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日米蜜月  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ04「大戦間の日米関係と極東アジア情勢」-1

・関東大震災


 1923年9月1日に日本の中枢部で発生した「関東大震災」では、アメリカは極東アジア進出で日本の情報も多くなっていた事もあって、国を挙げて日本を支援した。

 

 関東大震災のニュースは、アメリカ全土に号外で第一報が発せられ、その後も最新の情報が新聞のトップを飾り続けた。

 アメリカ市民の極東への関心の高さと一定程度の親日感情もあるが、東鉄につながるユダヤ系報道組織の活動の結果でもあった。

 


 なお関東大震災に際して、アメリカ本国での全国規模での募金運動や慈善団体の支援は、アメリカの半ば自画自賛ながら有史以来の人類愛がもたらしたものだとすら言われた。

 実際、非常に大規模で、人種偏見すら一部乗り越えるものがあった。

 そしてアメリカ本土からは、多数の艦艇が救援のために来日し、東京湾は日米合同の観艦式のようだとすら言われた。

 このアメリカ政府(海軍)の動きは、日本本土の調査が真の目的だったと陰謀論で言われることもある。

 だが、東京湾の奥で戦艦《長門》など日本の艦艇と並ぶアメリカ軍艦艇の姿は、震災で打ちひしがれた人々に海外からの助けの手が有ることを知らせ、この点での人々の言葉や記録が多く残されている。

 アメリカの水兵が日本の子供を助ける写真は、アメリカ国民にも大きな感動を呼んだ。

 

 また、日本が発行した震災復興債についてもアメリカは大量に購入し、日本単独の場合よりも遙かに大規模にかつ迅速行う事ができた。

 

 なお、このアメリカの動きでは、日米友好の象徴でもある「東鉄」の果たした役割が非常に大きかった。

 

 東鉄は、日本本土最大の拠点としていた横浜支店が壊滅したにも関わらず、東京など首都圏に多くの特派員、社員を派遣し、アメリカへの報道を一手に担う形で、日本での大災害をアメリカ国民に知らせた。

 この中には多少過剰に装飾された報道も含まれていたが、アジアの僻地の事に依然として関心が薄かったアメリカ国民の心を大きく動かした事は間違いなかった。

 1920年代半ばからのアメリカ国民の日本ブームは、関東大震災が契機だと言われるほどだ。

 

 そして東鉄の報道は、多数の寄付と援助がアメリカから日本にもたらされる一助となった。

 震災復興債についてもまずは東鉄が大量に購入し、日本ばかりかアメリカの企業も自らの体面もあるため、競うように購入することになる。

 この中で、東鉄最大の出資企業となるアメリカを代表する財閥であるモルガン・グループが果たした役割も非常に大きい。

 

 また、この時初めてブッシュという名が、日本史に登場する。

 アメリカ屈指の銀行家であるブッシュ家がハリマン一族との関係から日本の支援に加わり、当時長男だったプレスコット・ブッシュが視察などのため来日し、日本の新聞各紙も「メリケンの伊達男」として長身のアメリカ人に注目した。

 

 そして当時の東京市長だった後藤新平が計画した震災復興計画は、アメリカ資本の強い支援もあって、かなりの面で彼の「大風呂敷」と揶揄されたプランに従って沿って進めらた。

 

 帝都東京は、10年を経ずして面目を一新して近代都市に生まれ変わることになる。

 その中で、瓦礫撤去から建設に至るまで活躍したアメリカ製の土木機械は、帝都復興の象徴と言われたりもした。

 

 そして本当に「江戸」が「東京」になったのが、関東大震災以後だと言われるほどだった。

 


 なお、この震災の影響で、1924年にアメリカ議会で議決される「排日移民法」でも、震災被災者(※被災地(関東地方)在住が証明出来る者)に関しては、特別に5年間だけ猶予する臨時法案が平行して可決している。

 富裕層に多い慈善家の中には、有色人種であるにも関わらず日本人孤児の受け入れを行った者も少なくなかった。

 日本の関東各地にも、アメリカの援助で多数の救済所や孤児院が設立されている。

 アメリカの大学の日本進出も、関東大震災を契機としている。

 

 当然だが、関東大震災でのアメリカの援助と親日姿勢の大幅な向上は、日本でもアメリカに対する友好感情は大きな上昇を見せ、日本を襲った大災害は日米の友好促進に大きな役割を果たすことになった。

 

 アメリカでも、日本が派遣した復興支援の感謝を伝える船団や使節を熱烈に歓迎し、親日傾向と日本に対する関心が大きく強まった。

 



・1920年代の日米関係


 世界大戦以後の日米間の貿易は、比較的順調だった。

 

 日本が満州市場を主にアメリカに開放し続けている事と、満州や極東共和国、さらに日本に進出したアメリカ資本の存在から、アメリカも自国の市場を一定程度日本に開放し続けざるを得ない状態が続いた。

 競合商品が少ないことも、日米貿易の自由性を支えた。

 この状況は、1929年秋の大恐慌到来まで変わることはなかった。

 またアメリカは、1920年代は未曾有の経済的繁栄に湧いたこともあり、「満州のガードマン」である日本に対して寛容だった。

 この寛容さは、関東大震災の悲劇によって補強された。

 

 それでも様々な面で弱体な日本経済だったが、1927年に日本で起きた金融恐慌も、日本の一部企業はアメリカ資本の多大な援助を受けた。

 経営が傾いて一時は倒産寸前となった鈴木商店と台湾銀行は、東鉄を介してモルガン財団系のアメリカの大手銀行などが「ホワイトナイト(友好的企業買収)」となったり資金援助や借款で救済された。

 この結果、日本本国に外資が本格的に入り込むことになるが、それで一定の経済の安定も手に入れることになった。

 

 しかし、日本国内の一部国粋主義者は、アメリカ資本に反発を強めたりもした。

 台湾銀行が一種の国策銀行だったから当然の反応でもあるが、日本の企業や政府では救済できないのも事実であり、日本の政財界は概ね好意的に捉えていた。

 

 しかも、日露戦争以後アメリカ資本が日本経済に果たした役割、現在進行形でのアメリカ資本、技術の恩恵を日本が受けていることは間違いなく、それを否定出来る日本人は一部の偏狭な考え方しか持てない者以外いなかった。

 

 世界大戦中に、日本本土でもベルトコンベアーの流れ作業が行える日本資本の巨大工場が出現したのは、間違いなくアメリカ資本の強い影響の結果だった。

 主にアメリカから進出した企業や工場の下請けによって、大量生産、生産管理の概念が日本人の間に広まった事も、技術史の面では非常に重要だった。

 また主に東北や北海道で使用されるトラクターもアメリカ製だったし、関東大震災を契機に増え始めた土木機械、トラックもアメリカ製だった。

 

 そして日本とアメリカの親密化の影響を受けたのが、日本の国鉄(日本国有鉄道)だった。

 

 もともと日本の鉄道は、イギリス人技師の助言もあって「植民地規格」ともいわれる「狭軌」が採用された。

 以後、狭軌が日本中で敷設されるが、世界大戦によって経済力の増した日本の大動脈を担うには、輸送力が不足しつつあった。

 また満鉄(東鉄)は最初から標準軌で、北海道など遅れて敷設された地域もかなりが標準軌だった。

 この頃から広がり始めた私鉄も、ほとんどが標準軌だった。

 そして何より、東鉄がアメリカの強力な機関車を大量に持ち込んだ為、機関車自体が標準軌用の方が日本が自力生産する狭軌用よりも安価なほどだった。

 

 加えて東鉄などとの連携を考えると、軌道の違いは様々な面で不利をもたらす。

 最悪、軍事や国防にまで影響を与えかねない。

 そうした事が加味され、1925年に国鉄は一斉に軌道の変更を実施。

 また、震災からの再建半ばだった首都圏は、人口や交通量が過密になると予測される地域で高架の建設も合わせて実施している。

 


 また主に震災後の東京、横浜、神戸、大阪などの大都市にはアメリカ人の姿も増え、連動してアメリカの文物も日本に流れ込み、文化面での交流と両者の偏見の解消も少しずつ進んだ。

 ジャズ、ベースボール、シネマ、洋食、洋菓子を代表として、この時期に日本で流行したり浸透したアメリカ文化は非常に多く、そして影響も大きかった。

 

 クリスマスの習慣が広く紹介されたのも、1920年代の昭和初期の事で、情報としてなだれ込んできたアメリカの大量消費社会と豊かな生活は、一定程度の生活を送る事ができる中流層を形成しつつあった日本人の憧れとなった。

 



・極東共和国の開発


 1920年代のアメリカは、日本と共謀し、実際はアメリカ資本の力で建国したようなものである極東共和国に対して、莫大な投資を実施した。

 

 1922年に成立した極東共和国は、国土面積こそ日本列島を越えるが、総人口はたったの100万人程度。

 主産業は一次産業だが、食糧自給すらままならない極寒の地だった。

 人口のほとんどはロシア人で、着の身着のまま革命から逃れてきたロシア人も少なくなかった。

 革命後も、共産主義ではないロシア人の国だとして、世界各地に亡命したロシア人が多数移り住んだ。

 

 そこに東鉄を経由する形で、莫大な量のアメリカ資本が降り注いだ。

 通貨の極東ルーブル(FER)は1924年にドルとの交換が約束された事で、日本の円よりも強い通貨と言われたほどだ。

 加えて、通貨制度にドルが入ったことで、極東共和国からソ連の影響がほぼ完全に払拭されることとなった。

 1920年代半ば以後、極東共産党は与党を維持するどころか弱小政党へと転落した。

 ソ連が裏から指導したテロ、パルチザン活動も、主にアメリカの経済力の前に民心を得られず消滅していった。

 

 そして豊富な資本を背景として、農場には巨大なトラクター、荒れ地、原生林には蒸気シャベルやブルドーザー、道路にはトラック、ダンプカーが投入され、それらを運んでくる鉄道はほぼ完全に東鉄によって運営された。

 鉄路を走るのは、ほとんどが日本や満州の大連で製造されたアメリカ設計の強力な蒸気機関車だった。

 また極東共和国内の鉄道は、建国すぐにも複線化工事が精力的に実施され、満州各所の鉄道との接続も強化された。

 鉄道のゲージも、ロシア基準の広軌ではなく標準軌に変更された。

 満州からの乗り入れも積極的に行われ、路線も増やされた。

 

 太平洋に向けてのロシアにとっての玄関口だったウラジオストックの港は、地形から軍港として最適だったが、建国後はアメリカ、日本からの船を迎え入れる商業港として徹底的な開発と整備が実施された。

 ウラジオストックのロシア語である「東方を侵略せよ」という言葉は、もはやアメリカ人にとっての言葉になっていた。

 もちろん、ロシア人とは向かう方角が真逆になるという意味においてだ。

 


 極東共和国の開発に必要な資材、原料、資源は、満州や日本から運び込まれた。

 国内では足りない食料も、日露戦争以後大きく農場開発の進む満州南部からどんどん運び込まれた。

 この事は、満州南部の農業開発が、日本に運び込んでもなお余剰するだけの食料生産が出来ることを示していた。

 

 そして急速に国内を整備して国力を付けると、首相のクラスノシチョコフらはソ連の影響から離脱する向きを年々強め、アメリカ、日本も支援した。

 支援の中には軍の整備と増強も含まれ、唯一の国境線と言えるシベリア鉄道沿いには、1920年代半ばぐらいからソ連の攻撃を防ぐための永久的な要塞までが日米の援助で建設された。

 

 ロシア人亡命者を集めても足りない人口に対しては、日本政府が日本人の移民を奨励するなどの手助けまで行っている。

 アメリカからも、主にロシア系移民がかなり極東共和国へと再移民した。

 

 急速な開発と移民の受け入れの結果、僅か十年で人口は二倍以上に、国力は五倍以上に伸びた。

 

 極東共和国の動きは、ソ連にとって極めて不快だった。

 加えて警戒感も非常に強かった。

 しかし1920年代のソ連は国の基礎を固めるのに精一杯で、そもそもロシアの辺境だった地域に再度影響を強める事が出来なかった。

 しかも亡命者として送り込んだ共産主義者は、そのほとんどが国家の中枢から除外され、アメリカ資本により豊かになった人民(=国民)からも孤立した。

 極東共和国内での共産主義化、共産党の影響力拡大も全くうまくいかず、極東共和国の共産党は年々弱小政党になっていった。

 クラスノシチョコフが率いる与党も1925年には極東共和党と組織と名前を変更し、最大野党もロシア系の貴族など伝統階級、ロシア正教が支持する極東民主党となった。

 


 極東共和国の動きに対して、1920年代のソ連は対策に苦慮していた。

 極東共和国内で共産党の支持が落ちる一方なので、実質的には何も出来なかった。

 ならば力で解決と言いたいところだが、軍事的にはソ連の方が強い脅威を感じているほどで、第一次五カ年計画が終了するまでのソ連指導部は、もし戦争になった場合は東シベリア地域を一時的に切り捨てるつもりだった。

 

 ソ連以外にも、近隣各国は極東共和国の影響を受けた。

 

 特に中華民国の満州地域では、極東共和国との経済的結びつきが強まった。

 多くは東鉄とその後ろにいるアメリカの強い影響の結果で、満州は極東共和国の原料、食料供給地として無くてはならず、また極東共和国の影響で満州の開発はいっそう進んだ。

 1929年までに東鉄は満州全土の鉄道網を完全掌握し、さらには北京、天津地域の鉄道、港湾利権の実質を手にしていた。

 

 この裏にはアメリカと取り引きした張作霖と彼の軍閥の影が強かったが、満州、極東共和国の工業加工品の供給地となった日本の影響も強かった。

 

 その日本では、極東共和国と航路でつながる新潟、青森、北九州など日本海や海峡地域の発展が強まった。

 日本国内で作られた加工品は、国内を鉄路新潟まで運ばれるか各地の貿易港から大連やウラジオストクを目指したからだ。

 

 また極東共和国ばかりか満州での開発進展により、アメリカ資本の動き、アメリカから極東アジアを目指す物資の動きに連動して、北太平洋海運がいっそう発展し、日本経済とのつながりも強めた。

 

 1920年代は、アメリカ経済との繋がりが強まった事で、日本経済も戦後不況をある程度乗り切る事ができたばかりか、かなりの好景気を維持することが出来た。

 そうした中で大正デモクラシーと呼ばれる政党政治と民主化が進展した。

 1925年には普通選挙制度が施行され、アメリカの日本に対する評価は高まった。

 1920年代前半に首相となった平民宰相原敬の登場と長期の活躍も、アメリカのリベラル層から高い評価と支持を受けた。

 原敬は、日本でのアメリカンドリームの体現者とも見られたからだ。

 



・1920年代の朝鮮


 アメリカ資本の極東流入と極東共和国の発展で最も不利益を被ったのは、1907年以後日本の保護国となっていたコリア(韓王国)だと言われる事が多い。

 

 当初、韓王国のある朝鮮半島は、満州と日本を結ぶ鉄道による最短ルートとして、植民地的ではあるが鉄道沿線と基幹駅を中心に多少の発展が見られた。

 日本からの近代的な価値観や考え方、技術の流入によって、停滞しきっていた朝鮮王国時代と比べると格段の進歩があったとも言われる。

 

 しかし、日本から満州に人や荷物を運ぶのに朝鮮半島縦断は短いルートだが、運ぶ荷物(貨物)の量が多くなると大型の船舶を使う方がコスト面で効率的となっていった。

 当然だが、アメリカからやって来る船は、最初から朝鮮半島を無視していた。

 

 そして日本と満州、そして極東共和国の貿易は年々量が増して、朝鮮半島内での鉄道経費と時間短縮のメリットの関係が鉄道不利となって、1920年代半ばには朝鮮半島の価値が低下した。

 人の往来についても、1920年代中頃から主にアメリカで生産された旅客用の航空機が、日本と満州、極東共和国をより短い時間で結ぶようになり、郵便や貨物も軽いものは航空機を用いるようになる。

 1930年代には、プロペラを4つ備えた大型機が、朝鮮半島の上を頻繁に飛び越えるようになった。

 それでも日本海峡を渡る高速船と鉄道によるルートはコストで優れた面があるので相応に使われたが、年々通過する場所としての面が強まった。

 朝鮮半島自体に、経済的な魅力が低かったからだ。

 


 1910年代ぐらいまでは、日本政府は穀物の増産による日本への輸入を朝鮮半島に期待していた。

 だが、満州での急速な耕地開発と食料生産の増大が、日本政府が国内の人口爆発で恐れていた食糧確保の問題を吹き飛ばしてしまい、尚更朝鮮半島の価値は低下した。

 日本人の朝鮮半島への移民計画も、いつの間にか満州移民計画に変わっていた。

 その上極東移民まで加わり、朝鮮半島の価値が希薄化した。

 半島北部には炭田があったが、取りあえず南満州での露天掘りの方がはるかに重要だった。

 朝鮮半島にあるその他の鉱産資源についても、経済的には極端に重要ではなかった。

 アメリカ人が、どこからともなく安価に持ってくるようになっていたので、外交や国防を考えなければならない日本政府や中央官僚はともかく、資本家、商人はアメリカ人が運んできたものを喜んで買った。

 日本人がしたことは、朝鮮半島の地質調査をして借金のカタに利権を押さえるだけだった。

 

 しかも極東共和国が成立することで、朝鮮半島の政治、軍事上での戦略的価値が大きく低下した。

 朝鮮半島が、ロシアと国境を接しなくなったからだ。

 さらにその後の満州での国家成立によって、日本にとって朝鮮半島はもはや空白地帯に等しい戦略的価値になってしまう。

 「朝鮮半島など無くて海でも良いぐらいだ」と言い放った人物がいたほどだった。

 

 このため日本の国家財政から朝鮮半島への出費(投資または借款)も世界大戦の頃から大幅に低下し、日本政府は満州や日本北部の開発に、今まで朝鮮半島に向けていた予算を振り向けるようになる。

 しかも日本政府は、1925年に韓王国に国家としての一部の権利を返還したのだが、日本にとっての行政負担と経費節減のためであり、主にアメリカのリベラリストが賞賛したような事では全く無かった。

 

 結果、朝鮮半島は日本を中心とした極東地域の近代化と発展から大きく取り残され、韓王国の政治と行政(内政)を行う特権階級の無知と無理解から自主開発もほとんど行われないため、アメリカ人をして「アフリカ奥地並み」と言わせる状態が続く事になる。

 しかもアメリカは、日本人以上にコリア移民を拒絶し、満州への移住すら行わせないようにした。

 日本でも、朝鮮半島からの移民には厳しい資格審査を設けるようになり、不法移民は問答無用で強制送還した。

 

 1920年代半ばからは、朝鮮縦貫鉄道、釜山港の運営は完全に東鉄に任され、その東鉄は通過点として以上の価値を朝鮮半島からほとんど除外してしまう。

 東鉄が朝鮮民族を現地で雇用する場合も、日雇いの苦力クーリーがほとんどだった。

 

 一方、朝鮮人が鉄道や近代的な港を利用することは、金銭的な面もあってほとんど無く、移民や流民になるのも難しいため、主に日本人が作った近代的文物は、遠くから眺めるだけという状態が続くことになる。


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[一言] 「朝鮮半島など無くて海でも良いぐらいだ」 まさにその通りだ
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