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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ26「WW2(20)ソコトラ島戦」-1

 1942年7月にセイロン島を占領した日本軍は、ビルマ方面と合わせて航空撃滅戦を仕掛ける。

 同時にセイロン島、アッズ環礁を拠点として、アラビア海、インド洋西部での大規模な通商破壊戦を仕掛けた。

 通商破壊戦といえば潜水艦による無制限通商破壊戦だが、日本軍を中心とする連合軍は水上艦も多く戦場に投入したし、航続距離の長い航空機も積極的に投入した。

 この通商破壊戦では戦力の出し惜しみもせず、最新鋭戦艦の《高雄》《愛宕》までが出動してドイツ海軍のように敵商船を狩った。

 ただし費用対効果を見るのも目的のため、戦艦が出動したと見るのが正しいだろう。

 

 それでも日本軍の積極的な攻勢で、半年前まで比較的静かだったインド洋東部は、一気に戦争のホットゾーンとなった。

 


 イギリスは戦前のインド洋で、自らの保有する船舶の約30%に当たる約600万トンを運用し、インドから資源と富を吸い上げイギリス本国などから商品を送り込んでいた。

 インドこそは、「イギリス帝国」の根幹だった。

 そして戦争になるとアジアに向かう船が増えたので、行き交う船舶量はさらに増加した。

 イギリス以外の欧州枢軸の船もかなり入って、まずは東アジアに兵力と物資を注ぎ込んだ。

 また逆に、戦争に必要な資源を過剰なほど吸い上げた。

 

 だが1941年末には、東南アジアの戦況が枢軸側にとって一気に悪化した。

 翌年2月にはシンガポールが陥落し、オーストラリア、ニュージーランド、オランダ領東インドが連合軍に加わった。

 そして4月、アッズ環礁の枢軸海軍東洋艦隊がほぼ全滅して、インド洋の制海権までが一気に塗り代わってしまう。

 

 主にイギリス本国軍は、戦線の立て直しに必死になった。

 だが、当時はカリブ海でも激しい攻防戦が続き、大西洋の西部での通商破壊戦にはまり込んでいた為、日本軍が短期間のうちにインド洋中部まで進出してきた事にうまく対応できなかった。

 日本軍に対する通商破壊戦のための潜水艦を投入するにしても、現状で大西洋に投入してる分をまずは本国まで戻して整備と補給、乗組員の休養を行い、その間にインド洋の東側やインドに拠点を構えなければならない。

 これだけで最低3ヶ月は必要で、待っている間に9月になってしまう。

 しかも日本軍の方が41年秋頃からインド洋での大規模な通商破壊戦を開始しており、42年春になるとインドに通商破壊の拠点を構える事が難しくなっていた。

 インドへは航空機と関連する兵站物資の補給が最優先で、次が陸軍関連、そして最後が海軍関連となるからだ。

 アフリカ東岸や紅海出口付近を拠点とする通商破壊戦の準備は進められたが、水上艦の投入は早々に断念された。

 紅海の出口付近のアデンには再建されたイタリア東洋艦隊が進出していたが、この戦力は日本軍の中東侵攻を阻止するために必要な抑止戦力だった。

 


 インドへの物資輸送は、アデンとボンベイを結ぶ航路が生命線で、東部のカルカッタ方面に向かう航路は42年春のうちに全て遮断された。

 南部も連合軍の空襲があるので危険だった。

 ボンベイ航路も、アラビア海の両軍の制空権が及ばない場所は、連合軍の通商破壊艦艇と潜水艦が多数出没しており、連合軍のインド侵攻が近いことを教えていた。

 

 そしてインド東部の気候は、秋が終わる頃に亜熱帯性の激しい雨期も終わって侵攻に適した気候となる。

 このためイギリス軍は、早ければ10月、遅くとも12月に日本軍を中心とした連合軍のインド本土上陸がありうると予測し、ガンジス川河口部とインド南部の防衛体制を整えることに躍起となった。

 イギリス本国では、インドへの大規模な増援部隊の準備が急ぎ進められたりもした。

 

 そしてイギリスの予測を肯定するように、秋口になると連合軍の大艦隊がシンガポールに入り、無線など各種情報が大量の地上部隊の集結を伝えていた。

 


 なお、1942年初夏から秋は、主に日本の側から日本とアメリカの往来が頻繁になった時期でもあった。

 理由の多くは、インド洋の制海権で優位となった事と、カリブ海での激戦と大西洋での激しい通商破壊戦だった。

 また、連合軍が太平洋の制海権を完全に掌握したことも大きな理由だった。

 日付変更線を挟んで、西側が「エンペラーのバスタブ」、東側が「プレジデントのバスタブ」と呼ばれたりもした。

 中継拠点となるハワイ、オワフ島の真珠湾、アリューシャン列島東部のダッチハーバーは、規模の拡大に次ぐ拡大が重ねられ、戦争期間中ずっと港湾部の拡張工事が行われたりもした。

 アメリカ太平洋艦隊司令長官は、「太平洋運行管理長官」と皮肉られたりもした。

 

 太平洋が安全になったので、護衛を付けずに航行する船舶が大きく増えた。

 そして船団を組まないで良いのなら、船団を組むよりもずっと経済性は向上する。

 特にアメリカからソ連、日本、ANZAC諸国向けのレンドリースは、42年春以後は単独航行の船舶が激増し、ニーズにあったレンドリースが行われるようになった。

 逆にアメリカには、東アジア、ANZAC諸国などの原料資源、日本で生産された安価な中間資材などが運ばれた。

 生ゴム、錫など北米大陸で不足する資源もあるので、アメリカにとっても重要だった。

 

 またアメリカの側からは、中華地域での戦線拡大とインド作戦を見越しての移動が活発化していた。

 この移動では、多数の人間が長期間航海を強いられる為、客船、貨客船が大いに活用された。

 このため日本やアメリカなど各国が保有する多くの客船と貨客船が動員され、輸送力や速力を競い合った。

 

 もう少し話しが逸れるが、20世紀に入ってからの北太平洋航路は日本とアメリカの独断場で、アメリカの満州進出によって非常に活発となった。

 このため日米双方ともに豪華客船を就航させて、国威の宣伝に務めた。

 満州に地盤を置く東アジア鉄道も、各社と提携した航路を作り、アメリカの為のアーシアンリング形成に一役買ったりもした。

 しかし輸送量の面では北大西洋航路には全く及ばないため、大西洋ほど巨大な客船は経済的要求から求められず、第一次世界大戦の頃でも1万トンクラスだった。

 アメリカから満州への移民が量の面での客船の乗客だが、大西洋に比べると数は限られていたからだ。

 

 客船の建造競争は最初はアメリカが圧倒しており、日本は巻き返しを図るべく1920年代に入ると日本で初めて2万トンを越えた豪華客船の浅間丸、龍田丸、鎌倉丸を送り出す。

 この建造には、国の援助まで出された。

 しかしアメリカは、すぐにもプレジデント・フーバー、プレジデント・クーリッジを送り出して日本に対する質的優勢を維持した。

 そしてカナダのイギリス系船会社も、より巨大なエンプレス・オブ・ジャパン(日本皇后)を送り出している。

 

 そうした中で1930年代半ばに登場したのが、これまた日本初となった3万トン級豪華客船の橿原丸と出雲丸だった。

 当然アメリカも対抗しようとしたが、日本が商工省ばかりか軍までが助成して建造したのと違い、経済的な面から建造が遅れてそのまま戦争となったため、第二次世界大戦勃発時の北太平洋の女王のタイトルは日本が保持したままとなった。

 これは、1949年にアメリカが5万トン級の次世代型を建造するまで10年以上続く事になる。

 そして橿原丸と出雲丸は、戦争中は地味な戦時迷彩と無粋な武装を有するも、日本最大の客船として日米の将兵に記憶される事となった。

 ただし第二次世界大戦中は、クイーン・メリーなど大西洋から疎開してそのまま輸送任務についた北大西洋航路の巨大な豪華客船や大型客船が多数あったため、それほど目立つ存在では無かったとも言われている。

 

 なお日本軍が客船の建造に助成金を出したが、出したのは日本陸軍の方だった。

 陸軍は第一次世界大戦で、遠方への兵力輸送に大型客船が有効な事を知った。

 そして次の世界大戦でもヨーロッパに大軍を派遣する事になると考えて、戦時に兵員輸送船として徴用する事を前提として外航洋客船の建造に助成金を出していた。

 また病院船としての必要性も考えていたので、なおさら客船助成に力を入れた。

 一方海軍の方は、戦時に各種特設母船や仮装巡洋艦として使用する目的で、優秀な貨客船への助成を熱心に進めた。

 海軍内には、客船にも助成金を出して有事に徴用して航空母艦へ短期間で改装する構想もあったが、結局実現しなかった。

 特設艦ならまだしも、改装して軍艦として使うのなら、建造段階から軍艦としての構造を盛り込まないと、改装にはかなりの手間がかかるからだ。

 それに海軍には、多数の輸送用空母を作る理由があまり無かった。

 当時は1万トン以下の空母には制限がないので順調に整備が進んでいたし、有事に際しても改装を前提とした高速水上機母艦の計画も進んでいた。

 何より、日本海軍より強力なイギリス、アメリカは友好国で敵になりようがなく、ヨーロッパに航空機を運ぶにしてもわざわざ空母を使うのは贅沢だと考えられたからだ。

 そしてその後、海軍が特設空母用のベースとして目を付けるのは、自前で揃えようとした高速タンカーだった。

 

 かくして1942年に存在した日本の客船のほぼ全てが、北太平洋航路で主にアメリカ兵を運び、優良貨客船は各種特設母艦や仮想巡洋艦、病院船に改装されて活躍していた。

 北太平洋の中間地点にあるハワイ諸島は、アメリカ西海岸やパナマ運河の中継点として活況を示し、軍港地区にも徴用船舶が溢れていた。

 

 だが活況は42年春に始まったばかりで、その夏頃は最盛期に向かう最中だった。

 


 そして輸送力を増しつつあったインドで、日本軍、いや連合軍が選んだ侵攻先は、インド本土ではなくソコトラ島だった。

 

 ソコトラ島。

 アフリカ大陸の東部、ソマリア半島の沖合に位置し、アラビア半島からも比較的近い場所にある。

 紅海の出口にあるアデンからは約900キロ離れ、一番近い陸地となる東アフリカのソマリア半島先端部からでも約400キロ離れている。

 島の面積は約3700平方キロメートルで東西約70キロ、南北約20キロと細長く、島の中央が山岳地帯になっている。

 

 孤立した島で厳しい自然環境のため、独特の生態系を持つ。

 主要都市ハディポだが都市とはいえない規模で、島内全体で人口は少なく現在でも約4万人に止まる。

 飛行場も戦争が始まってから急造されたものがあるだけで、港湾の能力も低かった。

 ソコトラ島は、世界の果てのような場所だった。

 

 周辺同様に気候は厳しく、降水量の殆どは12月から2月からにかけてモンスーンの湿った風によって発生した霧がほぼ唯一となる。

 そして5月から9月はモンスーンの強風がほぼ一方向から吹いて最悪で、波も大荒れとなり島に小型の船では近寄ることすら難しい為、ほとんど孤立状態となる。

 風が強いため、飛行機による往来も難しい。

 当然だが、上陸作戦は自殺行為に等しい。

 

 逆に10月から3月は一番過ごしやすい季節となり、戦争をするならこの時期しかない。

 

 一方では、いかにキーポイントだとしても、半年しか利用価値のない場所を占領しても意味はないと考えるかもしれないが、連合軍としては翌年春まで使えれば十分だったし、既にインド洋で一度奪われた離島を欧州枢軸側が奪い返すだけの力がないと考えていた。

 この考えは、カリブ海での戦闘が進むにつれて深まり、カリブの戦況が作戦発動を後押しした。

 

 そして連合軍は、準備を整えつつ秋を待っていた。

 


 日本海軍を中心とする海上戦力の主力は、6月末頃から再編成と大規模な移動に入って前線から姿を消した。

 そして航空撃滅戦と通商破壊が続く中、セイロン島やアッズ環礁に日本艦隊が出現し始める。

 

 これに対して枢軸軍も行動を起こし、主にイタリア海軍の潜水艦部隊が各国からの技術や情報の支援を受けた上で通商破壊戦を仕掛けた。

 だが、連合軍も妨害を受けることは折り込み済みで、カウンター部隊を投じた。

 投じられたのは、特設空母《大鷹》《雲鷹》と旧式駆逐艦、海防艦によって編成された二つの対潜水艦専門部隊で、大西洋での経験を反映した上での作戦を展開した。

 また《大鷹》《雲鷹》の航空隊の一部は、夏前にアメリカから日本本土に戻ったばかりの軽空母《祥鳳》の航空隊が一部参加していた。

 《祥鳳》航空隊は、日本海軍でほぼ最初に設立された母艦用の対潜航空隊で、優れた技術と経験によって大西洋、カリブ海では大きな戦果を挙げた。

 そしてほぼ無傷で帰投したのだが、航空隊は帰国と共に解散され、パイロットの3分の2ほどが膨れあがりつつある対潜航空部隊の教官に就任し、残りの者が既に配備されている航空隊へのテコ入れとして編入された。

 

 一方で手持ちの航空隊を失ったことになる《祥鳳》だが、42年に入る頃には日本海軍自体が航空母艦と航空隊を分ける制度を導入していたため、ほぼスムーズに新たな航空隊を迎え入れている。

 そして新たな航空隊は通常編成の部隊で、《祥鳳》自身も《龍驤》《龍鳳》の航空戦隊に臨時編入され、3隻合わせて約100機の艦載機を運用する攻撃的な編成となっていた。

 

 それまで対潜水艦用とされていた軽空母だが、下位互換とも言える特設空母(護衛空母)の実戦配備に伴い攻撃的な編成と任務へとシフトした形になる。

 ただし空母機動部隊や水上艦隊での軽空母の立ち位置は対潜、防空任務が中心なので、役割が全く変わったわけでは無かった。

 そして軽空母が重編成の航空隊を搭載したように、日本海軍を中心とするソコトラ島攻撃は秋に入ると発動される。

 

 以下が、動員された艦隊戦力になる。

 


・第3艦隊 :武部中将

第1航空戦隊 CV《赤城》CV《加賀》

第2航空戦隊 CV《蒼龍》CV《飛龍》

第10戦隊  FA《涼月》FA《初月》FA《新月》FA《若月》

第3戦隊    BB《金剛》BB《榛名》

第12戦隊  CL《大淀》CL《仁淀》

第4水雷戦隊 CL《矢矧》 DD:15隻

 

・遣印艦隊:小沢中将

第4航空戦隊 CVL《龍驤》CVL《祥鳳》CVL《龍鳳》

第8戦隊   CL《利根》CL《筑摩》

第21戦隊  CL《球磨》CL《多摩》CL《木曾》

第6水雷戦隊 CL《神通》 DD:7隻


・第7艦隊:栗田中将

第2戦隊  BB《伊勢》BB《日向》BB《扶桑》BB《山城》

第7水雷戦隊 CL《川内》 DD:9隻

第6護衛戦隊 他


 この艦隊のうち遣印艦隊は、枢軸軍にソコトラ攻略を気取られないように陽動作戦を担う。

 ソコトラ島への攻撃は、第1航空艦隊から再編成された第3艦隊が担い、第7艦隊が船団護衛と上陸支援を実施する。

 なお少し早いが海軍の人事異動が9月に実施され、開戦から率いていた提督などが多く交代している。

 

 上陸するのは、海軍陸戦隊の第3特別陸戦隊(旅団規模)と陸軍の第38師団と第58混成旅団で、第3特別陸戦隊はアメリカの海兵隊にならった攻撃的な編成の部隊としてさらに編成が強化されていた。

 敵の防衛体制に対して陸軍師団の投入は過剰とも考えられたが、短期間での占領を目的としていたので許容された。

 また第58混成旅団は後詰めのため攻略部隊には含まれず、侵攻後の駐留のみが予定されていた。

 

 艦艇面では《秋月型》直衛艦の《涼月》《初月》が新顔だが、どちらも1939年度計画艦で厳密には《改秋月型》となる。

 しかも船体規模、見た目から大きく違った。

 それもその筈で、船体は1930年代末に建造された《大淀型》軽巡洋艦の設計を簡易化したものだったからだ。

 そこに8基の連装両用砲と4基の高射装置、多数の機関砲、機銃を搭載していた。

 レーダーも新型となり、日本海軍で初めてPPIスコープの画面表示ができる対空捜索電探「21号電探 改3型」を搭載していた。

 同電探はアメリカ、自由イギリス連邦からの技術供与と協力で完成したもので、日本は特に自由イギリス連邦に対して多くの対価を支払ったものだった。

 そして以後の《秋月型》直衛艦は、全て同《改秋月型》が基本となっている。

 そして、命名も本来なら軽巡洋艦に準拠するべきだという意見もあったが、防空専門艦艇については排水量や装備に関わらず、この後も長らく「月」の名を冠するようになる。

 


 対する欧州枢軸側は、連合軍の予測よりもソコトラ島の防備が不十分だった。

 

 当時ソコトラ島は、もう一つの対岸となるアラビア半島のイエメン地域を保護領としていたイギリスの実質的な統治下にあった。

 だが自然環境が厳しいため、戦争が始まるまでは軍事施設ばかりかイギリスの統治に関わるものすら何も無かった。

 

 第二次世界大戦が始まっても、島自体が航路標識程度の価値しかないと考えられていたが、1941年秋頃から徐々に注目されるようになる。

 初めてイギリス軍が上陸したのもこの時期だった。

 だが、島の施設建設や増強は遅々として進まなかった。

 はるか後方に位置しているソコトラ島よりも、まずはチャイナへの援助、マレーの防衛、そしてインドへの兵力増強が急務だったからだ。

 その上日本軍のインド侵攻が予想以上に早かった為、モンスーンが激しくなる42年春までに哨戒機用の小さな飛行場が作られ、港湾機能が若干強化され、1個中隊規模のインド兵が送り込まれただけだった。

 そしてその時点でインド洋のアッズで東洋艦隊が全滅し、ソコトラ島の本格的な強化が叫ばれるようになる。

 だが小型の船しか接岸できる港はない上に、小型船では気象のせいで接岸できなかった。

 大型船を使うしかないが、大型船が接岸できる場所がないので浜辺を使うしかないが、この季節に浜辺を使って小型船や艀で荷下ろしすることはほとんど自殺行為だった。

 

 このためイギリス軍が取った措置が、空輸による増強と補給だった。

 風が強いと言っても24時間吹いているわけではなく、慎重に気象を見極めれば航空機を飛ばすことは可能だった。

 それでも夏の間は順調とはほど遠かったが、秋になると輸送も捗っていった。

 そして幸いと言うべきか、この頃のイギリス本国空軍の輸送機部隊は、比較的ゆとりがあった。

 他の欧州枢軸国はロシア戦線で忙しいどころではなかったが、生産力にも余力があったイギリスは他国に輸送機を供与する余裕すらあった。

 

 主に使われた機体は、世界中で使われているアメリカ生まれの「C-47」のライセンス生産型で、一部で旧式化した爆撃機が使用された。

 また航空機は近在の飛行場から直接乗り入れたが、これには一悶着あった。

 

 スピットファイアを代表として、欧州の戦闘機は総じて航続距離が短かった。

 ドロップタンクを付けても短いことに変化はなく、孤島であるソコトラ島への移動ではソマリア半島を使おうとした。

 だが最も近いイタリア領の半島先端部には、何も無かった。

 文字通りの意味で、荒涼たる大地が広がるだけで軍事力は沿岸部に僅かな警備部隊があるだけだった。

 飛行場は皆無で、沿岸部で飛行艇を使う程度のことしか出来なかった。

 このためイギリス軍は、予定を変更して少し遠くなるが自領のソマリランドからの移動を実施している。

 しかもイタリア空軍の増強されることになったが、結局イタリア空軍の戦闘機もイギリス領内の飛行場から移動した。

 

 一見イタリア軍の怠慢と取れるが、ソマリア半島の先端部はそれだけ辺境の荒れ地で利用価値がなく、その先にあるソコトラ島も世界の最果てだったということだ。

 


 だが努力の甲斐あって、風の合間の空輸と空中移動によって約100機の航空機と1個連隊規模の陸軍部隊が配備された。

 しかし陸軍部隊に重装備はほとんどなく、送り込まれた労働者と現地住民を動員して拡張された飛行場には、不十分な数の機銃があるだけで施設も貧弱だった。

 レーダーは何とか設置したが、数は限られている上に無線による航空管制できるような施設はなかった。

 加えて航空隊も、燃料と弾薬を多く消費する爆撃機はほとんど配備されず、配備されている1個中隊も哨戒用だった。

 こうした兵力配置から、欧州枢軸側がソコトラ島への攻撃で警戒していたのは、空母艦載機による哨戒機基地の撃破を狙った奇襲的な空襲や、少数部隊による嫌がらせ程度の上陸だった。

 インドへの上陸を狙っていると考えられる筈の連合軍が、この時期にソコトラ島に本格的侵攻しないというのが大前提だったからだ。

 

 そして日本軍がセイロン島に準備している部隊が最低でも1個師団以上、最大で軍団規模と判断されたため、尚のことインド南部への侵攻の予兆と考えられた。

 

 だが1942年10月20日、ソコトラ島のレーダースコープに100機以上の大編隊が投影される。


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