フェイズ27「WW2(21)インド本土戦1」-1
1942年12月7日、連合軍はインド本土に第一歩を記した。
10月末のソコトラ攻略中止からの方針転換で極めて早い戦略レベルでの作戦変更だったが、この侵攻はもともとアラビア作戦に準備されていた部隊と物資を転用したため迅速に行えた。
だからインド全体への侵攻ではなく、まずはインドに橋頭堡を築くための侵攻でもあった。
そして好機を捉えてという補足付きで、全面的な侵攻を行うことになっていた。
というのも、航空撃滅戦の最中に行われた偵察で分かった事は、枢軸軍のインドの防備が非常にまばらで隙だらけだったからだ。
総督府のあるカルカッタ方面の沿岸部はかなりの部隊が展開して、沿岸部にも陣地が作られたりしていた。
だが、そもそも「こんなに早く」連合軍がセイロン島を奪取するとは予測していなかった枢軸軍(現地イギリス軍)は、インドの全ての海岸線を守ることは現実問題として不可能で、まともな防衛準備はしていなかった。
イギリス本国自身も、使える戦力と兵器、物資はまずは中華、そしてマレーにまわして、インド防衛の準備を進めていたと言っても二の次にせざるを得なかった。
それでもシンガポールが陥落した辺りからは防衛準備を本格化させたが、それでもインド全土を満たす戦力を注ぎ込む事は不可能に近かった。
本気で全てを守りたければ、兵力が何百万あっても足りなかった。
侵攻するイニシアチブを連合軍が握っている以上、全ての箇所で十分な防備を固めるのは不可能に近かった。
このためガンジス川河口部とインド半島南部の防備を優先したが、それでも海岸部を全て守るのは無理だった。
特に半島南部は、連合軍がその気になればどこにでも上陸できる状態だった。
そして連合軍も、セイロンに有力な戦力を進めていた事もあり、まずは南部に侵攻して橋頭堡を固めることとした。
なお、連合軍がインド侵攻に際して、一つの宣伝が実施された。
その宣伝とは、英連邦自由政府と連合軍にインドが荷担することを決意すれば、正統な地位を取り戻した後のイギリス国王と政府は、インドに完全独立を約束するという内容だった。
しかもこの決定を、全ての連合軍参加国が保障、承認するとされた。
さらに公の場での公文書の交換も実施するとしていた。
イギリスが得意とする二枚舌、二重外交の対極とも言える宣伝だった。
この事を決定したウィンストン・チャーチルは、イギリス帝国主義の権化であり帝国主義者として広く知られていたため、世界中が大きな衝撃を受けた。
特にイギリス本国での衝撃は大きく、チャーチルを民族の裏切り者と罵った。
チャーチルは亡命政府とはいえイギリス政府の首班であり、イギリス政府自身がインドを手放すと言ったことになるからだ。
つまり英連邦自由政府が、いかなる手段を用いてもイギリス本国を全体主義者から取り戻すという決意表明であった。
だがこの背景には、どちらにせよ戦後はアメリカによってインドは独立を強いられるのが分かっていたので、少しでも政治的影響力を残すために自らカードを切ったという、背に腹は代えられない理由があった。
規模は小さいが、自由オランダ委員会と蘭領東インドの決断と同種のものだった。
本国を失った悲哀と言えるだろう。
またチャーチルにとっては、大英帝国が崩壊することよりも、イギリス本国がドイツの傀儡となった全体主義によって統治されることが何より許せなかった事がこの決断を促した。
この事は彼の回顧録やインタビューなどで後年になって多くの言葉が残されており、人生最大の苦渋の決断だったと語っている。
加えて、ヒトラーへの憎悪をさらに募らせたとも書かれていた。
しかし彼は老獪な政治家であり、宣言の翌日はアメリカに亡命しているインド代表とにこやかに握手する姿がアメリカや日本の新聞の一面を飾った。
さらには日本にも飛び、山梨首相にインド「奪回」への協力を強く要請している。
ファシズム(全体主義)という劇薬が、時代を大きく動かした瞬間だった。
連合軍のインド侵攻だが、亜大陸と呼ばれるほど広大な地域に対する侵攻には、大げさではない表現でも100万の地上戦力が必要と考えられた。
具体的には、東部と南部にそれぞれ軍集団規模の陸軍部隊が必要で、当時の日本軍の編成だと合計30個師団を投じて1年の時間が必要と算定された。
枢軸側はインド兵だけで最低でも200万は動員可能で、鉄道労働者約65万人も後方要員として数えることもできた。
イギリス・インド軍の弱点は、機械化戦力、航空戦力の不足だった。
加えてどれだけの武器弾薬をインドに送り込めるかが、インド兵の兵数に大きく左右した。
またインド師団(部隊)は、ほぼ全ての場合で将校はイギリス人だが兵士がインド兵で、これがインド防衛の主力だった。
42年夏までにイギリス本国から、総数で1個軍規模の兵量が送り込まれていた。
当然だが、有色人種が白人を指揮する事は一切無かった。
この点は、日本と同盟関係にあるアメリカの方が、まだマシだった。
指揮官には、陸軍はクルード・オーキンレック将軍(派遣と共に大将就任)を送り込んだが、海軍の名目上の指揮官としてルイス・マウントバッテン将軍が就任した。
マウントバッテン将軍はヴィクトリア女王の曾孫に当たる名門貴族出身の軍人なので、インド全軍の実質的な指揮はオーキンレック将軍が当たることになる(しかも当時のマウントバッテン将軍は、まだ40才を越えたばかりだった)。
しかしマウントバッテン将軍は、こういうときこそ高貴な者が前線に出なければならないと、自ら志願してインドに赴いたとされている。
オーキンレック将軍は、軍歴の多くをインドで費やしているため、今回の任務に打ってつけと考えられた。
なお師団、軍団、軍、軍集団の日本と欧米諸国の区別だが、日本では明治以来軍団の事を軍、軍の事を方面軍と呼ぶ。
軍集団は本来存在しないが、総軍がこれに当たる。
英語表記だと軍団は「corps」、軍が「army」、軍集団が「army group」などと呼ばれる。
軍団の下位は、戦略的編成の基本単位となる師団(Division)で、旅団、連隊、大隊と下位に続いていく。
そして分隊が兵力の基本単位になるが、上位になるにつれて3つの下位単位をまとめるので、軍団は師団が3個、軍は軍団が3個、軍集団は軍が3個で、合計27個師団で軍集団は編成されることになる。
もちろん例外も多く、各単位で支援部隊を含むことも多い。
また国によって師団や旅団、連隊の規模が違うことが多く、特に師団編成が小規模なソ連軍において顕著で、ソ連軍の場合15〜20個師団で軍を編成してドイツ軍の軍と互角程度の場合がある。
師団規模が大きいのは機械化の進んでいる国の陸軍に多く、アメリカ軍が顕著に多い。
アメリカ軍と日本軍の場合でも20%程度兵力量で差がでており、戦争中の日本陸軍はレンドリースで兵器のかなりを賄って、編成が徐々に強化、巨大化している。
1942年冬頃の日本陸軍の場合、戦前からの常設師団、戦車師団はほぼアメリカ軍と同規模の編成とされていた。
だが、全体の40%の数に当たる戦時動員師団のほとんどは後方警備や固定配置が前提のため、部隊編成も軽ければ機械化率も低かった。
後者の師団は、内地(国内)と中華戦線に多く展開していた。
インド解放(侵攻)を決めた連合軍は、10月末からインドでの戦力編成を開始し、日本軍3個軍団、アメリカ軍2個軍団、自由英連邦2個軍団に部隊を編成していった。
各軍団は2〜3個師団から編成される予定で、自由英連邦軍はアンザックが多数の兵力を拠出する予定になっていた。
当時オーストラリアの総人口は710万、ニュージーランドが160万で、合わせるとカナダより少し少ない程度の人口となる。
そしてオーストラリアは、英連邦自由政府と連合軍に加わると俄然積極姿勢を示した。
大英帝国の中で自分たちこそが一番の存在だという自負からで、この戦争中は何かとカナダと張り合った。
ジョージ六世が訪問したときも、国民を挙げて熱狂的に歓迎している。
とはいえ、国力としては微妙だった。
工業化率は高いとは言えず、オーストラリアは工作機械とエンジンなどの供与を受ければ戦車の生産も一応可能だった。
だが装備の過半はアメリカからレンドリースされ、連合軍に荷担してから急速に兵力を整えていった。
オーストラリアは9個師団を編成し、ニュージーランドは旅団編成で3個を当面準備した。
これにカナダからの派遣部隊を加えて、自由英連邦アジア方面軍が編成されている。
しかし海軍、海運の双方が貧弱なので、輸送は日米が主に担う予定だった。
アメリカは、特に陸軍が大規模な地上戦ができる戦場を欲していたので、以前からかなりの積極姿勢を示していたし、「インド解放」の準備を進めていた。
インド作戦が迅速に進んだ一番の原因は、アメリカ陸軍といえるほどだ。
アメリカ陸軍としては、自らが戦場で活躍しないと国内での海軍との競争に後れをとるという気持ちが強かったため、こうした行動に出ていた。
このため日本本土にアメリカ陸軍の高官が何度も渡り、日本陸軍のみならず政府にも強く働きかけたりしている。
陸軍長官のスチムソンも、何度も日本へ渡っている。
この中で親日家になったと言われることもあるが、知日家という評価の方が正しいだろう。
またスチムソン長官の場合、アメリカを積極的にさせるために陸軍が動かねばならないと考えてのことだったとも言われている。
だが、当時のアメリカ陸軍には問題があった。
既に東アジアで盤石の地位を築いているマッカーサー将軍は、まだ中華戦線に関わっている為、仮に当人が望んだとしてもインドの指揮を任せるわけにはいかなかった。
それに中華とインドは離れすぎているので、別戦区を設定する必要もあった。
このためセイロン島攻略の1942年6月の時点で、アメリカ陸軍内に東アジア戦域と南アジア戦域が設定される。
そして皮肉なことに、かつてフィリピンでマッカーサーの副官を長期間務めたドワイド・アイゼンハワーが、中将に昇進した上で南アジア戦域の指揮官としてシンガポールに赴任する。
アイゼンハワー将軍は調整型、政治型の軍人と言われるが、アメリカ陸軍としてはインド戦線でキャリアを積み上げさせ、きたるべきヨーロッパ作戦に備えさせようと言う考えだった。
そしてインド侵攻でも主力とならざるを得ない日本軍だが、東インド方面軍(軍)と南インド方面軍(軍)の双方で指揮官を務めねばならなかった。
南はセイロン島攻略の田中静壱将軍が務め、東はマレーで活躍した山下将軍が務めることとなる。
そして二人の上には、当時の日本陸軍でほぼ最年長ながら前線指揮が出来る力量を持つ軍人として、梅津美治郎大将が選ばれた。
そして梅津大将の下に、アメリカ軍は猛将ジョージ・パットン将軍、自由英連邦軍は亡命した反骨の戦士バーナード・モントゴメリー将軍などがそれぞれ軍団を率いた。
アメリカ、自由イギリス共に非常に個性的な将軍ばかりで、シンガポールに在陣した梅津大将はアメリカ軍を後方から率いるアイゼンハワー将軍や別の軍団を率いるブラッドレー将軍を殊の外頼ったと言われている。
以下が、1942年12月から翌1943年3月までにインドへと進むことになる連合軍の布陣となる。
・連合軍インド軍集団(主将:梅津大将・副将:アイゼンハワー中将、モントゴメリー中将)
・総予備:近衛第2師団、第38師団(再編成中)、陸軍第1挺身団(空挺旅団)、海軍陸戦隊 第1特別挺身団(空挺旅団)、第11戦車旅団、ほか第1重砲兵旅団など多数
・南インド軍(田中大将)
・方面軍直轄:戦車第1師団、海軍陸戦隊第2特別陸戦旅団
・日本第5軍(軍団):第2師団、第6師団、第20師団
・米第2軍団 :第7師団、第25師団
・自由英第1軍団 :加第3師団、豪第2師団、豪第8師団
・東インド軍(山下大将)
・方面軍直轄:米第4師団、海軍陸戦隊第1特別陸戦旅団
・日本第7軍(軍団):戦車第2師団、第5師団、第18師団
・日本第15軍(軍団):第15師団、第31師団、第33師団(ビルマ方面)
・米第3軍団 :第2師団、第1機甲師団
・自由英第2軍団 :加第1機甲師団、豪第3師団、豪第5師団
・後続部隊(※1943年春以後投入予定)
・日本第13軍(軍団):戦車第3師団、第8師団、第9師団
・米第5軍団 :第3師団、第9師団
・自由英第4軍団 :加第2師団、豪第4師団、他(ニュージーランド旅団、自由インド旅団など)
※重砲兵旅団など支援部隊の多くは割愛。
※加=カナダ、豪=オーストラリア
以上の戦力のうち、まずは既にセイロン島攻略に参加したかセイロン島に進出している部隊が、南インド軍としてインド半島南東部に上陸する事になる。
そして翌年2月には、ガンジス川河口部にカルカッタ方面攻略を中心とした上陸作戦が予定されていた。
上陸作戦に先立って航空撃滅戦が強化され、セイロン島への航空兵力の増強も次々に行われた。
既に中華戦線での航空機の役割が重慶への爆撃だけとなっていたので、同方面展開していた部隊も半数以上がインド作戦に参加するべく移動や編成、改変作業を行った。
陸軍部隊の一部も、後詰めでインドに移動した。
また、主にソコトラ島攻略戦に従事した艦隊は、シンガポールでの修理や整備、補給、休養を実施し、さらに兵力を加えた上で上陸作戦に備えた。
損傷した艦艇は、工作艦《明石》などが全力で修理に当たった。
このためシンガポール(+リンガ泊地)には、日本海軍の後方支援部隊も全力で出動していた。
作戦開始は非常に早く、1942年12月5日に決行される。
1ヶ月前にソコトラ島侵攻で躓いてから僅か一ヶ月だが、雨期が来る前に最初の勝負を決してしまいたいという連合軍の思惑と、ソコトラ作戦での枢軸側のアラビア海での疲弊を見ての事だった。
加えて、6月からの航空撃滅戦の成果によって、上陸作戦には全く問題ないと考えられていた。
制空権、制海権は、連合軍の手にあった。
なおソコトラ作戦は、インド侵攻を欺瞞するための陽動作戦だと宣伝され、戦後もかなりの期間信じられ続けることになる。
ソコトラ攻撃からインド侵攻は、それほど短い流れで発生していたからだ。
1942年12月1日、シンガポールに集結していた日本艦隊が一斉に動き始めた。
戦艦《長門》《陸奥》を中核とする第一艦隊と、ソコトラ島を空襲した第3艦隊だった。
さらに巡洋戦艦 《レパルス》を中心とする自由イギリス東洋艦隊、アメリカ・アジア艦隊など、連合国各国の艦隊も活発な活動を開始した。
アッズ環礁に進出している戦艦《高雄》《愛宕》を中核とする第二艦隊も、他の艦隊の動きに合わせて動き始めた。
インド侵攻作戦の開始だった。
インド侵攻は枢軸側の予想通りだが、10月末のソコトラ島戦があったため、枢軸側は1943年初めを想定していた。
しかしセイロン島に集結していた輸送船団が動き始めており、上陸作戦発動は間違いなかった。
だが上陸地点で、枢軸側に混乱が見られた。
高速戦艦4隻を中核とする日本の第二艦隊が、軽空母を中心とした遣印艦隊、セイロンの航空隊の支援を受けつつ、インド半島南部の西岸に出現し艦砲射撃を開始したからだ。
だがインド半島西岸は西ガーツ山脈があり、上陸はともかくその後の進撃が難しい地形が殆どだった。
しかし無視も出来ないため、東岸に上陸すると想定していた方針を変更して、慌てて防衛体制の一部変更を行った。
この時点で、枢軸内でも陽動の声は強かったが、万が一上陸されたら恐らくは東西から挟撃され、南端部の兵力が包囲殲滅されるので対応せざるを得なかった。
そして枢軸側も考えた通り、連合軍の大上陸部隊はセイロン島からも距離が近いインド半島南部の東岸に出現した。
だがこの位置も、枢軸側の予測が外れた。
枢軸側が予測したのは、支援も受けやすいし上陸もしやすいセイロン島のほぼ対岸だったが、連合軍はもっと北に出現した。
連合軍の上陸船団が現れたのはカッダロールの南岸。
インド半島西岸は上陸に適した地形が少なく、平野部は海岸線はともかく平野部は池や湖が多くて、大軍の戦闘には向いていない。
カッダロールの街の南は少しマシなので、この場所が選ばれた。
しかしこの場所は枢軸側(英インド軍)も相応に警戒しており、1個旅団のインド旅団が展開していた。
上陸作戦を行ったのは、インドに最初にイギリス人が上陸するべきだという事でカナダ第3師団と、上陸作戦に特化している日本海軍陸戦隊・第2特別陸戦旅団だった。
これを、戦艦《長門》《陸奥》、巡洋戦艦 《レパルス》などが艦砲射撃で支援し、上空は第3艦隊とセイロン島の連合軍空軍部隊が守った。
なおこの戦いから、自由イギリス空軍が本格的に戦列に参加しており、機種は違えど蛇の目 (ラウンデル)を描いた機体が戦い合う事になる。
しかし同じ蛇の目ではなく、自由英の蛇の目には十字のマーキングが重ねて施されていた。
また自由イギリス空軍機は、敵味方識別のため翼と胴体後部にマークとは別に白黒の帯(□■□■□)を描いているが、これは後に全ての連合軍機が大規模侵攻作戦の際に「侵攻帯」として使うようになり、進撃の象徴とされるようになっていく。
上陸作戦自体は、数時間の遅れが出ただけで殆ど何の支障もなく進展した。
インドの海岸部を全て守るのは不可能で、しかも既にインド国民議会の大規模なサボタージュが始まっていたため、鉄道運行にも支障が出ており、インドを守る英インド軍の動きは低調だった。
そしてインドでの戦いは、鉄道路線と都市の奪い合いが中心となる。
野戦軍の撃破は連合軍にとっては二の次で、迅速な進撃によって各地を分断、孤立させ、イギリス本国のインド支配を奪うのが目的だった。
そうしてしまえば、各地で孤立した英インド軍は根無し草となり、孤立した軍隊だけを野戦で殲滅すれば、労せずして勝利できる筈だからだ。
インドの戦いは所詮植民地での戦いなので、軍隊に協力する民衆は希少で、戦闘も迷惑でしかなかった。
侵攻計画も比較的単純で、まずは南端部を制圧したらその後は内陸部の主要都市を一直線に攻略しつつガンジス川流域を目指すことになっていた。
第一攻略目標は南部最大の都市マドラス(現チュンナイ)。
マドラスから内陸へと進んでバンガロールを落とし、その後一気に北進して内陸部のナーグプルを目指す。
そしてガンジス川流域のカーンプルを落とす時点で、遅れてカルカッタ方面から上陸する東部軍と握手する手はずになっていた。
侵攻は時間との勝負で、侵攻のために連合軍は大量の輸送車両を戦場に持ち込んでいた。
これにインド独立で連合軍に傾いた現地インド民衆の協力を受けて鉄道を押さえてしまえば、インドでの戦争は勝ったも同然だった。
既にインド洋での制海権獲得競争、インドでの制空権獲得競争では連合軍が圧倒的に優位なので、連合軍が戦略的に敗北する要素はほとんど見られなかった。
注意すべきは、インドを守るべく死に物狂いになる可能性のあるイギリス本国兵と、1942年夏に突如インドへとやって来た「ドイツ・インド軍団(DIK)」だった。
「ドイツ・インド軍団(DIK)」は、1942年4月に突然のようにドイツ中枢で派兵が決定された。
インド洋での枢軸軍の制海権が根底から崩壊して次はインドでの戦いが予測され、この戦いが戦争の焦点のひとつになると考えての政治的行動だった。
これまでドイツは、アジアでの戦いには不干渉状態で、全てイギリス本国政府(+イタリア海軍)に任せっきりだった。
有利な段階ではこれで良かったし、ドイツにはチャイナにまで派兵できる戦力は無かった。
だが話しがインド防衛となると、様々な意味で「盟主」であるドイツが何もしないわけには行かないと言うのがドイツ中枢、わけてもアドルフ・ヒトラー総統の考えだった。
インドがイギリスの力の源泉であることは、ヨーロッパでは周知の事実だったからだ。
そしてイギリスからのインドの状況を考慮した結果、戦場自体は温かい(暑い)以外はロシア戦線と似ていると結論する。
同時に過密な戦力は双方ともに投入しないので、塹壕戦や陣地戦ではなく機動戦が主体になるとも考えられた。
このため歩兵部隊を多く派遣しても仕方ないし、有象無象のインド兵の中で埋もれてしまう可能性も高いので、機動性に優れて戦力も高い装甲部隊の派遣が決まる。
しかし、広大な戦場なので少数では意味がないので、軍団規模の派遣が決まった。
だがドイツ陸軍内では、ドイツから遠く離れたよく分からない土地への派兵に反対する意見が強かった。
またドイツ空軍からも、派遣するならアラビア半島への空軍派遣が、様々な点から見ても妥当ではないかという意見も出された。
補給のための海路維持の方が陸軍部隊の派遣よりも妥当なのは道理で、この点はゲーリング国家元帥の意見が(珍しく)正しかった。
しかし、インドにドイツ兵が居ることが重要だとヒトラー総統は決定を下し、地上部隊の派兵となった。
そして決定の経緯から陸軍からの志願者が出るのか心配されたが、ちょうど率いる部隊が休養と再編成のため本国に戻っていたエルヴィン・ロンメル将軍(当時中将)が志願し、彼のもとで「ドイツ・インド軍団(DIK)」は編成される。
部隊規模は増強軍団とされ、装甲師団2個、自動車化師団1個、歩兵師団1個、他支援部隊から編成する予定だった。
インドでの戦闘は大規模なので、この程度の機甲戦力がないと戦場での存在感すら発揮できないと考えられたからだ。
しかし、ロシアにかかりきりなドイツ陸軍が、一度にこれだけの戦力を用意するのは難しく、まずは国内での再編成が済んだばかりの第21装甲師団が急ぎ派遣される。
他はおって派遣される予定という泥縄式だった。
それでも秋までにはほぼ2個師団の戦力がインド北西部(カラチ方面)で揃い、その状態で連合軍の侵攻を迎える事になる。
しかし移動や輸送は、当初は紅海から海路で直接インドに向かったが、42年夏以後は危険が増したため、中東のベイルートまで海路で行き、そこからペルシャ湾のバスラに陸路で移動して、さらにそこからペルシャ沖合を哨戒機に守られつつ進む航路が取られた。
このため、部隊の移動と集結は予定より遅れることとなる。