フェイズ25「WW2(19)プエルトリコ島戦4」-2
10月15日未明、日米合同の空母機動部隊による激しい空襲が開始された頃、プエルトリコ島西部のマヤグエス市郊外の海岸に、100隻以上の艦船が姿を見せる。
戦艦だけで《インディアナ》《アラバマ》《メリーランド》《テネシー》《ウォースパイト》の5隻が参加し、多数の揚陸艦から1個師団の海兵師団が続々と海岸を目指した。
上陸は沖合から開始され、日本海軍が最初に使い始めたスロープ付きの輸送船から、多数のアメリカ製「DAIHATU」が滑り降りた。
この揚陸艇も、日本海軍の発明をアメリカが改良して量産化したものだ。
さらに前衛には、日本海軍が開発してアメリカがライセンスを取得した上で、自国製の75mm短身砲の搭載など独自の改造を施した水陸両用戦車が進んだ。
揚陸作戦は今までにないスピーディーさで、水際で待ちかまえている枢軸軍を驚かせた。
先頭を進む戦車は、もとが日本陸軍の九七式戦車のため、2ポンド砲にも耐えつつ敵陣地に砲火を浴びせて上陸時の損害軽減に大きく寄与した。
事前の空襲と艦砲射撃で抵抗は微弱で、予定より早いぐらいのタイムスケジュールで上陸は成功。
島に残留していたアメリカ軍潜伏部隊からの情報があったので、情報に従ってただちに橋頭堡の拡大と別方面への侵攻準備が進められた。
これに対して現地枢軸軍は、島の占領からわずか2ヶ月で連合軍が反攻してくる事は想定していなかった為、本国からの増援部隊はまだほとんど到着していなかった。
ギアナなど近在からの増強も小規模に止まり、島内各所で一斉に始まった島民によるゲリラ活動やサボタージュ、各種妨害活動により兵士が何人いても足りない状態に追いやられた。
しかも上陸してきたアメリカ軍部隊は、これまで見たこともない新型戦車を後続部隊として揚陸してきた。
これが「M4 シャーマン」中戦車で、重量約30トンで75mm砲を装備していたが、その特徴は何と言っても機械的信頼性の高さだった。
対トーチカ用とすら言われる速射性能が非常に高い75mm砲は、対戦車戦闘はあまり得意ではないが「マチルダII」以外の当時の枢軸軍戦車相手なら十分な性能だった。
苦手の「マチルダII」も空襲で破壊すればよいと割り切り、特別編成の戦車大隊を有するアメリカ第1海兵師団は、橋頭堡を完全なものとすると続々と島の内陸部もしくは東部を目指して進軍した。
しかも上陸はこれだけでなく、陸軍の第1師団が後に続いた。
さらに1週間以内に、第2海兵師団と脱出したプエルトリコ兵、本土に移住したプエルトリコ人を多く含んだアメリカ・プエルトリコ(A=P)師団が象徴的意味合いで投入される予定だった。
しかも第2海兵師団などは、北西部にある島の主要都市サン・ファン郊外に強襲上陸を予定しており、島内に最低3万人は攻め込んだと見られている枢軸兵を一網打尽にする作戦予定だった。
上陸作戦に前後して連合軍の激しい空襲が実施されたが、連合軍の予想通り枢軸軍の空での抵抗は大きく減少していた。
敵空母の存在を警戒したが、残り1隻となったイギリス軍の空母機動部隊は姿を見せなかった。
ヨーロッパから有力な増援艦隊が出たという情報も無かった。
このため日本、アメリカの空母機動部隊は、プエルトリコ島の直接の支援作戦が終了すると、直ちに小アンティル諸島北西部の小さな島々に点在する枢軸軍の飛行場を、飽和攻撃の形で襲撃を繰り返した。
二つの機動部隊が交互に、そして神出鬼没に現れて、時には全力で攻撃してくるため、各地の欧州枢軸軍部隊は場当たり的な対処しかできず各地で大損害を受けた。
当然、プエルトリコ島への支援どころではなく、しかもギアナから小アンティル諸島経由での飛行場づたいの各地の増強がほとんど出来なくなったので、プエルトリコ島の航空隊再建の目処は立たず、小アンティル諸島北西部の飛行場も増強どころか飛行場の修復もままならない状態に追いやられた。
この状態を、伸びきったゴムが切れたようだと言われる事が多いが、守勢を固めるために限界を超えて進軍した事のツケと見る向きも強い。
そしてどちらも正しく、態勢を整えた連合軍というよりアメリカ軍は、ゴムを引きちぎるというより鋏で切り刻むような存在だった。
しかしプエルトリコ島には3万の将兵が展開しており、これを安易に見殺しにする事も出来なかった。
出来れば時間稼ぎの抗戦が出来るだけの補給と増強、無理なら撤退の手だてを取らねばならなかった。
そして何をするにしても、船を送り込むより他無かった。
輸送機では輸送量が限られているし、既にプエルトリコ島の制空権は奪い返されたも同然で、空中輸送自体が危険だった。
このため、今度は島の東部を舞台として、攻守逆転したような戦闘が頻発することになる。
輸送を阻止するのが連合軍ということだ。
プエルトリコ島の輸送路を切り開くのに際して、欧州枢軸側は何より制空権の回復を図った。
制空権さえ確保すれば、たいていの事は何とかなるからだ。
だが日米の空母機動部隊が小アンティル諸島まで荒らし回ったため、まずは小アンティル諸島の基地再建をしなければならなかった。
小アンティル諸島各地の基地は、数こそかなりあったが、小規模なものが多い上に支援体制が弱い基地も多かった。
これからの戦いも考えたら、航空機だけでなく支援体制、修理能力など強化すべき点は多かった。
だが、ヨーロッパからカリブ海東部は遠かった。
多くのことが後手後手に回ることが多いし、ヨーロッパからまずは大西洋を押し渡らなければならなかった。
そして今までと違って、自分たちの潜水艦が振るわなくなり、逆に連合軍の潜水艦の脅威が増しつつあった。
このためイギリスを中心とした欧州枢軸海軍は、カリブ海東部での激しい戦闘を行うより、現地に制空権を得るための物資や部隊を運ぶための海路維持を優先しなければならなかった。
何もかもが崩れていくような状況だが、そもそもがベネズエラの石油を運ぶためにカリブでの限定的な制海権が欲しかったのだから、プエルトリコ島へ本格的に手を出したこと自体が本来はやりすぎであり、現実を前にして強制的に本来の道に戻されたと言えるだろう。
だがそうであっても、プエルトリコ島の友軍は何とかしなければならなかった。
しかし10月半ばの時点で、欧州枢軸各国海軍は大型艦艇が酷く不足する状況になっていた。
盟主ドイツ海軍は大損害を受けた上に出撃禁止で、新造艦の完成や改造艦の戦列復帰にはまだ三ヶ月から半年の時間が必要だった。
敵戦艦の撃沈で意気上がるフランス海軍も、沈没こそないが高速大型艦の全てが傷つけられ、建造中の戦艦などもまだ艤装中だった。
頼みはイギリス本国海軍だが、流石のイギリスも新鋭戦艦2隻の損失と、空母1隻の一年近い戦線離脱は大きな痛手だった。
イギリスは、カリブだけでなくインドも守らなければならないので尚更だった。
幸いと言うべきか6月と11月に戦艦 《アンソン》《ハウ》が就役したが、増強の予定が戦力補充にしかならず、1940年度計画艦の建造を急ぐことになる。
イタリアは6月に戦艦 《ローマ》が就役したが、各国の要請を受けて再びインド洋に主力艦隊を送り出したので、カリブへの増援どころではなかった。
つまるところ、旧式戦艦以外だと巡洋艦までの戦力しかカリブに派遣できなくなっていたと言うことだが、巡洋艦ですらイギリス本国海軍が半ダース程度をギアナや小アンティル諸島に常時配置できているだけで、万が一連合軍の本格的侵攻を受けたらひとたまりもない状態だった。
だが連合軍は、プエルトリコ島の奪回にかかりきりだった。
損害も皆無ではなく、プエルトリコ作戦が終われば空母機動部隊も再編成や修理、大規模整備の必要があった。
しかしプエルトリコ島を奪い返して体制を再び整えた後は、カリブでの枢軸の命運は長くないと考えられた。
そしてここからも、1日でも長くプエルトリコ島を保持しなければならないという、同じ答えが導き出されていた。
欧州枢軸側は、プエルトリコ島の保持の為なりふり構っている場合ではなくなった。
このためイギリス軍は、駆逐艦による高速輸送を企てる。
最初は高速輸送船を多数の護衛艦艇で守った輸送作戦を行ったのだが、9月27日に行われた作戦は大失敗に終わった。
枢軸側は、ようやく連合軍の二つの空母機動部隊がマイアミ方面に引き下がったのを確認して輸送作戦を開始したのだが、輸送作戦を始めるとすぐにもアメリカの機動部隊は戦場に引き返してきた。
枢軸側も各島から航空機を送り出して防戦に務めたが、空襲で半数の船が沈むか近くの島の浅瀬に乗り上げて損失し、何とかプエルトリコ島東部にたどり着いても空襲で船も物資も全て失ってしまった。
だからこそ、駆逐艦による高速輸送へと作戦を変更する事になったのだ。
しかし夜間に島に接近して輸送を行う作戦も、苦難の連続となった。
連合軍は、アメリカと日本が巡洋艦複数を有する有力な艦隊で島の警備をしており、島の各所にまでレーダーを設置して監視し始めていたからだ。
島の西部はまだ枢軸側の勢力圏だったが、連合軍の艦隊のため駆逐艦すら満足に近づけない事が多かった。
また、保持されている港に長時間接岸するのも危険だし、夜間ですら監視の偵察機が飛ぶようになっていたので、港を使うこと自体が危険となっていた。
接岸が分かったとたん、夜間でも重爆撃機が港に飛来するからだ。
それに、既に護岸以外の多くが破壊されており、荷下ろし自体が難しくなっていた。
こうした教訓から、船内から車ですぐに港に降りて他の場所に移動できるように、船の横にランプウェイを設ける事が研究されるようになっている。
港を使わないとなると、砂浜まで接近して徒歩で島と船を行き来させたり、海岸に向けて物資を載せたボートを送り出す程度のことしか出来なかった。
なお、夜間戦闘は各国海軍とも得意ではないが、レーダーの装備によって大きく変化しつつあった。
日本海軍が夜戦が得意だと言われる事があるが、これは一部しか事実ではない。
確かに日本海軍は、彼らにとって最大の栄光である日露戦争の日本海海戦(ツシマ海戦)で水雷戦隊が活躍したので、夜間戦闘はかなり重視していた。
しかし長い間主な仮想敵が存在せず、大海軍国のアメリカ、イギリスが敵になる可能性が低いとなると、肝心の夜戦を挑む相手がいなかった。
それに駆逐艦の主な敵は潜水艦と定義されているため、夜間戦闘の訓練は優先順位は低かった。
それでも現場の意地で訓練は行われたため、一部の水雷戦隊は夜間戦闘でかなりの練度を持っていた。
だからこそ、夜間の艦砲射撃などという危険な作戦を進んで行ったのだ。
欧州枢軸陣営による駆逐艦による高速輸送だが、一回目は完全な成功を収めた。
連合軍としては予想外だったからだ。
仮に魚雷と爆雷を全て降ろしても、駆逐艦1隻が運べる物資や兵器の量は極めて限られている。
だからこそアメリカ、日本両海軍は旧式駆逐艦を改造した高速輸送艦を用意したりしている。
第一次プエルトリコ沖海戦で活躍した旧式駆逐艦の《スチュワート》も、同海戦で損傷したため高速輸送艦に改装されたりしている。
島に送るべき物資の多くは武器弾薬、特に弾薬が重要で、食糧は現地での自給がある程度可能な上に両軍共に内陸に隠していたので、数万の将兵が食べる分には殆どの場合は問題無かった。
問題が出るのは孤立した場合だが、その時はたいていの場合で降伏が選ばれている。
こうした点は、ロシア戦線と大きく違っていた。
カリブはまだ文明国同士の戦いだったのだ。
そして日に日にプエルトリコ島の欧州枢軸は勢力を狭めていき、制空権も日々厳しくなった。
しかも駆逐艦による輸送を見付けた連合軍が、島の西部に重点的に艦隊を配置するようになる。
当然だが枢軸側の輸送作戦は徐々に苦しくなっていった。
10月末頃、連合軍は日米の巡洋艦艦隊二つが島の西部に進出して、交代で警戒任務についていた。
10月30日はアメリカ海軍の担当で、ライト提督率いる艦隊は午後9時頃にレーダーに艦影を確認。
敵と断定し、ただちに突撃を開始する。
この時ライト提督の麾下には、重巡洋艦 《ペンサコラ》《ノーザンプトン》《ニューオーリンズ》、大型軽巡洋艦 《ミネアポリス》《ホノルル》、駆逐艦6隻が属していた。
戦艦や空母はいないが十分に大艦隊で、大型艦の稼働艦が不足する枢軸側に対しての優位を確信していた。
これに対してイギリス艦隊は、駆逐艦8隻をラプラタ沖海戦の英雄ハーウッド提督が率いていた。
この時イギリス艦隊は、物資を運ぶため《トライバル級》《L級》《M級》という大型駆逐艦で編成され、念のため魚雷も搭載したままで戦闘力は十分に有していた。
それでも巡洋艦群を相手に出来る戦力ではないが、敵を侮るアメリカ艦隊に果敢に突撃を実施。
アメリカ艦隊は距離8000メートル付近から砲撃を開始するも、レーダーによる砲撃に慣れていない事とイギリス艦隊の回避が巧みなため殆ど命中弾を得られなかった。
そして突撃を継続したイギリス艦隊は、最短距離2000メートルから6000メートル程度の距離で39本の魚雷を発射。
近距離からの魚雷は避けようがなく、次々とアメリカ軍巡洋艦に突き刺さった。
結果、《ノーザンプトン》が魚雷3本を受けてほとんど轟沈の有様で沈んだ上に他3隻も重大な損害を受け、アメリカ艦隊は壊滅状態に陥る。
アメリカ艦隊は大混乱に陥り、イギリス艦隊は悠々と後退することができた。
「バージン諸島沖海戦」と命名された戦闘は枢軸側の快勝に終わったが、輸送作戦自体は中止されているので戦略的には敗北と言える。
そして一つの艦隊を潰しても、すぐにも日本艦隊がフォローに入ったし、さらに増援の艦隊を送り込むだけの余裕が連合軍にはあった。
現に11月11日、日本海軍の重巡洋艦《那智》、軽巡洋艦《酒匂》などが警戒中の時に輸送任務に現れた枢軸艦隊は、駆逐艦4隻を失って撃退されている。
それ以前にも、空襲、潜水艦、小規模な海戦で駆逐艦の損害が相次いでおり、この日を最後に駆逐艦による輸送作戦は中止となる。
なお、一連のプエルトリコ島への駆逐艦などによる高速輸送を、連合軍は「ロンドン・エキスプレス(倫敦急行)」と呼んだ。
局所的勝利では最早プエルトリコ島の戦況を覆す事は不可能で、欧州枢軸軍は1942年11月末日に島からの全面撤退を決定。
ただちに撤退作戦に移ることになる。
しかし撤退作戦も非常に難しかった。
プエルトリコ島の戦況は、陸では続々と連合軍の増援部隊が送り込まれて劣勢で、年内の完全陥落すら言われていた。
アメリカ軍が実戦慣れしていない事もあって現地軍は奮闘していたが、補給が続かない現状ではどうにもならなかった。
しかも撤退作戦となると、連合軍が阻止に出てくるのは確実だし、陸でも攻勢に出る可能性があった。
このため敵を欺瞞する必要があるが、欺瞞に使えるほどの手駒に乏しかった。
とにかく水上艦艇の不足が致命的なので、イギリス本国海軍は泣く泣く本国艦隊を大西洋上に出して、連合軍を引きつける事にする。
そして12月に入ると、戦力が十分でない筈の枢軸側の航空攻勢が俄に強くなる。
これを増援の予兆と考えた連合軍は、航空撃滅戦と水上封鎖を強化しつつ、後方で機動部隊や主力艦隊の整備、補修、そして艦隊編成を急いだ。
現地日本艦隊の一部は、撤退のための一時的攻勢ですぐにも追加の艦隊を出すべきだと意見具申したが、アメリカ軍からはいつもの過剰な積極姿勢を咎められただけに終わった。
そうした中で、枢軸側の撤退間際、通常通り夜間の封鎖任務に向かっていたアメリカ海軍の巡洋艦を中心とした艦隊が、夕方遅くに薄暮攻撃を受ける。
攻撃を受けるとしたら日中か夜のソードフィッシュだけと考えていたので不意を突かれた形となり、複数の雷撃を受けた重巡洋艦 《シカゴ》が沈むなど大損害を受け、引き返さざるを得なかった。
ただし攻撃したイギリス軍の中型機のヴォーフォートなどは大損害を受けているので、枢軸側にとっては苦い勝利となった。
だが、これでアメリカ軍の慎重姿勢は強まった。
これで撤退のためのお膳立てが揃い、小アンティル諸島各地に潜んでいた撤退のための駆逐艦などの小型高速艦船が、一斉にプエルトリコ島からの友軍救出に動き始める。
そして連合軍は、枢軸側の動きをごく常識的に増強作戦と考えて、島の西部に追いつめていた枢軸軍に対する攻撃は控えて防戦準備を取った。
また、マイアミかグァンタナモからは有力な艦隊が出撃して、数日後に出現するであろう輸送船団を探した。
ただし、中部大西洋上にイギリスの艦隊が展開する為、既に主要な艦隊の半数以上が大西洋上にあった。
そして連合軍が予想した輸送船は姿を見せず、プエルトリコ島を往復しているのは大きくても巡洋艦で、駆逐艦がほとんどだった。
連合軍は枢軸側の行動を疑ったが、それでも増援が送り込まれつつあると考えて慎重に動いた。
艦隊が活発に動いているのが、その証拠だからだ。
この間の連合軍は、敵に対して散発的な空襲を行うだけで、上陸してきた部隊を一網打尽に出来るだけの準備の方を進めていた。
そして1943年1月2日、連合軍の偵察機が枢軸軍の増援部隊が上陸している海岸を偵察して、初めて連合軍は真意を悟る。
海岸には人も物資もなく、対空砲火もなかった。
あるのは、うち捨てられた小さな舟艇や筏ばかりだった。
連合軍は、枢軸側が同じ事を二度する筈はないと常識的に考えたのだが、またも枢軸軍は軍艦を用いてプエルトリコ島から一兵残らず撤退したのだ。
ジャマイカ島でされたことを二度もされた事に、アメリカ軍内では大きな問題になったほどだった。
このため以後の連合軍は、増援であれ撤退であれ、敵の動きにはより積極的に動くようになった。
こうして1942年7月1日から始まったプエルトリコ島の戦いは、ちょうど半年の期間に渡って繰り広げられる事となった。
この攻防戦の珍しい点は、島が奪われて奪い返すというプロセスが半年間で行われた事だった。
通常、離れた場所の島への上陸の為には、圧倒的優勢な戦力が必要とされる。
この条件を枢軸側は当初満たしたのだが、それを連合軍は僅かな間に覆して見事に一度奪われた島を奪回した。
これは日本海軍の増援が絶妙のタイミングだった事もあるが、戦いの主体となったアメリカ軍の前線に出てくる戦力が大きく膨れあがる直前と直後に起きた事が重要だった。
この点で、枢軸側が島を奪う機会が「今しかない」と考えたのは正しいが、アメリカ軍の戦力充実と連合軍の積極姿勢は枢軸側の予測を大きく上回っていた。
その間、海と空では今までにないほど激しい戦いが行われ、中盤以後は戦力に勝るようになった連合軍が押し切る形で戦いが繰り広げられた。
特に海での戦闘は、正面からの激突と夜間戦闘が多かったため、双方に被害が続出した。
だが戦力が枯渇したのは枢軸側で、以後戦場は小アンティル諸島の南部、ギアナそしてベネズエラ航路へと移っていく事になる。