が不整地でも時速20km以上を発揮したのと大きな違いだった。
しかし初期型でも車体前面で102mmと非常に重装甲で、「九九式改」に匹敵した。
このため「九九式改」でもかなり接近しなければ撃破は難しく、突破戦闘での一番の障害となった。
ただし足の遅さが災いして、戦場に間に合わない場面が多々見られた上に、連合軍の頭上を舞う日本軍艦載機の餌食となる場面も多く見られた。
ちなみに戦車の名称決定に一悶着があり、当初は士気高揚のため首相の名前 (ハリファックス)にしようとしたが、反対が意外に多いため別の戦車の候補から選び直されたという経緯がある。
このため歩兵戦車らしくない命名となった。
またこの命名により、巡航戦車にだけ「C」の頭文字を冠する流れが崩れ、戦車の全てが「C」の頭文字で始まる名前を持つようになっている。
連合軍の攻勢は、空襲と重戦車部隊を先陣とした敵陣の突破戦闘が成功すると、後は機動力に優れた「九七式中戦車改」部隊の出番となった。
重戦車の役割は、敵陣の正面突破であって機動戦ではなかったからだ。
そして日本の戦車第2師団、第18師団は一丸となってイギリス軍の前線を完全に突破し、前進速度の許す限り突進した後は迂回を始める。
そしてその脇を、パットン将軍が率いる第1機甲師団、第3師団がより早い速度で駆け抜け、日本軍とバトンタッチするような形でイギリス軍を大きく包囲していった。
アメリカ軍機甲部隊の進撃速度は、誰もが予想したよりもはるかに速く、一日で70キロも前進していた。
このため最初の突破戦闘を行った日本軍は、包囲陣を敷くためにアメリカ軍の過ぎ去った場所を固めなければならなかった。
パットン将軍は、1兵でも多くの敵兵を包囲殲滅するため、本来は包囲のために残す予定の第3師団も全部引き連れて行ってしまったからだ。
そして、連合軍が大規模な逆襲、しかも逆包囲戦を仕掛けるとは予測していなかったイギリス軍は司令官のオーキンレック以下将兵の多くが混乱し、これをパットン将軍の迅速すぎる進撃が拍車をかけさせた。
それでも各所で激しい戦闘、戦車戦が行われたが、制空権を持ち戦場のイニシアチブを握り続けた連合軍が優位に戦闘を展開した。
なお、アメリカ軍の先頭と突き進んだのが「M4 シャーマン」中戦車で、この後連合軍の事実上の主力戦車、標準戦車としてどの戦場でも見られるようになる傑作戦車だった。
この作戦で見せたように、特に稼働率の高さは高く評価された。
加えて、人間工学を考えた高い居住性も長期作戦には非常に有効だった。
そして何より、操縦が簡単な事が全連合軍への供与、貸与の際に効果を発揮した。
「猿でも操縦できる」と言われたほど、誰でもすぐに操縦できるようになったからだ。
インド作戦全般でも、日本軍部隊のほとんどを除く全連合軍部隊に「M3 グランド」中戦車などと共に配備されており、様々な国旗を描いて戦っている。
そしてこの時の戦場では、30トンある中戦車(巡航戦車)は「M4」だけで、威力がやや低くても75mm砲を搭載して必要十分な装甲と速度を備え、何より高い機械的信頼性を持つ事から大いに活躍した。
だがイギリス軍も、やられっぱなしではなかった。
連合軍の包囲戦の終盤近くになって戦線のやや後方にいたイギリス第七機甲師団が、機動防御戦を仕掛けてた。
空襲などで移動に手間取ったことが幸いした形だったが、抵抗が微弱だった前進中に連合軍の側面から襲いかかったため、先陣争いのように少し無秩序に突き進んでいたアメリカ軍部隊の側面を突くことに成功した。
そして戦い慣れていないアメリカ軍部隊は、敵の抵抗が微弱で攻勢をとっている間はよかったが、一度守勢に回りしかも友軍が次々に撃破される事態に陥ると、あっと言う間に壊乱してしまった。
戦車戦でも、イギリス軍に6ポンド砲装備車両がかなり含まれていたため、「M4」戦車もかなり撃破された。
「M4」戦車は側面が大きく垂直な上に内側に砲弾が搭載されているため、側面が大きな弱点だった。
この弱点は長らく改善されず、現場では様々な涙ぐましい努力が行われる事となる。
この時の戦いは、連合軍が無謀な反撃を仕掛けたことが原因だとか、進軍を急ぎすぎたと言われることもあるが、イギリス軍の反撃のタイミングが的確だった事も評価するべきだろう。
もっともイギリス軍も、こうも容易くアメリカ軍が崩れるとは考えておらず、追撃戦は少しばかり泥縄式となってしまった。
だが敵の機甲戦力の多くを撃破するチャンスを逃すわけにもいかず、イギリス軍は橋頭堡より先にアメリカ軍機甲部隊の撃破を優先した。
連合軍の予期せぬ窮地を救ったのは、急速な進軍から半ば置き去りにされた格好で、少し後ろから側面を固めていた日本戦車第2師団だった。
師団のうち1個戦車旅団と支援部隊は包囲のための前進を続けていたところ、アメリカ軍の潰走に出会い、近くにいたパットン将軍の支援要請もあって、ただちにイギリス軍への反撃を開始した。
そして潰走する敵を追いかけ、有力な反撃をあまり考慮していなかったイギリス軍の先鋒部隊は、俄作りながら防御陣を敷いた日本軍の反撃を受けて大損害を受けると共に前進が停止してしまう。
そしてパットン将軍の強い激励で戦意を回復させたアメリカ軍部隊も反撃に加わり、イギリス軍部隊はこれ以上の前進は叶わず後退するより他無かった。
そしてかなりの損害を受けたため、その後も継続した連合軍の包囲行動を止めることはできず、イギリス軍部隊のかなりが橋頭堡を攻撃する筈が逆に包囲下に置かれてしまう。
だが、イギリス第7機甲師団師団の奮闘は無駄ではなく、連合軍橋頭堡の撃破に向かっていたイギリス軍の約半数が連合軍の包囲から脱する事ができた。
しかしそれでも、カルカッタ周辺でイギリス軍が連合軍の進撃を止めることに失敗したのは間違いなかった。
なおこの戦いは、橋頭堡を半包囲で攻撃しようとした側が逆に包囲殲滅戦を仕掛けようとして、さらに逆襲と反撃が行われるという目まぐるしい戦闘となった。
こうした乱戦にこそ、少し後に枢軸側の戦列に参加するロンメル将軍の手腕が発揮されただろうと言われたほどだった。
その後連合軍は、さらに部隊を上陸させて包囲の輪を縮め、3日後に10万近いイギリス軍が降伏した。
そしてその翌日には、体制を整えた機甲部隊が進軍を開始してカルカッタへと向かい、上陸から9日目の1943年2月4日にカルカッタは無血開城。
デリーに逃げ出したインド総督府のポールに日本軍、アメリカ軍、そして英連邦自由政府の旗がはためいた。